2002年2月15日から2002年3月30日まで長期滞在
 1999年5月から1年間、事実の現場に立つことを楽しみにして松浦武四郎の本をたくさん持って北海道で長期滞在をした。そして多くの人々から心あたたまるホスピタリティーを頂き、できるだけ早く再訪することを考え、また松浦武四郎が見た現場で記録を読みたいと夢見ていた。
 名古屋から北海道までは飛行機でわずか1時間半と距離的には近い。しかし再訪するのに2年間を要した。松浦武四郎ゆかりのたくさんの友人に再会し、新しい友にも出会った。アイヌ文化伝承学習会にも参加させていただき「身も若がえる心地こそすれ」で感謝しきれない温情をいただいた40日間だった。
 

松浦武四郎翁の記念碑等を訪ねる 3
松浦武四郎の歌碑、顕彰碑等はまだたくさんあるに違いない。「それらをすこしでもたくさん見てみたい」の願望はあるものの友人と話をしたい、土地の行事に参加したい、クロスカントリースキーをしたい、ツアーに行きたい、大会に参加したいなどなどで40日間も短く、標柱があると思われる地さえ行くことができなかった。

顕彰碑、歌碑探しで嬉しいのは偶然発見したときである。美幌町の峠の湯の駐車場の碑、港文館内の絵などは偶然見つけた。もっと嬉しいのは友人が教えてくれたときである。「武四郎の浜」はレンタル・コテージに着いたその日に教えてもらった。大感激であった。

松浦武四郎宿泊之地碑
 美幌町峠の湯びほろ 駐車場
 GPS参考値 北緯43度48分13秒
          東経144度10分2秒
 3月15日松浦武四郎が「沼一ツ有、其周囲凡弐里と聞。至て深き由なり」と記録した秘境のチミケップ湖でワカサギ釣りやクロスカントリースキーを楽しんでの帰りのことであった。ふと立ち寄った美幌の峠の湯の駐車場で妻が「あれ?」と叫んだ。なんとそこに松浦武四郎宿泊之地の碑があった。何度も通ったこの地に碑のあることを知らなかったが安政5年の行程から判断すると碑があっても不思議ではない。
 自伝には「四月朔日ビホロ、シユイヘリキン家に泊る」とあり、戊午第十巻東部安加武留宇智之誌参に「先公料の時の事を問ふに、最上ニシパ、近藤ニシパ等には度々逢、最上ニシパはシヤリに越年したるが、其節は度々行て逢い、此山の事を話し、間宮ニシパはクスリの山々を歩行給ふ時に附て歩行、また大塚惣太郎様は我が家にて滞留も致され候等、審に語りぬるに、大に我も益を得て、一夜をおもしろく明しぬ」とある。シユイベリキンは土産取の役職で極老。松浦武四郎は先人の事を聞き、楽しい一夜を過ごしたことが読み取れる。
松浦武四郎著東蝦夷日誌 釧路会所の図
 釧路市港文館内
 「さいはての駅に下り立ち雪あかりさびしき町にあゆみ入りにき」 石川啄木のことを知ろうと港文館を訪れた。啄木が明治41年に勤めていた釧路新聞社を復元した港文館の横に立像があった。
 館内はコーヒーの甘い香りが漂っていた。玄関に市内にある啄木の碑の一覧表が置いてあった。
 ひとしきり館内を回って小さな部屋に入ったらそこに「釧路会所前の図」があった。松浦武四郎画とはどこにもなかったが見たとたんに「東蝦夷日誌七編 久摺」の中の絵に違いないと思った。
「当所領分、安政戊午改、惣家数二百七十二軒、人別千二百九十八人。此処少々潟形になり、七八丁沖に懸かる。土地西向平山の半腹に立、下川口より白糠迄を一見にし、此片両岳、アバシリの山々、南大洋を眺み、北西の風厳しく当り、冬日は至て寒気強きよし」。釧路市には松浦武四郎の名を取った「松浦町」がある。
 ちなみに塘路湖の近くの標茶町郷土資料館には標茶での出来事(ユウカリを謡い夜の更けるまで楽しんでいるアイヌの人たちが松浦武四郎をその中に入れようとしている)の絵(久摺日誌)が架けられいる。
松浦武四郎著の久摺日誌を読んでの碑
「讀多気志樓主人久摺日誌 南華稿」
  弟子屈町 摩周湖第一展望台左上
 GPS参考値 北緯43度33分26秒
          東経144度30分24秒
 春木南華が松浦武四郎の久摺日誌を読んで作った漢詩の碑があることを弟子屈町史などで知っていたがなかなか見つけることができなかった。
 僕の北海道の冬のホームグランドは弟子屈町で懇意にしていただいている人もあり聞けばすぐわかる。しかし自分で見つけなければ。
 木々の葉が落ちた冬に摩周湖第一展望台から探したら左上の高台に立っていた。
 春、夏、秋は木の葉で見えなかったのだ。
 強烈な寒さの中、スノーシュウをはいて登って見てきた。
  七里澄湖擁絳巒 摩周山時勢龍蟠
  洞熊欲吼斜陽際 讀到那邊膽気寒
 そして友人に「見てきたぜ」と言ったら「なにもこんな寒い季節に行かなくても」と。
 弟子屈の人たちは厳冬期の摩周樹氷スキーツアー大会を行う。この会に参加させていただいてもらったバッチは旭川国際バーサースキー大会参加バッチとともに僕の宝のひとつだ。
 
 
松浦武四郎浜
 弟子屈町 摩周湖
「其見ざる事は如何なることも志るさず」(蝦夷日誌一編)は松浦武四郎の信条であり、少しでも見習いたいところですが「武四郎の浜」は現場へ立たず、また見ずに記すことになりました。と言うのも「武四郎の浜」へは降りていくことは厳しく禁止されているからです。
 松浦武四郎は久摺日誌にこのあたりの様子を「左の方湖辺を指して下る(凡八丁)。是神岳の東の方なり。ヨロウシと云るなり。此処神岳の山根高数千仞掌を立し如く、木幣を作り立て拝す。小の磯は岸皆赭石の礁たるなり。依て其水辺浅き所は血を流せしが如し(三丁)。行てホロとて大岩窟の高さ一丈に巾弐丈も有、入る事五六間にて又内広く二ッに分れ其奥に幽邃にして知り難し。是を雌雄の神と云。・・・其岩皆赭の如く、障れば衣服皆赤に染めり。湖中に一ッ立石有、カモイシュマと言り。」と書き、さらに、夕方、湖面を見ていると黒い頭で口の中が真っ赤な魚がいた。夕陽が湖面に輝いて、金鳥が東海に浮かんでいるようだった、と続けている。
 松浦武四郎を愛する弟子屈の人々が神秘の湖摩周湖に彼の名を残しておこうとした心意気に心からブラボーだ!
開拓神社
 札幌市北海道神宮横の開拓神社
 GPS参考値 北緯43度3分17秒
          東経141度18分41秒
 1938年北海道開拓に功労のあった三十六柱(現在は三十七柱)を合祀して開拓神社が建てられた。
 三十七柱の中に、伊能忠敬、高田屋嘉兵衛、最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵、島 義勇などとともに松浦武四郎の名がある。がその「開拓」は誰のための開拓であったのか、を考えさせられる。
 松浦武四郎を訪ねて北海道で十五月間生活をして各地を回りたくさんの郷土資料館などに入った。その中には「松浦武四郎は人跡未踏の地を歩いた」と掲示してあるところがあったがこの表現を松浦武四郎はどう見るだろうか。
 アイヌの人たちの案内で奥地深くまで歩いた松浦武四郎は決して蝦夷地を「人跡未踏の地」とは考えていなかったではないだろうか。
「開拓」という美名のもと犠牲になった人々がたくさんいたことを忘れてはならない。
 
松浦武四郎泊 定山渓温泉由来
 札幌市南区定山渓 岩戸観音前
 GPS参考値 北緯42度57分59秒
          東経141度9分38秒
 定山渓に温泉由来の説明板がある。
 それには「安政五年一月松浦武四郎が幕府の命により道路適地調査のためにアイヌの人を案内人として虻田より中山峠を越えてこの地に到着。岩間に浴槽を掘り旅の疲れを癒し一泊した。これが温泉のはじめである」とある。
 松浦武四郎の後方羊蹄日誌には「川の中より烟の立を見認たり。立寄て見る。岩間に温泉沸々と噴上、其邊り氷も融たる故、一宿して浴するに、温泉能く肌膚に適し、数日の草臥一時に消すかと思はる」と記載されている。
 また戊午日誌には「川中に温泉有をト子ンバク、シヨウロク見当り。一同に感嘆し先は此処に来たりせば、最早三四日にて石狩え下る事必せり。此間中に草臥を此処にて休むべしと、未だ四ツ頃なるに、此川南に止宿す」とある。
松浦武四郎歌碑 
 阿寒町滝見橋近く雄阿寒岳登山口
 GPS参考値 北緯43度25分52秒
          東経144度8分9秒
 寒い日に屈斜路湖畔から恐怖の国道241号線で峠を越えて阿寒へ行った。
 「いつまでもながめは盡じあかぬ山妹背の中に落る瀧津瀬」(久摺日誌)の碑は阿寒湖へ流れ出る阿寒川の滝見橋の近くにあった。
 「念八日快晴、将到阿寒瀑布 首長恵古礼 棹小舟待余・・・彷彿於那智 而幾倍於華厳・・・(久摺日誌)」(二十八日阿寒滝を見に行こうと思っていたら首長のエコレが小舟を用意し待っていてくれた。・・・滝は那智の滝に似ていて華厳の滝の何倍もある・・・)。
 松浦武四郎の阿寒湖畔の行動記録については不明な点が多いらしい。
 碑は滝見橋近くの登山口で半分雪の中に埋まって立っていた。そしてあたりはエゾシカの足跡だらけであった。
 ここから登ると太郎湖、次郎湖はすぐ近くである。
 
松浦武四郎が記録し親交の深かった桑田立斎のアイヌ種痘之碑
 標津町
 四月、根室海峡を見下ろす標津の丘へ双眼鏡を持って登って行った。鯨の群れを見ることができるかもしれないと聞いたからだ。丘に碑があった。桑田立斎? 安政四年? 松浦武四郎はこの地に安政五年に来ているから記録があるのでは、と探したがなかなか見つからない。しかしとうとう見つけた。松浦武四郎の「近世蝦夷人物誌 参編 巻の上」にある「窮民トミアンテ」に桑田立斎の名があった。寛政五年(1791)の夷諺俗話(串原右仲正峯)の中に「疱瘡の事・・・是は蝦夷地には疱瘡はなかりし所・・・」とあるが「近世蝦夷人物誌の初編 巻の中 酋長ムニトク」に「此春なるか天然痘流行し妻も之に関係りて死し姉娘なるも死し、其餘當場所十九軒あり人別六十人ありしが其内四十一人死して、今は家算漸々四軒ならでなくなり・・・」と悲惨さが描かれている。「窮民トミアンテ」には「昨巳の年公より種痘の医師を遣はされしかば・・・彼六太郎を連れてシツカリといへる所まで医師桑田氏を迎出て、第一番に其術を乞ふて申ける・・・此トミアンテのすゝめに依て先々の場所も一統何事もなく其術を受け、又桑田氏から着せるものを脱て与へられし其志に感じ、いとも有難き事と・・・其術を受けしぞ理りなりけるなり」とある。
 蝦夷地へ和人が入るとともに天然痘で亡くなるアイヌの人が増えた。そこで幕府は桑田立斎に蝦夷地での種痘を命じた。そのとき、大きな力を発揮したのは松浦武四郎と親交の深かった通辞の伝蔵であった。
 松浦武四郎は「其餘一つの急務とするは種痘を施して人の横死を免るゝことを得たるを」と書いている。なお伝蔵は茶右衛門と名を変えたアイヌの人に勧められて野付ではじめて農業を行った人物でもあり、松浦武四郎の近世蝦夷人物誌に記録されている。

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