2013 北の大地にて

2013
北の大地にて
 長期に家を空けられない事情があって、今年度は・・・ 「北海道に行きたい」とのつのる思いに悶々とする日々。
 ようやく10月2日から3泊4日で、道北への旅に・・・「平成30年松浦武四郎生誕200年への会」主催の「北海道最北端地域と天塩川流域へ松浦武四郎の足跡を訪ねる旅」である。28名で出かけた。新千歳空港に降り立ったとき、やっと北の大地を踏むことができた感激に胸が熱くなった。・・・ああ北海道はいいなあ!!
 2回めは11月2日から11月6日まで。帯広で所用があり、そこから少し足を延した。今年最後の北海道と思うと離れ難い気持ちがあふれた。


10月7日
 気を揉んだ台風24号接近によるフェリーの欠航もなく無事に6時発のフェリーに乗り込んだ。北海道に少しも早く着いて充実した一日をと、今朝は4時10分家を出、津なぎさ港の始発に乗ったのだった。新千歳空港には宗谷バスが待っていた。道央道を走り、砂川SAでお弁当を積み込んで、深川から留萌へ。日本海に沿って北上し、小平へ。
小平道の駅
 トワイライトアーチの横に松浦武四郎像と歌碑が立っていた。松浦武四郎は6度の蝦夷地探査のうち2,4,5,6回の4度ここを通っている。この像は何回めのものか・・・2回めは医者の従者であったが、この像は刀を差しているから幕臣となった4回め以降の姿である。幕府お雇いともなれば、着るもの、持ち物はすべて定められていた。例えば、伴天、股引、茶碗ひとつ、箸一膳、各々懐中になど。そして武四郎の伴天の裾にはアイヌ紋様が・・・
 名にも似ず すがたやさしき 女郎花 
          なまめき立る おにしかの里
 ここでは、「三船遭難慰霊之碑」を見て、戦後、樺太からの引揚船3艘がソ連の潜水艦に撃沈されたこと、乗り合わせた横綱大鵬の幼い頃のことなど説明があった。碑文には「・・・千七百八名の尊き生命を奪われる 留別の地樺太を脱し数刻夢に描きし故山を目睫にしてこの惨禍に遭う悲惨の極みなり 星霜ここに三十年我等同胞慟哭の海に向い霊鎮まらんことを祈りつつこの碑を建つ」と記されている。
 花田鰊番屋はあいにく月曜休館日で残念。
天塩川河口鏡沼海浜公園
 ここでも「松浦武四郎像と歌碑」を。武四郎像は道内3箇所にあるが、私はこの像が最も好きである。
 蝦夷人の みそぎなしける天塩川
         今宵ぞ夏のとまりをば知る
 ながむれば 渚ましろに 成にけり
          てしほの濱の 雪の夕暮
 武四郎の手を翳す彼方にうっすらと利尻富士の姿を目にすることができた。
   
 バスはどこまでも真っ直ぐな道オロロンラインをひた走る。車窓からオトンルイの風車群を眺め、
北半球のど真ん中北緯45度
 何もない、ただ大きな「N」のモニュメントだけ。それがまたいい。広大な湿原と日本海が広がる。その向うにさっきより大きくなった利尻富士が。
稚咲内 砂の駅 松浦武四郎止宿所跡
 アイヌ語地名 稚咲内の意味「飲み水に適さない水」を聞く。
 車中でもアイヌ語地名と車窓より見える現地の様子を観察。抜海岩が見えてきた。この港から松浦武四郎は、利尻・礼文へ渡ったという。
稚内
 ノシャップ岬へは4時40分に着き、夕日はまだ空にあったが、雲が多く夕陽のすばらしいノシャップとはいかなかった。それでも今日は雨の確率も30%であったのに、晴れ間の多い天候で、雨にもあわず幸運であった。
 次いで、JR最北端駅である稚内駅で記念入場券をゲット。さらに北海道遺産である稚内港北防波堤ドームを見学。樺太への渡航港(稚泊航路)であった往時に思いを馳せた。灯りのついたドームは幻想的であった。
 稚内全日空ホテル泊。     
10月8日
 昨日と打って変わっての好天、青空が広がる。先ずは稚内公園に。開基百年記念塔に上り360度の絶景を楽しむ。北方記念館に、伊勢出身の村上島之丞(秦檍丸)の展示があったのは嬉しかった。間宮林蔵の師であり、「蝦夷島奇観」の作者である。樺太を臨んで立つ氷雪の門、九人の乙女の碑(真岡郵便電信局事件慰霊碑)、南極観測樺太犬記念碑、樺太犬供養塔、樺太師範学校教学の碑、測量の碑、ユニークなマンホールの蓋などを見て歩いた。コルチカムがたくさん咲いていてきれいだった。戦争が身近かに感じられた。
 声問の「松浦武四郎宿営の地」標は車窓から。これまた北海道遺産である宗谷丘陵の丘の上を走る。広大な牧草地が広がり、たくさんの風車群が見渡せる。突然眼前に海が広がった。宗谷岬平和公園である。バスを降りると吹き飛ばされそうな強い風、北の大地に立ったことを実感する。最北端の地の向うに広がる真っ青な海、立つ白波、何度もこの地に立ったがこんな素晴らしい海ははじめてで感動。宗谷岬灯台(最北の灯台)、旧海軍望楼、祈りの塔(サハリン沖で起きた大韓航空撃墜事件の慰霊碑)、あけぼの像、平和の碑と宗谷海域戦没者慰霊碑、世界平和の鐘、子育て平和の鐘、宮沢賢治文学碑、ラ・ペルーズ顕彰記念碑、少し離れてゲストハウス・アルメリアなどを見た。
宗谷岬(日本最北端地)
 北緯45度31分22秒。とうとう最北端地に着いた。「日本最北端到達証明」を購入。最北端モニュメントの前で記念撮影、はるばるやってきた記念にみんなで歌を歌う。「間宮林蔵立像」の前でもパチリ。
 バスは一路オホーツク海側を南下、
猿払道の駅 「松浦武四郎宿営の地」標
 ほたて尽くしの昼食を堪能し、道の向うの「松浦武四郎宿営の地」標、ほたての化石群、いさりの碑、「インディギルカ遭難慰霊碑」・・・ロシアの遭難船をおきてを破って地元民が命がけで救ったと聞くと、三船遭難との比較を思い起こさざるを得ない。
 オホーツクの海を眺めながら3度通ったという武四郎の旅を思う。
浜頓別町 クッチャロ湖
 武四郎に熱い思いを抱く漁師さんの話を聞き、水鳥観察館を見学。湖にはすでにたくさんの白鳥が飛来していた。
 その後、バスもほとんど通ったことがないという知駒峠を越えて、中川町へ。
天塩川パンケナイ川
 中川町のNPO「ECOの声」の方と町役場の方のご案内で、鮭の遡上を見学。私たちはいつも2人で来るので、その時は鮭が折り重なるように上り感激するのだが、今日はあまりの人影に驚いたのか、時期が少し遅かったのかいつもより数が少なかった。それでも命を繋ぐ営みは感動的である。
 この後中川町長を表敬訪問し、中川ポンピラ・アクア・リズイングに宿をとる。この夜は、中川町長・役場の人・NPOの人たちが歓迎会を催してくださり、ほんとうに楽しい一夜を過ごすことができた。
10月9日
「北海道命名之地」標
 約20年前、現中川町長川口さん、現音威子府村長佐近さんらが中心となって、天塩川ルネッサンス会議を立ち上げ、天塩川流域13市町村が一丸となって地域の活性化の活動に取り組んだ。その一つの活動として、松浦武四郎に着目し、この地に、「北海道命名之地」標柱が建てられた。その標柱は、ルネッサンス会議議長の川口さんの揮毫によるものであった。天塩川のビデオを見ていて偶然そのことを知り、12〜3年前川口さんに連絡をとり、当時のエピソードなど聞かせていただいた。川口町長とはそれ以来親しくお付き合いをしていただいている。カヌーツーリング・「ダウン・ザ・テッシ・オ・ペツ」もその活動の中で生まれた。2011年、その木標が佐近音威子府村長を中心に新しく建てかえられた。その除幕式にも参加させていただいたが、佐近村長と川口町長が、「懐かしいね」「若かったね」「昔はよかったね」などしみじみ語っておられたのが印象的であった。ちなみに新しい標柱は、高橋はるみ北海道知事の揮毫になるものである。
 松浦武四郎が「北加伊道」の名を提言したもとは、まさにこの地に住んでいたアエトモの話による。実際にアエトモの住んでいたコタンはこの対岸らしいが。「蝦夷地道名之儀勘辧申上候書付」によると「北加伊道 夷人自呼其国日加伊 加伊蓋其地名・・・」 加伊はその土地に住む者、つまり「北海道は、北のアイヌ民族の住む大地」であったのだ。
 ここで、佐近村長からこの地、標柱建設の経緯を話していただく。
砂澤ビッキ記念館
 館長・学芸員さんに詳しく説明していただきながら見学。記念館の前には「「松浦武四郎天塩川歴史紀行」の大きな案内板が設置されていた。これは名寄河川局が設置したもので、天塩川流域に15あるそうだ。松浦判官聴仏法僧の地(たぶんアエトモの住むコタンはこのあたりだっただろう地)は、道路工事中で行けなかった。
 その後、道の駅に寄り、天塩川温泉へ。ここで、音威子府名物黒いそばと山菜尽くしのお弁当をいただき、佐近村長の「松浦武四郎と町づくり」の講演を聞かせていただく。少し時間があったので、温泉も楽しんだ。
松浦武四郎宿営之地
 ここからは美深町郷土史研究会のみなさんにご案内いただいて、美深の武四郎の足跡を訪ねた。
 恩根内に立つ石碑は、裏面が英文で刻まれている珍しいものであった。ここには、松浦武四郎とアイヌの人々との心温まるエピソードがある。「近世蝦夷人物誌」から紹介する。「・・・扨其方は今難儀なりとも大勢の子供有しが、我は當年にて四十歳に成りたれども未だ妻も子供もなしと申せしかば、大に驚き其こそ心もと無るべしと憂ひ、しばし過てニシバは何處なる哉と問が故に、我は江戸といへる處にて松前よりも三十日も懸らでは行難き處なりと答ふるに、エカシテカニ大に驚き嗚呼それは残念なる事なり、若し二日か三日位にて往る處なりせばニシバは此邊りの和人とは大に違ひて心よき人なりければ、我が此十人の内を壹人ニシバの子供に遣るべきをや。餘り餘りに遠き處なりせば遣ることはなりがたしと、我が妻子の無ことを語りしを歎じて呉たるぞうれし。其一言余が鐵心石腸にも錐もみする如くに徹しける故に、あまり蕪雑に距りてこと長けれどもしるし置侍りぬ。」
 バスの車窓から天塩の名の由来であるテッシを見、美深温泉へ。ここでもテッシの説明を聞く。
チョウザメ館
 武四郎が探査した時代には天塩川にもたくさんのチョウザメがいたが、いつの頃か絶滅した。そこで美深では、三重県の水産研究所が孵化したものを取り寄せ、今ではたくさんのチョウザメが孵化・養殖されている。この卵がキャビアである。
松浦武四郎踏査之地と歌碑
 温泉の前に立派な歌碑が建っている。
 えみしらは笥にもる飯も古の
        さまをつたえて葉椀にぞもる
 かきならす五つの緒ごと音さえて
        千々の思いをわれもひきけり
 下の和歌は、エカシテカニの奥さんが別れを惜しんで弾いてくれた五弦の琴(トンコリ)のことを詠ったものだから、本来なら先の宿営の地に立てるべきものである。
 この夜は、美深町の山口町長や役場のみなさん、私たちがカヌー大会でいつもたいへんお世話になるカヌー大会事務局長の草野さん、郷土史研究会のみなさんが、懇親会を開いてくださった。
10月10日
北国博物館
 野外に堂々たるSL排雪列車キマロキが展示されている博物館に入る。名寄市教育委員会鈴木教育部長(前北国博物館館長)のお出迎えを受け、館内を詳しく説明していただいた。寒冷・多雪と明瞭な四季のある名寄の自然と歴史について学べる充実した博物館であった。
 名寄については、加藤市長を表敬訪問する予定であったが、前もって不在との連絡をいただいていたので、山中光茂松阪市長からお預かりした親書のみお渡しした。
 名寄を去るにあたり、道の駅に。伊勢の名物「赤福」は、ここの餅米を使用しているという米どころ。たくさんの種類のお餅が売られていた。
 旭川に出、旅の締めくくりは旭川ラーメン村。それぞれ好みの店でラーメンを楽しんだ。
旭川市博物館
 さすが旭川の素晴らしい博物館である。ことに先住の民アイヌの歴史と文化について詳細な展示があった。開館20周年記念事業として「プリモーリェ<ロシア沿海州>の森 デルス・ウザーラ絵物語展」の案内があった。11月2日からである。ぜひ観にきたいと思った。
 出発のときから24号はうまくかわせたが、台風26号が帰りの航路を直撃するのではないかと心配していたのだが、旭川空港は穏やかな秋晴れであった。
 
11月2日
 3時10分の飛行機に乗り、4時50分新千歳空港着。レンタカーで、道東道を走る。ところが交通事故で、占冠、トマム間が閉鎖されており一般道へ。夜間に一般道はつらい。でも日勝峠越えでなかったことだけでよしとしなければ・・・帯広のふく井ホテルに着いたのは10時であった。北海道では10日ほど前初雪、しかも大雪であったと聞いたが、路上に雪は残っていなかった。
11月3日
 午前中、帯広百年記念館へ。ここは何度も訪れたことがあるが、すばらしい記念館である。画像は、記念館そばの池。真っ赤な紅葉が目に染みた。北海道はすっかり秋。続いて公園内の北海道立帯広美術館へ。特別展は、「日本のアニメーション美術の創造者・山本二三−天空の城ラピュタ、火垂るの墓、時をかける少女ー展」であった。アニメーションの世界のすばらしさ、奥深さに魅せられた。
 午後は、とかちプラザであった「大津・十勝川学会」で、夫が「松浦武四郎と十勝ー北海道旅歩きの現場からー」との演題で話をさせていただいた。遠く屈斜路から友人が3人聞きに来てくださったのには驚き、感謝であった。
 ふく井ホテル連泊。
11月4日
 朝の帯広を散策。画像は帯広駅前のモニュメント。生活館でしばし歓談し、柳月に寄ってから、音更ICから道東道を足寄まで。心地よい快晴である。カラマツ林が見事に黄葉し、早くも晩秋の感深い北海道に酔う。足寄から一路阿寒へ。冠雪している雌阿寒岳が見えてきた。道端のナナカマドの赤い実が目に染みる。足寄峠には残雪があった。久しぶりの阿寒で、友人、知人と2時間ほど旧交を温める。雪の残る横断道路を走り、やっとたどり着いた私の心の故郷・屈斜路。なつかしい友人たちと話し込む。今夜の宿・屈斜路プリンスホテルでも。
11月5日
 プリンスホテルの窓から屈斜路の秋を楽しむ。画像は、黄葉した湖畔の木立と屈斜路湖ホテル内の池の白鳥津別峠方面の黄葉した山々。どこに行っても別れは寂しい。しかしまた来ればよいと納得させる。が、屈斜路は格別である。ほんとうにまた来れるだろうか? 心残りの多い屈斜路である。屈斜路はいい!! 
 美幌峠を越え、ひたすら丸瀬布への路を走る。思いがけず早く着いたので、図書館で秋葉實先生の蔵書や資料を見せていただく。秋葉先生と知人女性お二人と五人で落合いいつも連れていただくマウレ山荘へ。ところがあいにく今日は改装中で、やむなく遠軽に戻り食事をご馳走になる。先生は87歳におなりだが、なによりお元気で、歓談させていただいたのが嬉しかった。再会を約束しお別れした。
 丸瀬布から道央道を走り、旭川へ。今夜はいつもお世話になる上富良野の「旅の宿・ステラ」で。夜、連れていただいた標高1200mにあるカミホロ荘の温泉はまさしく秘境ともいえるすてきな温泉であった。
11月6日
 旭川博物館へ。ここは10月にも来たのだが、「プリモーリェ<ロシア沿海州>の森 デルス・ウザーラ絵物語展」を見たくて再び訪れた。デルス・ウザーラの世界は思い描いた以上に素晴らしく魅了された。館の外に朱い実をたわわにつけたナナカマドの木が数本あり美しかった
 道央道を北広島でおり、旧島松駅逓を訪れた。室蘭街道の最も古い駅逓であるがすでに今年は閉館していた。「寒地稲作この地に始まる」の碑が建っていた。また明治10年4月16日、札幌農学校教頭ウイリアムスミスクラークが学生や職員と訣別した地で、それを記念して「青年よ大志を懐け」のモニュメントが建っている。裏の山に分け入ると敷地はかなり広く紅葉が美しかった
 新千歳空港に戻り、3時15分北海道を後にした。来年必ず来るからね!!
 ちなみにこの2,3日後、北海道は大雪に見舞われたとか。

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