1999.5.10から2000.5.15まで
 碑の中に松浦武四郎の蝦夷地での営みが刻み込まれている。その営みは湿原であったり、河口であったり、川岸であったり、断崖の上であったり・・・。河川敷にあったり・・・。北村の宿泊地碑、砂川市の踏査地碑はお年寄りと松浦武四郎について話をするうちに「あの碑では?」と教えてもらった。百名山のピークハンターのように単なる碑めぐりは愚劣。それよりも大切なことは碑を探すことを通して土地の人とどれだけ松浦武四郎について話ができるかである。

松浦武四郎翁の記念碑等を訪ねる 2

 歌碑、像、顕彰碑の一つ一つに思い出がある。偶然見つけたもの、苦労したもの、すんなり見つけたもの、一つ一つに物語がある。羅臼港で妻が「松浦武四郎の野宿の地」の場所を聞いてきたのは鮭のセリを終えた水産会社の人だった。僕は松浦武四郎は歴史上の人物だから敬称を略して「松浦武四郎」と語るが妻は「教えていただいた人は松浦武四郎さんって言ってみえたよ。この土地でも松浦武四郎の重さをしみじみと感じた」と語った。その方に「近くで個人で羅臼の植物を育てておられる」と教えてもらったのでお邪魔してみせていただいた。碑の中には「松浦武四郎が私達を導いてくださった」と語り合える友人に教えてもらったものがある。

松浦武四郎歌碑
 神恵内村 商工観光センター前
 GPS参考値 北緯43度8分26秒
          東経140度25分59秒
 新潟県直江津からのフェリーが着く岩内から雷電国道を北に向かって走ると次々とトンネルが現れる。それを越えると神恵内。
歌碑は「しはらくは晴間も見えでふるうの海里の名しるく五月雨なり」(西蝦夷日誌三篇 フルウ領)
 積丹半島の神威岬と岩内町の中間に位置する神恵内はかって「フルウ」と呼ばれていた。
西蝦夷日誌によると「海岸は断崖。山堅雪のときしか越えられず」の状態であったらしい。
落陽がとてつもなく美しく仰天した。伊勢松阪へ帰ってきて高台の資料館への坂道で拾ったハマナシを蒔いたらたくさん発芽したがどうしたわけか花が咲かない。
 
松浦武四郎像と松浦武四郎歌碑
 天塩町 天塩川河口鏡沼海浜公園
 GPS参考値 北緯44度52分37秒
          東経141度49分31秒
 歌碑と像のあることを天塩川歴史資料館長さんに教えていただいた。
歌は「蝦夷人のみそぎなしたる天塩川今宵ぞ夏のとまりをばしる」(天塩日誌)
「ながむれば渚ましろに成にけりてしほの浜の雪の夕暮れ」の二首。
 天塩川が唯一北に向かって流れる大河と聞いたときは「なるほど!」と感じた。松浦武四郎は天塩川流域踏査については後日のために残しておくと記録し第五回目の安政四年に行った。「六月八日 夕方天塩着。九日 大雨。・・・是より予は川上行の手配を命ず」と松浦武四郎は天塩川を遡った。中流の深き淵にチョウザメが泳いでいて気味悪くなった。大きな河口に立ってチョウザメが泳いでいたら愉快だろうと思ったが1996年には羽幌町沿岸にサケ定置網に体調2.48メートル体重100キロものチョウザメがかかったとのこと。
この流域には碑等が多い。いつの日か、松浦武四郎の丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌、天塩日誌と明治五年に天塩川を遡った開拓使宗谷支庁天塩詰大主典佐藤正克の記録「闢幽日誌」を読みながらゆっくり辿ることができればいいのだが・・。
松浦武四郎宿泊地
 北村 赤川排水機構近くの土手の下 排水機構の反対側の林の中に分村記念碑がある。
 GPSあくまで参考値 北緯43度17分33秒
              東経141度43分45秒
 探すのに苦労する碑である。
 赤川排水機構の横の草むらの中。反対側に開村碑あり。どうにも分からなくて堤防の上に登ったら見えた。
 碑裏に、安政三年五月九日エンリシウ外九名。安政四年五月十三日トック乙名セツカウシ外三名、同年閏五月二十一日上川アイヌニホンデ外一名とともにこの地に泊まった、との説明がある。
「丁巳 石狩日誌」を見ると「五月十日 午後石狩に着し、上流の事を支配人に談ず。依てトミハセ(トロク)セツカウシ(同)ニホウンデ(上川)アイランケ(同)の四人を水夫と定む。此もの等は去夏ルルモッペ越に召連知る者なればなり」とある。
 
松浦武四郎踏査の地碑
 砂川市空知太239番地 国道12号線空知川大橋の手前を左に入りJR線路の下を通る。河川敷の高台にある。
 GPSあくまで参考値 北緯43度31分52秒
               東経141度54分16秒
 これも苦労する碑である。
 探したがどうにもわからない。
 ゲートボールをしてみえたお年寄りに尋ねた。「そんな碑あるかのう」「丸木舟で川を遡ったのですから川岸かもしれません」「そう言えば・・・」の返事を頼りにとうとう見つけた。碑は夕陽に輝いていた。
 国道12号線を北へ。空知川大橋の手前を左折してJRの下をくぐり工業団地用地の川岸の高台にあった。
 この碑を見つけるためにたくさんのお年寄りにお世話になったし、いろいろお話を聞かせていただいた。そのために碑を探す時刻が遅くなった。しかしそれを上回る楽しさを与えていただいた。
松浦武四郎姿絵
 摩周湖第一展望台売店
 摩周湖第一展望台の売店へ入った人は多いに違いないがここに松浦武四郎を描いて絵があるのを知っている人は少ないようだ。
安政五年、松浦武四郎は和人ではじめてこの地を訪れ同行のアイヌの人からこの湖を「マシュウトー」と聞いている絵がある。また摩周湖伝説も描いてある。
 近くに「讀 多気志楼(松浦武四郎)主人久摺日誌」の碑があるが登っていかなければならない。
 ※ 2003年春にまたこの地へ来た。売店は内装が変わり、残念なことに、この絵はなくなっていた。
 
松浦武四郎野宿の地
 羅臼町 マッカウス洞窟前
 GPS参考値 北緯44度1分49秒
          東経145度12分24秒
 観光案内書にはヒカリゴケ洞窟と記載されているものが多い。
 知床日誌に「風波荒きが上陸す。此所番やは崩たる故、上に大なる窟の有に入て宿す。・・・今宵は夕節句のことなるにかゝる異郷に寝ることぞと思ひ」から続く歌「仮寐する窟におふる石小菅葺し菖蒲と見てこそハねめ」が碑に書かれている。
 松浦武四郎はこの洞窟でヒグマが恐ろしくて寝られなかったとある。
 羅臼が大好きな妻が港で植別水産の人から松浦武四郎の話を聞いてきた。そしてまたこの地の貴重な草花を育ててみえる家へ伺い見せていただくように勧められたので行った。
 冬、船に乗ってオジロワシ、オオワシを見た。その数の多さはただただ驚きであった。洞窟はつららが地面に達し氷柱となっていた。
 
松浦武四郎漢詩碑
 阿寒湖畔 ビジターセンター裏
 GPS参考値 北緯43度26分7秒
          東経144度6分4秒
 阿寒湖畔にあるこの碑には漢詩が載っている。その漢詩は
 水面風収夕照間 小舟棹支沿崖還
 怱落銀峯千仞影 是吾昨日所攀山
  (久摺日誌)漢詩の碑がほかにもあるのだろうか。あまり知らない。
 阿寒湖のまりも祭りで演奏を聞いたことのあるロシア・サハ共和国の口琴ホムスの演奏家スピリドン・シシーギン氏と話をする機会に恵まれた(勿論、通訳の方を通して)。国際口琴演奏会の優勝者で話を聞いたら中学校の校長さんだった。
 この年のまりも祭りでオキ氏のトンコリの演奏を聴いた。次の年、三重県桑名市でも聞いたが阿寒湖まりも祭りの雰囲気にはとうてい及ばなかった。
 
松浦武四郎歌
 神明宮跡 厚岸町国泰寺
 GPS参考値 北緯43度1分57秒
          東経144度50分15秒 
 早春の一日 厚岸へ行った。屈斜路湖の回りはまだ冬であったが厚岸は春の装いで驚いた。ふきのとうがいっぱい出ていた。
 蝦夷三官寺の一つ国泰寺を登ったところの説明看板に松浦武四郎が安政五年に参拝し「はるかなるこの此島かげにいかにして鷲の山風ふきかよいけん」(納紗布日誌)と詠んだとある。
 境内を歩いて説明を残らず読んだ。
厚岸は歯舞諸島、色丹島、択捉島、国後島への玄関口であった、とつくづく感じた。
 そして厚岸の歴史の重さは松浦武四郎より近藤重蔵のような感じがした。
松浦武四郎蝦夷地探検像
 釧路市幣舞公園
 GPS参考値 北緯42度58分42秒
          東経144度23分9秒
 釧路へ行くともっぱら石川啄木で「石川啄木碑めぐりマップ」もある。が松浦武四郎はあまり知られていないようだ。
 北海道三大美橋から見える幣舞公園にエカシが指差す阿寒地方を見る松浦武四郎の像がある。
 釧路川上流を調査した安政五年から百年を記念して建てられた。
 車に乗ってうろうろと探していたらタクシーの運転手の人がナンバープレートを見て「三重県から来たのか。何を探しているのだ」と声をかけてくださって教えてもらった。
 松浦武四郎の像は小平町、天塩町、釧路市の三箇所だと思うが幣舞公園のものが一番古い。
 釧路管内の松浦武四郎関係の像・碑は同じ人によって建てられているのに驚いた。
 
松浦武四郎顕彰碑
 斜里町ウトロ 公共駐車場
 GPS参考値 北緯44度4分27秒
          東経144度59分29秒
 「ウトルチクシ。名義、岩間を舟が越る義か」の宇登呂へは何度行っただろうか。知床自然センターの講座だけでも八回参加した。その度にオロンコ岩をくりぬいたトンネルを通った所にある松浦武四郎の歌碑を見た。
「山にふし海に浮寝のうき旅も馴れれば馴れて心やすけれ」(知床日誌)のこの碑は松浦武四郎没後百年を記念して建てられた。
厳冬期にも訪れたがオーロラファンタジーの雪の下に埋まっていた。
羅臼岳を背景に立つ碑は美しい。近くに森繁久弥の知床旅情の碑がある。観光客にはこの碑のほうが人気がある。それが残念だ。
 ちなみにウトロは冬が最高だ!
 
松浦武四郎歌碑
 浜中町湯沸岬灯台からさらに海へ下がった場所
 GPS参考値 北緯43度4分37秒
          東経145度10分8秒
 「松浦武四郎の碑のある場所を知ってみえませんか」。売店の人たちにも聞いたが「知らない」と。
「かねてよりあらきしほ路きりたふの島根にたかくよする志らなミ」(納紗布日誌)岬を回ったがない。
 妻と歌の意味を考え「もっと海に近いはず」と灯台を越えて下へ。断崖の上、そこにあった。度肝を抜かれた碑であった。この碑こそ松浦武四郎の真骨頂と感じた。思わず「見付けた!」と叫んだ。人に教えてもらわずに歌の意味から考えて探しただけに感激もひとしおだった。この沖をたくさんの冒険者が通った。漂流した。郷里、伊勢・松阪の七郎兵衛も1661年にこの沖を漂流して択捉島へ漂着し、アイヌの人たちに助けられてこの沖を通って帰郷した。同じ伊勢・白子の大黒屋光太夫は1782年に太平洋を漂流してロシアに着き、1792年にこの沖を通って帰国した。
 
松浦武四郎歌碑
 弟子屈町屈斜路湖畔 池の湯露天風呂 右奥
 GPS参考値 北緯43度36分1秒
          東経144度20分55秒
 松浦武四郎は屈斜路湖に安政五年四月に辿り着いた。湖畔には七軒の家があり、「湖水に家居し風景言ん方なし」と表現している。翌日、小舟を命じて湖上から見た。「温泉に到る。・・・其所おに水乞鳥一羽居れり」とて「久寿里の湖岸のいで湯やあつからん水乞鳥の水こふて鳴く」 (久摺日誌)と詠った。
 はじめこの碑を見つけるのに苦労し土地のアイヌの友人に聞いたら、私達の先人は池の湯を生活の場にしていたから碑はそこに違いないと教えてもらった。思い出の碑であり何度も見に行った。草木が繁っている季節はすこし分かりにくい。
 
 追記 ’02、2月、友人に阿寒町阿寒湖温泉にお住まいの弟子シギ子さんが書かれた「わたしのコタン」を読ませていただいた。60年前の屈斜路コタンの生活が生き生きと描かれていて一気に読んでしまった。素晴らしい本である。この中にかっての池の湯の姿が載っていたので何人かの人に池の湯について聞いたら「今の倍くらいの広さがあった」「いっぱい噴出していて今のようにぬるくなかった」「湯に浸かったり洗濯したり冬は氷を渡って行ったり」と池の湯が生活の中に息づいていたことを教えてもらった。

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