沖縄を訪ねて

沖縄を訪ねて
 全国47都道府県のうちまだ一度も訪れたことのないのは沖縄のみで、いつかは訪ねたいと思っていた。
 時あたかも、山崎豊子の「運命の人」がテレビ放映中で、原作も読み、これは是非沖縄の現地を訪れ、現実を知りたいと思った。
 しかしわずか2泊3日の旅では、観光旅行に過ぎず、予想されたこととはいえ、米軍基地のある現状や、そこに住む人々の暮らし、苦しみの一端さえ窺えず・・・やはりレンタカーで行きたいところへ行き、土地の人の話にじっくりと耳を傾ける・・・そんな旅に出直してきたいと強く思った。
 

 首里城の一廓に万國津梁の鐘があり、その建国の精神と郷土への誇りを宣言した言葉が刻まれている。
              琉球國者南海勝地而 鍾三韓之秀以大明為
             輔車以日域為脣歯在 此二中間湧出之蓬莱
             嶋也以舟揖為万國之 津梁異産至宝充満十
             方刹
 
               琉球国は南海の豊かな土地で
               日本と中国の間に現れた
               理想の島である
               船を操って万国の懸け橋となり
               珍しい宝は国中に満ちている

3月12日
 はじめて沖縄の土を踏んだ。中部国際空港からよく利用する北海道千歳までが940km、沖縄那覇は1300kmでかなり遠い。飛行時間は2時間50分もかかってしまった。沖縄ナハナ・ホテルで昼食の後、ODFSギャラリア・沖縄へ。免税店の多さ、立派さに驚く。
首里城(世界遺産)
 パンフレットによると「首里城の創建は14世紀頃といわれている。その後、1406年に尚巴志が琉球王国支配のため、それまでの国の中心地浦添城から遷都し居城として以来、1879年最後の国王・尚泰が明治政府に明け渡すまで約500年に亘って琉球王国の政治・外交・文化の中心として栄華を誇った。首里城には中国や日本、東南アジアなどとの交易から様々な文物がもたらされ、漆器、染織物、陶器、音楽など琉球独特の文化が花開いた。1945年の沖縄戦で灰燼に帰した首里城は、1992年沖縄本土復帰20周年を記念して復元された。鮮やかな朱色に彩られたその姿は、王国の歴史、文化の息吹を伝える殿堂であり、沖縄のシンボルそのものといえる。」 先ずは守礼門を潜り、園比屋武御嶽(世界遺産)の国王が往路帰路の安泰を祈願した石造の平唐破風門、坂道と階段を上りつつ、歓会門、瑞泉門、漏刻門、奉神門を潜ると御庭へ入る。正面に煌びやかな正殿がある。南殿から入城する。書院の前に庭園があり、色鮮やかなイソヒヨドリを見かけた。正殿内は御差床(国王の王座)を中心に朱塗りに金箔の煌びやかな装飾を施された間であり、その前の地下に世界遺産である遺構が見られた。南殿は日本風であり、対する北殿は中国風の建物になっており、中国と日本の支配のはざまで生きた琉球の歴史を偲ばせる。この日も首里城は観光客でいっぱいである。沖縄を訪れるにあたって、沖縄の主産業は何かと調べた。農業は、マンゴー等のトロピカルフルーツ、さとうきび、たばこ、ゴーヤ等の生産。水産業はブリや車エビの養殖。そういえば、旅行中の車窓からは、サンゴ礁に囲まれているせいか大きな漁港や漁船、大きな田畑は見かけることがなかった。主産業は、伝統、歴史、自然を生かした観光業とあった。道端の看板などからもそれが伺える。また2000年のサミット以来、国際会議などのイベント開催地として注目されているそうだ。
 那覇市を離れ、国道58号を浦添市、宜野湾市へと向う。この58号線は、米軍占領時代軍用道路1号線と呼ばれ、1950年代初頭の米ソ冷戦時代、もし沖縄の米軍基地が爆撃を受けて使用不能になった場合は、この道路を滑走路にして戦闘機が発着できるように想定されていたという。国道58号線をさらに北上すると宜野湾市に入る。市の中心部を占めているのが普天間飛行場・海兵隊航空団のホームベースである。道路右手の丘には樹木に覆われて見えないが広大な普天間基地が広がっているらしい。北谷町から読谷村へ。右手に一旦途切れていたフェンスが延々と続く、嘉手納基地が広がる。なにしろ沖縄の面積は日本の0.6%に過ぎないのに米軍基地は国内の74%に及ぶという。左手の海は・・・「昭和20年4月1日払暁、この読谷から北谷にかけた海岸に猛烈な艦砲射撃と爆撃が轟き、18万3000名余の米部隊が上陸用舟艇、水陸両用戦車を列べて殺到して来たという。その時の海はおそらく真っ黒に埋め尽されていただろう。日本で唯一、住民を巻き添えにした沖縄地上戦の凄まじさ、悲惨さが胸に迫ってくる.」(山崎豊子著「運命の人」より) 私も胸詰まる想いで今は静かな美しい海を見つめた。
座喜味城跡(世界遺産・琉球王国のグスク)
 沖縄を歩けば基地にぶつかり、基地を歩けば戦跡にぶつかる。座喜味城址は基地と戦跡の接点でもある。座喜味城は15世紀の初頭築城家として名高い護佐丸によって築かれたといわれる。護佐丸は当初座喜味の北東約4kmにある山田グスクに居城していたが、1416年、中山尚巴志の北山城攻略に参戦、北山城攻略後は北山城に留まった。その後交易の便のよい座喜味に築城した。標高120mの小高い丘(名護層からなる台地)の上に石灰岩の切石積で取り囲んで築かれている。城壁にはアーチ門があり、アーチ石のかみあう部分、門の表と裏両面にクサビ石がはめられていた。高度な建築技術である。建物は何一つなく、芝生で蔽われた広い空間が広がっている。城壁の上に立つと首里・那覇、本島西側本部半島、東シナ海に浮かぶ慶良間諸島、久米島、伊江島、伊平屋諸島が見える。今少し「運命の人」のミチの話を抜粋したい。「遺跡から屋根瓦が一切出なかったところから茅葺きではなかったか・・・出土遺物には、中国製の陶磁器の破片や古銭が多かった・・・城(グスク)を築城したのはこの辺りの按司(領主)で築城家としても名高かった護佐丸という人、後に首里に本城を構えて琉球王国を統一した尚一族によってあらぬ謀叛の嫌疑をかけられ忠誠の証しに居城である中城城で自刃したという悲運の名将・・・13世紀の戦国時代、各地の按司たちが大小のグスクを築いて覇を競い、次第に統合されて15世紀に中山府の尚巴志によって日本とは別の琉球王国が独立国家として成立した。以後、薩摩藩が鉄砲という新式火器を用いて侵攻するまでの180年間、琉球王国は中国との朝貢貿易で隆盛を極めた。中国皇帝への貢物を献上した見返りに、豊富な中国産品を帆船に積み込み、日本、朝鮮のみならずシャム、ジャワ、ルソンなど東アジアの国々と交易を重ね、独特の政治外交、文化を築いて繁栄を誇ってきた。・・・戦争中、日本軍が沖縄に上陸してくる米軍を想定して、読谷に陸軍北飛行場を建設した際、一の丸に高射砲陣地が作られた・・・
 城跡を後にしさらに北へ。やがて右手のはるかの丘に米陸海空軍・海兵隊のすべての基地に弾薬を供給するという弾薬庫のある建物が見えてきた。ここから嘉手納基地までは地下道で繋がっているという。そしてバスの窓から小さな畑が見えた。「・・・知花弾薬庫の土地一帯を軍用地として提供することになった・・・米軍の立入り禁止区域に指定されて、誰も入れなかったけど、何の施設もない空地のままだったから、お父は自分の畑を耕すのは当たり前と、率先して農作業をしていたよ・・・」(運命の人より) ああこれがその畑なのだ。嘉手納弾薬庫の基地の一部が返還になり、その土地を読谷村が丸ごと買い上げ、沖縄の伝統工芸の文化村を構想した。それが現在の「琉球村」である。占領者に対等に伍していくのは沖縄文化であるとして、まず招致したのが伝統のある陶芸、そして読谷伝統の花織りの機屋、ガラス工房、さらに歴史民俗資料館などがある。
 今夜の宿、残波岬のロイヤルホテルへ。窓から残波岬の灯台巨大なシーサーが見えた。
   
3月13日
 さらに北上する。車窓のあちこちに大きな墓が目立つ。亀甲墓、破風墓、家(屋形)墓などで沖縄でも中南部に多いそうだ。大きさは畳4畳のものから8畳くらいのものまで。古来日本列島全体に風葬の習慣があったが、沖縄ではこの習慣がこの墓と融合し、死後数年間は遺骸を石室内に放置し、数年後に親族(特に長男の嫁)で洗骨して改めて骨壷に納骨して石室に収める。沖縄では先祖の霊を祀るに篤く、なかでも清明祭が盛んである。旧暦の3月頃、清明の節に行われる年中行事の一つで18世紀に中国から伝わった。最初は首里の士族が中心に行ってきたが、その行事が農村部の庶民に広がった。親族が揃って先祖の門中墓(共同墓)の前の広い墓庭に集まり、お墓参りをした後、持ち寄ったご馳走や泡盛で門中の息災を話し、墓の中の祖先にも報告するならわしがある。お酒に酔って、歌ったり踊ったりして歓談するのである。
琉球村
 かつての沖縄を再現した施設。園内には県内各地から移築した築100年以上の古民家がならび、かつての沖縄らしい情緒が漂いなんとも懐かしい感じがしてとてもよかった。道ジュネーでは年間行事を凝縮したパレード、琉球国王や王妃が登場したり、エイサーや古武道演武などのショーがあり、こうした民族芸能を観られたのは楽しかった。また体験はできなかったが、三線、紅型絵付けなどの文化体験があり、さとうきびを搾る道具を廻す牛・サーターヤー(製糖風景)、水車小屋、登り窯、陶芸工房などもあった。行かなかったがハブセンターもあった。マングースもいるそうだ。マングースはハブ駆除用に東南アジアから移入されたが繁殖力が強くて沖縄では人間の生活を荒らし廻っているそうだ。園内は観光客が民族衣装を着て散策している姿も見られ、これぞ沖縄って雰囲気であった。
 石川ICから高速に入り、金武町、恩納村、宜野座村を走りぬけ名護市へ。ガイドさんによると、沖縄でも地方によって方言があり、名護の言葉はおもしろいと紹介があった。ハ行はパ行に、カ行はハ行に発音するそうだ。また名護の言い伝えで、名護湾にヒートッ(ゴンドウクジラ)がたくさん入ってくると市長さんの人気があがり、少ない年はその市長が選挙に立候補しても落選するそうだ。もっとも近年は殆ど入ってこなくなったそうだが。ガイドさんのたわいもない話をもう一つ。ガイドさんは天ぷらにウスターソースをかけて食べるのが好きだそうだ。夫がすかさず「僕もそう」といって、大いにうけていた。
OKINAWAフルーツらんど
 亜熱帯のさまざまなフルーツ、群れ飛ぶ蝶日本最大の蝶・オオゴマダラがヒラヒラと舞う。極彩色の鳥などが見られ楽しい施設であった。ちなみに沖縄には烏がいないそうだ。何故か? 「黒いと暑いから」だって。
 チサンリゾート沖縄美(ちゅ)ら海で昼食。
海洋博公園・沖縄美ら海水族館
 本部町にあるここは、沖縄海洋博の跡地にできた広大な公園である。沖縄の海、豊かな自然や歴史文化の体験が楽しめる。まずは中央ゲート・噴水広場のあたりへ。美ら海花まつりが終わったところで、花々がいっぱいで、ヤンバルクイナ、カニ、タコ、クジラなど花で象ってありたいへん美しかった。続いておきなわ郷土村へ。あまりに広すぎてとても廻りきれないので、メインの沖縄美ら海水族館へ行くことにした。黒潮に育まれた沖縄の海では、人の想像を遥かに越えた雄大な命の営みが繰り広げられている。その輝き、神秘そして美しさを体感する世界最大級の水族館がうたい文句。確かに巨大な水槽に3匹のジンベエザメやマンタが悠々と泳ぐ様は豪快で、目玉の給餌ショーを存分に楽しんだ。すぐ目の前の海にピラミットのような特徴的な山(150mだそうだ)のある家島が見えた。島の30%が米軍射撃場だそうである。
 一部高速をつかい那覇まで一路南下。沖縄では今でも、飛行機の爆音、パイロットの顔さえ見えそうな低空飛行、飛行機の墜落事故、実弾砲撃演習、夜間照明弾演習、米軍兵による交通事故、暴行事件等々が頻発している。あるときは、風向きが変わって落下傘を取り付けたトレーラーが目標地点をはずれて落下し子どもが下敷きになって死亡した事故もあったし、化学兵器によって飛行場施設が攻撃されたことを想定した訓練・・・防毒マスクと防護服に身を固めた兵士たちを見て、村にどんな毒ガスが持ち込まれ、いつ何時漏れ出してくるんじゃないかと気をもみ、日常の暮らしが脅かされて危険な演習や毒ガスの危険といまもって隣り合わせになっているとは。那覇市内に入ると、道路を封鎖して不発弾の処理をしていた。つい先日は、校庭で不発弾処理があったそうだ。
 今夜の宿は、ホテル日航那覇・グランドキャッスル。首里城の近くであったので、タクシーで行ってみた。夜の首里城の周りを散策し、龍潭池からライトアップされた美しい首里城の夜景を楽しんだ。
 
 
3月14日
南部戦跡を巡る 
 今日は私の一番訪ねたかった沖縄南部の旅である。国内唯一の県民を総動員した地上戦となった沖縄戦。激しい戦闘が繰り広げられたこの南部には、慰霊塔などの戦跡施設が点在し戦争の傷跡を今に伝えている。かっては4線の軽便鉄道(軌間70cm)が走っていたという。車窓には沖縄ではじめて目にする広大な畑が広がっている。おそらくこの多くにさとうきびが植えられるのだろう。やがて糸満市に入ると地上戦がはじまって3カ月後、沖縄守備軍である第32軍司令官と作戦参謀長がこの洞窟で自決したという摩文仁の丘が見え、最南端の荒崎海岸が見えてきた。ここで、沖縄戦の様子を「運命の人」から抜粋し紹介したい。
沖縄本島最南端の島尻地区は珊瑚石灰岩の台地になっており、地下には無数の洞窟が網の目のように広がっている。この一帯には地元住民や首里、那覇方向からの避難民が洞窟や亀甲墓の中に避難していたが、5月末、日本軍がこの洞窟にたて籠って戦闘を続ける方針で生き残りの全部隊を移動させて来たため、南北7キロ足らずの台地に約3万人の軍隊と10数万名の避難民が入り乱れ、袋のネズミとなった。6月7日頃から米軍の戦車隊、歩兵隊は喜屋武半島の日本軍最後の陣地に総攻撃をかけて来た。守備隊は抵抗したが、17日、米軍戦車隊が防衛線を突破して台地へ入り込んで来ると、まともに戦えず、地下洞窟に潜る策を取った。米軍は地下の日本軍陣地に手榴弾、ガス弾を投げ込んだり、火炎放射器で焼き払ったりして、“馬乗り攻撃”を加えた。断末魔の戦場では、日本兵に壕を追い出され、“鉄の暴風”の中をさまよう者、食糧を取り上げられ餓死する者、沖縄方言が通じず、スパイ容疑で射殺される者、泣き声が洩れるという理由で絞め殺される幼児たち・・・、兵隊も避難民も「人間が人間でなくなる」状態に追い込まれていた。6月22日未明、守備軍牛島司令官は割腹自決した。この日を以って沖縄戦は終了したはずであるのに、牛島司令官は遺書によって、「爾今、各部隊は各地において生存中の上級者これを指揮し、最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」と命を下した。つまり生き残った将兵は各地でゲリラ戦を続けて、最後の一兵卒まで戦い続けよというのである。停戦を決める責任者が不在となり、戦局が長びくことによって、米軍を沖縄に釘付けして、またも本土決戦の時間稼ぎの作戦が取られたのである。
ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館
 沖縄陸軍病院に看護要員として動員され亡くなったひめゆり学徒を鎮魂する慰霊碑である。塔の下には多くの命が失われた壕があった。永い間来たいと望んでいた碑に献花をし祈りを捧げた。平和祈念資料館も見学した。師範女子部と県立第一高女の生徒、職員297名中、職員16名、生徒208名が戦死したという。「沖縄県立女子師範学校は今の那覇市にあり、石作りの正門前に相思樹並木がありました。門をくぐると右に女子師範、左に一高女があり、女子師範の愛称は白百合、一高女は乙姫でしたので、「ひめゆり学園」ともいいました。難関を突破して入学が叶った女子師範でしたが、1944年、戦局は逼迫し、授業よりも勤労動員が多くなり、翌年3月24日夕刻、女子師範、一高女の生徒は看護要員として南風原の陸軍病院に入隊し、ひめゆり学徒隊員になったのです。」(運命の人より) 生き残ったひめゆり学徒隊員の証言に「私は生き残りましたが、骨の髄まで大和魂を教え込まれ、砲弾に倒れ、手榴弾で海を真っ赤に染めて自決して行った学友のことを考えると、悔しくて哀れでなりません。」とある。今回は行けなかったが、近くに「沖縄師範健児之塔」があるという。摩文仁で生き残った兵隊、学徒隊、一般住民は行き止まりのこの南の巌の果ての天然洞窟の中に身を潜めていた。「17世紀、薩摩藩の支配下におかれて以来、絶えず差別政策を続けられた私たち被圧政者の何世代にもわたる複雑な心の裏返しだったのか、沖縄は陛下の赤子として頼もしい皇軍に守護されるのだという喜びで、陣地構築に勇んで出かけたものだった。おそらく日本人の中で沖縄県民ほど日本人たるべく努力し、その当時の最高の日本人たり得た国民はいないのではないかと思う。」(運命の人より) 沖縄戦没者の慰霊碑「平和の塔」が建つ喜屋武岬、軍民国籍を問わず犠牲者の名が刻まれた平和の礎の建つ平和祈念公園は是非訪れて祈りを捧げたいと思った。
おきなわワールド
 首里城下町を彷彿させる美しい赤瓦の町並み、30万年の年月が創りあげた大自然の彫刻博物館、沖縄の歴史・文化・自然をまるごと体感できるコーナーなどがある。まずは、サンゴ礁から生まれた鍾乳洞・玉泉洞へ。ガマは沖縄の言葉で洞窟を意味する。珊瑚石灰岩が隆起してできたという沖縄本島中南部にはいたるところに鍾乳洞があり、ここもその一つ。園内では、現代風にアレンジした勇壮な演舞エイサーショウ(ジョンガラ念仏に由来し、沖縄では平和、民主、自由を願って踊るという。)が行われていた。またバスの窓から見え、一番印象に残っていたイッペーの花をここでカメラに収めることができた。
琉球ガラス村
 戦後の琉球ガラスはアメリカ文化の象徴であるコカコーラ、ペプシコーラ、ビール、ウイスキーの空瓶などを再生して創り出されたという。実演をじっくり見ることができた。沖縄では、時間があればこのグラス作りや織物体験などしたかったなあ。
国際通り
 那覇市で一番賑やかな国際通りには、沖縄特産の泡盛、黒砂糖、伝統工芸の焼き物、漆器の店がずらりと軒を列ねている。その間には米軍兵士の古着、勲章、サングラスなどを並べた雑貨屋、Tシャツ専門店もある。私たちは第一牧志公設市場にいってみた。近海ものの魚介類を並べた店、亜熱帯産の果物、食べもの、菓子などの店が軒を列ね賑わっていた。沖縄ならではの出版物が並ぶという本屋さんがあると聞いたが探せなかった。
 
めんそーれ 沖縄
 いらっしゃい! ようこそ!という意味だそうだ。
 
沖縄を旅して
 
ヌチドゥ宝
 沖縄にはヌチドゥ宝という言葉がある。ヌチドゥは命、命あってこそという意味。命を大切にすればいつか成せるチャンスが巡ってくるということ。すばらし言葉であり、心にじんと響く。以下「運命の人」より抜粋
“艦砲の喰い残し(カンポーヌクエーヌグサー)”ー自分たちは米軍上陸時、凄じい艦砲射撃を受け、隠れようとしてもその場所さえなく、多くの人が死んでいった中で生きのびた、云わば喰い残しだ。けれどせっかくこうして生かされたのだから、その命を支えにして、復興をやり遂げねばならない。基地を自分たちの手に取り戻し、一坪たりとも米軍に使わせず、生産と生活のために変えていくのが、生かされて来た自分たちの使命なのだ。・・・
 
画像は
残波岬ロイヤルホテル前のシーサー
琉球村 瓦を積んだ塀のある民家
OKINAWAフルーツらんど スターフルーツ
首里城の夜景
おきなわワールド ガジュマルの大木の前で
おきなわワールド 咲き乱れる花々
 
 南部戦跡ももっともっと巡りたかったし、政治と神事が密接に絡み合う独特の文化・歴史を感じることができる、例えば勝連城跡など訪ねてみたかった。それにはたった3日では・・・心を残す旅であった。

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