2003.6.1から2003.7.31の間に訪ねたものです。
同じ期間に訪ねた天塩川流域は「松浦武四郎の記念碑などを訪れる 5」にまとめました。
 
松浦武四郎の記念碑などを訪ねる 4
 

松浦武四郎翁の記念碑等を訪ねる 4
 今回は二ヶ月間の北海道滞在。妻は北海道遺産を、僕は松浦武四郎を訪ねて、を中心メニューとし、加えてオホーツク海側各地を100キロ歩き、湖沼巡りをし、カヌーにも乗り、登山もして、秘湯にも入ってと盛りだくさん。その成果の一端をどうぞ。


※ 「百印百詩」顕彰碑
  松浦武四郎百印
  頼三樹三郎百詩 碑 江差町
 GPS参考値 北緯41度51分58秒
          東経140度7分31秒
 江差町の歴史を紀行し友好を進める会の「百印百詩を読む」を持って眠い眼をこすりながら早朝江差の坂を登った。碑文に「弘化三年(一八四六)十月十四日、斎藤鴎洲ゆかりの雲石楼に多くの雅人が集い詩会が開かれた。頼三樹三郎が詩を詠み、松浦武四郎が詩題を印石に篆刻し、『百印百詩』を一日で完成させた。その文芸史上画期的な偉業を顕彰し、この碑を建立したものである」とあった。松浦武四郎の自伝には「或時、予印を一日に一百刻さば其を題にて一百首作らんと頼氏いはれ、其を一座是ぞ実に文場の楽みなりと同じければ、霜月十四日を以て則ち冬至なりければ、かかる業は冬至の短日も亦後の話し草ならんと匆卒其日を以て、未だ夜の明はなれざるよりして取かかり夜初更頃の其業を華ぬ」とあり、「百印百詩を読む」には「鴎洲が出した最初の題は『清晨』である。武四郎は石を選び、鉄筆をとって題を刻み、三樹はまた吾れ後れずと筆をとる。まさに清らかな戦いである。・・・日の出に始まり申刻暮方に幽雅な戦いは見事終了した」とある。
 菅江真澄の「えみしのさへき」には江差について「すべてここの町は富裕な人が多いのであろう。家々は栄え、船もたくさん入江にはいって賑わしい。高いところへのぼるには、木をならべて虹のかけはしのようなさまの坂にしてあり、いささかかわったところである。・・・・」(平凡社 菅江真澄遊覧記2 内田武志、宮本常一編訳)等々寛政四年(1792年)の興味ある情景が生き生きと記されている。
 
※ 松浦武四郎歌碑 倶知安町
 GPS参考値 北緯42分53分55秒
          東経140度46分1秒
 1999年の春と秋の四ヶ月間、倶知安町に滞在していた。また倶知安町には友人がいるために北海道へ行く際には必ず訪れる。「いつでも見に行くことができる」という思いが災いしてまだ見てなかったので訪ねた。歌は「あやうしとしりべつ川の白波を命にかけてけふわたりけり」。雄大な蝦夷富士、後方羊蹄山を背景にして白木建設の庭に立っている。松浦武四郎は三度目にしてやっとサーモンロードから尻別川の急流を越えて驚くほどサケが獲れたソウスケ川に入ったときに詠ったものである。この碑は、白木建設社長、白木巌氏が「幾多の辛酸を重ね、多くの人たちの協力を得て、現在の会社の礎を築いた」父、白木慶一氏の功績を讃えて建てられたもので、その苦労を松浦武四郎の歌に重ねられたものであろうと想像して去った。
※ 松浦武四郎踏査の地 碑 留萌市
 留萌市望洋公園にあるこの碑のレプリカを松浦武四郎の生誕地にある松浦武四郎記念館で何度も見た。だから数回留萌へ行きながらも写真を撮ってこなかった。松浦武四郎記念館のものはレプリカだから小さいしそれが設置されている場所や背景も分からないから碑の値打ちも今ひとつ判断できない。やはり現地でみると碑がはじめてぴったりと情景の中におさまり、素晴らしさを感じ感動が起こる。東北大学の学生時代の恩師、林竹二氏に「教育とは子どもたちに本物を見せることである」と教えられたがこの碑は僕に本物を見る大切さを改めて教えてくれる。彫り込まれた絵は松浦武四郎が安政三年に碑の建っていら場所からルルモッペ運上屋を描いた「西蝦夷日誌六編」の中のもの。「丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌第十巻天之穂日誌(一)」の「ルルモッペ 橋の上より眺望」の絵もよく似ている。
 
※ 松浦武四郎休息地
   稚咲内の止宿所跡 豊富町
 GPS参考値 北緯45度5分14秒
          東経141度37分49秒     
 「ワツカシヤクナイ 此処勤番通行泊り宿になる也」(蝦夷日誌 二編 巻之九)1999年にオロロンラインを通っていた際に休憩した豊富町稚咲内にあるドライブイン「砂丘の駅」のすぐ近くで偶然「松浦武四郎休息地 稚咲内の止宿所跡」の説明板を見つけた。しかし、それは小さい小さい看板でほとんど人目につかないほどであった。冬は雪の中に埋もれていた。今回、訪ねたら大きな新しい説明板に変わっていた。天塩川流域13townsによる天塩川を中心に据えた町おこしの一環なのだろう。新しい看板にブラボー!!
 
※ クーチンコロ顕彰碑 旭川市
   クウチンコロと松浦武四郎
 「アイヌ文化の森・伝承のコタン」に「明治の始め、石狩役所まで行って兵部省の謀略を打ち砕いて上川アイヌの危機を救った」(川村カヌット アイヌ記念館)アイヌの英雄クーチンコロの顕彰碑がある。碑文に、松浦武四郎ら探検家はクーチンコロの助けなしには成果がえられなかった、との意味の部分がある。事実、松浦武四郎の石狩日誌には「クウチンコロは銛槍を提て岩上に暫時佇立せしが四尺斗の潜龍沙魚を一尾に、三尺斗のチライを得来る」「余はクウチンコロと断巌を登巨石を飛こへ・・・」等随所にクウチンコロの名が記されているし、十勝日誌にも名がある。また戊午登加知留宇知之日誌巻之四、巻之五にも乙名クーチンコロの様子が描かれている。松浦武四郎とクーチンコロは同じぐらいの年齢であった。きっと松浦武四郎は彼を頼りにしたに違いない。
※ 平取町歴史の散歩道 松浦武四郎 説明板 平取町
 GPS参考値 北緯42度38分14秒
          東経142度9分25秒 
 六月九日(月) ニ風谷アイヌ文化博物館の受付で「幕末の安政五年に沙流川を中心にこの辺りを踏査した松浦武四郎を説明したレプリカはどこに立っているのでしょうか」と尋ねたら「沙流川歴史館だと思いますが今日は休館です」と聞いてガックリ。しかし博物館内におられた黒川さんにいろいろと丁寧な説明で貴重な素晴らしいひとときをいただいた。そして念のためと松浦武四郎についてお聞きしたところ「すぐ近くにありますよ」と教えていただいた。松浦武四郎の説明は「平取町歴史の散歩道」の入口にあった。そして金成マツ、近藤重蔵、イザベラ・バード、ジョン・バチラー、金田一京助、ブライアント・エディース・メアリー等のそれもあった。松浦武四郎はこの地に来て記録「戊午第四十二巻東部沙留誌」を残している。その中に「ホロサル村 此処地形南東向一段高く、うしろに山をうけ、其下川有て、川の向ふヒラチンナイ、奥はムセウの方まで見わたし、南の方ヲサツナイまで一目に見、実に蝦夷第一の開け場所なり」とあるのは現在の平取町幌毛志らしい。妻は黒川さんと意気投合。頂いたトマトを車の冷蔵庫で冷やして食した。
 
※ 釧路松浦郵便局風景印
 GPS参考値 北緯42度59分38秒
          東経144度23分17秒
   松浦武四郎蝦夷地探検像
 釧路市松浦町にある釧路松浦郵便局の風景印は松浦武四郎の名にちなんで幣舞公園に設置されている松浦武四郎蝦夷地探検像を使っている。使用開始は平成10年10月10日。なお松浦武四郎にちなんだ名は厚真町字富里のある松浦橋、大雪山系の松浦岳(緑岳)などがある。
 
※ 松浦武四郎紀行足跡之碑 長沼町道の駅
 GPS参考値 北緯42度57分2秒
          東経141度42分52秒
 「札幌へ行くときは必ず長沼町の道の駅マオイの丘で休憩するがそこに松浦武四郎の碑がある」と教えてもらったのは屈斜路の友人の八重清敏さんであった。道の駅マオイの丘がある国道274号樹海ロードは観光メインロード。晴の日も雨の日も霧の日も風の日も雪の日も通った。しかし知らなかった。行ってみて大きさにまず驚いた。大銅神鏡、鍋、夕張日誌表紙、経路図、歌、碑文と多彩さにも驚いた。松浦武四郎がこの地を通ったのは安政四年。夕張日誌に「十七日発(先達ての山道)ヤムワツカ平(マヲイ沼の上)に戻り宿す。五ッ時過にもあるべし。東山より出る月ヲサツマヲイの沼に照わたりて、其眺望言ん方なし。暁近くなれば葦原に露置わたして実に目覚しくぞ覚へける
   出るよりやがてかたぶく月影の
       移り行世のならひをぞ思ふ 」
とある。
※ 松浦武四郎踏査跡地 碑 北見市
 ふるさと銀河線北見駅前の観光案内看板に「松浦武四郎初踏査利用河川」とありその地に「◎」がついていた。幸い、そこは車中泊をしようと考えていた中ノ島公園キャンプ場の近くであった。常呂川の堤防近くを歩いて探したがなかなか見つからない。そこでジョギングをしておられた方数人に聞いてやっと分かった。碑は新興住宅地にあった。松浦武四郎は安政五年五月十五日(太陽暦六月二十四日)から常呂川を遡った。記録は戊午第二十四巻・二十五巻西部登古呂誌である。この中に住んでいたアイヌの人たちの氏名等が克明に記録されている。翌日から二日間北見市と端野町を30キロ歩いた。常呂川河川敷に若者がたくさんいた。夜、学生時代の北見出身の友人、吉田 求君に電話。「北見と端野を30キロ歩いたぞ」「俺の故郷を訪ねてくれたのは嬉しいが30キロ歩くなんて正気か」と。
 
※ 別海町郷土資料館付属施設
   加賀家文書館 別海町
     庄蔵と松浦武四郎
 GPS参考値 北緯43度23分38秒
          東経145度7分29秒
 2003.7.16(水)曇 野付半島が花盛り。龍神崎駐車場へ車を置き長靴に履き替えて浜歩きをしながら先端を目指した。できれば漁番屋、蔵などが多数あった荒浜岬遺跡、通行屋が設けられていた通行屋遺跡まで歩きたかったが疲労が蓄積していて次回にと断念。翌日、別海神社の祭りで子ども相撲を見ていて同年ぐらいの人と話をした。「松浦武四郎って伝蔵がいつも筋子を送っていたあの人かな。松浦武四郎と伝蔵の交流は加賀家文書館へ行ったらわかるはずや」とすごいことを教えてもらった。僕はあわてて「伝蔵ってアイヌの人との通訳をしていた人ですか」と聞いたら「そうだ」と。僕はお礼を言ってすぐさま「加賀家文書館」へ行った。そこには松浦武四郎著「近世蝦夷人物誌」に描かれた伝蔵と茶右衛門のことをはじめ、伝蔵の業績説明や松浦武四郎との交流の深さを示す品々が展示してあった。「我蝦夷全州の墾闢の祖とならん」加賀伝蔵の偉大さと松浦武四郎との交流の深さをこの文書館で知った。長時間この文書館で過ごし、秋葉實先生が解読された「加賀家文書現代語訳版第一・第二巻」を購入して後にした。
 そして、2003年11月に念願の野付半島の先端まで歩いて入った。
 
※ 松浦武四郎歌碑設置予定地へ設置された 弟子屈町
 GPS参考値 北緯43度33分52秒
          東経144度20分30秒
 松浦武四郎は安政五年和人ではじめて「クッチャロに着す。此処湖の口也。・・・東岸に越て七軒湖水に枕て家居し、風景言ん方なし」(久摺日誌)と表現。翌日、「船を雇て湖中見物。水先イソリツカラ」(松浦武四郎自伝)とあり、「汐ならぬ久寿里の湖に舟うけて身も若がへるこゝちこそすれ」と詠った。北海道へ行くたびにお世話になるイソリツカラの子孫の方が歌碑を建てようと努力してみえる。「身も若がへるここちこそすれ」と松浦武四郎が長い旅の疲れを癒した屈斜路湖の美しさが永遠に残ることを願っての歌碑の建立である。僕はすごく楽しみにしている。歌碑が設置されたら飛んで行きたいと思っている。
屈斜路湖畔に歌碑が建った。
 2003年6.7月と北海道で長期滞在をして帰ってきて間もなく歌碑が建てられた。建てられたはいつもお世話になる磯里 明エカシと奥さんの多恵さん。早速、11月に屈斜路湖畔へ行き、直接お祝に伺った。そしてイチャルパに準備の段階から参加させていただいた。。僕たちにとってもっとも意義深い碑であることは確実だ。
 

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