バンコクにて

私の感じたバンコク 
   伝統と未来あふれる街
 昨年末孫たちとバンコク旅行を楽しもうと2度計画したが、日程や飛行機がうまくとれず断念した。年始のアラスカの旅もうまくいかなかった。ようやく今年1月バンコク旅行の予約がとれ、楽しみにしていた。ところが思いがけず東日本大震災・・・恐怖と悲しみに言葉を失った。東北・関東には親戚、友人、知人などたくさんある、海外などとんでもない話である。震災後2週間が経過した。旅行計画に思いが及び悩んだ。今回の旅は、下の孫の小学校入学祝の意味もあり、東京で何度も地震の恐い思いをした孫たちを慰めるためもあり、後ろめたさに心揺れつつも実施することにした。


第1日
 午前1時10分羽田国際空港を飛び立ち、バンコク国際空港に8時20分(現地時刻6時20分)着。タクシーで3泊するグランド・ハイアット・エラワンへ。ギリシア神殿風の豪壮な造りのホテルである。私たちは孫(幼児)2人と大人3人、3室続きの客室に案内された。白と薄い緑を基調にした上品なインテリアの広々とした客室に孫たちは大はしゃぎ。レストランで食事したのち、しばらく休憩して、午後は市内観光へ。(孫たちはホテルのプールで遊ぶ。)
バンコク市内観光
 日本語観光バス・ウェンディツアーに申し込む。
ワット・プラケオ(エメラルド寺院)と王宮
 王宮へ向う道すがら人人人、車車車、トゥクトゥクと呼ばれる3輪タクシーも非常に多い、バイクバイクバイク、互いにくっつきあうように何列にも並んで走り、横合いからも突然バイクが飛び出し、少しの間隙があれば車線変更、人は動いている車の前を平気で横切る。賑わいと喧騒と人々の集団というより群団で、それが1人1人の構成によるもので、逞しさと底力と恐怖を覚えた。寺は1782年、ラーマ1世がトンプリーからバンコクに遷都すると同時に、王朝の守護寺、護国寺として建設が始められたものである。基礎の部分には、ビルマ軍に破壊された旧都アユタヤーの寺院を崩して取り出したレンガを使用しているという。本堂にエメラルド色の仏像を祀っていることから「エメラルド寺院」とも呼ばれる。金色に燦然と輝く仏舎利塔、仏教経典を納めるプラ・モンドップ、王室専用御堂プラサート・プラ・テープビドーン、大きな武器を携えた漆喰製の魔除けの鬼人像(ヤック)、黄金に輝く2基の仏塔、仏陀の生涯についての話や極楽・地獄・現世の三界図会が描かれた内壁をもつ本堂には本尊として高さ66cm、幅48.3cmのヒスイ製の仏像が安置されていた。王宮・・・実際にここに住んでいた国王はラーマ8世までで、現国王ラーマ9世はチットラダー宮殿に。現在この王宮は儀式、祭典の場、迎賓館として利用されているとのこと。東洋と西洋の美意識が見事に融合したチャクリー・マハ・プラサート宮殿である。左手鉄柵の奥にボロマビマン宮殿、右に最初に建てられたドゥシット・マハ・プラサート宮殿。きらびやかな建物群にただただ圧倒された。タイの人々にとって国王とはどんな存在なのか、ここに築かれたタイの文化・・・なぜこんな文化を築くに至ったのか不勉強で皆目分らない。街に溢れる逞しさと底力をもった人々、シャイでひかえめな文化の日本人には理解できない側面であるが、かつての日本もこうであったに違いない。やがてこれから秩序が生まれ、質高く成長したタイが築かれるのだろうと思った。
ワット・アルン(暁の寺)
 ボートで対岸へ渡った。ワット・アルンのシンボルは、チャオプラヤー川沿いに聳え建つ大仏塔。これは創建時にあった高さ16mの仏塔をラーマ3世が5年がかりで改築したもの。ヒンドゥー教の破壊の神であるシヴァの住む聖地カイラーサ山を象っているといわれている。中央の特大仏塔は高さが75m、台座の周囲は234mもある。大仏塔の周囲に建つ4基の仏塔も高さが違うだけで造りは同じ。飾り付けられた無数の石像はインドラ神とその乗り物である3つの頭をもつエラワン象を筆頭に、ガルーダ、悪魔、猿など「ラーマキエン」に登場するものばかり。この大仏塔の3階の部分まで急な石段をあえぎつつ登った。
ワット・ポー(涅槃仏寺院)
 再び濁流の川をボートで渡る。礼拝堂の中に、大寝釈迦仏が安置されていた。レンガでおおまかに形どられてから漆喰で造形されたこの大仏像は、全長46m、高さが15mという巨大なもの。その姿で涅槃に達し悟りを開いた釈迦を表現している。また長さ5m、幅1.5mもある巨大な偏平の足の裏には、バラモン教における宇宙観が108面の螺鈿(貝殻の白い部分を研磨してはめ込んだ装飾)細工画によって表現されている。本堂に参拝した。本尊はトンプリーにあるワット・サーラーシナーの本堂から移されたもので、台座にはラーマ1世の遺骨が納められているそうだ。小さな陶片や中国風のタイルで装飾された大きな4基の仏塔は、ラーマ1世から4世にいたるまでの歴代4国王を表している。また境内に並んでいる高さ3mほどのタイル貼りの小仏塔はタイ風の墓石で、中には遺骨が納められているそうで、ここからたくさん見られた。南側に僧房がたくさんあり、寺院との間を行き来しておられた。案内してくださったのは日本語の話せるタイの方であったが、かつて日本がタイを侵略したことについて一言も触れられなかった。それは何故なのだろう。これからの日本との付き合いを考えて表面に出されなかったのか、旅行者への心づかいなのか聞こうと思ったが控えた。
第2日
 この日、孫たちと娘(孫の母親)は娘のバンコクに住む同僚が迎えに来てくれるそうで、私たち夫婦の自由行動日。昨日と同じ日本語ツアーに参加することにした。日本語はもちろん英語も通じないところ(人)が殆どという国にあって、タイの文化を理解し楽しむにはこれに限る。今日のツアーは旧都アユタヤーまで行くとあって午前7時出発である。6時に朝食を済ませ部屋に戻ろうとしたら部屋が開けられない。昨夜孫がカードを使っていたから彼女たちの部屋のものと取り違えたのかもしれない。あわててフロントに戻り新しいカードを作ってもらい20階の部屋へと大騒動・・・
世界遺産 アユタヤー観光
     (往路バス、復路クルーズ)
 アユタヤの歴史は、1350年にシャム王国のウートン王がアユタヤ王朝を開いたことに始まる。以後、35代417年の長きにわたって王朝は栄えた。アユタヤはチャオプラヤー川とその支流に囲まれた自然の要塞で、運河が整備され「水の都」とよばれた。水利に恵まれた都アユタヤは、東南アジアきっての商業と文化の中心地となり、16〜17世紀にはポルトガルやオランダなどの西洋諸国や日本とも盛んに交易し、日本人町もあった。王朝が全盛期を迎えたのは17世紀、人口はロンドンやパリよりも多く、世界的に有名な大都市だったとという。長い歴史の間には27回にも及ぶビルマ軍との攻防もあり、決して平穏ではなかった。1767年には遂にビルマ軍に占領されてしまうが、同年10月にタクシン将軍がアユタヤを再び奪還。都はトンプリに移された。アユタヤ王朝では上座部仏教が信奉され、数多くの寺院が建てられた。今日残る遺跡は、初期アユタヤ王朝時代の寺院が多い。
バーン・パイン離宮  
 まず早朝に着いたのがアユタヤ王朝26代プラサート・トン王の命によって建てられた宮殿で、歴代王が避暑地とした夏の離宮。現在は王族の別荘であり、各国の要人を迎える迎賓館として使用されているそうだ。広く美しい敷地には多くの建造物が建っていた。中国建築の明天殿を見学し、ラマ4世が天体観測に使ったという天文台、らせん階段をのぼった展望台からは宮殿の全体を一望することができた。手入れの行き届いた花々の咲き乱れる庭園。ゴールデンサワーとよばれる黄色い花の大木、ブーゲンビリアが殊に美しかった。タイの人はマンゴージュースは飲まないそうだが、そのマンゴーもたわわに実をつけていた。これは王様のものだから実を取ると罰せられるそうだ。また池に映る建物もすばらしくゆっくりと散策を楽しんだ。
日本人町跡
 豊臣秀吉や徳川家康が行った朱印船貿易によって、アユタヤに渡った多くの日本人が居住していた日本人町の跡地。日本人町の頭領だった山田長政は、スペイン戦艦焼き討ちによって国王の信頼を得て、宮廷に仕え爵位を授けられたという。敷地内の日本人町歴史研究センターには山田長政像が置かれているそうだ。バスの車窓より見学。「日本人村」「アユタヤ日本人町の跡」と記されていた。
ワット・プラ・シー・サンペット
 アユタヤ王朝を建国したウートン王が最初の王宮を建設した場所。しかし王宮は1426年に焼失してしまい、その後ラマティボディ2世によって王室専用寺院が建設され、1491年には現存する3基の仏塔が建てられた。瓦礫が広がる跡地の中にすっくと並んで建つスリランカ様式の仏塔が美しかった。
ワット・ヤイ・チャイ・モンコン
 アユタヤの都を創建した初代ウートン王が、1357年スリランカから帰った僧呂のために建てた寺院。その敷地内にひと際高く聳えるのは1592年にビルマ支配からの解放を祝ってナレースワン王が建てたスリランカ様式の大仏塔。高さ72mはアユタヤで2番目。塔の途中の礼拝堂まで階段で登ることができ、もちろん登ってみた。昨日の塔ほどの高さ、傾斜ではなかった。また屋外に横たわる巨大な涅槃仏や本尊であるアユタヤ様式の黄金の釈迦仏にも目を見張った。まさに仏教国家アユタヤの象徴的遺跡であった。
 
第2日(つづき)
ワット・プラ・マハタート
 14世紀の重要な仏教寺院遺跡で、1374年に3代目ポムラ・ラチャシラット1世が仏舎利を納めるために建立したという説と、2代目ラーメスアン王が建てたという説があるそうだが、建設当時は中央に黄金に輝く44mの仏塔が聳え、1633年にはプラサート・トン王が50mの高さに修復したと伝えられる。しかし、ビルマ軍のアユタヤ侵攻によって破壊され、仏塔は途中から崩壊、無残な姿をさらしている。画像の左上は、切り落とされた仏像の頭が、長い月日を経て木の根に覆われた神秘的な光景である。1年に1cmずつ上昇しているそうだ。誠に広大な遺跡群の中を散策した。
 ここまでの長いバスな旅で、ガイドさんからタイの歴史や人々の暮らしについて様々な話を聞くことができた。
 私たちは自分の生年月日は知っていてもそれが何曜日であったか知らない。ところがタイの人たちは誰もが誕生日の曜日を知っている。曜日によってラッキーカラーが決まるからだ。例えば現国王ラマ9世は月曜日生まれでラッキーカラーは黄、そこで国王に因む場所には黄色の旗がたくさん立っている。自分の誕生日の色とその日の色が今日のラッキーカラーだそうだ。因みにラマ9世は83歳でタイの人の平均寿命63歳に比してかなりご長寿だとか。さらに干支はうさぎ年、そこでバーン・パイン離宮にも9羽のうさぎが作られていた。干支も順は日本と同じで、いのししのかわりが豚、羊のかわりが山羊だそうだ。今年はうさぎ年、国王は84歳になられる。
アユタヤ・エレファント・ライド
 像の背に乗せてもらい散策。大きい背だけに安定していた。その後、象のショーがあったり、餌を与えたり・・・象の体重は3トン、平均寿命は70年、睡眠時間は4時間、餌は1日300kg、糞は150kgなどの豆知識を。
リバーサンクルーズ
 復路は川風に吹かれながら4時間のクルーズを楽しんだ。アユタヤからバンコクへ、2つの都市を結ぶチャオプラヤー川をクルーズするリバーサンクルーズ号は、「世界遺産アユタヤの旅とチャオプラヤー川クルーズ」専用の船。まずは、船内のビュッフェでタイ料理を。香辛料をたっぷり効かせたタイ料理はたいへんおいしく、果物の豊富さにも驚いた。デッキから眺める堂々たる川の流れ、水上に突き出た家々ののどかな佇まいもいい。家々に小舟が繋がれている。さすが水の都だ。バンコクが近づくと、ワット・プラオケやワット・アルンの美しい姿を川風に吹かれながら眺めるのもまたよかった。
第3日
 プール好きの孫たちにつきあって朝から水泳を楽しむ。その後10時過ぎから9人乗りの車(日本語の通じる運転手つき)を借り切ってバンコク郊外へ。この車は、1日(12時間)借り切って、どこへでも好きなところへ行き、ガソリン代別で3500バーツ(約11000円ほど)、ちなみにガソリン代は1000バーツであった。道路は、車、車、車で大渋滞、いつものことらしい。水上交通が中心のタイ王国では、鉄道網も遅れ、その結果の車社会、如何ともしがたい状態なのであることを実感した。道中、またいろいろな話が聞けて楽しかった。タイの人口は6400万人、うちバンコクは1000万人、在住している日本人は20万人。寺院の数は3万寺。マンションというのはアパートより条件の悪い安い建物で、若い人の多くはアパートに住んでいる。そのアパートには殆どキッチンがない。そこで誰もが食事は外食(路上に並ぶ屋台で)が常食なのだそうだ。そういえば渋滞する車の間を縫って歩いたり小さな荷台に食べ物を乗せて売り歩く人の姿がたくさん見られ驚いた。
サームプラーン・エレファント・ズー&クロコダイル・ファーム
 ワニ養殖場と蘭栽培場をもつレクリエーション型動物園である。孫たちは象に乗って園内歩きを楽しんだ。画像一番上の滝の前で象に乗った孫たちの写真はまことに絵になった。(孫の写真は非公開) その後、ワニ対飼育係の格闘ショー、マジックショーを見、象の曲芸を見た。野生の象を捕獲する様子の再現、PK合戦などのサッカー大会、ダンス大会、丸太を使った力試し、象が戦車代わりに使われていた時代を再現した模擬戦争など巨体を揺すっての大迫力アトラクションに孫たちも夢中。象の頭のよさには関心させられた。カメのボートに乗ったりもして3時間余をたっぷり楽しんだ。
ローズ・ガーデン
 古来より伝わる伝統舞踊やタイの結婚式などタイの文化に触れることのできる施設であったが時間がなくほんの少し鑑賞しただけで残念であった。
 ホテルに帰ってから孫が「水上マーケットが見たかった」と言った。ああ私も!! この近くだったのに・・・運河に浮かんだハシケの周囲に、魚の塩焼きやエビの網焼きなどのシーフードを中心としたさまざまな料理をする小船が何艘も浮かぶそうだ。
サイアムオーシャンワールド
 市内へ戻り、水族館へ行くことにした。まずは1階にあるレストランへ。バンコク社会の映し絵のようなレストランであった。夕食の後5階の水族館へ。足をつけ魚に皮質を食べさせるなどユニークな水族館で、2時間ほど楽しんだ。
バイヨーク・スカイ・タワー
 最後はスカイ・タワー。高速のエレベーターで77階へ、あっという間である。エレベーターを乗り換えて84階まで上るとそこは回転台になっており、360度のすばらしい夜景が広がっていた。道の両側に立ち並ぶ夜店の間を走りホテルへ戻った。
第4日
 国立歴史博物館へ行くことにした。地図で見るとそんなに遠い距離ではない。市内見学をかねて歩いて行くことにした。地図を見せてたくさんの人に道を尋ねる。どの人もたいへん親切で、しかし「歴史博物館?」と首をかしげながら地図の方向を教えてくださった。車を止めて道を渡してくださる女性もあった。チェラロンコーン大学のところまで来た。目的地付近である。大学生に尋ねると、あちこち探してくださり、やがて少し先の広場の中の建物を指差し「may be」と。しかし違った。また別の人に聞くと、何人かが集まって相談し、中の1人はバイクに3人乗りして連れて行ってあげようかとまで! ほんとうに何人もの人にお世話になった。でも結局見つからない。諦めてホテルへ戻り、タクシーで行こうとしたがホテルでもその博物館の場所がわからない。後日、その博物館はすでになくなっていることがわかった。この間、孫たちはトゥクトゥクに乗って市場に行ったそうで、ああそれもよかったかな。午後は買い物に出かけ、6時にチェックアウトした後、ホテルで食事をして、空港へ。22:15バンコクを離陸した。
第5日
 羽田に4:00(日本時間6:00)に着陸。
孫と過ごしたうれしいバンコク旅行であった。

戻る