北海道一周海岸沿いの旅も三分の二が終わった。残された行程は昔の和人が「東蝦夷地」と言った知床半島先端から根室海峡側をそして太平洋側を通り襟裳岬、室蘭市、椴法華村、箱館までだ。少々疲れ気味だ。しかしそれを上回る楽しみをたくさんの方々にいただいた。どんな出会いがあるか。それを楽しみに出発。

北海道一周 3
松浦武四郎の記録を読みながら
相泊・羅臼から東蝦夷地を箱館へ




羅臼町相泊 知床半島最北東突端地
 ウトロから知床横断道路を通って羅臼町市街から北上し知床半島東側道路の行き止まり道道87号線が始まる相泊へ来た。弘化二年(1845年)松浦武四郎は28歳のときにはじめて蝦夷地に入り東蝦夷地を海岸沿いに知床岬まで入った。その際に相泊の沖を船で通って記録した。そしてシレトコの岬に「弘化ニ乙巳歳七月十二日卯ノ下刻勢州一志郡雲出川南 松浦竹四郎源弘書之」と認めた。蝦夷日誌拾之巻には「我幼年の頃より諸国踏遍し而己に日本六十四ケ州迄踏,己に当年は蝦夷地に及びしが、今迄は自分の名前等を何くにも書付ると云ことも無、他人が社寺、宮社、又は雪隠の壁等に書付るを見て大ニ嘆息せしが、ふと今朝は何心なく此処に年月姓名を志るし而興を遣りぬ」とある。知床岬にもっとも近いこの地へ来て自分も流木を拾って「勢州松坂」と生国と姓名を書き浜へ立てたい思いがした。はじめて鮭を見たのは「この小さな川がシャリ領への山越え道のあったルサ川か」と車を降りたほんの狭い河口であった。松浦武四郎の「ウヘンベツにて一宿せんと欲する」ではないが植別へ行くまでの、今まで何回もP泊をしたことのある羅臼峠の手前「ラウス自然とみどりの村」でパーキング泊。冬に羅臼の海の船の中で妻は青森県在住で同卒の三重大学の先輩に出会った。(画像は日本最北東突端地標識)
 
標津町 野付半島 
 両側に海を見る直線道路が続く野付半島は平面的だが四季それぞれに情緒がある。「ノツケ 此処地形は海中へ突出して平地海岸に小貝沢山有。・・・海扇・ホッキも多きよし。・・・クナシリ(五里)え渡り場にして、風待する為に通行屋、板蔵三棟、焚出し小屋、弁天社を入湾様え建置、頗る風景宜敷く・・」。この半島は国後島へもっとも近いために会津藩士が北方警備の任にあたらされていたが厳しい寒さのために多くが亡くなった。司馬遼太郎は「オホーツク街道」の中に斜里での津軽藩士の警備による悲惨さを書いているが何かの本で「先住民族のアイヌの人たちから学べば北方警備の人たちの命が救われたのではないか」と読んだ。冬この半島を歩くスキーで回ったことがあるが得も言われぬ美しさと寒さに震え上がった。この夜は竜神崎の野付灯台に近い駐車場で泊。(画像は北方防衛会津藩士顕彰碑)
 
別海町 風蓮湖畔 走古丹
 別海には、享和元年から塩鮭を将軍に献上することになり、そのための御献上鮭塩切場があった。したがって松浦武四郎は「献上鮭は此処にて捕る也」と記録している。別海には西別川が流れている。「ヘツカエ 前に川有。此川をニシヘツと云。此川鮭の第一番なる処也」「北海道の旅と地名のアイヌ語 旅行客のために 山田秀三」には「摩周湖の水が山の下を潜って水源となっている西別川の鮭が北海道第一の美味ではなかろうか」とある。この別海には思い出がある。この地で偶然にお会いした広大な牧場主のK.Tさんご夫妻にたいへんお世話になり秋と冬に格別美味しい大きな鮭とイクラを頂いた。冬に風蓮湖畔の走古丹を散策すると驚く光景に接する。二千頭ものエゾシカが此処に集まる。
 
根室市槍昔、ノッカマップシャシ群跡、七郎兵衛を想う
 別海町走古丹から本別海に戻り、国道243号へ入り根室市方向へ。奥行臼駅逓所へ寄り風蓮湖の中心へ突き出た槍昔ヤリムカシに入った。道路の右の倉庫のような建物の窓に大きなエゾシカの角が見えた。松浦武四郎は安政三年(1856年)に根室から船で来てこのあたりに上陸し廻浦日誌に記録している。槍昔から遠く見える風蓮湖の入り口では「フウレン湖の落口也。此処え上陸して昼飯す。其辺ライムニキナ多し。蚊虻実に耳目鼻にまで入て息をも継がたき難渋致しける」とある。槍昔には縄文時代からの遺跡があるらしい。現在この地に何人住んでみえるのだろうか。僕にとっての驚きの地槍昔から根室市街を越えてノッカマップチャシ跡群へ歩いて入った。そして納沙布岬へ立って、伊勢松阪の廻船七郎兵衛を想った。七郎兵衛は万治三年十二月二十三日(1661年1月23日)に紀州藩蔵米を積んで江戸へ廻船中遠州灘で遭難。七ヶ月間漂流しエトロフ島へ漂着。同島のアイヌの人たちの助けでクナシリ島を経て蝦夷(北海道)へ渡り、寛文元年九月八日(1662.10.30)に江戸へ帰った。そのときに提出した口上書が「勢州船北海漂着記」である。この口上書を見つけたとき僕は驚いた。なんと七郎兵衛は僕の郷里、松阪の人であったからだ。
 太平洋側に入る
 ここからは太平洋側を歯舞、花咲、落石、霧多布と調べ周り琵琶瀬展望台に着き霧多布湿原を見下ろした。そして厚岸町床潭地区へ入った。海岸に新しい家が続いていた。もしかしたら津波の被害にあわれたのかもしれないと思った。愛冠岬を通って厚岸市街地へ。
厚岸町 歴史を語る国泰寺を訪ねる
 松浦武四郎は納紗布日誌に厚岸「尺余の牡蠣圧朴等夷地第一の品なり」と書いている。したがって名物は牡蠣。厚岸国泰寺はロシアの南下、異教の侵入を防ぐためとアイヌの人々への同化政策のために有珠善光寺、様似等樹院とともに1804年に徳川幕府によって立てられた三官寺のひとつでそのためか入口の門には葵の紋章があった。「景運山国泰寺享和二年有命て建立、文化元子年五月入仏供養開基文翁和尚・・・上に石階数級を上りて はるかなる此島かげにいかにして鷲の山風ふくかよふけん 神明社(寛政三戌年最上常矩建立、同十年九月十七日近藤守重修理之)・・・」。境内を歩くとお寺が建てられる以前に近藤重蔵が北方から持ってきた色丹松があるなどこの地が千島列島への基地であったことがよくわかる。歴史を肌で感じる寺だ。国泰寺の隣にははじめは神明社として1791年に最上徳内が建てた厚岸神社があった。そして近藤重蔵は神明社の修理をしている。バラサン岬へ登って海を眺めた。厚岸には国重文の正行寺本堂がある。
 厚岸から重蘭窮、仙鳳趾、別尺泊、尻羽岬、去来牛、知方学、老者舞、分遣瀬、賎夫向、入境学、初無敵、冬窓床、跡永賀、浦雲泊、十町瀬、来止臥、幌内、伏古、昆布森、鸚奇別、宿徳内、地嵐別、又飯時を越え釧路、白糠、音別を通ったが地名をほとんど読めなかった。いったい誰がこのような地名をつけたのか。アイヌ語地名を残すべきではなかったかとつくづく感じた。
 
浦幌町 道道直別共栄線に国史跡のオタフンベチャシ跡があった
 屈斜路の友人に土地の丸山チャシ跡を教えてもらった。その美しさを何度も何度も眺めた。道内各地のチャシ跡をいくつか見た。登った。いずれも登って素晴らしさが倍増した。静内町のアイヌの英雄シャクシャインのチャシは感動だ。自然が歴史を模倣するのかもしれない。豊浦町のカムイチャシ跡は特に印象が深いが忘れられないのは浦幌町の国史跡オタフンベチャシ跡だ。観光客などまったく通らない海岸沿いを「シヤクベツ 前平地にし谷地多し」、「チユクベツ 川有。巾十余間、刳木船にて渡す」を越えたら偶然丘陵にこのチャシ跡を見つけた。「海岸沿いの旅」の賜物であった。オタフンベチャシには鯨にまつわる伝承があるらしい。松浦武四郎は随所でチャシの記録を残している。
 
豊頃町 原生花園の長節沼 秋に来たときは鮭釣りで賑わっていた
 長節沼沿いの花が美しい道路の一番奥まで来た。「鮭釣り」と書かれた看板が懸かっている店に入った。「あのけったいな車で来たんかいな。どこからや?」「伊勢から」「なんで伊勢の人間がこんなところへ ?」「北海道で一番いいのは観光客の入ってこない所じゃないですか」「そらここは入ってこんわなあ。鮭持って写真を撮ったらどうや」。結果がこの画像。こんな所にも原生花園が。それも見事な原生花園があった。「覚えとくで今度もあの車で来るんやぞ」と。涙する思いだったがこんなことが何度もあった。手を振って車を走らせた。十勝川から河口が大樹町にある歴舟川までの間には長節原生花園、湧洞原生花園、生花苗原生花園、晩成原生花園と原生花園がたくさんある。それらを巡って大樹町晩成温泉へと走った。
 
大樹町 朝起きたら横は道史跡十勝ホロカヤントー竪穴群遺跡であった 北海道の歴史教育は ?
 正直言って不便な地にある晩成社史跡公園へも寄るなどしたために晩成温泉に着いたのが遅くなった。「ああいい湯だ!」土地の人に話を聞きながら疲れを癒した。「車を止めて寝られる場所ありませんか」「5分くらい走ったら晩成Bサイトキャンプ場がある。そこがいいんでないかい」。車が一台泊っていた。疲れたのかぐっすり寝て朝起きて驚いた。真下は太平洋が広がり砂浜に鋼鉄製の大きな船が打ち上げられて錆びていた。そして横には海跡湖のホロカヤントー沼と湖岸に北海道指定史跡の十勝ホロカヤントー竪穴群遺跡があった。驚いたことにこの遺跡はオホーツク文化の南限であった。今日はここでゆっくりしよう」と竪穴遺跡を見、海岸に下りて散歩。そして考えた。「北海道の子どもたちはどんな歴史教育を受けるのだろうか。本州と同じように縄文時代、弥生時代・・・と勉強するのだろうか。いや北海道には弥生時代がないから本州と同じということはないだろう。北海道には北海道の歴史がある。それを学ばなければ地域に根付いた歴史教育にならないのではないだろうか」と。この地でもう一泊。また晩成温泉に浸かった。
 
苦難の開削を語る黄金道路
 晩成からナウマン象化石発掘地を見て国道336号線を南下。松浦武四郎が安政5年に遡って調査し「戊午第四十七巻辺留府祢誌」に記録したヘルフ子川(歴舟川 晴雨にかかわらず西南の風吹候得ば急に水出るよりして此名有と言り)を越えて広尾へ入った。この広尾から庶野(松浦武四郎はシヤウヤと記録)までの31.7キロは有名な黄金道路である。北海道の背骨と言われて日高山脈が太平洋へなだれ込むこの地は交通の難所だった。松浦武四郎の「廻浦日記 巻の二十六」の「ヒロホ」(広尾から黄金道路を3キロ南下した地 美幌)に「会所元(現、広尾)より此所迄を新道と云。文化度迄は此海岸フンヘマサリサキといへる大難所を越て此所へ出し也。然るを最上徳内、小林卯十郎等蒙命合切開きし由也」とあり、また「ヒタゝヌンケ」の地についても同様の記録がある。また東蝦夷日誌には美幌のすぐ南のオナオベツの地で寛政年間に近藤重蔵と最上徳内がここから新道を開いたとある。この黄金道路で記憶に留めなければならない第一級の人物は近藤重蔵である。寛政10年(1798年)近藤重蔵は択捉を視察しての帰路、現、広尾町ルベシベツとビタタヌンケの間で暴風雨で身動きできなくなった。往路でもこの地の危険さを知った重蔵は自費でアイヌの人たちを雇い、運上屋の協力も得て、この区間を避ける道路を12キロ開削したことが彼の従者、下野源助の「近藤重蔵新蝦新道記」でわかる。この「新蝦新道記」を後の万延元年に幕府役人、鈴木重尚が板に彫らせたのが広尾の十勝神社に残っているらしいが近くを通りながらも見てこなかったのは残念であった。また音調津の道路の海岸側に「重蔵隧道」というトンネルがあり、黄金道路完成時に建てられた山道開削の記念碑があった。重蔵が作った新道によって道東へはじめて馬が持ち込まれたのを知ってこの道路の歴史に果した益の大きさに気がついた。
襟裳岬 植林の浜、百人浜を歩く
 広尾町を越え黄金道路を通ってえりも町のルーランへ来た。ここから天馬街道へ入って襟裳岬を通らずに行こうかとも考えたが目的に合致しないし百人浜の植林も見たいと疲れを押して進んだ。百人浜について松浦武四郎は「昔此処ニ百人溺死せしより号るや」 「百人浜ハエリモト云所ニアリ。古来ヨリ金掘共諸国ヨリ入込シ所ナリ。蝦夷蜂起ノ時ニ盗ミ掘ノ者百人ヲ搦捕、松前家ヨリ其地ニ於テ死刑ニ行フ。因て一名百人浜ト云」と名の由来を二通り記録しているが現在百人浜の説明は船が遭難し多数の会津藩士が亡くなったとあった。百人浜の植林、様似等樹院の初代住職が建てたと言われている一石一字塔を見てその夜岬でパーキング泊。妻が疲労のためにダウンし寝込んでしまった。早朝霧の丘の上にエゾシカのシルエットを見てその美しさにじーっと見とれた妻にとって襟裳岬は花、朝日、夕陽、鹿、風、病と色彩に満ちた忘れられない地となった。朝、港へ行って漁師さんに話を聞いた。それにしても「えりもの春はなにもない春です」とはひどい歌だ。だからえりもの人は「えりもの春は世界一の春です」と歌うそうだ。(2003年の冬は襟裳岬まで流氷が来た。プロジェクトXの奇跡の流氷の再来である)
 
静内町 アイヌ民族の英雄 シャクシャインのチャシ 道史跡シベッチャリのチャシ跡
 蝦夷日誌巻之八に「此処にシヤクシヤインと云うもの一揆を起せし事有と聞けり」とあり事件が記録されている。事件は事実だが記録は和人の側からのものだから真実をどれほど伝えているかはわからない。寛文五年1669年シベチャリの酋長シャクシャインはますます募る松前藩の圧政に対して全道のアイヌに檄を飛ばし戦いを挑んだ。このアイヌの英雄シャクシャインの素晴らしい像が静内川丘陵の真歌の丘にある。民族の誇りをかけて戦ったシャクシャインのこの像は訪れる人々に感動を起こさせる。僕は北海道へ行くとなんどもここへ行く。シャクシャイン記念館の館長さんに静内のお話を聞いた。松阪木綿を織る妻が松阪木綿手織りセンターで「静内から注文がある」と聞いている。
 2000年の冬、静内町奥高見の山中で明治9年以後奪われたアイヌ民族の伝統猟法「シカ追い込み猟」が北海道ウタリ協会静内支部によって再現された。わが国ほど先住民族の人たちの権利を保障していない国はないのではと思う。
 
登別市幌別 松浦武四郎、伊勢の僧に逢う
 松浦武四郎は安政五年に第六回目にして最後の蝦夷地調査をした。一月二十二日(太陽暦三月七日)に箱館を出発。二百日間になんなんとする旅の終わりの八月(太陽暦九月)に「十一日(太陽暦十七日) 惣小使リキシノ召連ヌフルベツ温泉へ行。ホロベツ着。・・・法台小僧に逢。此者伊勢朝熊岳の僧なり」「十二日 ホロベツ小使イタクトンコロ召連モロランに泊る」(松浦武四郎自伝)と記録している。松浦武四郎は1858年太陽暦9月17日に自分が生まれた伊勢国の朝熊岳金剛證寺の僧に逢ったのである。ちなみに朝熊山展望台の売店左の小さな板に「朝熊山はあさま山と読む。アサマとはアイヌ語で日が出てキラキラ輝く様を言う」という意味の説明がある。アイヌ語に堪能だった松浦武四郎がこれを読んだらどう言うだろうか。また駒ケ嶽を下山して案内之者に、朝熊岳付近で作っていた薬を差し出している。「袋中に在りし朝熊の万金丹をニ包、有馬の水天狗の守を壱枚遣し候処、甚喜び『此薬は先生も遠路の処御持可被成候。此御守こそ金銭ニも無換(換え難し)』と悦ける」と記録がある。室蘭八景の海と奇岩と断崖と緑のトッカリショはアイヌ語で「アザラシの岩」という意味。根室花咲港で持たせてもらった蛸も大きかったが室蘭のそれも大きかった。
 
椴法華村と恵山町の境 松浦武四郎も登った恵山頂から本州を見る
 献上昆布で有名な南茅部町を越え松浦武四郎も登った「唐法華と書よし」の椴法華村と恵山町の境の津軽海峡に突き出た半島にある「たゆる暇なく黒烟天をさして上る」恵山に登った。「石畳々として岩山をなし、其間々に生る躑躅纔壱尺計にして一面に生ひ」と記録そのままで、山頂は「此処ニ上るや、西の方汐首岬を越箱館山、木子内浜迄一望し、東ヱトモの岬、南部尻矢岬、南大畑、下風呂岬、一々手に取ごとく見へたり」である。「コケと云木のミ有。七月ニ到りて其実喰ふによろし」。とにかく眺望がよい。海の景色の一番素晴らしい山だった。恵山から下山し北海道一周の最終地、箱館に着いた。
 
 羅臼町相泊から箱館まで東蝦夷はおよそ1000キロ。
 北海道をできるだけ海岸沿いに一周走ったら距離総計はおよそ2200キロもあった。
 
 「時は偉大な作家だ。常に完全な結末を描く」  
                        ライムライト 
 かくして2200キロの北海道一周の旅は完結した。
 たくさんの人にお世話になった。思い出をいただいた。僕は無事旅を終えたことを祝って東シベリヤ・サハ民族の口琴ホムスを鳴らした。
 
北海道一周1は箱館から稚内まで
北海道一周2は宗谷から斜里まで

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