歴史と文化を訪ねて ぐるっと歩いて琵琶湖一周

歴史と文化を訪ねて
ぐるっと歩いて琵琶湖一周
 人生も ことに元気で動きまわれるのはあとわずかだというのに、町の役がまわってきて、長期に家を空けることができなくなった。なんとも残念である。
 そこで「後期高齢者」突入前後を機会に2人で、比較的近距離にある「琵琶湖一周ウォーキング」(ビワイチ)に挑戦することにした。
 私たちの頭の中の琵琶湖といえば、湖南の「近江京、壬申の乱」、湖東の「琵琶湖を制する者は天下を制するといわれた戦国大名の覇権の地」、そして湖西の「物資を京都へ、京都から文化を運んだ若狭街道と宗教の地」である。この短絡的な把握でも、琵琶湖畔は常に京を向いていて、東へ怒涛の如く攻め入った場所とはならなかった。だから琵琶湖畔は他の湖よりも一層自然の美しさ豊かさ以上に、歴史と民俗の豊かさを包含しているに違いない。これを確かめるために琵琶湖一周を歩くことにした。
 「花咲きてまた立出ん旅心 七十八十路身は老いぬとも 松浦武四郎」の心境である。

 「落花の雪に踏み迷ふ、片野の春の桜狩り、紅葉の錦着て帰る、嵐の山の秋の暮れ、・・・憂きをばとめぬ相坂の、関の清水に袖ぬれて、末は山路を打ち出の浜、沖を遥かに見渡せば、塩ならぬ海にこがれ行く、身を浮き舟の浮き沈み、駒もとどろと踏み鳴らす、瀬田の長橋打ち渡り。行きかふ人に近江路や、世のうねの野に鳴く鶴も、子を思ふかと哀れ也。」(太平記巻第二「俊基朝臣再関東下向事」) 道行文の名文の一節である。この瀬田の唐橋(宇治橋、山崎橋とならんで日本三名橋、日本三古橋の一つであり、日本の道100選にも選ばれている。)から歩き始めることにする。

瀬田の唐橋から大津港 4月16日
 大津港前に車を置き、京阪電鉄で唐橋前駅へ。そこから唐橋は近い。瀬田川にかかる唐橋は、勢田の唐橋とも書き、瀬田の長橋とも言われる。瀬田川にかかる唯一の橋であったため、京都防衛上の重要地であった。近江八景「瀬田の夕照」に描かれて、多くの文学作品に登場し、古くから有名な橋である。このあたり見るべきものが多い。壬申の乱、藤原仲麻呂の乱の舞台、俵藤太・藤原秀郷の百足退治伝説、木曽義仲の戦死、承久の乱、本能寺の変にかかわるなど歴史上重要な地である。雲住寺、橋守地蔵などを訪ねる。
 国道1号線、東海道本線の下を潜り、どこからが瀬田川だったのかよくわからなかったが、琵琶湖に沿って御殿浜、瓦ケ浜を歩く。「昭和16年、旧制第四高等学校漕艇部員が琵琶湖高島町沖で突然の比良颪に遭遇し全員11名の尊い命が奪われた。四高同窓会はその遭難地点高島町萩の浜に「四高桜」の碑を建て桜千本を植えその霊を弔った。」とあり、碑が建っていた。やがて膳所城跡、立派な広い公園になっており、三等三角点もあった。近江大橋を越えると、なぎさ公園。ここを北緯35度線が通る。水と緑に親しむ施設で、粟津から浜大津までの湖岸一帯をさすという。膳所・晴嵐の道、サンシャインビーチ、市民プラザ、なぎさのプロムナード、打出の森、おまつり広場などが整備されている。滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールも見える。散策する人、釣り糸をたれる人も多く、公園には花が植えられている。ちょうど芝桜が満開でたいへんきれいだった。また立派な常夜燈も建っていた。
大津から雄琴温泉 4月17日
 雄琴温泉駅の近くに車を置き、JRで大津まで。まずは大津の街中を歩き大津港まで。かつて北国と畿内を結ぶ物資の湖上交通の要所として、豊臣秀吉は大津港に大津百艚船仲間を作り、北国物資の集散地として栄えた港である。ここから湖畔を歩くよりかなり距離は遠くなるが、西側の山手の道を行くことにした。大津城跡を見、琵琶湖疎水を渡って三井寺へ。ここは後日訪れることにして、私たちは大津市歴史博物館を見学した。
近江大津宮錦織遺跡 西暦667年、天智天皇は新羅・唐の連合軍と対戦した白村江の戦いが敗北に終った後、突然都を飛鳥から近江に移した。この近江に営まれた宮が大津宮。天智天皇は律令制に基づいた天皇を中心とする統一国家を作ろうとしたが、遷都後わずか5年でこの世を去り、その後に起きた壬申の乱によって大津京自体も廃墟となってしまった。柿本人麻呂の歌碑が立っていた。
皇子山古墳を経て
近江神宮 近江造と呼ばれる新しい様式で、数多くの優れた近代神社建築を手がけた旧内務省神社局の総決算といわれる社殿である。「さゞ浪や志賀のみやこはあれにしをむかしながらの山ざくらかな 平忠度」「近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ 柿本人麻呂」「秋の田のかりほのいほの苫を荒み わが衣手は露に濡れつゝ 天智天皇」「ささなみの国つ御神の心さびて荒れたる京見れば悲しも 高市黒人」、その他藤原鎌足、額田王などたくさんの歌碑があった。
 南滋賀町廃寺跡を経て、ゆるやかだが長い長い上り坂を延々と歩く。穴太を過ぎようやく坂本へ。
坂本 比叡山延暦寺の門前町ととして栄えた。小堀遠州作として有名な庭園を持つ滋賀院門跡があり、一帯は国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。また穴大衆と呼ばれる城の石垣などを作った石工集団の出身地であり、里坊の石垣は自然石を巧みに積み上げた堅固なもので白壁の塀と調和してしっとりと落ち着いた雰囲気を漂わせている。その町並みを散策した。おりしもしだれ桜が満開で美しかった。
 雄琴温泉駅に着き、ここから車で「スパリゾート雄琴あがりゃんせ」で疲れを癒し、「道の駅びわ湖大橋米プラザ」で泊。翌朝の琵琶湖の日の出は幻想的で素晴らしかった。
4月22日 歩いているときは立ち寄れなかった場所を車で廻ることにした。
三井寺(園城寺) 天台寺門宗の総本山、境内には天智・天武・持統の3帝の御産湯に用いられた閼伽井と呼ぶ井戸があり「御井の寺」と呼ばれている。国宝の金堂を始め釈迦堂、三重塔、唐院など諸堂が建ち並び、国宝、重要文化財は100余点を数えるという。私たちはさらに、松浦武四郎が吉野から熊野を結ぶ修験道の修行路である大峰奥駆を踏破したときに用いた鉄鍋を埋めたという「なべ塚」まで登った。何年ぶりであったろう。
唐崎神社(唐崎の松) ちょうど歩かなかった湖岸の道路を車で北上した。江戸時代、大津札の辻から敦賀に向う主要な道路「北国海道」に沿った町。古くから景勝の地として数々の古歌などに取り上げられ、日吉大社西本宮にかかわる信仰や祭礼の場としても知られてきた。さらに「近江八景」の一つ「唐崎の夜雨」の老松との景観は、天下の名勝としてしばしば安藤広重らの浮世絵にも取り上げられてきた。
比叡山延暦寺 広大な寺域をもつ天台宗の総本山。世界遺産に登録されている。奈良時代末期、19歳の最澄が比叡山に登り草庵を結んだのが始まり。杉木立が深く生い茂っている比叡山中の境内は天台宗修行道場としての威厳に満ち満ちた雰囲気が漂う。しゃくなげが見事な比叡山ドライブウェイを登り、根本中堂をはじめとする東塔を隈なく歩き比叡山国宝殿も見学した。続いて西塔も。常行堂・法華堂をつなぐにない堂の趣がよく、ここから釈迦堂に下りる石段があり、中央の手すりの右側は滋賀県、左側が京都府との話もおもしろかった。ここでポーランドからきた一家と話したのも楽しかった。浄土院まで足を延ばした。さらに横川にも行った。
日吉大社 奥比叡ドライブウェイを走り、坂本に下りた。古事記等から神代に創建されたことがうかがえ、日本で最も古い神社といわれる日吉大社にも参った。国宝の東本宮は葺き替えられた檜皮葺きの誠に美しい建物であった。
 この日も歩きに歩いた。この後、翌日歩く予定の高島駅まで行ったが、疲れの上に夕方から非常に寒くなり体調を崩し、一応南下した。比良トピアの温泉で温まりさらに南下、「道の駅びわ湖大橋米プラザ」へ。実は今回の旅は、駅から駅へ歩くコースが多いが、駅の近くにはキャンピングカーが停められるような駐車場がなく、乗用車を2人が寝られるように工夫したものに乗ってきた。ドイツ製のキャンピングカーは二重窓でたいへん保温性に富んだものだが乗用車では・・・とにかく寒かった。予定のコースは距離も長く、今回は諦めてさらに南下することにした。湖岸沿いの道を走った。
坂本城址 4月23日 琵琶湖に面した水城として安土城に先行する日本で最初の石垣と瓦葺きの天守を持つ城であった。明智光秀の築城。光秀の銅像と「われならで誰かは植えむ一つ松心して吹け志賀の浦風」の歌碑が立つ。 近くの両津神社、酒井神社も訪れた。
雄琴温泉から志賀 4月18日
 志賀駅に車を置き、JRでおごと温泉駅まで。歩き始める。湖岸緑地公園を通り
浮御堂 近江八景「堅田の落雁」で有名。寺名を海門山満月寺という。平安時代、恵心僧都が湖上安全と衆生済度を祈願して建立したという。歌碑も立ち、湖上に浮かぶ御堂は美しい。堅田藩陣屋跡を通る。元禄4年(1691)、芭蕉は、十六夜の月を賞すべく、数名の門人と舟で堅田に赴いた。この夜の俳席の様を、俳文「堅田十六夜の弁」に記した。「鎖明けて月さし入れよ浮御堂」「やすやすと出でていざよふ月の雲」 この説明文の立つ公園。大きなしだれ桜越しに見る浮御堂もまた美しい。
 芭蕉歌碑、堅田港、琵琶湖の最狭部に位置する今堅田の岬の先端に明治8年に建てられた珍しい木造の「出島の灯台」を見ながら進む。
琵琶湖大橋 琵琶湖を初めて横断し、湖の東と西を直結させた有料橋。この橋で、琵琶湖は北湖と南湖に分かれる。
 その後、なるべく湖に近い道を進む。真野浜の松並木の道が心地よい。南浜、樹元神社、和邇浜、中浜とひたすら歩く。釣り人がたくさん見られた。アユ釣りだという。ブラックバスの回収箱もあちこちに置かれていた。琵琶湖水害と石垣沿(堰)堤の説明板があった。水害の歴史と、湖岸に残る石垣は、当時の人々の琵琶湖水害に対する様々な苦労の証しであると記されていた。「白鬚大明神」と刻まれた細長い古びた石燈籠も情緒があり、風景に馴染む。琵琶湖の雄大な眺めと対照的な美しさを見せる比良山系を遠くに望みながら北浜、蓬莱浜、八屋戸浜と北上する。やがて巨大な石燈籠が見えると志賀駅は近い。
 
 
                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              
 
志賀から近江高島 5月8日
 近江高島駅から電車に。駅前には大きなガリバーのモニュメントが建っている。車窓からは、きれいに石垣の積まれた棚田が見えた。志賀駅に着き歩き始める。一歩湖岸に出るとそこは松の浦、蘇鉄が植えられ南国を思わせる光景が広がる。快晴である。湖岸にはところどころに細長くて背の高い石燈籠や樹下神社御旅所などと書かれた石柱が立っている。琵琶湖の水運が盛んで各所に船着き場が設けられていたことが窺える。「初野営の地」の石標があり、日本ボーイスカウトが初めて野営をした地らしい。
雄松崎 近江舞子
 北比良の山々を背に約3kmにわたって白砂青松が続く眺めはすばらしい。琵琶湖八景にも「涼風・雄松崎の白汀」として取り上げられており、古くから風光明媚な地として知られ、数多くの万葉歌碑があった。
 「前は沖の島 左は白ひげ 右は大橋 背は比良山 ここはなごみのあゆの里 小松の浜にようこそ」の看板もおもしろい。
鮎の追いさで漁
 偶然この珍しい漁を目の前で見られたのはなんともラッキーなことであった。しかもここで舟に乗り次の場所に移動するところであったので、お話も聞くことができた。この漁は、早春から初夏にかけ、浅所の石についた藻類を食べに湖岸に接近してくるコアユの群れをカラスの羽のついた竿(ウザオ)を使って湖岸沿いに追い集め、先に待ちかまえる「さで網」の中へ追い込んで捕る漁法。30年ほど前までは私たちの住む近くの川でも行っており、夫は見たことがあったそうだ。
白鬚神社
 これまで歩いてきた道でも、白鬚神社の道標をいくつも見てきた。大きな朱い鳥居と社殿がいきなり現れる。湖中にも鮮やかで巨大な朱塗りの鳥居。湖岸には舟で訪れ参詣するための鳥居が各所に見られるが、中でもこの白鬚神社の鳥居はずばぬけて大きい。近江最古の大社で、慶長8(1603)年、豊臣秀頼、淀君が建立したもの。さらに一段高いところにも社殿が並び、芭蕉句碑があるなど見るべきものが多い。
鵜川四十八体石仏群
 室町時代後期に観音寺城城主の佐々木六角義賢が亡き母の菩提を弔うため観音寺から見てちょうど対岸にあたる鵜川に建立したもの。東を向いて静かに並んで座っている石仏は、慈愛に満ちた顔、あどけない顔、ユーモラスな顔などおもしろい。
大溝城址
 石垣に囲まれた小高い森が大溝城の天守台跡。織田信澄が天正6(1578)年に築城、商家や寺院などを移して城下町を造った。本丸の南東の洞海(乙女ケ池)は琵琶湖の内湖で、これを外堀とする水城であった。
 高島駅に到着し、その後車で高島歴史民俗資料館や稲荷山古墳を訪れた。近くに近藤重蔵の墓所もあったのだが疲れたのでまたの機会に。一軒宿の「宝船温泉湯元ことぶき」の鄙びた露天風呂を楽しみ、この日は「道の駅しんあさひ風車村」泊の予定であったが、人里離れあまりにも静かであったので、「道の駅藤樹の里あどがわ」に戻り泊。
中江藤樹の里 安曇川町
 5月7日 この里を訪れた。中江藤樹は江戸時代初期の儒学者。晩年、中国明代の儒学者王陽明のとなえた「致良知」の説を最高の教学として示したことから「日本陽明学の祖」とされている。また数多くの徳行によって「藤樹先生」と親しまれ、没後には「近江聖人」と讃えられる。藤樹記念館、藤樹神社、墓所、藤樹書院などを見学。近くにいかにも中国風のお庭もあった。
近江高島から琵琶湖周航の歌資料館
                       5月9日
 今日も快晴。近江今津駅近くの駐車場に車を入れ、電車で近江高島駅まで。高島の旧街道を歩く。杉玉を下げた造り酒屋など旧家が並ぶ。
四高桜
 昭和16年4月6日におきた旧制第四高等学校(現金沢大学)漕艇部員の遭難事故の一周忌に、四高関係者と地元大溝の人々が千本の桜の苗木(ソメイヨシノ)を植え、「四高桜」の石碑を建立。その後ヤマザクラが植えられ、さらに北方探検の雄「近藤重蔵翁」の縁で、北海道広尾町から贈られた「エゾヤマザクラ」も交え、拡張された新しい道路に植樹されている。
 日本の渚百選の萩の浜を歩く。鴨川勝野園地、どこまでも続く白砂青松の美しい近江白浜、やがて鴨川の河口・・・木々の間から見える琵琶湖が美しい。水辺にたくさんの大きな亀が甲羅干しをしているのも長閑だ。横江浜、松ノ木内湖のあたりと美しい浜辺が続く。安曇川浜園地を過ぎ、船木大橋を渡ると右手にびわ湖こどもの国が見えてきた。源氏浜園地を過ぎる。
しんあさひ風車村(新旭花菖蒲園)
 のどかなオランダの田園風景をイメージした風車村。高さ18mのジャンボ風車、ハネ橋など独特の雰囲気。黄色いポピーの花が一面に咲いていた。近くに治水の先覚者藤本太郎兵衛の銅像が建っていた。江戸時代後期、庄屋藤本太郎兵衛は琵琶湖治水(瀬田川さらえ)に命をかけ、湖辺農民の苦しみを救うべく立ち上がった。親子3代、50年に及ぶ「天保の御救大浚え」と呼ばれる大事業を成し遂げたという。
 外ケ浜園地のあたりから浜と道路の間の湿地に架けられた木道の上を歩く。このあたりの湿地は小鳥の楽園である。さかんに鳴き声が聞こえる。新旭浜園地の木道を歩くと野うるしの群生地で黄色い花に埋め尽くされていた。針江浜園地のあたりにはところどころ遺跡の立て看板が立ててあった。新旭水鳥観察センターに立ち寄りコーヒータイム。湖の中にえり網漁の網が張られているのが見える。琵琶湖では、魚保護のため最新の漁法は禁じられているので、このような昔ながらの漁法が見られるのだそうだ。さらに湖岸を北上。大津の港跡、家型の木造灯台、御蔵屋敷跡・・・ここは若狭小浜藩の蔵米屋敷のあったところだ。雨乞い神事の行われる「二ツ石」、これはまた条里制の基点となる重要な遺構だとか。「竹生島遥拝所跡」も。そういえば眼前に竹生島がくっきりと見える。わが郷土の偉人本居宣長の「在京日記」の中に「宝暦5年3月 今月、びわ湖竹生島船覆没 溺死六七十人、其船中無一人生者皆死牟 可傷可哀」とある。巨木の松並木を行くと竹生島への観光船のりばがあり、曲がると「琵琶湖周航の歌資料館」「われは湖の子さすらいの 旅にしあればしみじみと 昇る狭霧やさざなみの 志賀の都よいざさらば」
 この日は、マキノ高原のメタセコイア並木(新・日本の街路樹百景」を見に行った。延長2.4kmにわたってメタセコイア約500本が植えられており、燃え立つような新緑に息を呑んだ。秋の紅葉、冬の裸樹・雪花もまた素晴らしいそうだ。秋や冬にも訪れたいと思った。近くの「マキノ高原さらさ温泉」へ。 そして「道の駅マキノ追坂峠」で泊。小浜へ抜ける幹線道路で、覚悟はしていたものの大型トラックが数多くで閉口。
針江生水(しょうず)の郷・川端(かばた)
 4月4日下見の際、ボランティアガイドの方に案内していただいてこの郷を廻った。ここには日本でも珍しい水の文化がある。比良山系に降った雪、雨が伏流水となり非常にきれいな水がコンコンと湧き出すので、人々は自噴する清らかな水を飲料や炊事など日常生活に利用している。このシステムを川端と呼ぶ。針江日吉大社の前から、梅花藻がちらほらと小さな白い花を見せ始めた大川、クラフト「カバタとんぼ」の工房、豆腐やさん、正伝寺、水産加工工場、酒を作っている家など10戸以上のカバタを見学させてもらった。各戸それぞれの工夫があるが、いずれも20数mからの地下水だそうだ。水槽が3つになっていて、下が野菜などの土を落とし、中が洗い場、上が飲料水になっている。下の水槽に鯉を飼っている家が多く、ご飯粒、野菜屑を食べてきれいな水に戻してくれるそうだ。竹筒でおいしい水をいただいたりして、元の大きな水車のある所まで戻った。近くで郷土料理をいただいた。
琵琶湖周航の歌資料館から近江中庄 5月7日
 近江中庄駅に車を停め、今津へ。この日は強風のため電車が徐行運転で到着がかなり遅れた。竹生島への観光船のりば。今日のコースは距離も短く時間に余裕があるので竹生島へ渡ってもいいかなと思っていたが観光船は強風のため欠航。もう20年も前になると思うが一度渡ったことがあるからまあいいか。途中、「九里半街道」の標識。今津と小浜の距離が九里半(約38km)であることから名付けられたという。小浜に陸揚げされた日本海諸国の産物が、この道を使って今津に運ばれ、湖上輸送により京・大阪へ持ち込まれたのである。神社や旧蹟が点在する浜辺の道を進む。強風で何度も帽子を飛ばされながらも、ハマダイコンの白い花に包まれた湖岸の道は気持ちがいい。日本の白砂青松百選の松並木が続く今津浜は誠に美しく、マキノ町に入ると、竹生島の眺めがいい。「湖西の松林」の碑があり、「マキノ町西浜から今津浜に至る5kmの琵琶湖岸には2000本を超える黒松が並木となっている。この松林は、人家や田畑の防風林として、また魚付き林として、明治の末期より地元の人々の手で植林・保護されてきたもので、人々の生活と密着しながら、厳しい環境の中で育み慈しまれてきたものである。」とあった。近江中庄駅着。
朽木(くつき)宿 鯖の道
 北陸と京を結ぶ「鯖の道」の途中にある山中の小さな集落である。若狭湾で捕れた鯖に塩をして背に担ぎ山越えで京に着くと丁度よい塩加減になったとか。またここは、元亀元年(1570)、織田信長が越前の朝倉攻めの際、近江の浅井長政の挟撃にあい、朽木街道を京都へ逃げ帰った道でもあるそうだ。造り酒屋、旧商家、ヴォーリズ設計の郵便局舎など見て廻り、「グリーンパーク想い出の森・くつき温泉てんくう」で入浴、この日は「道の駅くつき新本陣」で泊まる予定であったが定休日のため、「道の駅藤樹の里あどがわ」まで下り泊。
熊川宿 5月10日
 再びメタセコイアの並木を通り、小浜に程近い熊川宿へ行った。古代、若狭は朝廷に食料を献上する御食国(みけつくに)であった。「鯖街道」である。街道は人・モノ・文化を運ぶというが、この道もまた京へそして京からそれらを運んだ街道であったに違いない。秀吉に重用され若狭の領主となった浅野長政は、天正17(1589)年に熊川が交通と軍事において重要な場所であることから、諸役免除して宿場町とした。重要伝統的建造物群保存地区でもある街を、早朝から、熊川番屋、権現神社、大岩(子守り岩)の上ノ町、中条橋を渡り、旧逸見勘兵衛家住宅、宿場館、長屋道、菱屋(勢馬清兵衛家)、覚成寺、白石神社、得法寺、御蔵道の中ノ町、そしてまがりを曲がって下ノ町へとゆっくり見てまわった。中でも松木神社には大きな松木庄左衛門の銅像があった。年貢や労役の苦しみに喘ぐ百姓たちは年貢引き下げの嘆願をなんども小浜藩に願い出るが叶わず、投獄の抑圧にも屈せずあくまでも訴え続けた庄屋松木庄左衛門は、慶安5(1652)年5月16日、日笠川原で磔の刑に処された。ときに28歳の若さであった。しかし悲願は聞き届けられ、大豆年貢の引き下げは実現した。街道に沿って流れる前川は水量も豊かで滔々と流れており、なかなかいい街道であった。この宿で名物の鯖寿司を堪能した。 
近江中庄から永原 5月17日
 永原駅に車を置き、JRで近江中庄へ。歩き始めるとすぐ水田と水路の間にノハナショウブが濃い紫色の花を咲かせ並んでいた。ちょうど10日前通ったときはまだ固い蕾だったのに。凛として美しい。中庄浜の松並木に出る。ここは月見草の群落があると聞いていたが浜辺にたくさん咲いていた。知内浜の唐崎神社を過ぎ、オートキャンプ場の美しい白鷺橋を渡る。マキノの湖のテラスに寄る。高木浜の由来が書いてあった。「大化の改新(645年)頃に成立したであろう条里制遺構の最北端に位置し・・・シンボル施設とし「湖のテラス」を設立し、母なる琵琶湖に抱かれて生きる喜びと湖の永久の清らかなる水質を祈り・・・」 琵琶湖の大いさと歴史を痛感する。
海津・西浜・知内の重要文化的景観
 琵琶湖や内湖、湖岸の石積みや共同井戸、知内川のヤナ漁など多様な水文化が現存している。江戸時代には琵琶湖の伝統的な漁法である地引網漁等も盛んに行われていたという。江戸時代に築かれた石積みは、風や波から町並みを守り、現在もその役目を果たしている。「波除石垣」は、元禄14年(1701)、甲府藩領高島郡の代官として赴任した西与一左衛門は、風波のたび宅地が被害を受けるのを哀れんで、海津東浜の代官金丸又衛門と協議し幕府の許可を得て元禄16年(1703)湖岸浪除石垣を、東浜668m、西浜495mにわたって築き、この石垣によって水害がなくなったと記されていた。私たちは訪れた土地の方にお話を聞くのを楽しみにしているが、海津でもすてきなご夫妻にお話を聞くことができた。各家から「ずし」という通路を通って湖岸に下り、湖に渡した橋板の上で炊事、洗濯をした。一昔前までは餅米をかしたりしたものだ。今は水位がその当時より1mも下がって、漁も衰退してきた。江戸時代は各藩が琵琶湖の水運を利用するため、湖岸に藩の領地を持っていた。ここは加賀藩で、栄えた港町だった。海津港は、すでに平安末期の「源平盛衰記」にもその記録がある。江戸時代初期には、蔵や旅館、商店が建ち並び、活気のある宿場町の様相を呈していたらしい。等々。その上、絵葉書や海津の歴史についての冊子までいただいて楽しく、また恐縮した。
海津大崎の桜並木
 昭和11年、大崎トンネルと湖岸道路の開通を記念して植えられたソメイヨシノが約600本、延々4kmにわたって続いている。もともとは道路補修作業員であった宗戸清七さんという方が作業の合い間に自費で購入した若木を植え始めたのに始まる。下見に訪れた4月4日は蕾がふくらみ始めた桜のトンネルはすばらしく美しかった。花見の時は湖上から遊覧船で楽しむそうだ。今も、若葉が気持ちいい。
 大崎寺(大崎観音)を過ぎると波食によって突き出た岩礁地帯・海津大崎。いくつものトンネルの中を歩く。その後、岬から延々と北上。
北淡海丸子船の館見学
 湖上水運の主役を務めた丸子船。百石船(米俵250俵を積載)、全長17m、その大きさにびっくり!最盛期は、1400隻が湖上を往来していたという。琵琶湖の大きさにびっくり!
 大浦川に沿って北上すると、やがて永原駅。この日は、姉川温泉で寛ぎ、道の駅・湖北みずどりステーションで泊。
永原から塩津海道あぢかまの里 5月16日
 塩津駅に車を置き、JRで永原駅へ。今にも降り出しそうな天候の中、さらに北上。岩熊トンネルを抜けると余呉湖が眼下に広がっている。そこから急な下り坂を塩津へ。ここが琵琶湖の最北端、琵琶湖一周もとうとう半分である。少し進むと、道の駅・塩津海道あぢかまの里。この夜は、木の本駅前の清泉閣で貸切入浴し、同道の駅で泊。 
 
道の駅・塩津海道あぢかまの里から
 道の駅・湖北みずどりステーション 5月18日
 河毛駅に車を置き、JRで塩津駅まで行き、そこからバスで道の駅・塩津海道あぢかまの里へ。車窓から、水田の水を温めるしくみ「まわし水」がしてあるのが目についた。このあたりは寒さも厳しいのであろう。歩き始めてすぐ、若者が50cmもあろうかと思われるブラックバスを釣り上げたところに遭遇。大喜びの彼とともに写真をパチリ。立派な塩津神社の前で曲がり、ほぼ湖岸沿いに進む。人家はないが、土曜日のせいかたくさんのサイクリングの人に出会う。山では早くもホトトギスの声を聞いた。飯浦からは賤ケ岳隧道の中を歩く。850mと長いが、歩道も広く危険なことはない。「生糸の里・西山」に着く。ここでは細い三味線の糸を、近くの別の村では太い琴の糸を作っていたとのこと。余呉川に沿ってどんどん南下する。川で、大きな魚が飛び上がった。磯野山城址があったり、大きな神社とお寺が並んでいたり。暗いトンネルを抜けると眼前に琵琶湖が広がっていた。たくさんの釣り竿が並んでいたので聞くと、鮒つりだそうだ。鮒といっても大きくて、鮒ずしの材料にするそうだ。さざなみ街道を南下。道の駅・湖北みずどりステーション着。湖北野鳥センターを見学し、望遠鏡で湖の野鳥を観察。河毛駅まではバスで。駅前で、浅井長政とお市の方の銅像と記念撮影。
小谷城戦国歴史資料館
 浅井三代のこと、小谷城のことが詳しく展示されていた。その後、小谷城址へも登る予定であったが、暑さでかなり疲れていたのでカット。
賤ケ岳古戦場 5月17日
 リフトを利用して上った。リフトの下は一面の白いシャガの花で埋め尽くされ見事。安土桃山時代、本能寺の変で織田信長が倒れた後、明智光秀を討ち実質的な主導権を握っていた羽柴秀吉と、織田家の旧臣中第一の家柄を誇る柴田勝家が争った戦い。余呉の湖が真っ赤に染まったという激しい戦。山頂に秀吉軍の重臣(七本槍)の武者像が立つ。またその途中に、合戦の死傷者の霊を弔う石仏が野山に点在していたのを集めて祀ったお堂もあった。
湖北みずどりステーションから
長浜鉄道スクエア   5月23日
 長浜駅に車を置き、JRで河毛駅へ。そこから湖北コミュニティバスを利用して湖北みずどりステーションに着いたのは6時15分、日差しがきつくなってきたので歩くには早朝に限る。早速に歩き始める。とはいえ朝と日中の温度差は激しく、この時間だとまだまだ寒い。ウインドブレーカーで寒さ対策。湖岸は野鳥の王国、さまざまな鳥のさえずりが賑やか。道を隔てて湿地や畑の見える地帯では、縄張りを主張する雉の甲高い声も聞こえる。沼地や川の淀んだところでは、牛蛙の低い鳴き声もあちこちから。キショウブの鮮やかな群落も続く。東側の湖岸は侵食も激しいのか道路下の湖岸が石で固められているところがあった。野鳥の観察所があちこちに設けられている。それにしても琵琶湖の葦はずいぶん減ったそうで、保護地区と看板の立っている所があった。またその近くの入り江のようになったところでは、白い四角く囲ってある箇所が数箇所、鮒の幼魚をブラックバスから保護しているそうだ。湖には、余呉川、丁野木川、田川、姉川など何本もの川が注いでいる。ところどころに、港(船溜り)が設けられているが、湾口(船の出入り口)はすべて南に向いている。琵琶湖は北あるいは西の風が強いのだと思われる。さざなみ街道を歩いているのだが、一部湖岸公園の中の道を歩く。「近江湖(うみ)の辺の道」と出ている。快晴で、日差しが厳しく、木々の木陰と湖からの風を受けるこの道はじつに気持ちがいい。ノイバラが満開でその香のよいこと。道の両側に白いビニルハウスがずらりと並ぶ。ぶどう畑らしい。やがて「直産びわみずべの里」。このあたりは枇杷の産地だそうで、初物の枇杷をいただいた。伊吹山が見える。さらに歩き続ける。湖には竹生島も見える。沖合約6kmに浮かぶ周囲2kmあまりの小島で、島の名前は「神を斎く島」に由来するという。
西浜村伝承地
 「ここ長浜市祇園町西方の湖中には、かって「西浜村」があったが、室町時代の寛正年間(1460〜1466)の大地震により村の大半が水没したと伝えられる。わずかに難を逃れた人々が近隣に移り住み、今も祇園町には「西浜」姓を名乗るゆかりの人々が住んでいる。西浜村があったとされる湖底には、波の穏やかなときには、湖面から石積みや井戸などの遺構をかいま見ることができる。」と書かれており、静かな湖面を見つめた。
長浜城址
 長浜はもと今浜といい、「バサラ大名」として有名な京極道誉(佐々木高氏)が室町時代の初め頃に出城を築いたのが始まりといわれる。姉川合戦の後、その功によって湖北三郡を与えられた羽柴秀吉は、天正2年(1574)頃小谷(湖北町)からここに城下町を移し、地名を長浜と改め、城を築いて数年間居城とした。天正11年(1583)の賤ケ岳の戦いでは、ここを根拠地として大勝し、織田信長後継者としての立場を確立した。秀吉の家臣である山内一豊も天正13年(1585)から5年間在城した。長浜城歴史博物館を見学し、天守閣に登った。
長浜鉄道スクエア
 旧長浜駅舎(現存最古の駅舎)を利用した「陸蒸気が運んだ文明開化」と題する展示館。D51の大きさに改めてびっくり。「近代日本の求道者 西田天香さん(一燈園生活創始者) 明治25年 ここから北海道開拓事業に旅立った」の石柱が立っていたのには驚いた。
北国(ほっこく)街道 安藤家
 中山道鳥居本宿を起点とし、近江と北陸を結ぶ重要な街道で、商家や旅籠、町役人衆の豪邸が軒を連ね、大名行列や文人墨客が往来した街道を歩いた。なかでも見学した安藤家はすばらしかった。秀吉は町衆の中から長浜の自治を委ねる「十人衆」を選んだが、安藤家はその一人。明治以降の安藤家は、近江商人との婚姻関係から自らも商人となり、呉服問屋として事業を展開。東北地方を商圏に産物の交流につとめた。現在の建物は明治38年に建設された近代和風建築物。虫籠窓、紅殻格子などが施されたしつらいは長浜の豪商の名残を伝えている。また当家に逗留した北大路魯山人が手掛けた装飾美でも知られている。さらに「古翠園」と名付けられた庭園も今ツツジの花盛りで見事。 街道をさらに進むと有名な黒壁スクエア。私たちは、翼果楼で名物「サバそうめん」をいただいた。サバそうめんという食文化には湖北の風習が深く関わっている。湖北には五月見舞いと言って農家へ嫁いだ娘のもとへ、農繁期に実家から焼鯖を届ける風習があった。家事に農作業に追われる娘を案じ、手軽に食べられるサバそうめんの材料焼鯖を届けたのだという。長浜駅前に戻ると、「秀吉公と石田三成公 出逢いの像」が立っていた。
国友鉄砲の里資料館
 姉川のほとりに広がる静かな集落国友に車で足を延した。ここは江戸時代鉄砲(火縄銃)製産地として栄えた土地。長篠の合戦以後、大坂冬の陣にかけて国友鉄砲はめざましい活躍をした。その後太平の世の中になると鍛冶たちは鉄砲製作の技術を生かして、芸術性豊かな金工彫刻をはじめ、気砲(空気銃)・天体望遠鏡・花火などへの道を開いた。国友姓の多い豪壮な邸宅の並ぶ静かな集落の中を歩いた。司馬遼太郎は琵琶湖畔を愛し、何度も訪れて「街道を行く」の中に記した。その中の一節が碑に刻まれていた。「国友村は、湖の底のようにしずかな村だった。家並みはさすがにりっぱ どの家も伊吹山の霧で洗いつづけているように清らかである。」
 彦根千乃松原温泉かんぽの宿、6階の浴槽に浸かり見る琵琶湖の青い水面と白い波が美しかった。道の駅「近江母の里」泊。月見草の咲く岸辺から見る琵琶湖に沈む夕日がなんともいえず感動的な美しさだった。
長浜鉄道スクエアから国宝彦根城 5月24日
 彦根駅に駐車、JRで米原乗り換え長浜へ。豊公園、長浜港を後にし湖岸道路を一路南下。キショウブが目に鮮やかだ。並木道を行く。長浜新川の大きな河口を越え、湖岸公園緑地へ下りると、草地の中の道は足に優しい。長浜バイオ大学の研究棟、長浜ドームを左手に見て進む。昨夜車中泊した母の郷も見えてきた。アカシアの真っ白な木の下を通る。大野川を渡り米原市に入ると朝妻港跡である。朝妻湊はいにしえより湖上交通の要衝地として名高く、奈良、平安時代から江戸時代に至るまで重要な役割を果たしてきた。奈良時代、筑摩付近に大膳職御厨(朝廷の台所)がおかれ、都へ北近江、美濃、飛騨、信濃国等から朝廷に献上品、税物、木材、食糧等と合わせて役人、商人などを運ぶための定期便が大津、坂本港へ出ていた。木曽義仲や織田信長の軍が都へ向って船出したのもこの湊からであった。「朝妻千軒」といわれた当時の発展ぶりが偲ばれる。やがて「なべかまの里」の大きな標示板。夫曰く「鍋や釜を作っていたところだ。」勿論冗談!さにあらず! 浜辺には流木が打ち上げられ、勝手に「流木アート浜」と名付けた。近くに多数の石燈籠が並ぶ立派な参道をもつ筑摩神社があった。世話役とおっしゃる方に詳しくお話を聞くことができた。このあたりは「御厨」がおかれたところで、筑摩神社の神は「御食津神」など食物の神で、(伊勢神宮でいえば外宮にあたるのだろう)、少女8人が鍋や釜を冠る春の祭礼「鍋冠祭(なべかむり)」は、御厨のようすを映しだした姿ともいわれるという。祭りの様子は「伊勢物語」にも詠まれているとあった。昔の祭りは壮大で神輿を担いで湖の中を渡御するさまは見事であったそうだ。そういえば琵琶湖のまわりは祭りの盛んな土地柄らしい。また「尚江千軒遺跡」は朝妻筑摩沖の湖底にあるという。磯の港で投網で漁をしている珍しい光景を見かけた。この方と話がはずみ、1時間近くいろいろのことを教えてもらった。投網でブラックバスを捕っていたこと。ザリガニを餌に鰻を捕る網、もじという竹の筒、魚によって目の大きさの違う網、あゆについては特に詳しく。「子どものころは、砂に穴を掘っておくとあゆが入ってきて手で掬えたものだ」と懐かしそうに話される。水深、水温との関係、朝方砂を吐くこと、船の先に大きな鉄枠を取り付け網を張って鮎をとる方法、鮒のこと、木之本で行われている鴨の飼育、祭りのこと等々話は尽きない。別れを告げて南下。ハマヒルガオの咲く浜辺、注連縄を張った岩など見ながら千乃松原へ。
多景島 松原からよく見えた。見る方向によって様々な景色を見せることからその名が付いたという。彦根から沖合約6,5kmに浮かぶ周囲600mの小さな島で、島全体が断崖絶壁で、岩の上にも松や竹が生い茂っているという。
ウインドサーフィンに興じる若者たちの姿があった。10艇以上も出ていただろうか。気持ちよさそうだ。彦根港で曲がると彦根城が見えてきて駅まではあと2km。駅前に井伊直政公の像が立っていた。
国宝 彦根城 5月22日
 琵琶湖の東側にはじつに城が多い。古戦場も。覇権を争った戦いの凄まじさが窺える。その中でも彦根城は別格である。国宝彦根城は、初代藩主井伊直政の嫡子・直継と直孝によって約20年の歳月をかけて築城され、元和8年(1622)に完成。以来、彦根藩井伊家30万石の所領を有する城となった。安土城、長浜城、大津城、小谷城の石垣や用材が使われたと伝わる。私たちはまず、夢京橋キャッスルロードを歩いた。白壁とべんがらに煤を混ぜた黒格子、いぶし瓦、切妻屋根の傾斜を揃え、景観を大切にした暮らしの見え隠れする古くて新しい街である。いくつもの破風を巧みに組み合わせ、美しい曲線の調和をみせる天守。どっしりとした牛蒡積と呼ばれる石垣の上に三重の天守が聳えている。表門橋を渡り、天守閣に上った。ここで、一つの出合があった。
Do you from? 「どこの国から」このひとことが・・・フランスからのご夫妻であった。
Have a nice day.
Thank you, You too.
Oh! thank you, Good-bye!短い会話でも幸せな気分になれる。
 この後、黒門橋から玄宮園を散策。江戸時代初期の庭を現代に伝える名園である。さらに、藩主が領内の視察、大名や公家の接待、湖上での鷹狩などに使った藩主御好屋形船を復元した船に乗って堀を遊覧。二重の堀に囲まれた城郭がほぼ江戸時代の姿をとどめているのを満喫した。
中山道 鳥居本宿 5月22日
 朝鮮人街道(通信使街道)、北国街道の分岐点でもある鳥居本宿は江戸から64番目の宿場町で、ここの名物、赤玉神教丸、合羽、すいかは「鳥居本宿の三赤」として知られていた。先ずは車で摺針峠へ上る。山の中を通ってきた中山道がこの峠にきてはじめて琵琶湖を目にする絶景の地である。峠の茶店の望湖堂は本陣を思わすような構えで、朝鮮通信使、明治天皇や皇女和宮が休憩された所。ちょうど92歳とおっしゃる上品な奥様が「休憩していきなさい」と招いてくださり、お話を伺った。下って、赤玉神教丸本舗の豪壮な邸宅、合羽や・・・街道沿いに10軒の合羽製造業者があったそうだ。保湿性と防水性に富んだ良質な鳥居本合羽は、雨の多い木曽路に向う旅人がこぞって求めたという。合羽が赤いのは、柿渋を塗布するときに弁殻を入れたことによる。合羽の形をした看板が屋根に上げてあるのが残っていた。本陣跡にさしかかったとき、当家のご主人が招き入れてくださった。鳥居本本陣は201畳もある広い屋敷だったが、先代ご当主の同僚であったヴォーリズの設計で昭和12年に建て替えられた。和風様式を取り入れた独特の建築様式である。暖炉や本陣に残る看板、本陣の面影を残す門扉などを見せていただいた。町外れに「右彦根道 左中山道」の道標が立っていた。
 この日は、前回も利用した姉川温泉に行き、道の駅・湖北みずどりステーション泊。
 
 さてここからであるが、ビワイチモデルコースはあくまでも湖岸を通るようになっており、距離の関係でえっと思われるようなところを中継地としている。何度も下見をしたが、そこはJR駅からも遠く、バスの便も極めて悪い。タクシーで・・・そんな! それにもまして、街道を歩きたいという思いが強い。そこで、彦根から近江八幡までは中山道を行くことにした。
彦根駅から五個荘駅  6月2日
 彦根駅前に駐車し、しばらく車の多い国道を行く。街路樹はさつきで、いまは赤い花が真っ盛り、きれいだ。国道をそれ旧中山道へ。鳥居本宿から来た道である。ここは、壬申の乱で大海人皇子と大友皇子が皇位をかけて戦った地といわれている。しばらく行くと
高宮宿 天保14年の記録によると総戸数835軒、人口3560人の大宿であったという。また多賀神社への門前町としても賑わい、多賀神社一の大鳥居と大きな常夜燈が宿中ほどに建っている。鳥居の下で地元の方にいろいろお話を伺った。高宮周辺から産出される麻布は、細くて美しく献上品として多く使用され、上布として親しまれ高宮嶋とも呼ばれていた。布惣は、7つの蔵を持っており、現在も5つの蔵が残っている。また芭蕉とのゆかりも深く、芭蕉が着ていた紙子(当時の雨具)を埋めた「紙子塚」があり、「たのむぞよ寝酒なき夜の古紙子」の句碑が立つ。高札場跡、問屋場跡、旧脇本陣跡、旧本陣跡など次々に見て歩く。今では珍しい「提灯屋」さんもあった。やがて「無賃橋」、犬上川にかかる橋で、天保3年(1832)地元有志が通行無料の橋をかけたことからこう呼ばれる。
間の宿 川を渡れば、間の宿、葛籠(つづら)地区。葛の蔓で籠(つづら)を編んだことに由来する。松並木が残り、「おいでやす 彦根市」の石柱と像が建つ。豊郷に入る。先ずは「先人を偲ぶ館」へ行ったが休館。次に「伊藤忠兵衛記念館」へ。大手商社の「丸紅」「伊藤忠商事」の創始者初代伊藤忠兵衛は「開国後のわが国は貿易の拡大によって開かれなければならない」との信念を貫いた人で、記念館はその本家を開放したもの。その佇まいから、「近江商人」の活況ある当時の暮らしぶりが偲ばれる。ここはまた「江州音頭発祥の地」でもある。さらに進んで「豊会館・又十屋敷」へ。北海道ウトロ、グランドホテル「北こぶし」前に、「藤野番屋跡」と記されている。江戸時代後期、廻船業を営んだ藤野喜兵衛喜昌の旧宅である。今は「あけぼの印の缶詰」で知られる。
 愛知川宿を経て、小幡商人発祥の地である「てんびんの里」五個荘に着く。驚いたことに「右京大坂 左いせ ひの 八日市」の立派な石道標があった。ここから急に「いせ」の道標が目に付くようになった。
 中山道を辿って思うことは、近江商人として財をなした豪商、豪邸、白壁の土蔵、うだつの上る屋敷、それに支えられた大きな寺、神社の立派さ、べんがら格子、黒い焼き板とべんがら塗りを交互に配した趣のある塀、「水」と書かれた屋根、茅葺屋根・・・随所に歴史が感じられることだ。近江鉄道で彦根に戻り、
多賀大社 6月2日
 美しいお社であった。そり橋の横に「祝第六十二回神宮式年遷宮 伊勢神宮 多賀大社 親子神様詣り」ののぼり旗が立っていた。
 この日は、彦根グリーンホテルで日帰り入浴、道の駅「竜王かがみの里」でP泊。ちなみに近江八幡で、カーナビで温泉を検索していたら、「沖島」が出てきたのには驚いた。沖島は琵琶湖上で唯一人の住んでいる島である。
五個荘(重要伝統的建造物保存地区) 6月1日
 先ず大城神社の巨大な石垣に驚く。お寺もすばらしく大きくて立派。寺の前の堀には色鮮やかな鯉が泳ぐ。「川戸」も見られた。近江商人発祥の地「てんびんの里」・・・近江商人はてんびん棒をかついで全国を廻ったそうだ。白壁と蔵屋敷・舟板張りの土蔵の五個荘で、近江商人屋敷「外村繁邸」「外村宇兵衛邸」「中江準五郎邸」を見学した。外村繁邸は、私小説家として知られる繁の生家で、交流のあった松阪ゆかりの梶井基次郎のことも紹介されていた。
 この日は、先日も利用した彦根の千乃松原かんぽの宿の絶景温泉を利用。少し北上し、また「道の駅 近江母の郷」でP泊。
五個荘駅から近江八幡駅  6月3日
 近江八幡駅に駐車し、ここから近江鉄道で五個荘へ。車中、武佐のあたりで、圃場整備されたであろう水田の畦道がコンクリートでできていたのにはびっくりした。五個荘から歩き始める。「太神宮」の常夜燈がある。伊勢とのつながりを感じる。茅葺の家も残っている。すばらしいものを見つけた。原本の総称は「五海道其外公開見取延絵図」だが、享保元年に幕府は、東海道を除いては海道という言葉の使用を廃止しているので、「五街道分間延絵図」として復刻された中山道第19巻の五個荘の部分を長い看板にした絵図である。さすがさすがいいなあ。今中山道の歴史を感じながら歩いている。中山道はいい。このコースを選んでよかった。豪壮な建物、玄関に大きな釣鐘を配した家、巨大な石燈籠、「左いせ」の文字も見える。白壁土蔵の呉服繊維商市田家の本宅、べんがらと黒焼板で作られた塀をもつ家も多い、静かでしっとりとした街並みである。「旧中山道 てんびんの里」の石柱、ここが五個荘の出口である。今は途切れることなく町並みが続く中山道を歩く。
老蘇(おいそ)の森 奥石(おいそ)神社
 巨木の並木が続く長い参道が見える。あまりの見事さに立ち寄ることにした。奥石神社である。まわりの老蘇の森は平安時代から知られていた大森林で、中山道の名所であったそうだ。この神社で驚きの発見。「夜半ならば老蘇の森の郭公 今もなかまし忍び音のころ」なんと本居宣長の歌碑が建っていたのである。
 武佐に入る。西生來というところで、ご婦人に挨拶したら別れ際、「おしずかに」と返してくださった。なんとゆかしい・・・感激した。「中山道 内野道」の分岐道標があった。武佐宿である。中山道の大きな驛であったらしい。絵図があった。享保13年(1728)輸入された象が、翌年大坂、京都、大津を経て、武佐宿で一泊した時の様子で、ここは象の通った道として知られていたとのこと。武佐宿脇本陣跡、「右いせ 約120KM」の燈籠の下に、ムシャリンドウが咲いていた。本陣、「いせ」への道標を見ながら武佐駅へ。ここで中山道と分かれ、近江八幡に向う。駅で車を回収・・・
水郷めぐり
 前回ここを巡ったのは確か雪が降っていたっけ。今回3度めである。入り組んだ水路を手漕ぎの和船で、のんびりとめぐった。ヨシキリのさえずりがしきりに聞こえた。
幻の名城 安土城  6月1日
 織田信長が天下統一への拠点とした居城。築かれた石垣や大きな礎石を使った天守跡、本丸跡、大手道など近世城郭の先駆けとなった遺構が整備保存された日本百名城の一つである。まずは全長180mの直線階段の大手道に仰天。前田利家邸、羽柴秀吉邸、徳川家康邸が並ぶ。黒金門、本丸跡を経て天主跡へ。不等辺八角形の石垣が巡っている。地上6階地下1階の天守、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスによれば「ヨーロッパでも見られないほどの壮大さ」だという。天守下の二の丸跡に信長公御廟がある。羽柴秀吉が天正11年に、信長公ゆかりの太刀、烏帽子、直垂などを埋葬して造らせたもの。他の廟とは全く違った形でさすが信長の廟とうならせる廟であった。さらに下って、信長が自らの菩提寺として建てたハ見寺跡、その南に三間三重の本瓦葺きの塔、これは室町時代の建物で、甲賀の長寿寺から移築されたと記されている。城内に武家屋敷ばかりでなく菩提寺まであるとは、信長の夢と野望、力のすごさを実感させられる。安土城は、琵琶湖の内湖(伊庭内湖・安土内湖)に囲まれた山城である。ここから眺める内湖の景色はすばらしい。さらに下に二王門(楼門)も残る。信長のすごさに驚嘆した安土城であった。
近江八幡駅から佐波江町バス停 6月12日
 紫陽花が色とりどりに咲き出した。紫陽花は梅雨によく似合う。空梅雨ぎみとはいえ今週は雨マークが続く。その合い間をぬって・・・自動車道には夾竹桃の花も咲き出した。近江八幡駅に車を置き、駅からぶーめらん通りを真っ直ぐに進む。「京街道」と書かれた旧道を横切りさらに小幡町通りを行く。村雲御所瑞龍寺へのロープウェーの見える八幡山(鶴翼山)城址の麓で左折しビワイチコースと合流し、八幡堀を渡る。このあたりはきれいに整備され情緒のある街道になっている。白鳥川を渡る手前から「びわ湖よし笛ロード」が延びている。桜並木のサイクリングロードである。そこを行く。葦の細いてっぺんにヨシキリが留りしきりに鳴いている。牛蛙の低い鳴き声も。振り返ると八幡山。突き当たると琵琶湖。ビワイチの最終コースはやはり湖岸をとの願い通り湖岸に戻ってきた。湖上に沖ノ島が見える。オトギリソウの黄色の花が咲いていた。やがて水茎岡山城跡の山が迫ってきた。水茎内湖の干拓以前は、周囲の殆どが湖に囲まれた、さながら「琵琶湖の浮城」そのものであったという。城跡を湖岸に回りこむ。水茎の岡である。藤ケ崎神社があり、洞窟の中にも神が祀られていた。湖岸にはリュウゼツランの白い大きな花も見える。日野川の長い橋を渡ると佐波江町、バス停まではあと600mだ。停留所の場所を聞こうとしたら、たいへんよくできた案山子だったのには大笑いした。バスで近江八幡駅に戻る。
近江八幡散策と日牟禮八幡宮
 新町通りに面した旧伴家住宅、郷土資料館、歴史民俗資料館、旧西川家住宅などのある伝統的建造物群保存地区を散策する。ヴォーリズ像も立っていた。八幡堀沿いを歩き、かわらミュージアムへ。日牟禮八幡宮へ参拝。この神社は約44000uの神域を持つ旧八幡町の総社でたいへん美しい宮であった。春には左義長まつりが盛大に行われるという。白雲館も見学した。街角に「朝鮮人街道・京街道」の石標もあった。全長5kmに及ぶ掘割は、八幡の城下町と琵琶湖を結ぶ一大運河であり、今も美しい菖蒲を愛でながら観光和船が行き来している。ここは「近江商人のふるさと」である。
 蒲生野の湯で疲れを癒し、道の駅「竜王かがみの里」でP泊。ホトトギスが鳴いている。鹿児島の佐多岬から自転車で北海道宗谷岬をめざすという青年としばし話す。きらきらとした若さが眩しい。
佐波江町バス停から
 琵琶湖クルージングモール ピエリ守山
                  6月13日
 P泊した竜王町は「源義経元服の地」だそうで、朝から「元服の池」を見に行った。近江八幡駅に戻り、バスで佐波江町バス停ヘ。梅雨の最中だというのに、今日はぎらぎらの快晴。サングラスをし、飲料水をたっぷり持って熱中症に備え出発。ひたすら湖岸を歩く。家棟川を越える。紫式部の歌碑があった。キャンプ場と並んで菖蒲池があり、今盛りのとりどりの菖蒲が美しい。琵琶湖マイアミ浜は松並み木の中を歩く。陰もあり、湖からの風もあって心地よい。そして琵琶湖一周の旅で5〜6回訪れた鮎家の郷。冷房の効いた2階レストランで小1時間休憩、生き返る。あと4km。野洲川の中洲大橋を渡ったあたりから猛烈に足が痛くなり、サロンパスを散布して凌ぐ。やがてピエリ守山の大きな建物が見えてきた。ゴールである。バスで守山駅に出て、JRで近江八幡駅へ。熱い日差しにまいった、まいった。
琵琶湖クルージングモール ピエリ守山から
 琵琶湖博物館        6月16日
 草津駅前に車を置き、電車で守山駅へ、さらにバスでピエリ守山へ。歩き始めるとじきに琵琶湖大橋である。お満灯篭が立っている。ぎらぎらの夏日である。サングラスは必需品。ここからひたすらさざなみ街道を南下する。タイサンボクの白い花が開き始め、道端をタンデライオンの黄色が飾る。日曜日のせいなのだろうこのあたり、釣り人やサイクリングの人が列をなしている。この間から気づいたのだが、水路や河川、内湖それに琵琶湖でも菱(ベカンベ)が見られる。ことに守山川では川面一面に浮かんできらきら光っていた。葦原の復元に取り組んでいるところもあった。大きな風車が見え、道の駅草津の前を過ぎると、湖に見渡す限りハスの葉が広がっていた。水生植物公園みずの森である。咲いたらさぞかし見事だろうハスの花は少し早すぎたのと暑さにまいり横を通り過ぎて、
琵琶湖博物館
 琵琶湖と人との関係や歴史がたどれるとあったので、楽しみにしていた博物館である。湖に面した美しい建物であった。琵琶湖のおいたち、人と琵琶湖の歴史、湖の環境と人びとのくらし、淡水の生き物たちなどの展示とトンネル水槽を楽しむことができた。
 バスで草津へ戻る。
草津宿
 ここはかつての日本五街道の最幹線で東海道と中仙道の分岐点である。道標に「右東海道 いせみち 左中仙道美のぢ」とあり、この追分には、高札場、大燈籠、常夜燈がある。京に近く大きな宿場町で、本陣、脇本陣が置かれていた。70軒を超える旅籠が並んでいたという。薫り高い歴史と街道文化を有した街だ。東海道で唯一完全な姿をとどめた本陣には驚いた。大名や公家などの休泊に利用され、関札が並んでいた。残された大福帳(宿帳)には、浅野内匠頭、吉良上野介、皇女和宮、新撰組などの名もみられる。さらに街道を歩く。マンホールの蓋もユニークだ。なおなおびっくり仰天が待っていた。草津宿街道交流館に行き、「草津宿出立・通過証」をいただこうとしたら、なんと私が999人め、夫が1000人めで、通過証と記念品を頂いた。さらに京都新聞の取材を受け、翌日の新聞に大きなカラー写真つきで記事が載った。なんとも超幸運で、すばらしい記念になった。帰りに通常水なしで徒歩渡りという天井川を渡った。
 ほたるの湯で汗を流し道の駅草津でP泊。時間にゆとりがあったので、湖畔にシートを敷き、枕を持ち出して・・・沈む夕陽と釣り船のシルエットを楽しみ、やがて対岸に灯りが灯り始め点から線につながっていくさまを飽かず眺めた。比叡山にも灯が入った。♪今夜は星が降るよう〜だ・・・ 
琵琶湖博物館から瀬田の唐橋  6月17日
 熱射病対策が必要な季節、早朝5時から歩き始める。ヨシキリがしきりに鳴いている。道の両側から牛蛙の合唱も聞こえる。亀が道路を横断しているのにも会った。夫が危ないからと草原へ戻す。湖は今日も静かだ。湖岸緑地が整備されているので、時々その中を歩いた。葉山川を越えしばらくいくと、行く手にアーチ状の美しい橋が見える。色鮮やかな紫陽花に囲まれた建物も。さっき見えた橋は、草津川が流れ込む帰帆北橋であった。続いて帰帆南橋。「かくれけり師走の湖(うみ)のかいつぶり」の芭蕉句碑が立っていた。ここからたくさんの橋が現れ、それを潜っていく。近江大橋、東海道本線の鉄橋、水道橋。「さざなみ街道」もどうやらここまでらしい。標識が道路上に3つ並んで立っていた。「力漕 カヌーを愛でし男の子湖に眠りて守護神とならむ」の碑も。並木の続く湖畔の歩道を歩く。たかさご橋を渡ったところに、「瀬田川(淀川)・琵琶湖 河川管理境界」の看板が建っていた。ああいつも疑問に思っていた湖と川の境界はここだったのだ。国道1号線の橋の向うにめざす瀬田の唐橋が見えてきた。その向うに新幹線の鉄橋も。「五月雨に隠れぬものや瀬田の橋」芭蕉 とうとう目的地の瀬田の唐橋である。2ケ月に及ぶ琵琶湖一周の旅もついに終る。感慨ひとしおである。
   志賀の都よ いざさらば
   琵琶湖よ また逢う日まで
 さらに1km石山駅まで歩き、電車で草津まで出、バスで道の駅草津まで車の回収に戻った。
 芭蕉は、七部集の「あら野」(元禄2年)に「寒けれど二人旅ねぞたのもしき」の句を残している。今回の琵琶湖の旅も夫と二人なればこそ達成できたのだと、心から夫に感謝している。

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