松浦武四郎の記念碑などを訪ねる 5
 天塩川上流から天塩川河口鏡沼海浜公園へ
  1997年、天塩川流域史研究会が「天塩川と松浦武四郎」流域巡回展示会を開かれる情報を得た。「今、願いがかなうならば翼が欲しい・・・歌 山本潤子」であった。僕は退職を8ヶ月後に迎え、とてもじゃないが行ける情況でなかった。
 1998年3月退職。翌年の妻の退職を待って、愛車に、松浦武四郎の6度の蝦夷地踏査記録と関係紀行本、東西蝦夷山川地理取調図等を積み込んで5月10日に北海道へ渡り1年間松浦武四郎の足跡を訪ねた。そして、土用の、本当なら暑い季節に天塩川流域を訪ね、その後も何度も・・・。先々で「いやあ 天塩川流域はいいところだ!」と。
 2003.6.1から2003.7.31の2ヶ月間妻と少人数用のキャンピングカーで旅をした。その際に2週間かけて天塩川流域の碑をゆっくりと訪ねた。
 

松浦武四郎翁の記念碑等を訪ねる 5
天塩川上流から河口へ
 これまで各地でたくさんの人にお世話になり話を聞かせていただきながら松浦武四郎顕彰碑などを見てきたがどうも散発的でストーリに欠ける。
 そこで天塩川流域を一つのまとまりとして記録し、あわせて松浦武四郎が踏査された蝦夷地第二の大河を肌で感じるために一部の地域でカナディアンカヌーを使うことにした。
 そこで「下流から訪ねようか、上流からにしようか」と思案。天塩日誌の行程を追うなら「依て舟を浮べ流に逆りて其筋盡く目標を記し・・・」(天塩日誌凡例)と遡るのが当然。しかし一部でカヌーを使うとすれば遡るときに逆風が吹けばそれこそどれだけ苦労するかわからない。妻とも相談して、過去の経験から推測すると遡るのは長時間を要するに違いないと考え、上流から訪ねることにした。
 
 

旅の楽しさの一つはその地で人と語り合うことである。わけても嬉しいのはその人から松浦武四郎の話を聞くことである。今回、天塩川を訪ねるにあたって、仲間とともに音威子府村に北海道命名之地木碑を建てられた方に手紙を差し上げておいた。
 夢職遊民だから時間はある。資料もたっぷり持った。 
 1 丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌 天之穂日誌(一)ー(五)  松浦武四郎著 秋葉實解読
 2 天塩日誌    松浦武四郎著
 3 天塩日誌    松浦武四郎著 丸山道子訳
 4 アイヌ人物誌  松浦武四郎著 更科源蔵・吉田豊共訳
 5 北海道の地名 山田秀三著
 6 北大河・テッシ 松浦武四郎まっぷ 北海道上川支庁地域政策部
 7 天塩川新聞 創刊号 2号 天塩川流域連携クラブ
 8 闢幽日記    佐藤正克著
そしてカヌー用の防水バッグも用意した。

▲ 旅の始まり
 6月30日 天塩川を訪ねる旅の一泊目はスポーツ合宿の町・士別市のグリーンスポーツ施設キャンプ場にした。夕刻キャンプ場周辺でジョギングをしてみえた士別市教育委員会スポーツ課近藤康弘さんに出会い、「松浦武四郎のことでしたら学芸員の水田さんに会っていただいたら成果があると思いますよ」と教えていただいた。
 翌日、士別市立博物館を訪れ館内をゆっくり見せていただいてから水田一彦学芸員にお会いした。これで俄然天塩川周辺散策の希望が膨らんだ。
 
▲ 松浦武四郎「天塩川名」由来の地「テッシ」説明せせらぎ水路 美深町森林公園びふかアイランド
 GPS参考値 北緯44度33分28秒
          東経142度19分2秒
 天塩川の名の由来は、松浦武四郎著の「天塩日誌」凡例に「本名テシウシなるを何時よりかテシホと語る也。テシは梁の事ウシは有との意なり。此川底は平磐の地多く、其岩筋通りて梁柵を結し如く、故に号しと」とあり、「国名之儀ニ附申上候書付」に「川上五十里計りに太古神か石もて作りしと伝、一條梁様に岩之瀬御座候」とある。
 天塩日誌には「此川筋は他と異り水底惣て平磐にて所々に凹き穴また割れ目等有、浅と思ふに直に深き岩間へ落入る所あり。往古より過て溺死の者多き故歩行にて渉るを厳しく禁じ置り・・・」とある。
 天塩川は木材流送のために川を整備。今はほとんど岩が見えない。そのために、美深町紋穂内に天塩川を十分の一にした「天塩川名」由来の地「テッシ」説明せせらぎ水路が作られ、松浦武四郎肖像と天塩川の由来が説明してある。
 松浦武四郎は、「此上川脈水脉に依て道切、東南西北の便たらしめさせんとの事に依て安政丁巳閏五月廿八日於石狩鎮台堀君、余に天塩水源実検の事を命ぜらる」とアエリテンカ、トセツ、エコレ、トキコサンを案内人として独木船で遡った。
 
▲ 松浦武四郎宿営地 サッテクベツ
  村長ニシバコロの住居跡 士別市
 松浦武四郎はこの地サッテクベツのルヒサンケの家に泊まり翌日さらに上流へと向かい、帰路に再度ここに泊まっている。
 「六月二十日 暁風爽涼、今年は閏有故に恐らくは立秋ならん・・・サッテクベツ人家有、召連の者(アエリテンカ、トセツ)の家なるが」(天塩日誌)、「その妻たちは楡皮をはいだり、草の根を掘ったりしに山へ出掛けていて留守であった。またそばにルヒサンケの家もあったが、これも留守で空家ばかりであったが、その空家で酒を作らせた。…」(丸山道子訳)そして「我等が上り来りし事を聞て、是等も皆帰り来り居けるまゝ、今宵は賑やかに止宿をぞ致しけり」(丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌)であった。「二十二日・・ひる頃サッテクベツに帰りついた。ここでは大勢のアイヌたちが集まって、この前にしこんでおいた酒をこしたり、イナオを削ったりして、それを山や海の神、それから祖先の神々に供えて祭った。・・・それが終ってから酒も廻り、興たけなわになると、メノコたちが口琴を鳴らし、男たち一同は胸を打ち、足ぶみをして舞いはじめた・・・」(天塩日誌 丸山道子訳)。流木倒木虫に苦しめられながらの踏査のなかでこのサッテクベツで「当川入をしてよりは、彼方へ行ては悲敷話し聞、此方え向ては無情のさまを見て、実に聊か志ざしを楽しみし事も無りしが、漸々今夜始めて一同に悦べる顔色をぞ見たりける」(丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌)であった。
 
▲ 松浦武四郎天塩川探検之地 士別市上士別町
 二十一日サッテクベツから上流へ向った松浦武四郎一行は「進退ここに窮り、最早是より引返さんと案じ煩ひし所」偶然にアエリテンカの妻がいて大木が倒れているからそれを渉るようにと教えられ、「昔し此処迄間宮某氏上られしと伝」ナイタイベに着いた。このナイタイベに昭和42年士別市郷土研究会によって建てられた「松浦武四郎天塩川探検之地」の標があり、松浦武四郎の「又有人間一個来」(間宮林蔵の他、また一人私がここへ来ました)の漢詩が書いてあった。松浦武四郎はさらに上流のペンケヌカナンから引返したので僕と妻はその近くまで行って写真を撮って戻った。
 
▲ 松浦武四郎宿営地 リイチャニ 士別市
 リイチャニでは、「十九日 此処ニシハコロの村也。上陸して乙名の家を見るに、誰も住ざるが故に家根腐れて家には虎杖等多く生茂りたり。其傍にて先止宿しけるに、此辺蚊の多き事いよいよ下に倍し喰事も何も出来ざるが故に、夜に入てより其家を明此内に入、火を燃して宿しぬ。然る所明前一雨降来りしが、処々滝の如く漏り出したる故、如何とも致しがたかりしが、翌朝見るに其雨もり滴煤水にて何も皆染りけり」(丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌)であった。
この夜、僕は名寄道立トムテ文化の森キャンプ場の駐車場へ車を留めて快適な夜を過ごしていた。申し訳ない。   
▲ 松浦武四郎野営之地 標柱 下川町北町
 松浦武四郎が「サンルベシベ」(現 下川町北町)と記録した地にこの木標がある。「北海道の地名」には「サンル 永田地名解は『サン・ルペシペ。沙留越。北見の沙留へ下る路』と書いた。それが下略されてサンルとなった。明治6年佐藤正克闢幽日記はここをカムイルベシベと書いた。「神(熊のことか?)・の峠道沢」の意」とある。さらに、「北海道の地名」にはこの川の左股は夏の峠道沢で、右股は東を・越える・峠道沢・・・北見の海辺と往来していたことを物語る」と書いてあるが松浦武四郎はこのあたりで倒木流木に船の行く手を阻まれ、伐ったり潜りぬけたりと悪戦苦闘。水量も少なくなり陸を行くが両岸は木と蔦がからみあっている。しかも小さい沢がたくさんあって本筋が分からなくなるほどだった。
 
▲ 松浦武四郎名寄川上流到達点 標柱 下川町
 この木標を探すのにたくさんの人に聞いたがどうもはっきりしない。記録にある「午後峠に到り木間より北東を望むやシャリ紋別の海渺茫たる」から推測するともっと高い所ではないかと考えていたが予想に反して海が見えるような場所ではなかった。すぐ近くに名士バス「30線」バス停があった。「和人のここへ来るは余が始めなり・・・」は事実に違いないと思いつつ「この峠をこのまま越えて行くとホロナイ川」にはどうも納得がいかない。ここはまだ峠に遠い。不思議な場所であった。
 
▲ 松浦武四郎宿営推定地 名寄市内渕
 ナイブト(ナイフトと云はナヨロフトの詰語なり 天の穂日誌 四) 名寄市内渕
 松浦武四郎はナイフトと呼ばれていたこの地に6月15・18・23日に泊まっている。看板には珍しく「推定地」と書いてあった。支流へ入り本流へ戻っての3日泊は取りも直さずナイフトが交通の要所だったことを物語っている。ここでは虫を防ぐために囲炉裏を燃やしていた。鹿猟の仕掛け弓を知り、「夜鹿三頭を得たり、鮮肉実に頤を落すと云べし」であった。また酒作りで大失敗をする。この地でもっとも心を打たれるのは「丁巳日誌 第十二巻天之穂日誌 三」に描かれた「月明りに蚊に喰われヲヒヤウを裂いて居たる婆」の話である。和人のあくなき搾取に苦しむアイヌの人に心を寄せ、それを憎む松浦武四郎の怒りを我が事とするだけの心情を培わなければならぬと感じる。
 
▲ 佐藤正克越冬之地 標柱 名寄市
 明治5年北海道開拓使宗谷支庁天塩詰大主典であった佐藤正克が天塩川内部開拓調査のために調査に入り、この地で越冬した。その記録が闢幽日記である。そのなかに「松浦氏天塩誌ニ七段瀧ノ図アリ。然トモ今其何処ナルヲ知ラズ。虚筆、人ヲ欺ク那」「其奥ニ数峰ノ高山アリ。松浦多気四郎氏『天塩日誌』ニ此地より山行スト云ヘリ。『ラフニ』『トキコサン』ハ松浦氏ニ随行セルモノナリ。余因リテ之レヲ問フ。皆曰ク知ラズと。後之レヲ「シベツ」ニテ聞ニ、『ナイタイベ』ヨリ山行セリト云フハ全ク虚ナリト」等が記述されているがこれを読むと松浦武四郎に限りなく心を寄せている僕には感じがよくない。天塩川の様子をはじめて知らせた松浦武四郎の記録が完璧でなかったことは事実だろうが明治政府の蝦夷地政策を快く思わなかった松浦武四郎の記録を意図的に排除する力があったのではないかと標柱を見て邪推したりであった。武四郎フアンとはこんなものである。
▲ 松浦武四郎踏査之地 歌碑 美深町紋穂内 森林公園びふかアイランド
 GPS参考値 北緯44度33分28秒
          東経142度19分22秒
 ヲクルマトマナイ(美深町恩根内)のエカシテカニの家へ泊まった際に見た様子を詠った
   ゑみしらは筍にもる飯も古の
      さまをつたへて葉椀にぞもる
とエカシテカニの妻テケモンケが弾いて聞かせてくれた五弦琴(トンコリ)を詠った
   かきならす五つの緒ごと音さえて
      千々の思いをわれもひきけり
の歌碑が「びふか道の駅」の後ろの森林公園びふかアイランド、チョウザメ館の近くにあった。びふかアイランドにあるキャンプ場は長期滞在車もいて賑わっていたが僕たちが車を入れたオートキャンプ場はたった一台であった。妻は「電気が自由に使え、洗濯機のある有難さ」と伸びをした。朝、近くの牧場へ行って牛乳を買ってきて食卓へ。
 
▲ 松浦武四郎宿営之地 碑 美深町恩根内
 GPS参考値 北緯44度36分5秒
          東経142度18分29秒
 松浦武四郎にとって忘れられない、そして松浦武四郎に対するアイヌの人の気持ちを語るのによく出されるエカシテカニが住んでいたのがこのヲクルマトマナイである。「丁巳日誌 第十二巻天之穂日誌三」に長文にわたってエカシテカニの家族が書かれている。そして「我は四十の年に成れども、未だ妻もなし」と語る武四郎に住んでいる国がもっと近ければ娘を嫁にやるのだがと言ったエカシテカニの心根に松浦武四郎は深く感謝している。また、このエカシテカニについては「近世蝦夷人物誌」の中にも描いている。珍しく碑の裏面は英語であった。
 The Plase Explorer of Takesiro Matsura' Stay
Tekesiro Matsura, an explorer, visited Hokkaido 6 times since 1845. He made a report annd map of Hokkaid and introduced names of various regions and places includinng the name of Bifuka (
then Piuka) to all Japan. He was the first non-Ainu person who explored the area and this memorial sign is plased as the town's cultural asset to honour Matsura's achievement.
   Oct.10.1998
      Minoru Iwaki  Mayor of Bifuka
 この地には昭和初期から「幕吏松浦判官探検宿営之地」木柱が建てられていたとのことである。
 
▲ 松浦判官宿泊聴仏法僧之地 標柱
   音威子府村筬島
 GPSあくまで参考値 北緯44度44分28秒
              東経142度11分27秒 
 「小屋二軒有」アエトモとトチノキの家であった。この地で天塩川を遡って行く際と下ってきたときに泊まっている。上っていく夜「ホッホッホッホッと啼鳥有」。家主のアエトモが「昔最上ニシハが内地にもいる仏法僧という鳥だと言っていた」と聞いて「余も始て仏法僧なる事を知りたり」であった。標柱の墨は消えていたが文字が掘り込んであったので判読できた。
▲ 北海道命名之地 標柱 音威子府村筬島
 GPS参考値 北緯44度44分25秒
          東経142度11分4秒 
  河口へと向う松浦武四郎はトンベッポに住む「極老にて種々の故事をも能く弁し者」アエトモから「夜中種々の事を聞」がその話の中に後年蝦夷地に「北海道」という名を付けることになった話があった。この話は天塩日誌には「北蝦夷にてアイノ(蝦夷人の通称)をカイナーと呼しが此山中に来り見るに同じくカイナーと呼けり。・・・右にて考る時は此国はカイと言やらん」とある。このことから松浦武四郎は蝦夷地道名之儀勘弁申上候書付の中へ道名候補に「北加伊道」を入れ、それが「北海道」の形で採用された。「北海道命名之地」標柱は北海道で唯一北に向って流れる第二の大河、天塩川を船で下る人にも見える場所に建てられていた。この標柱を仲間とともに建てられた川口精雄さんに話を聞かせていただくために標柱の近くのカムイルウサン(神路)からポンピラまでの25キロを妻と二人でカヌーで下った。なお、この標柱は平成8年9月29日に建てたと川口さんからお聞きした。
 
▲ 天塩川をカヌーで25キロ下る
 松浦武四郎は石狩川では「四艘に三十余人乗り・・」であったが天塩川では大さ石狩の船に半也(一艘に二人乗)であった。神路からカヌーを浮かべて漕ぎだした。驚くほどの数の水鳥が水先案内とばかりに飛ぶ。上空をオジロワシが悠然と飛んでいる。天塩日誌に「此辺ピパ(からす貝)多く水底一面黒めい・・」とある。昼食をとるために河原に上がったらそこにピパの殻がころがっていた。また天塩日誌には土手にたくさん燕が巣を作っていて櫂の音に驚き穴からでて飛び回ったがそれが旋風にふかれた葉のようであったとある。この情景が今なお残っていて、天塩川の豊かさを感じさせられた。しかしチョウザメは船端に頭を持ち上げてくるようなことはなかった。神路渓谷を越えサツコタン(佐久)に近づいたら左手から安平志内川が流れ込んでいた。この川の「語義はア・ペシ・ナイ 我ら・下る・川」(北海道の地名)で遠別などのアイヌの人が天塩川上流に行く際には遠別川を遡って峠を越えアベシナイを下って佐久へ出て天塩川の本流へ入ったそうである。釧路湿原も別寒辺牛川もカヌーで下ったが天塩川の魅力には遠く及ばなかった。
 
▲ 「北海道命名之地」標柱を仲間とともに建てられた川口精雄さんと
 天塩川を25キロ下ってから、約束の時間に、仲間とともに「北海道命名之地」標柱を建てられた川口精雄さん宅に伺った。「天塩川いかがでしたか」と聞かれるや否や妻は「感激のひとことでこの旅一番の思い出です」と。お母さんも奥さんも交えて生涯に残る素晴らしい思い出をいただいた。
 現在建っている「北海道命名之地」標柱は二本目だそうだ。始めに建てたのは天塩川が増水したときに流されたので二本目は少し高いところに立てたと話された。標柱にまつわる話もたくさん聞いた。土手に巣を作っている燕はショウドウツバメで子育てをしているときはキタキツネが巣から子が落ちてくるのを待っていることがあるなどの天塩の自然の様子も聞かせていただいた。天塩川流域の13市町村は始めてその川筋を世に広く知らしめた松浦武四郎をも大切にして町おこしを行っている。平成八年には上川支庁が「北大河・テッシ松浦武四郎まっぷ」を出し、平成十四年から天塩川流域連携クラブが「天塩川新聞13towns」を発行している。かって北海道のテレビで「天塩川」が放映され、それが配給センターから地方へと流され、そこで偶然仲間と「北海道命名之地」標柱を建ててみえる川口精雄さんの姿を拝見した。あれから何年経っただろう。やっとお会いできたという感じだった。現在、川口さんは天塩川ルネッサンス会議議長の要職で、「北海道人」らしい豊かさを備えた方だった。川口さん、ありがとうございました。
 
▲ 松浦武四郎像、松浦武四郎歌碑 天塩川河口鏡沼海浜公園
 GPS参考値 北緯44度52分37秒
          東経141度44分31秒
 松浦武四郎天塩川流域踏査
 安政4(1857)年旧暦6月6日 第1日目 この日、松浦武四郎は北へ向われる堀奉行を見送ってから、案内してもらうアエリテンカ、トセツ、エコレ、トキコサンとともに
 
 
とうとう天塩川河口に着いた。「もっと天塩川、もっと北海道」を合言葉に北海道カナディアンカヌークラブなどが主催している、一度参加したいと念願している話題の「天塩川100マイル・カヌーツーリング・ダウン・ザ・テッシ・オ・ペッ・スペシャル」の「TESIO RIVER MAP」によると松浦武四郎が到達した天塩川最上流地点の班渓橋付近から河口までは190キロとある。この間にたくさんの人にお世話になって松浦武四郎の足跡を見た。さすが松浦武四郎で結ぶ13towns。碑などが12箇所もあった(豊富町稚咲内 松浦武四郎休息地を入れると13)。2003.7.6に天塩川流域13市町村主催「天塩川クリーンアップ大作戦」が行われた。天塩町鏡沼海浜公園にある箱館奉行松浦武四郎像は彼こそが天塩川流域を最初に世に知らしめた人物であることを物語っている。
松浦武四郎歌碑
 ながむれば渚ましろに成にけり
      てしほの浜に雪の夕暮れ
 蝦夷人のみそぎなしたる天塩川
       今宵ぞ夏のとまりをばしる
 
 かくして天塩川流域の松浦武四郎の顕彰碑などを訪ねる旅は終わった。車を鏡沼海浜公園オートキャンプ場へ入れた。夕映えがいちだんと鮮やかであった。
  百印百詩
    七七詩
      海月清風静
      金波澹不流
      無人賞此景
      一擲付漁舟
 
碑などを訪ねる旅もこれで完結か
 天塩川筋の松浦武四郎の碑などを訪れる旅も終わった。2003年6.7月の2ヶ月間の滞在を終えて帰ってきて間もなく屈斜路湖畔の松浦武四郎歌碑設置予定地(松浦武四郎の碑など四)に歌碑が立った。早速11月にこの地を訪れて立てられたエカシの奥さんに会って直接お祝いを述べ一緒に写真を撮ることにした。これで僕と妻の松浦武四郎の碑などを訪れる旅も完結しそうだ。
 今は、松浦武四郎と頼三樹三郎が弘化三年十月十四日に江差の雲石楼でなし遂げた「百印百詩」の「百詩 清課了引太白」のような気分だ。
 
 清課了引太白 清課を了し太白を引く
 
   驩然引太白 驩然として太白を引く
   一百課成時 一百の課成るの時
   寒詩與頑印 寒詩と頑印と
   狂跡留天涯 狂跡は天涯に留めん
 
 さあ、喜び勇んで酒をなみなみと注いだ大杯を引き寄せよう。百印百詩が今こそ仕上がった時だもの。それにしても、お寒いばかりの拙い百詩と、勢いのある立派な百印だが、ばかげた雅興の足跡だけは、はるかな蝦夷地は江差の地に何時までも残るだろう。

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