2010 北の大地にて

2010 北の大地にて
 7月31日と8月1日に行われる「ダウン・ザ・テッシーオーペッ 2010(天塩川カヌーツーリング大会)」に参加することを楽しみに北海道を訪れた。
 
 8月鳥海山から下山の際、バランスを崩して転倒、肋骨を2本折ってしまった。当初は9月上旬から下旬にかけて北海道に渡る予定を立てていたが、今年の猛暑に耐えかねて、涼しいところでゆっくりと過ごし肋骨を治そうと予定を変更し、急遽8月29日出発、3週間屈斜路に滞在し9月24日帰松した。おかげで痛みはすっかりなくなったのだが・・・のんびりと過ごす予定がどうして、どうして!!
 


7月20日
 北海道に渡った第1日め、すかっと青空が広がった。恵山岬の先端にある水無海浜温泉へ。誰もいない、貸しきり露天風呂。温度も適温、いい温泉であった。
 そのまま北上、森町へ。森町役場で資料をもらい、「明治天皇御上陸地」の大きな標柱のある港らしきところに行ってみた。噴火湾をはさんで古来よりここはかなりの港であったに違いないと思ったからだ。鉄道があり「立入禁止」の看板があるこちら側に、「森桟橋跡」の標柱と説明板があった。明治5年に255mの桟橋が設けられ、昭和3年に廃止されたそうだ。興味深かったのは、「イザベラ・バードが歩いた道」の詳しい説明がなされていたことである。
 八雲町で思いついて、帰りのフェリーの予約をとった。ようやくとるにはとったが25日までに代金を振り込めとのこと、旅行社は苫小牧まで行かねばならず大弱り。高速道に入り、豊浦噴火湾PA泊。
7月21日
 直接苫小牧東港に行って、新日本フェリーの切符をゲット。その後、静内のコインランドリーで1週間分の洗濯をしたりして、道の駅「みついし」へ。蔵三温泉で夕食と入浴。宿泊予約をと電話すると、弟子屈のいつも利用するコテージ「エメラルドレイク屈斜路」が昨年閉鎖されたとのことで驚く。これで道東の足場が・・・夜は心身ともに寒さで震えた。
7月22日
 小雨が降っている。車の暖房を入れて走る。「北の零年撮影地復元」と書いてあったので見にいったがわからなかった。様似の岩礁を窓外に襟裳へ。「ほろいずみ・えりも町郷土資料館」を訪ねた。昔の「サルル山道復元」に取り組んでみえる話を聞いたからである。館のかたから詳しいお話を聞くことができた。「えりもと武四郎」の説明も詳しくなされていた。その後、数年前に通り感動的だった黄金道路を走ってみることにした。北緯42°地点を過ぎる。黄金道路は新しいトンネルもたくさんできて、すっかり様変わりしていた。寒いせいもあるが、スリルのある道といかにもひなびた漁村の風景はない。その代わり、サーフィンを楽しむ若者の車の列が。
 「近藤重蔵蝦夷地山道開削」の標柱と碑の立つ地点にも立ち寄った。「江戸幕府蝦夷地探検の別働隊として近藤重蔵守重が率いた一行は・・・6月にトカチ(広尾)に到着、海岸の嶮難に九死に一生を得、艱難に耐え・・・帰途10月、トカチに立ち寄り、海岸の嶮に山道を開削するために資を投じ、アイヌ68人を使い、ルベシベツからビタタヌンケの間約3里(10キロ)に山道を開削した」とあった。そして「その果断、実に蝦夷地道路開削の嚆矢」として後世に讃えられているそうだ。その後、フンベの滝、十勝神社に立ち寄り、ナウマン国道を走って、長節湖、十勝太展望台遺跡(チャシ跡)、浦幌十勝川を渡り、黄金の滝、昆布刈展望台、十勝オコッペ遺跡、オタフンベチャシ跡などを見て廻り釧路へ。六花亭でお土産を買い込み、道の駅「阿寒丹頂の里」で泊。
7月23日
 弟子屈に着く。いつもならここでコテージを借り3泊ほどゆっくり過ごし、車中泊の疲れを癒すところだが・・・午前中、役場の教育委員会へお礼とお願いの挨拶に伺い、知人宅を訪ねたりして、午後屈斜路へ。たくさんの友人、知人とあって話し込む。貸しコテージが閉鎖されたという「エメラルドレーク屈斜路」を見にいったところ、10年以上前からお世話になっているこの別荘地の元オーナーの奥さんとばったり出会う。そして私たちがいつも借りていたコテージを買い取られた方が、1ケ月単位の長期滞在なら貸してもよいと言われている話を聞く。今宵は砂湯P泊。
7月24日
 昨日紹介していただいたコテージのオーナーさんに会いにいく。話はとんとん拍子に進んで、長期ならOKとのことで小躍りして喜ぶ。やれやれこれで、第2の故郷とも思っている屈斜路の宿が確保された。嬉しい!! 弟子屈は滞在も長く知人、友人が多くて、今日もあちこち訪ねたり、図書館に行ったり。長く釧路にいっていた友人にも何年ぶりかで会えたし・・・今夜も砂湯P泊。
7月25日
 屈斜路を離れ、更科源蔵文学資料館へ寄った後、野付灯台付近でアヤメの大群落を眺めたり、ビジターセンターで話したり、尾岱沼漁港で、北海シマエビを知人,友人に送ったり。
 「ポー川歴史と自然の丘」では、標津町歴史民俗資料館を見学の後、ボランティアガイドさんに案内していただいて、天然記念物標津湿原を通って、史跡・伊茶仁カリカリウス遺跡まで散策。復元住居や竪穴住居跡、ヌサ(祭壇)やヒカリゴケなどを見て戻り、開拓の村では、網蔵、番屋、納屋、農家、学校などを見て廻って充実した時を過ごした。この日は、「らうす自然とみどりの村」オートキャンプ場へ。国後島がま近くによく見え、すばらしい夕焼けであった。
7月26日
 知床を相泊港まで行き、相泊温泉と瀬石温泉の露天風呂を楽しみ、ルサフィルドハウスで、武四郎の地図と実際の地形を見比べたり、知床岬に立つ方法を話したり・・・このまま知床横断道路を通って知床峠を越えてもいいのだが、今日は根北峠を通っていくことにした。金山の滝ではちょうど滝を飛び上がって遡上するサクラマスが見られた。登録有形文化財の根北線橋梁跡も久しぶりに見た。網走を経て、「レイクサイドパークのとろ」のオートキャンプ場へ。近年すばらしく美しいオートキャンプ場が増えてきて嬉しいかぎりである。
7月27日
 ワッカ原生花園とは反対側のサロマ湖の砂州へ入った。三里浜キャンプ場の横の駐車場に車を止め、この先通行止めになっている道を1.5km先の灯台まで歩いてなら入ってもよいとの許可を得て歩いた。砂州の先を切り開きサロマ湖とオホーツク海をつないだところまで、松浦武四郎も歩いた道であったから。先には小さな灯台がひっそりと立っていた。レイクパレスで入浴をしてから丸瀬布の秋葉實先生を訪ねた。例によって、知人2人とともにマウレ山荘ですばらしいディナーをご馳走になった。この日は少しでも北へ向おうと「オホーツク紋別道の駅」まで走った。
 
ダウン・ザ・テッシーオーペッ 2010
天塩川 カヌーツーリング大会
 今回の25日間の旅の最大の目的はこの大会に参加するためであった。
7月28日
 オホーツク海側を北上の途中、「オホーツクミュージアムえさし」に寄った。前にも案内してもらったことのある学芸員さんに会って話すことができた。ここでは、「よみがえる北の黄金郷」の特別展を開催中であった。クッチャロ湖を見てから内陸部を横断し日本海側へ。そこから南下し中川町へ。今回は、おなじみのナポートパークのオートキャンプサイトを4泊予約してある。顔なじみの方々と談笑し、ご飯を炊いたり洗濯したり。ポンピラアクアリブィングで入浴。
7月29日
砂澤ビッキ アトリエ 3モア 
 前回訪れた時とは格段に整備されたすばらしい館内を見学した後、彫刻をしてみえた館長さんに話しかけた。
「ほう三重県から? ここ音威子府は三重県と関係深いのですよ。松浦武四郎が・・・」
「あのう実は私、松浦武四郎記念館の名誉館長なんですけど。」ということで、大笑い。すっかり意気投合して砂澤ビッキのこと、松浦武四郎のことを長時間話し込んだ。この河上館長さんは世界的な彫刻家砂澤ビッキと親交が深くおもしろい話をたくさん聞くことができた。作業場には巨大なビッキの未完成作品があり、屋内にもかかわらずこれまた大きなフキが生えていた。次回来たときは山へ案内してあげると約束してくださった。楽しみである。アトリエ駐車場の前に天塩川筋でいくつか見かけた「天塩川と松浦武四郎」の看板が新しく立っていた。
 高橋昭五郎彫刻の館にも行った。駅もそうだが音威子府は彫刻の町である。その後、「北海道命名之地」碑を建てられたうちのお一人で、以前から是非お目にかかりたいと願っていた佐近さんを訪ねた。この方は天塩川ルネッサンス会議代表であり、今回の大会副委員長でもある。アポなしではあったが運よくお会いしお話しすることができた。その上、音威子府村長さんにも引き合わせてくださった。ナポートパークに戻る。  
7月30日
 大会に参加するためのカヌー一式のレンタルをナポートパークに依頼していた。職員の方とその点検と準備をした。その後、ここに来たからには大好きなオロロンラインを走らなければと出かけた。降り続いた大雨のため牧草地もパークゴルフ場も水浸し。R40も通行止めのため、幌延雄信内から六志内峠を越えて天塩、稚咲内からサロベツ原生花園へ。ここも駐車場が水浸しで入れず。豊富を通り兜沼へいった。一面に蓮の花が咲く池で珍しいヒシの葉を見付けた。抜海に出てオロロンラインを走った。前回6月と7月はじめに通って両側が咲き誇る花々に満ちていて感動的だった道路は、花が盛りを過ぎていて静かだった。これもまたよい。帰りは「サロベツ海岸砂丘のえき」に寄り、いつもと違う道を遠別から咲花トンネル(志文内峠)を抜けて佐久へ。天塩川を見て驚いた。大増水で川幅も広くなり濁流が渦巻いていた。ああこれでは! キャンプ場へ戻る。ポンピラで入浴。
7月31日
 またポンピラで朝風呂。コインランドリーを使うなど午前中ぶらぶら。筬島に寄り音威子府中島公園へ。咲来(サクル)学校跡の公民館で村長自ら指導されたそば打ち体験、体験はせず村長の手打ちそばをいただく。実においしかった。5時から「ダウン・ザ・テッシーオーペッ 2010(天塩川カヌーツーリング大会)」の開会式と歓迎夕食交流会が大きな歓迎横断幕の張られた会場ではじまった。主宰者、来賓の天塩川への思いが熱く語られた。なかでも救急部長のドクターの「自分でなんとかしてください」には大爆笑。和やかな交流会の後、コースレクチャーがあった。「天塩川は大増水している。カヌーポートは水没している。水没した岸の樹木の間に巻き込まれると抜け出せない。風と流れをうまく捉えないと沈没する。レスキュー隊が助けても舟をつける場所がない。・・・今年19回めを迎えた本大会であるが、過去に事故の例はない。来年の20回大会以降も長く続けたい。」などの思いがひしひしと伝わってきた。ここ2日間は晴れていたのだが、北海道第2の大河はそう簡単に静まりそうにない。
8月1日
 とうとう大会は中止となった。楽しみは来年までとっておくことにした。かわりに、カヌー講習会ー私にとってはこれがたいへんよい勉強になった。ゲーム、「天塩川と松浦武四郎」の講演会。さて講師は? 昼食会と閉会式。午後ナポートパークに戻り、ポンピラで入浴。夕方10人の方がバーベキュー会を開いてくださった。地元産の持ち寄り手作り料理の数々のおいしかったこと! 皆さんの温かいお気持ちの嬉しかったこと!
8月2日
 お世話になった方々にお礼のご挨拶に伺いつつ南下することにした。音威子府の佐近さん、美深役場に大会本部事務局長の草野さん。美深では、郷土資料室、図書室、史誌編纂室なども見せていただいた。和寒に大会長の酒向さんを訪ねた。旭川から道央道に入り砂川SA泊。
8月3日
 札樽道を小樽で出、余市を通って倶知安町へ。ニセコスキー場のサマーゴンドラで上がり、懐かしい懐かしい後方羊蹄山を飽かず眺める。この町も大きく変わったけれど後方羊蹄山は変わることがない。京極、喜茂別、大滝、美笛峠と通って、支笏湖休暇村で入浴。苫小牧フェリー乗り場に着いた。出航は7時30分である。またしばし、北海道との別れの時である。
 
 
 
 
8月29日 夕刻出発
8月30日 新日本海フェリー、敦賀港を午前1時出航。波も静かで快適な航海、海上での日の出、日の入を楽しみつつ午後8時30分苫小牧港で下船。この日は近くの道の駅「むかわ四季の館」泊。
8月31日
 早朝出発、二風谷で北海道大学文学部二風谷研究室のマンロー博士記念館を訪れた。我国人類学の先駆者英人ニール・ゴルドン・マンロー博士は、昭和初期北海道に渡り、二風谷コタンに在住し医師として献身的に医療を施し、9年後この地で亡くなった方である。その後、ハンゴン草の美しい道を走り、道の駅「樹海ロード日高」で休憩し、清水町へ寄り、芽室から道東道で足寄へ。久しぶりに螺湾を通り、オンネトウを見ながら阿寒へ。阿寒ではたくさんの知人と再会、話が弾む。この日は駐車場で車中泊。
9月1日
 展望台に上った後、阿寒横断道路を雄阿寒岳登山口、ヒョウタン沼、双湖台、双岳台と立ち寄りつつ弟子屈へ。役場で挨拶をして、いつものように北海道新聞の配達を依頼し、川湯経由でエメラルドレイク屈斜路のコテージに落ち着く。
9月2日
サクラの滝 男鹿の滝 江鳶山  
 屈斜路の友人、知人に挨拶。早速行動開始。静養に来たはずなのだが、こんなに天気がよく、自然が呼んでいるとあっては出かけざるを得ない。野上峠を越え、まずはサクラの滝へ。実はこの8月に息子がここを訪ねサクラマスがたくさん遡上していたと聞いたからだ。この日もどうどうと激しく流れ落ちる2mほどの落差の滝(巾は20mほどか)をサクラマスが飛び越えようと果敢に挑戦していた。なかにはすでに婚姻色の赤色のサクラマスもいた。花壇がすばらしい緑駅を通り、アタクチヤ林道、斜里川林道を走って男鹿の滝へ。訪れる人の少ないまさに秘境の男鹿の滝は深い山の中で美しく流れ落ちていた。「熊出没注意」−それはそうだろう。続いて江鳶山スカイライン(うーん、スカイラインといえばそうなのだろうけれど、いつ車が通ったのだろうかと思うがたがたの林道)を江鳶山へ。下ると鹿よけの柵、えっ戻るの? すると開けて通ってください、ああやれやれ。斜里川河口でサケの遡上を見た後、再び野上峠を越えて屈斜路へ。仕事帰りの友人夫婦と夜11時半から日付けをまたいで歓談。
9月3日 雨
 磯分内からオソベツ川のあたりをドライブ、標茶町役場や図書館に寄り、松浦武四郎の歩いた道を調べる。その後、何年か振りかで多和平へ。
9月4日
根室カニ祭り
 根室港は花咲ガニの山、山、山、大勢の人で賑わっていた。明日「歩こう会」に参加するための手続きに「北方四島交流センター(ニホロ)」へ。ニ(日本)、ホ(北海道)、ロ(ロシア)を表すとのこと。手続き後、花咲港へ行き、いつものカニやさんで花咲蟹を堪能。納沙布岬で車中泊。
9月5日
北方領土まで歩こう会 
 最東端の納沙布岬の夜明けは早い。4時起床、夜明けを待つ。すぐ目の前に見える貝殻島(3.7km)の上に昇る朝日はすばらしく厳かで美しい。「北方領土まで歩こう会」は3コース。国後コース(16km)、水晶コース(7km)、貝殻コース(3.7km)で、私たちは水晶コースに参加。大勢のゼッケンを付けた人々に交じって、道端に咲く可憐な花々に見入り楽しく歩けた。給水休憩の珸瑤瑁小学校は日本最東端の学校で、数年前、この学校の先生とお話したことを懐かしく思い出した。ゴール地点のフェスティバルで「返還祈願弁当」をおいしくいただいた。花咲港で土産の花咲蟹をたくさん仕入れ、別海温泉ホテルに知人を訪ねた後屈斜路に戻った。
9月6日 休養日
 弟子屈町内の郵便局、水郷公園を廻ったのみ。
9月7日
 奥西別川サケ・マス孵化場のところへ松浦武四郎が記した摩周湖の水の湧水池を見に行ったのだが湧水の一部は確認できたものの大部分は孵化場の中にあり、立ち入り禁止で見られなかった。西別岳登山口に行くと立派な西別山荘があり、以前西別岳に登ったときは通り過ぎただけだったので、誰もいない山荘の中に入らせてもらった。中もすばらしい造りの山荘であった。養老牛に周りこれまた無人の無料露天風呂「からまつの湯」に浸かった。ああいい湯だな! 屈斜路に戻ると友人の美波子さんと出会ったので一緒に和琴に行き久しぶりに半島を一周。オヤコツ地獄のところで説明板に松浦武四郎のことが記されているのをはじめて発見。コテージに戻り3人で食事をしながら歓談。
9月8日
 チミケップ湖に行こうと、津別峠を越え行った。以前宿泊したチミケップホテルで食事をし、湖でカヌーを漕いで遊んだ。帰りは美幌峠を廻って。
9月9日 快晴
霧多布岬へ
 最東端の小学校(根室)で話した先生が上風連小へ転勤されたと聞き、ちょうどこの学校のそばを通ったので訪ねてみた。運よく偶然玄関先でこの先生と再会でき感激。霧多布港で釣りを眺め、岬へ。松浦武四郎の歌碑や銅像は立派なものがたくさんあるが、私はこの岬の先端にある歌碑が風情があり最も好きな碑だ。きょうも真っ青な海をバックに立つ碑に感動した。珍しく灯台のガラスを磨いておられる職員さんを見かけた。気持ちのいい秋晴れである。アゼチ岬、琵琶瀬展望台に寄り、涙岬までは散策をし、北太平洋シーサイドライン(岬と花の霧街道)を走り、ピリカウタ海岸、愛冠岬では、北大自然史博物館を見学した後岬まで散策。道の駅「厚岸グルメパーク」で海鮮焼きを堪能した。
9月10日
 夫は午前中弟子屈町役場で打ち合わせ。近くに居て今回は訪ねていなかった摩周湖、小清水峠、藻琴山駐車場から屈斜路湖の美しい景色を眺め、硫黄山、コタン山(オプタテシケ)の下をドライブ。
9月11日
 阿寒へ行き、雄阿寒岳登山口から太郎湖、次郎湖へ。原生林の中に2つの湖は静かな湖面に木々の姿を映していた。阿寒湖から太郎湖への流れの中にマリモの群生が見られた。阿寒では「森と湖の芸術館」を見学。地元産の松茸をいただきご飯に。
 
 
 
9月12日 快晴
釧路地方の地名を考える会探索会
 屈斜路から釧路まで松浦武四郎が辿った道を歩きたいと願っている私たちは、記録にある古い地名を確認する必要があり、「釧路地方の地名を考える会」の釧路川河口から源流までの地名探索のバス旅行に参加させていただいた。早朝釧路に向かい、釧路からバスで釧路、遠野(遠矢)、達古武、塘路、シラルトル湖、五十石、標茶、瀬文平と進み、磯分内では更科源蔵の育った家の跡を見学した。近くの踏切が「更科踏切」であったのがおもしろかった。南弟子屈・ニタトロマップ、弟子屈、美羅尾山、札友内、屈斜路湖、和琴半島を見学、津別峠へ上りここで昼食休憩、釧路川落口、池の湯・砂湯・仁伏、川湯、硫黄山、釧路鉄道跡、摩周湖では第3展望台で降りた。摩周観光文化会館で、更科源蔵の碑と文学資料館を見学、最栄利別、沼幌、中久著呂、朝霧の中の丹頂鶴の撮影ポイントとして有名な雪裡川には駐車場ができており、近くの道路に「鶴の安眠を妨げますので10月1日から通行止め」の看板が出ていたのには驚いた。鶴居、フシココタン・ピラカコタンと進み釧路に着いた。アイヌ語地名をはじめとするたくさんの地名がその意味と共に現地で確認できたいへん意義深い探索会であった。さらに釧路地域の研究家と知り合いになり、交流を深められたのも大きな喜びであった。
9月13日
 今回はいつものキャンピングカーではなく乗用車で来ていた。それも4W、山の中へも入っていける。そこでキンムトー、ボッケに行った。ここからまっすぐいけば12kmで国道に出られる。ところが左に行けば6.2kmで川湯の標識がある。車輪のあともついている。3kmも走ったころ道が怪しくなってきた。枝を掻き分け、車底を擦りながらガタガタ道を更に進む。カーナビにある車道も近い。ここまでくれば・・・すると目の前に倒れた大木が!! やっとの思いでUターン。ニッサンで見てもらうと「走るになんの支障もありませんよ」。帰って友人に話すと「えっ、あの道はもともと車は走れないよ!」 あの看板は何だったのだ!!
9月14日
 今日もいい天気、釧路湿原を廻ろうと出かけた。途中、弟子屈図書館長から電話が入り、「ちょうど釧路にいる。そこまで来ているのだったら、見たいと言っていた釧路の会所跡を案内してあげよう」ということになり、急いで釧路に向った。館長に久寿里会所跡を案内してもらった。江戸時代にはクスリ(久寿里)と呼ばれていた釧路は、寛政11年(1799)幕府の直接支配地になった。これに伴ってアイヌとの交易場所であった「運上屋」は「会所」と改称され交易ばかりでなく旅宿所や漁業の経営、行政機関としての機能も有するようになったとある。続いて松浦武四郎の記録にある厳島神社に行き、石川啄木の歌碑も。館長と別れ、やっと獲れはじめた秋刀魚を求め知人に送った。その後、目的であった細岡展望台、達古武、サルボ展望台を巡った。今夜も友人夫婦と夜中の歓談会第2回。
9月15日
 友人の千鶴さんを誘ってドライブに出かけた。先ずは少し遠いが「えんがる太陽の丘」へ。1000万本のコスモスが咲き誇ると出ていたからだ。広い園内をバスで回った。花びらが筒状のものや八重咲きの珍しいコスモスがあった。次に訪れたのは、卯原内園地の「日本一サンゴ草群落地」。静かな能取湖の湖面を赤いサンゴ草が絨毯を敷き詰めたように広がっていた。能取湖を回って能取岬にも行ってみた。最後に網走の天都山へ。丘一面が、サルビア、マリーゴールド、ラベンダーの強烈な色彩で埋め尽くされていた。
9月16日
 だんだん滞在の日数が残り少なくなってくる。孫に摩周メロンを送り、多和平で食事、開陽台、裏摩周へ。
9月17日 雨 終日コテージで読書。
9月18日
 滞在中、根室かに祭り、釧路ドンパク祭り、根室サンマ祭り、霧多布祭り、羅臼の祭り等々祭りが目白押しだったのだが、行事が重なり参加が思うにまかせない。そこで今日こそと別海町産業祭に出かけた。前に見た「ばんば競争」は今年は開催されなかったが、広い広い会場に数え切れないほどのテントが並んでいた。別海町は、海あり、酪農、農業の町、産物は豊富なのだ。ローストビーフ、牛乳、鮭、ジャンボハンバーグなどに舌鼓を打った。戻って、屈斜路湖まつりへ。夕刻、摩周観光文化会館であった「音楽会の夕べ」へ。これは珍しい自衛隊と弟子屈小学校、中学校、高等学校が合同で開く音楽会であった。
9月19日
 昨日に引き続き屈斜路湖まつり・カムイイピリマへ。アイヌ文化保存会の白糠支部・弟子屈支部・モシリの公演などを楽しんだ。懇意にしている白糠の若者が夜コテージを訪ねてくれ遅くまで話したのもことのほか楽しかった。
9月20日
  楽しみにしていたキノコ取り。猛暑で今年は遅れている。やっとこの日、博巳さんに連れてもらった。さすがきのことりの名人。案内してもらったところには、倒れた大木一面にボリボリ。夢中でとった。またマイタケ、夫が「ホットケーキのよう」と表現した大きな天然の椎茸。まだ少し酸っぱいが山ぶどうもたわわに。ああ満足、満足。思い残すことなし。午後は、近くで唯一残っていた900草原へ。夜は、友人一家とコテージで会食、歓談。さらに第3回真夜中会談。
9月21日
 夫は弟子屈町校長会へ武四郎の話をしにいく。その間、帰り支度。
9月22日
 近くのからし菜の畑が一面に黄色に染まり、その上を無数の紋白蝶が舞っていた。いよいよお別れである。阿寒から足寄、道東道にのる。自動車道は、すでに萩の黄葉の美しい道になっていた。芽室ICで降り、ハポネタイ(母なる森)で開かれているジョイント個展を見に行った。作品が樹幹に展示されているユニークな個展で、逢いにいった知人はたいへん喜んでくれた。十勝千年の森で今回北海道最後のディナーを楽しんだ。日勝峠を越え石勝樹海ロードを走り、夕張から苫小牧、厚真ICまで道央道で苫小牧港に着いた。中秋の名月を見ながら、新日本海フェリーは午後11時45分出航。
9月23日
 午後8時30分敦賀着。24日未明帰松。
 
 
 
 

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