万治三年庚子十二月廿三日(1661年1月23日)、伊勢の国松坂の七郎兵衛船、難風に逢ひ、異国へ吹流され、それより蝦夷え渡り、翌寛文元年辛丑九月八日(1662年10月30日)、江戸え帰帆仕り候節、差出し申し候口書
 

伊勢国松坂の船北海を漂流する
 江戸時代の漂流記が300ほど残っているらしい。そのいくつかは伊勢国(三重県)の船であった。その中でもっとも有名なのが、天明二年(1783年)に遠州灘で遭難し翌年アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着。そして寛文四年(1792年)に根室に国交を求めて来航したロシア船に乗って帰国した伊勢国白子の大黒屋光太夫ロシア漂着事件である。しかし僕が長い間気にし知りたいと思っていたのは、自分が生まれ、住んでいる松坂(現 松阪)の船が北海を漂流・漂着した記録である。その記録を「石井研堂 これくしょん 江戸漂流記総集」(日本評論社)の中で見つけた。表題は「勢州船北海漂着記」とあった。

嘉永二年(1849)松浦武四郎は自身の三度目の蝦夷地調査でエトロフ島へ渡ったがそれより62年前の天明六年(1787年)、最上徳内が日本人としてはじめて自らの意思で南千島エトロフ島へ渡った。そのときに最上徳内がエトロフ島で見た碇は「勢州船北海漂着記」の船のものではないかと言われている。「勢州船北海漂着記」は伊勢国松坂の船が遠州沖で遭難し千島列島のウルップ島へ漂着しエトロフ島を経由して帰還した際の報告口上書であり、千島列島に漂着した記録のもっとも古いものであると言われているらしい。松坂の七郎兵衛船が志摩国鳥羽を出港して遠州沖から漂流し北海の島に漂着しながら帰帆できたのは、江戸へ向う廻米船で食料に事欠かなかった、エトロフ島へ漂着したのが夏季だった、まだロシアの勢力は及んでいなかったからと言われているがなによりも大きな要因はアイヌの人たちの助けがあったからではないだろうか。
 「七郎兵衛とはどんな人物なのだろうか」松阪に住む私の興味や関心は尽きない。松阪市立図書館等で調べたがわからない。松阪で「七郎兵衛」と言えば、角屋七郎兵衛がもっとも有名である。この七郎兵衛は1632年に安南国(ベトナム)に渡り鎖国令で帰国できなくなりホイアンで日本人長となった。この人物とは関係がなさそうだ。なんとしても調べなくてはと思う。 
 万治 三年(1661) 伊勢国松坂 七郎兵衛 遭難
 天明 二年(1783) 伊勢国白子 大黒屋光太夫 遭難
 嘉永 二年(1849) 伊勢国須川 松浦武四郎 エトロフ島 調査
 

勢州船北海漂着記
 万治三年庚子十二月廿三日(1661年1月23日)伊勢の国松坂の七郎兵衛船、難風に逢ひ、異国へ吹流され、それより蝦夷え渡り、翌寛文元年辛丑九月八日(陽暦10月30日)、江戸え帰帆仕り候節、差出し申し候口書
 一、 勢州松坂七郎兵衛と申す者の船に、・・・中略・・・紀伊大納言頼宣郷江戸廻米の上乗共、都合十五人乗組み、子の十二月廿三日、志州鳥羽(現 三重県鳥羽市)を出帆致し候処、俄かに北風烈しく吹き出で、遠州の新井の片浜中と云ふ所に、船を懸け留めて、廿四日の朝、西風に吹き替り、少々和ぎたるまゝ、懸塚前まで走り候処に、又その暮れより北風に成り候て、梶を吹き折られけれども、梶を差し替へ申す事成らずして、翌廿五日朝までに、漸く楫を差し替へ候、この時、米を二百俵余はね申し候、猶風烈しく、昼夜九日にて漸々風静まり、そよそよと西風に吹き替りければ、同下へ流され、その後は、寅卯の方をさして吹流され、(翌年)七月十五日(陽暦8月9日)頃、名もなき所へ漂着仕り候事。
 一、 翌年丑ノ三月末つかたより、七月半ば過ぎまで、月日の光りを見ずして有りける、その後二三度幽かに見候へば、雪ふかくして元のごとくなり申し候、左候て、七月十五日、大なる岩に乗掛け申し候に付き、碇をかけ留め候へども、その綱を岩のかどにてすり切り申し候ゆへ、はし船に乗り、磯へ上り候へば、白き真砂の有る所に水流れ出で申し候
その川端、苫屋二軒御座候、その屋の内に人三人居り申し候が、我等を見候て、一人は何方へやらん参り候て、三日過ぎ候て罷り帰り申し候、その後間も無く、方々より人集り申し候、その所に十二日居り申し候内に、七十人ばかりに成り申し候。
一、 略
一、 男のせいの高さは、日本の大抵の人より七八寸高くて、耳には金銀のくわんを付け、髪を肩の通りにて揃へ、禿の如くに御座候、髪はなるほど長く御座候。
一、 男女の物ごし、聞き分け難く、この方の物ごしも知り申さず候、七十人ばかりの内、女は只両人御座候。
一、 前略・・・獣の皮を六枚、船の内へ投げ入れ申し候、皮類は船中にて忌み申し候ゆへ、返し候へば、又弓にておどし申し候ゆへ、その通りに差し置き申し候事。
一、 その島人共は、弓を持ち申し候、弓の木を蝦夷にて承り候へば、とうろと申す由申し候、弓形は丸くして跡先を細くいたし、長さ四尺ばかりに見へ申し候、殊の外強き弓のよしに承り申し候、矢には木を削りていたす木を両側よりあて候ゆへ、四つ羽に成り申し候、根は大かた竹に御座候。一、 脇差は、白さや一尺四五寸に見へ申し候、れんちやくの様成る物を以て、首にかけ申し候、帰路の節、蝦夷とかしと申す所にて、松前殿家来・・・中略・・・改め申され候、この皮は、唐猟虎と云ひて出し候事、法度のよしにて留め申し候、・・・後略・・・
 
 
一、 草もこの方に替り申さず候、去りながら何れも大きに御座候、山吹などは三尋ばかり御座候、いた取は二丈余り御座候、竹のやうに見へ申し候百合の花、殊の外大きに御座候、その外大木共沢山に御座候、大方皆とろうと申す木にて、葉はけやきの葉に少し小さく御座候。
一、 鳥類は、この方に替り申さず候、鴉、鳶、鴎は大きに御座候
一、 狐はこの方より大分大きく御座候、蝦夷よりこの方、鹿は御座候事。
一、 海に、らつこ、あしか、鯨多く御座候、何れも弓にて射申し候。
一、 川に鱒多く御座候、汐干には手とらまへに仕り候由。
一、 不断食事には鳥獣を食して、米を見せ候へば、知り申さず候事。
一、 雪不断消へ申さず候故か、水、殊の外つめたく御座候。
一、 略 
 
一、 えとろふつとの島は、船にて磯伝へに参り申し候、行程十二三里渡り候て、くる尻と申す島へ参り候て見候へば、船に五人乗り候て釣をたれ申し候、その船は、大木をくりかけ船に用ひ申し候、衣類と人の姿は、右の島人と同然に御座候、それより九日過ぎ候て、十五里ほど行きて蝦夷へ参り申し候事。
一、 くる尻の後より、とかちまで二百里、蝦夷の内、磯伝へに参り申し候。
一、 松前より越後新潟まで海上百六十里、新潟より同国高田まで三十四里、高田より蝦夷へ七十二里なり。
一、 松前にて、何れも帯をとかせ、衣類を御ふるはせ、御改め成され、手形下され候事。
一、 略
 右十五人の水主共、寛文元丑九月八日、江戸へ帰帆仕り申し候、右三人より差上げ申し候書付件の如し
          勢州 松坂 七郎兵衛
          江戸 泉屋 嘉兵衛
          下田 船谷 与次兵衛
 
 江戸漂流記総集 六巻 日本評論社
 この本は素晴らしい。海に囲まれた日本人の宿命をつぶさに感じる。 

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