「昔の和人は松前から太平洋、根室海峡を廻り、シレトコ岬迄を東蝦夷、また日本海、オホーツク海を廻ってシレトコ岬迄を西蝦夷と呼んだ。アイヌはこの半島をモシリ・パ(国の頭)と称えた。そこが北海道の上手であった。 北海道の旅と地名のアイヌ語  旅行客のために 山田秀三 」
 

北海道一周 2
松浦武四郎の記録を読みながら
宗谷からさらに国の頭、西蝦夷の知床へ
 松浦武四郎がはじめてソウヤからシヤリのシレトコまで歩いたのは弘化三年七月十七日(1846年9月7日)からでその記録は蝦夷日誌巻之拾にある。その後安政三年(1856年廻浦日誌)にも歩き、安政五年(1858年戊午日誌)には逆にシレトコから調査している。宗谷から斜里・知床までの幹線道路のうちの宗谷から網走への238号線の猿払から頓別への道は海岸から離れる。また網走から斜里への国道244号線の浜小清水から峰浜までも海岸から離れる。勿論この部分も海岸沿いに走った。



 宗谷岬から樺太までは海上およそ43キロ。かってこの海峡をオホーツク人が行き来し沢山の遺跡を残した。オホーツク海岸沿いに残されたオホーツク人の夥しい、行って見ると「なにこんなにあるのか」と驚くほどの竪穴住居跡、その中に埋まっていた擦文文化の遺物は「北海道が多民族族国家であった」ことを示しているように思われた。宗谷から知床までできるだけ資料館、博物館へ入るようにした。

宗谷岬
 最北端の宗谷岬に立った。宗谷公園に登った。樺太が見えた。松浦武四郎が弘化三年に渡った樺太が見えた。「再航蝦夷日誌巻之拾一 哈喇土之部一」の樺太への渡りの部分を読んだ。海は大荒れ、「我等十七八歳より遊暦を好て、北海西海にて名高き一に玄海、二に千々輪灘、三に薩摩の黒の瀬戸、と云る荒き場所等も越したれどかかることもなきに、此処は如何なることやあらんと独言しつつ、・・・一・二度も吐しける也」と渡樺の苦しさを記録した。西の海上に弁天島が見えた。この島がソウヤの地名のもとで松浦武四郎は「ソウヤ岩 一名弁天島と云り。海中十二丁に有。周四丁のよし聞けり。上に少しの祠有て、夷人弁天を祭り木幣を建る也」(蝦夷日誌)と記録している。彼がシヤリへ向かった日は「浜辺風厳しく沙吹巻て実に目も開き難きことなり」(蝦夷日誌)であったが僕たちは好天に恵まれた。
 
猿払村
 映画「人間の条件」の撮影場所となった猿払村。道の駅「さるふつ公園」へ寄った。国道を越えた海岸側にインディギルカ号遭難者慰霊碑が立っていた。猿払川河口へ向かった。廻浦日誌には「川有。巾三十間。螺多し。海には海扇・ホツキ・東海婦人多く、船渡し。此川筋の奥に沼有。周四里といへども野地にて斗りがたし。・・左り海岸白砂。右椴木立山也」とあり、蝦夷日誌には「川有、巾二十七間。此奥に沼あるよし也。周廻凡四里と聞り。往来よりは見えず。比目魚、鮭、鱒、桃花魚多し聞り。其周りは椴木立なり」とあるポロ沼があった。「戊午日誌」には「六月三日 夜明るや隣の婆より余に蜆二升計贈る故に、玄米五合に針五本を却礼し、・・・小舟にて番屋前より出舟す」とあり、この年松浦武四郎は北へ向かったが僕はここから宗谷国道を離れさらに海岸沿いの道を取ってサエヌカ原生花園からベニヤ原生花園へ寄って浜頓別川へと向かった。
 
浜頓別町 頓別川
 「トンベツ 川有、船渡し。上に沼有。此沼サルフツの後ろ迄入込也」。松浦武四郎は「廻浦日誌」に渡し守のホツタボから聞いた話を記録している。「十三と十五才なる両人の子供は少々薪水の世話にても致し呉るに、早今年は運上家え取られたり。右両人の給代と此渡し守の給代と合て漸々一年に米壱斗(八合升)煙草三把に古着壱枚なりと聞まゝ、不斗袖をうるをして分れける」。クッチャロ湖は美しい湖だがそのあたりにも和人のアイヌの人々への許せない行為がいっぱいある。
 行っておきたいところ 浜頓別町(クッチャロ湖)、枝幸町(ウスタイベ岬、三笠山展望台、オホーツクミュウージアムえさし)
 
紋別市 道の駅「オホーツク紋別」
 かって六月初旬にこの地で宿泊し日の出の早さに驚いたことがある。はじめて早朝にカラフトマス釣りを見たのもこの地である。いつも道の駅「オホーツク紋別」でパーキング泊だ。「近世蝦夷人物誌」もそうであるがこの地で松浦武四郎が記録した「廻浦日誌 巻の二十三」(モンベツ領リライシより、モンベツ・アバシリ両領境まで)を読むと和人のあくなき強欲に苦しむアイヌの人々の姿が描かれている。「僕は、同胞が苦しめられていたことを記録した松浦武四郎の本は読みたくない」と語ってくれたアイヌの友人がいる。「僕がもし彼と同じ立場だったら松浦武四郎の記録をどう見るだろうか」と考えさせられる一夜をここで過ごした。
紋別市 コムケ湖北岸を通る
 紋別港の道の駅「オホーツク紋別」から国道238号を南東に走りオンネコムケナイ川に沿って北上。そこに日本の重要湿地500のうちの一つ西蝦夷日誌巻之六に記録されているコムケ湖があった。どうも水深は浅いようだ。静かだ。人をまったく見かけない。道路も舗装されていない。まわりの緑が限りなく美しい。妻と散歩し草原に寝転んだ。そして東進。シブノツナイ湖があった。ここもまた日本の重要湿地500の一つである。北海道には重要湿地が61ヵ所ある。そして湧別へ。「ユウヘツ 川巾五十余間・・・此川筋弐里斗上より黒曜石出る由。時として此辺の浜にも見る事有」(廻浦日誌)。三月の寒い夜に弟子屈の「テシ」について教えてもらっていた際に「これ黒曜石だ。俺たちの祖先が北方民族との交易に使っていた」と聞いたことがある。その黒曜石が湧別の川にあることをはじめて知った。後年、丸瀬布の友人宅に飾られているものを見て、その年、僕は東大雪の河原でたくさん見つけた。そして旭川で黒曜石特別展を見た。
 
常呂町鐺沸 サロマ湖
 サロマ湖の東北に鐺沸がある。「西蝦夷日誌巻之八」に「トウフツ訳て沼口と云儀。依て此沼をさしてトウフツトウといへども、本名はサルマトウと云よし」とある。山田秀三著「北海道の地名」には「元来はサロマ湖の湖口がそこにあってトー・プッ(to-put 湖の・口)と呼ばれていた処から出た名である」とある。松浦武四郎は「トウブツ 此処も左は砂浜・・・大風の後は、其のトウ口閉りて歩行にて往来すれども、雪解また洪水にて湖水増時は、処水嵩みて危き故に、沼を堀穿ち水を落すなり。左すれば纔巾一尺か弐尺に穿つ共直に百余間位に及ぶと」と記録している。かってサロマ湖は砂州で海とつながっていなかったために季節によっては水位が高くなり危険であったために鐺沸で切ったらしい。宗谷からのオホーツク海岸沿いにオホーツク文化遺跡がたくさんあり各地の郷土資料館へ入って学んだ。サロマ湖畔にも遺跡がたくさんあり、ところ遺跡の館、常呂町埋蔵文化財センター等の資料館へも入って学んだ。
 
網走市 能取湖 卯原内
ウバラヽイ 此辺浅くして洲多く皆蘆荻生繁りたり」の卯原内は秋になるとサンゴ草で赤く染まる。その頃にも訪れたことがある。司馬遼太郎の「オホーツク街道」の卯原内での様子を読んだ。「赤い原は、卯原内という所である。川の名でもある。卯原内川。ウバラナイとはアイヌ語で、河口が死んでいるという意味らしい。行ってみると、まことにそうで、河口が死んだあたりが湿原で、ただ一種類の草でおおわれている。秋になると、草ぜんたいが朱紅色になる。折からがそうで、踏めば足がめりこみそうなほどの厚さをもった赤い絨毯の原だった。・・・・愉快なのは、草よりも人だった。近在のひとびとにとって、草が赤くなると祭りのような気分になるのか、ちょうど春の野遊びのようにあちこちで弁当をひろげている。・・・このように、たべもののゆたかさこそ、オホーツク沿岸の古代的風景を想像するきめ手に相違ない」。オホーツク沿岸を旅するときはぜったい「オホーツク街道」を持っていくべきだ。
 
網走市 能取岬
 「此所出崎。上は峨々たる岩壁也。馬足難通也」のカムイトヾも通って能取岬へ来た。「シンノノツエト 此処第一の出岬にして、東はアバシリの岬と対し、西はトコロの岬と対す。ノツエトはノツキエトといへる儀にして、ノツキは頤のこと。エトは鼻の如くさし出たる形ちを云也。大岩峨々として海中に突出したる実に当所の第一岬也。また此処をノトロと云り」(戊午日誌)。北見から来た高校生が僕の車を不思議そうに覗き込んできたのをいいことにいろいろ教えてもらった。網走で網走市立郷土博物館、モヨロ貝塚館、北海道立北方民族博物館へ行った。松浦武四郎が「土地肥沃にして此処よりシヤリ迄の間を開発せば、三十万石の余も上るなるべし」(蝦夷日誌二編巻之拾)と記録したアバシリを経由して斜里へと向かった。
 行っておきたいところ 網走市(北海道立北方民族博物館、網走市立郷土博物館・分館モヨロ貝塚館)
 
小清水町
 南北に長い小清水町で有名なのはオホーツク海と濤沸湖に挟まれた「小清水原生花園」だ。ここは観光の定番らしい。がしかし僕が小清水で好きなのは水鳥の聖域、涛沸湖と屈斜路湖を見下ろす小清水峠だ。わけても冬の小清水峠は豪華絢爛な一級の峠だ。凍結した屈斜路湖から吹き上げる風で道路は凍りつき、北東に斜里岳と海別岳が重なって豪快な白銀の山塊として見える。峠の回りには豪胆な野武士のようなダケカンバの巨木が強風に樹皮を剥がれそうになりながら立っている。冬の「風景言ん方なし」の風格ある小清水峠に登ってくると「これぞ冬の北海道!」と絶叫する。ここから見る知床の山々が美しい。
 
斜里町 山々
 斜里から斜里岳、海別岳、遠音別岳が美しく見える。早春に雪が融け始めて突然真っ青な牧草が出てきてその上に白銀の山々が浮かぶ。雪を見ない地の人間にとっては驚異の世界でその不思議さ、美しさは筆舌では表現できない。松浦武四郎はこの山々をどう見たのだろうか。知床日誌、その他にシャリ場所における和人の非道な扱いをたくさん記録している。斜里からは江鳶山も見える。この山の西側に斜里川支流のニクリイオロマナイ沢を春に歩いたことがある。釣りをしない僕さえ「この沢で渓流釣りをしたい」と思ったほど身も心も自然に溶け込むような静かで野趣に満ちた渓流であった。屈斜路の友人に「あの沢で釣れるのだろうか」と問うたら彼は「よく知っているなあ。いい釣り場だ」と言った。
 
斜里町 ウトロ 宇登呂
 ウトロへ来たときは通り過ぎず必ず宿泊する。冬に、松浦武四郎が泊ったウトロ番屋跡に建つホテルに宿泊したこともある。そして史跡を訪ねたり自然センターの講座に参加したりして楽しむ。ウトロは「ウトルチクシ 名義岩間を舟が越る義か」とあるが、松浦武四郎没後百周年記念顕彰碑の近くのゴジラ岩、オロンコ岩、三角岩のあたりを歩くと北海道の地名(山田秀三 草風館)に紹介されている斜里町史地名解の「原名ウトゥルチクシ その間を・我等が・通行する・所。岩と岩との間に細道を通って部落から浜へ往来するのでこの名がある」がぴったりである。知床自然センターで四季それぞれに開催されている行事に何度も参加したが「素晴らしい!」の一言に尽きる。歩くスキー画像はウトロから羅臼への冬の知床横断道路。
 
知床大橋 ここで行き止まりだった
 カムイワッカ湯の滝への登山口へ来た。「カモイワツカ 峨々たる大岩壁に瀑布一すじ懸かる。是も硫黄也。よつて神の水と云儀也」。夏はこの登山口で藁草履を売っている。妻に「登って露天風呂に入ってくるか」と言ったら「いややあ」と。しかたがないさらに先へ進みここから奥へは入っていけない「知床大橋」まで来た。地図で見るとこの橋が架かっている川はウブシノッタ川。西蝦夷日誌には「フブウシナイ 川有。是え硫黄流れ来るが故に其川水白くなりて、石等皆硫黄に染たり」とある。この先にルシャ川がある。かってアイヌの人たちはルシャ川を遡って半島の尾根を越えそこから根室海峡へ流れるルサ川を下ってネムロ領へ入った。記録には「是より山越ネモロ領ルシヤえ氷雪三里といへり」とある。ここから引き返し知床横断道路を通って羅臼へ入ることにした。
 
 宗谷からおよそ400キロ。箱館から西蝦夷を廻って国の頭知床半島のウトロまでおよそ1200キロ。
 
 ※ 5世紀から10世紀にかけて北海道や樺太などのオホーツク海沿岸を中心にオホーツク文化が栄えた。このことを学ぶために各地の資料館などへ行ったが次回はさらに詳しく知るために北オホーツクラインから斜里までの郷土資料館や遺跡をじっくり見なければと思った。
 
北海道一周1は箱館から稚内まで
北海道一周3は羅臼から箱館まで

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