熊野古道中辺路

R311をゆく
熊野古道中辺路
「熊野へまゐるには 紀路と伊勢路とどれ近しどれ遠し 
                 広大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も遠からず 梁塵秘抄」
 確かにそうだ。私は伊勢路はすべて歩き通し、中辺路も歩きたいと今回下調べに来たのだが、伊勢路も中辺路もすばらしかった。ことに中辺路は法皇、上皇も通られた道であるだけに旧蹟も多く、道も整備されていて、伊勢路とは趣を異にした。伊勢路はやはり伊勢へ参った後熊野へ詣でる庶民の道であることに特徴があると感じた。


1月16日
 4年ぶりだろうか、紀州路を訪れたのは。自動車道がどんどん延長されていて、思いがけぬ速さで熊野に着いたのには驚いた。花の窟やを過ぎ、七里御浜を見ながら進むとまたまた自動車道、あっというまに道の駅「なち」に着いた。その前が今日の目的地の一つ
熊野三所大神宮(浜の宮王子社)
 浜ノ宮の大楠は推定樹齢800年で誠に見事なもの。「曼荼羅のみち」の石標の横に「振分石」が立つ。ここ浜ノ宮は、熊野街道(中辺路・大辺路・伊勢路)の落ち合う中心宿駅であった。隣接する補陀洛山寺は本来はこの王子社と一体のものだったという。かの有名な補陀洛渡海は、那智の浜から生きたまま船に乗せ、入口を釘づけにして、観音の浄土、補陀洛山に往生しようとする宗教儀礼で、ここから多くの行者が渡海した。渡海した上人25人の名が刻まれていた。実際にはもっと多いそうだ。山の上に渡海上人の墓があったので登ってお参りした。近くに平維盛供養塔があった。平家物語には維盛はここから入水したとある。紀州はさまざまの伝説が残る歴史の舞台であった。
那智の大滝(飛瀧神社)
 世界遺産・熊野那智大社や西国第一番札所として名高い古刹・那智山青岸渡寺は何度も訪れたことがあり、今日は紀伊半島を回りこみ田辺まで行きたかったので参拝を諦め、3年ほど前の台風の被害が気になっていたので那智の滝までいった。滝は冬場でやや水量が少ないもののどうどうと音を響かせ圧倒的な存在感で流れ落ちていた。落差133m日本一の大滝で、飛瀧神社のご神体である。滝の流れ落ちるあたりの河原が大岩ですごく荒れていたので、神官さんに伺うと「滝の落差は以前と変わらない」とのことであった。
 那智勝浦に戻り、太地を過ぎ、紀伊半島の先端へ。つまりここは、熊野古道大辺路である。
橋杭の立岩
 伝説がある。弘法大師と天邪鬼が旅したとき、我こそは世界一の知恵者であると自負している天邪鬼が、弘法太師の偉大さに圧倒され、鼻をあかしてやろうと「一晩で串本と大島の間に橋を架ける競争をしよう」ともちかけた。日が暮れて、弘法太師は、山から何万貫あるかわからない巨岩をひょいと担いできて海中に立てていき、2、3時間のうちに橋杭がずらりと並んだ。夜明けまでに立派な橋ができるとあわてた天邪鬼は、「コケコッコー」と鶏の鳴きまねをした。弘法太師は夜が明けたと思い、仕事を中止した。そのときの橋杭の巨岩が今も残ると伝えられている。
潮岬
 本州最南端、何度か車中泊した懐かしい地である。オーストラリア海域において真珠貝等の採取に従事して、不幸にも亡くなられた串本町出身者等の霊を慰めるための慰霊碑が建っていた。
 リヴァージュ・スパひきかわ「渚の湯」で、温泉と夕食を楽しみ、近くの道の駅「志原海岸」で車中泊。今回は乗用車できた。車の中に厚いコンパネで組立式のベットをつくり、二人で足を伸ばして充分に寝られるスペースが作れるように工夫してある。布団や毛布も積み込んできたので快適である。
 
  
1月17日
 白浜温泉にはいり、道の駅「椿はなの湯」、ここも温泉つきの道の駅である。田辺に入る。
闘鶏神社
 熊野水軍の統率者である熊野別当湛増(弁慶の父)が社前で紅白の鶏を闘わせ白鶏が勝ったので源氏に味方して屋島壇の浦の戦に源氏を援けたことからこの名がついたという神社。馬場があり、流鏑馬や競馬が江戸時代から行われていた。後ろの仮庵山は、うっそうとした自然林で、巨大な楠が大きく枝を広げていた。明治の頃に枯損木と偽り切り倒されてしまった。これ以上の伐採を中止させようと、南方熊楠は関係者を厳しく批判し抗議している。氏は仮庵山を「クラガリ山」と呼び「当県で平地にはちょっと見られぬ密林なり」と評価している。ここだけでなく熊楠翁のお蔭で中辺路の各所に、照葉樹林の森が残っていたのには驚き感動した。また熊野には平家伝説の多いのにも驚いた。
田辺の道標
 大きな弁慶像の立つ田辺駅前の案内所で、市街地に立つ三つの道標の正確な位置を教えてもらい、細い路地を入った。キャンピングカーでなく乗用車で来たのは山中とこうした道を走るためである。まずは、大辺路と中辺路の分岐点である商店街にある道分け石。立派な道標で「左 くまの道 右 きみゐ寺」と記されている。続いて本町の道標。これは珍しい六角形の道標で左右に刻まれた文字が同時によく見える。そして旧会津橋たもとの道標である。
出立王子(若一王子社 田部王子)
 熊野九十九王子は、京都から熊野三山に至る難行苦行の信仰の道をつなぐために設けられた神社。熊野権現の御子神を祀る分社で、水垢離、潮垢離等の禊により身を清め、心新たに熊野の地を遥拝し、また和歌会や里神楽等の法楽を行い旅の安全を祈願する場であった。九十九王子は実数ではなく数の多い意。出立王子は中辺路最初の王子で、いよいよここから熊野の山々を本宮へと分け入る。私たちは中辺路にほぼ沿ってはしるR311を車で進みながらできる限り中辺路の山道に入ったり歩いたりしたいと考えている。
高山寺
 本堂は修復工事中であったが、二重の塔の美しいお寺であった。またここには高山寺貝塚(国指定史跡)もあった。さらに墓地には、田辺出身の博物学者・南方熊楠翁の墓所があり、詣でた。合気道開創植芝盛平翁之碑もあった。秋津王子はこのあたりと思われる所を走ったが見つけられなかった。会津小学校、須佐神社、天王池までは確かに見たのだが、曲がりそこなって、気づいた時は万呂王子を通り過ぎていた。三栖廃寺跡への道を分け、左会津川を渡って
報恩寺(善光寺)
 巨大な蘇鉄のある立派なお寺。寺域案内を見ると三栖王子跡が出ていたが入口を見るとかなりの山道が続くらしいので諦め、参道を下りると道標が立っており、熊野古道の標識もある。300mほど上って丘の上に出た。下に川と集落の美しい景色が広がっていた。ここからは下り、しばらく進んだが三栖王子跡の石標は見当たらずこれまた諦めた。やはり歩かなければだめだと痛感した。新岡坂トンネルを抜け少し下ると
八上王子(八上神社)
 境内に「待ちきつる八上のさくらさきにけり  あらくおろすな三栖の山風」と刻まれた西行歌碑があった。
 南方熊楠ゆかりで、大賀ハスの咲く田中神社を過ぎR311の稲葉根トンネルを過ぎると、稲葉根王子の標識
稲葉根王子
 昔の旅人が聖水と崇めた富田川(岩田川)沿いに鎮座する。この王子は熊野九十九王子の中でも格式の高い五躰王子の一つで、熊野詣での際はここで馬を降り、水垢離場でみそぎをすることで今までの罪がすべて消えると信じられていたという。
 R311へ戻って進んだので対岸の一ノ瀬王子には行けなかった。また国道沿いにあるという鮎川王子も見落とした。
 道の駅「ふるさとセンター大塔」でしばらく休憩し、郷土料理のめはりずしと根菜汁を食す。赤いつり橋があったので渡ってみた。おもしろい案内板があったので、安珍清姫の物語で知られる清姫の墓にも行ってみた。
瀧尻王子
 ここも五躰王子の一社である。「おもひやるかものうはけのいかならむ しもさへわたる山河の水」との後鳥羽上皇の歌碑があった。ウォーキングを終えたらしい一団が休憩していた。道路を挟んだ前にある熊野古道館へも立ち寄ってみた。
 
富田川を遡ってきた古道は、滝尻を境に尾根伝いの道に変わる。本宮への道中で一番標高の高い悪四郎山の山腹を抜け、中辺路の中継地、近露へ向う。途中に、乳岩・胎内くぐり不寝王子高原熊野神社大門王子十丈王子大坂本王子などあるが、勿論辿れない。R311を新逢坂トンネルで越え、すぐの道を旧道へと進む。橋のたもとに牛馬童子像があった。箸折峠を越えると、
近露王子
 花山法王が箸折峠で萱を折って箸にした際、萱から赤い汁が出て「血か、露か」と尋ねたのが起源とされる。日置川のほとりにこんもりとした木立に囲まれた王子跡があり「近露王子之跡」の大きな石碑が立っていた。ここは古くから宿所として栄えた所であり、禊の場として重要であったという。
 近くの方に道を尋ねると、細い道ながら簡易舗装がしてあり、小広王子までは車で行けるとのこと、それはありがたいと出発。近野小、中学校、近野神社を過ぎ、山道に入る。確かに細いが通れる。ところが途中山崩れの場所があり通行止めになっていた。やむなく引き返す。すぐに脇道が見つかり
野中の清水
 名水百選に選ばれた清水である。熊野路を歩く旅人がわざわざ道から降りてきてのどをうるおしたという。「すみかねて道まで出るか山しみづ」の服部嵐雪の句碑、「いにしへのすめらみことも中辺路を越えたまひたりのこる真清水」の斉藤茂吉の歌碑があった。
 さらに進むと左に鋭角に曲がる道があり、つまり戻るかたちで街道になっている。車いっぱいいっぱいの道ながら、途中からは石畳になっている。真冬のしかもこんな夕暮れ時であったから通れたもののこのタイミングでなければとても無理。
継桜王子
 奥州の藤原秀衡夫妻が熊野参りをした時、滝尻の岩屋で出産し、その子を乳岩に残してここ野中まで来て、杖にしていた桜の木を地につきさし、子の無事を願ったとされ、その木が成長したのが秀衡桜だとされる。明治の中頃まで継桜王子の社前にあり、古くから名木として知られていた。藤原宗忠の日記(中右記)に、道の左辺にあるツギザクラの樹は、本はヒノキで誠に希なものだとしるされていて、その桜が秀衡伝説に結びついたものとみられるとある。残念ながら桜は台風で倒れたようで今はない。
継桜王子社は高い石段を上った上にあった。このあたりはうっそうとした樹齢100年を越える杉林であったが、多くが伐採されたそうで、南方熊楠翁の保存運動のお蔭で、ようやく9本が残されたそうだ。それが南側にのみ枝を広げる野中の一方杉である。因みに枝の指し示す方向に熊野本宮大社がある。とがの木茶屋も残っていた。さらに進めば車でも比曽原王子まで行けるとのことだが、さすがに遠慮した。
 下って、さらに山道をいくと、中ノ河王子。王子社跡はさらに山道を上ったところにあるらしいが、途中まで上ったが辿りつけなかった。古道をさらに進み、小広峠のすぐ下に小広王子跡。上部が欠け「王子」の文字だけ残った小さな石碑が立っていた。
 いよいよここから山道は険しくなる。中辺路で最も険しい地域だそうだ。ついでながら私たちはかつて、この先の古道を発心門王子から、水呑王子伏拝王子祓戸王子と辿り、熊野本宮大社まで歩いたことがある。今回は、R311に戻り、熊野本宮大社へ。
熊野本宮大社
 古代の創祀以来、大斎原に鎮座していたが、明治22年の水害後、上四社3棟を現在地に移築した大社。ようやく到着した時はすでに暗く、前にもこんな時間にお参りしたことがあったが、今回は熊野本宮大社の幟が林立する大鳥居の前までとした。鳥居下にタイトル下に記した「梁塵秘抄」が掲げてあった。
川湯温泉千人風呂
 今日の予定では、湯峯温泉にも入り、川湯温泉もと欲張っていたが、如何せん時間が・・・それだけ今日が充実していたということだろう。そういうわけで、川湯温泉、文字通り湯の湧く川を堰き止めた広大な温泉の川。千人どころの話ではない。久しぶりに来たが、以前は車で埋まっていた河原ががらがら。時間帯もあったのだろうが温泉に入っているのは最初私たち二人だけ。でもいい湯だな。のんびりと楽しんだ。
 ひたすら走って、紀伊勝浦へ。勝浦で、地元産のネタをつかったにぎり鮨。おいしかったなあ。そして道の駅「なち」 ここに戻ったのは温泉つきの道の駅だから。寝る前に、温泉で温まって。 
1月18日
 今日も晴れ渡った。そういえば3日間ともいい天気。勝浦港をぐるりとまわる。残念ながら朝市(にぎわい市)は日曜日だけとのこと。
熊野速玉大社
 今日は時間にゆとりがあったので、熊野三山ではじめてゆっくりとお参りした。朱塗りの美しい神社である。神木とされる天然記念物「ナギの木」は高さ20m、わが国最大のなぎの巨木である。ここにも「梁塵秘抄」の石碑が建っていた。
神倉神社(ゴトビキ岩)
 前から上りたいと願っていた神倉神社に今日こそ。とはいうものの大鳥居の前に立つと、画像ではそうは見えないが、石段がそそり立っている。いやほんと!! しかも大きな石で一段一段が高く、538段あるとのこと。痛い足を杖にすがりやっとの思いで200段ほど上った。そこで毎日上っているという地元の方々と話をした。なかには駆け足で上っていかれる人もある。「いやあー、ここまで上ったらもう上りきったようなもの。ここからはだんだんゆるくなる。あまりのえらさにここで諦め引き返す人もあるが、がんばって上りきれ。」と励まされ再び上り始める。いわれたように石段はゆるくなり、しかも数え方によるのだろうが400段と少し・・・なあんだ。とはいえ上りついた先の神社はなんとも見事。よくもまあこんなところに。それに下に見える新宮の町と海、ああ絶景かな、絶景かな。磐座信仰のご神体である巨大なゴトビキ岩がでんと鎮座し、太い注連縄が張り巡らされている。ここ神倉神社は熊野権現として有名な熊野速玉大社の摂社である。熊野三山の主神降臨の聖地といわれる。2月の「お燈祭り」には、松明を持った男達が大勢この石段を駆け降りるという。その下りがまた恐い。ふらつく足を踏みしめてゆっくりと確かめながら下った。
 あとは帰るだけ。道の駅「七里み浜」で昼食をとり、ひたすら来た道を戻った。久しぶりの旅であったが、楽しい3日間であった。

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