松浦武四郎は北海道の海岸沿いのほとんどの地の記録を残している。
 その記録に残された地で記録を見ながら海にもっとも近い道路をたどって北海道を一周した。
 そして小樽で利尻島で松浦武四郎の生誕地であり僕の郷里でもある三重県にも出会った。
 
 

北海道一周 1
松浦武四郎の記録を読みながら
箱館から西蝦夷地を宗谷へ
 「できるだけ海に近い道路を通って」を心がけの一周は素晴らしい出会いを演出してくれた。
 車中泊して起きたら断崖の上であったり、原生花園の横であったり、動物が群れ遊んでいたり、すぐちかくにオホーツク文化の遺跡があったりと一日の出発から今日の出来事を期待させることが多かった。
 



僕は松浦武四郎の三航蝦夷日誌、廻浦日誌、丁巳日誌、戊午日誌をはじめ各地の日誌を車に積み込んで読みながら、妻は北海道地図の走行行程を記録しつつまず函館から積丹半島、余市、小樽、石狩川河口、厚田、留萌、苫前、天塩、抜海、利尻島、宗谷へと北上した。

箱館 函館 北緯四十一度四十七分
 北海道一周の旅を箱館から始めることにした。アイヌの友人からいただいたイケマで作った旅の御守を車の運転席の上のバックミラーに掛けた。「春風やさしく青い空降り注ぐ朝の光限りなし・・」と旅の楽しさを歌った時任三郎の「新しい風が」の曲が口をついて出た。
 松浦武四郎は箱館の様子をいっぱい詰め込んだ「蝦夷日誌 一編 巻之三」に箱館の位置を「地勢提要 一 箱館 極高四十一度四十七分 経度東五度廿三分」と記録している。1853年(嘉永6年)アメリカのペリーと時を同じくして日本に開国を迫ったロシアの遣日唐使節プチャーチンの書記官ゴンチャロフは「地球上で人間の棲息する各地方の地理や統計のうちで、殆ど唯一の空欄となっているのは日本ばかりではないか。この不思議な、まだ知られていないが故に気にかかる国土は、北緯32度から40度まで延びている」と記録している。日本を北緯40度までとしたこの記録はいかにも領土拡大に燃え南下するロシアの記録らしく傲慢で野望に満ちたもののように感じられる。「蝦夷日誌 一編 巻之三」には「此巻は箱館市中而己ならず、此山の海岸を審にす」とあり、箱館のことが詳細に載っているのを四苦八苦して読み、日本海側を通り北に向かった。(画像は北海道第一歩の地碑)
 行っておきたいところ 函館市(国重文太刀川家住宅店舗、国重文旧函館区公会堂、高田屋嘉平衛像と資料館、国選定重要伝統的建造物群保存地域、函館市北方民族資料館、函館山からの夜景、国特別史跡五稜郭跡)、松前町(国史跡松前城跡、寺町)、江差町(青少年研修施設開陽丸、国重文旧中村家住宅、江差追分会館、円空仏)、寿都町(道文化網元佐藤家)、岩内町(岩内郷土資料館、木田金次郎美術館)、神恵内町(商工観光センター前)
 
積丹半島神威岬
 神威岬の絶壁にはスカシユリがたくさん咲いていた。青い海にスカシユリの花の色が映えてそれはそれは美しかった。安政三年、女性がはじめて此処から北へ入ることを許された。この年松浦武四郎は西蝦夷日誌に「当年は別て大漁なり・・・是迄松前にて女を此奥へ入ると漁が無と言伝え有しも全く嘘なりしこと明也」と言ってのけている。この年以後女性も神威岬から奥へ入るようになった。西蝦夷日誌四編に積丹半島から小樽にかけての七箇所(シャコタン、ビクニ、フルビラ、ヨイチ、ヲシヨロ、タカシマ、ヲタルナイ)を「年まし開け、永住移産者多く、産物嵩み、崖を崩し磯辺を埋め家居櫛比し・・・」と記録し、12年前に比べると「山川其形異にするかと怪まる々所多し」と驚いている。
 えなをかき我も神居に手向して
       たえずも願ふ蝦夷の海幸  松浦武四郎
 岬の上で風に吹かれながら歴史を感じた。
 
余市 旧下ヨイチ運上家
 よいちの海うみ幸ありや浜千鳥
        浜せばきまで鳴つどうなり 松浦武四郎
 「ヨエチ(運上や、板くら十棟、御備米くら、勤番所、弁天社、茅くら)美々敷立たり。是を下ヨイチと云
 現代の余市は果実と宇宙飛行士毛利さんの町である。が僕の関心事は1853年に建てられ松浦武四郎が記録し唯一現存している国重文の旧下ヨイチ運上家である。屋根は板柾3000枚、2000個の石置き。屋内に入って重厚さ力強さに驚いた。駐車場のハマナスが妙に印象的だった。余市へ来るといつもとある店の二階でシマホッケ定食を食べる。これが安くて美味しいのだ。ホッケはサンマとおなじように焼くと煙がすごい。冬に網走から斜里まで流氷ノロッコ号が走る。この列車の中のストーブで若者がホッケを焼いていたら車掌さんに「ホッケは煙がたくさんでるので焼かないでください」と注意されていた。
 行っておきたいところ 余市町(国史跡フゴッペ洞窟、国重文・国史跡旧下ヨイチ運上家、国史跡旧福原漁場)
 
小樽市 伊勢神島のヤン衆が
 蝦夷地の日本海側は鰊で沸いた地である。鰊は「此地にては土地の一大産物にして・・・昆布和布等々の生る小石岩磯等の海にて群来ざる所なし。・・・鯡と書は非魚して島地の糧食也」であった。松浦武四郎は漁獲量を増やすために人々に強いられてきた「種々忌言葉、忌事」もたくさん記録している。この地の高台に移築されている鰊御殿で見た写真が僕を驚かせた。その写真の説明に「三重県鳥羽市神島から大正初期に北海道に渡り小樽市信香浜で鰊漁業をしていた小久保漁場」とあった。なんと大正時代に松浦武四郎の生誕地の、僕の郷里の三重県の、かの有名な小説「潮騒」の舞台の神島のヤン衆が小樽にいたのである。オロロンラインは小樽から稚内まで。ここからオロロンラインを北上することにした。
 行っておきたいところ 小樽市(道文化財ニシン漁場建築旧田中家邸宅通称祝津鰊御殿、旧青山別邸、国重文旧日本郵便小樽支店)
石狩市 石狩川河口 はまなすの丘公園
 京極町のバッタ塚に比べると何倍も大きく史跡としてしっかり残されている札幌市有形文化財「手稲山口バッタ塚」へ寄ってから松浦武四郎が「蝦夷の地石狩川の巨大なる事皆知る所也」と記録した石狩川河口に立った。川幅広くゆっくり流れる様は大河にふさわしい。砂州にハマナスの丘公園がありいっぱい咲いている。田中澄江の「花の百名山」に「札幌という町の羨ましさはすぐ近くにハマナスの大群落のある浜を持っていることである」と書いてあるが札幌に近いことが災いしてか秋にテレビで「実を取っていく人が多く困っている。取っていかないように」と放送していた。松浦武四郎は石狩川河口のハマナスの実を御買上げていただきフンベムイ小休所の番人の手当てにしていただきたいと書面「奉ハマナス取入方の儀申上候」を提出している。石狩川河口のハマナスはいつの時代にも話題が多いようだ。
 行っておきたいところ 札幌市(札幌市史跡手稲山口バッタ塚)、石狩弁天社
 
厚田村 小説「厚田村」の舞台地、子母澤寛の生誕地
 松浦武四郎は明治になってから行政区画を提案した際に厚田を天塩国へ入れるべきとしたが石狩国へ入れられた。この地の松浦武四郎の記録は「出稼ぎ多し」「しばし出稼屋のつづく中を過て」「出稼屋立つづく」の状態で和人が定住し始めたのは江戸時代末期の安政六年であった。それが明治時代にヤン衆二千人にまでなったのは黄金を運んでくるように鰊が押し寄せたからである。港で漁師さんから「この海は、春は鰊の本場だったしホッケをはじめたくさんの種類の魚が取れ、秋は川の水が見えないほど鮭がのぼった。この地が北海道で一番豊かなときがあった」と聞いた。厚田港の朝市は札幌からの人で賑わっている。
 行っておきたいところ 厚田村(厚田公園)、浜益村(国史跡荘内藩ハママシケ陣屋跡)
 
留萌市 「ルルモッペがいい」と思った
 松浦武四郎はこの地に弘化三年、安政四年、安政五年と三度訪れ、廻浦日誌に「当所は本名ルンヌモンベツフトと申候。ルンンモンベツの川口と云事也。是も今ルルモヘツと詰る」とある。この地は昭和初期まで「留萌」と書いて「ルルモッペ」と呼ばれていた。そして今は「ルモイ」。鰊の群れが夕陽に照らされキラキラと輝きながら押し寄せた黄金岬を見下ろす高台に立って思わず「ルモイよりもルルモッペが詩情があっていいなあ」と呟いた。海のふるさと資料館に松浦武四郎に関する記録展示があった。漁師さんから「最近少しずつ鰊が押し寄せるようになった」と聞いた。そして平成11年、30年ぶりの鰊の群来が押し寄せ、海が真っ白になったと新聞が伝えた。平成16年の春、丸瀬布にお住まいで松浦武四郎研究会会長の秋葉實先生から郷里松阪へ「開きにしん」を送っていただいた。僕は山で火を焚いて焼き食べた。その美味しかったこと。三重県では絶対味わえないものであった。留萌で大雨にあったことが懐かしい。
 行っておきたいところ 留萌市(留萌市うみのふるさと館、まさりべつ望洋の森、黄金岬)、小平町(国重文旧花田家番屋)
 
苫前町 風力発電最前線
 落日を見てから海岸の上の夕陽が丘オートキャンプ場へ車を入れて車中泊。丁巳日誌の記録を読んだ。松浦武四郎はトママイへ着いた日に孝養養老の鏡、惣小使エタキエウンと弟アチヤエタロ、父サケコシユン母セイヌシへと会っている。また夜に「去年我が召連チクヘツにて一宿露宿せしトシユマと云脇乙名を呼出し」、夜10時頃に「カニコラン、サケチヤロ、万助等又我にヤンカラフツテを致しに来りける」と大忙しであったらしいがきっとこの地は思い出になったに違いない。今、「後ろの山赤土にして平山、樹木なし」と記録された苫前は風力発電最前線の地。苫前グリンヒルウインドパークには37基もの風力発電機が並んでいる。その数と巨大さに圧倒された。
 見ておきたいもの 焼尻島(オンコの木)、天売島(海鳥群)
天塩町 北へ流れる天塩川
テシホは西部に在て夷地第二の大川、其源は石狩上川ユウベツシヨコツに境し百五十里を通す。・・・本名テシウシなるを何時よりかテシホと誥る也。テシは梁の事ウシは有との意なり。此川底は平磐の地多く、其岩筋通りて梁柵を結し如く、故に号しと」(天塩日誌)「海産鮭一色。是もむかしは千石二千石の位上りし由なるが、今は流れ木川すじに多き故網引場なき故に、上り高至りて減じ、漸々寅年出石は三百十六石六斗六升」(廻浦日誌)「魚多きよしなれども、流木多きが故網を入れ難し」(西蝦夷日誌)。車中泊。「今日は土用半なるに火に当たるは少も苦に成らず」のような状態であった。(画像は赤レンガの天塩川歴史資料館)
 行っておきたいところ 天塩町(天塩川歴史資料館、天塩町鏡沼海浜公園)、
 天塩河口大橋から抜海へのオロロンラインは最高。この道路を走らなかったら北海道を語れない程だ。
 
稚内市抜海 抜海岩を忘れず
 蝦夷日誌巻之九のトママイの項に「是よりハツカイ迄皆砂浜也」とあり、「従ワカツシヤクナイ六里十七丁余。此間道すじ、白砂にして少しも山坂なく、また岩浜等もなし」の所に抜海はあった。「此処よりリイシリ、リフンシリ、船路よろしき也」「バツカイ石と云もの有。大なる丸き石の上にまた三囲位の丸石有。是に七五三をはり、エナヲを立て、華表等を立まつる也」。天塩からワツカシヤクナイを通って抜海までの左に利尻島を見ながらの真っ直ぐな道路はワツカシヤクナイ番屋を表現した「其風景如何とも云がたし。然し風有る時は甚以おそろしき処なり」がそのまま当てはまると思った。後ろから来た若者にウインカーで抜き去るように合図すると片手を天に突き刺し合図と感謝を表して走っていった。画像の抜海岩の下の穴は稚内市指定遺跡の先住民住居「抜海岩蔭遺跡」である。
 行っておきたいところ 稚内市(ノシャップ岬、稚内市開基百年記念塔、JR稚内駅)
 
利尻島 伊勢志摩の海女さんが
 天売島へも焼尻島へも礼文島へも渡った。残されたのは松浦武四郎が弘化三年八月八日(1846年9月28日)に渡った利尻島となった。「リイシリは海中へ突兀として冨峯ニ比すべきもの也。五里六里計も遠くに行時はいよいよ冨士に似て見ゆ。樹木半より上になし。上は皆焼山にして崩岩也と」「土産 鮭・鯡・数の子・帆立貝・蜆・海参・比目魚・笹目こんぶ・鱈」。この島で偶然、僕がかって住んだことのある三重県志摩郡阿児町志島の近くの越賀の海女さんが明治30年代に八丁艪を漕いで利尻島のもっとも南の仙法志地区まで天草取りにきてそのまま利尻島の人と結ばれて住み着いたと聞いて驚いた。その地区では今も伊勢なまりことばを聞くことができるらしい。海を生活の場としている人たちの世界の広いことを改めて知らされたことは利尻島での大きな成果だった。
 
稚内市宗谷
 とうとう間宮林蔵渡樺出航の地に来た。「此処本名はピリカトマリなるべし。其地未に向ひノツシヤフ岬と対して其湾内一澗となる。其澗内暗礁多くして出入りの船は至て容にくし。然れども海底一面の平暗礁なるが故に、其ピリカトマリに入る時は如何なる風波も障ることなし」(廻浦日誌二十の巻)。暗礁が多く危険だがいったん入ってしまえば穏やかないい港で「ピリカ・トマリ」とは「よい・停泊所」という意味。この地から間宮林蔵も松浦武四郎も樺太へ渡った。「廿ニ日 霧靄深く候得共出帆の儀申出候間支度」。松浦武四郎は樺太へ二度渡っている。間宮林蔵の立像、間宮林蔵渡樺出航の地碑はあったが松浦武四郎のそれはなかったのが残念!
 
 箱館から宗谷までおよそ800キロだった。「北海道は広い」の驚きとここを歩いて調査された松浦武四郎の偉業を改めて思い知らされた。
 
北海道一周2は宗谷から斜里まで
北海道一周3は羅臼から箱館まで
 

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