2009 北の大地にて その1

2009 北の大地にて
       その1
今年は少し長く北の大地に滞在できそうでわくわくする。
・先ずは3月11日から18日まで道東に・・・
・5月30日から7月20日までの52日間。8つの山に登り、天塩川をカヌーで25km下るなど、充実した日々を過ごした。自宅からキャンピングカーで出発し、全道を巡って・・・走行距離およそ9000kmの旅であった。


3月11日
 一年ぶりの冬の道東である。今回は先ず武四郎展をしている釧路図書館を訪れてから屈斜路に向った。例年になく雪が多かったそうで山や湿原は真っ白であったが、路面は乾いていて頗る走りやすい。いつもの屈斜路湖畔のコテージに落着いてから、昨年10月に35名で訪れたときお世話になった弟子屈の方々のお家にお礼に伺った。
3月12日
 昨夜は遅かったのに興奮しているのか5時に目が覚めて起床。エゾリスがコテージの周りを走り回っていて心和む。今日一日は屈斜路でゆっくりする予定。午前中は昨日と打って変わった雪と凍結した道路を走り弟子屈に買い物に行ったり、弟子屈図書館へ寄ったり・・・午後は、生活館で話し込み、その後裏の牧草地でスキー。15日に知床五湖へ歩くスキーで入るのでその足慣らしもあって。2年ぶりなのと足腰の衰えで颯爽とというわけにはいかない。それでもしばらく滑るうちどうにか慣れてきた。夕方コテージに帰ると、昼作っておいた餌場にたくさんの小鳥が集まっていた。シジュウカラ、ゴジュウカラ、ヒヨドリ、ミヤマカケス、なかでも驚いたのは珍しいキレンジャクがきていたことである。それもキレンジャクは群れで行動するがたった一羽で。カメラを構えたが美しい後姿はとらえたものの肝心の冠はとらえきれなくて残念。夜は、友人ご夫妻と鍋をつつく。
3月13日
オンニクルの森を歩く
 野付半島ネイチャーセンターの方の案内でオン(ネ)ニクルの森をスノーシューを履いて歩いた。私たち夫婦とガイドさんの3人で。アイヌ語で「大きな森」を意味する野付半島最大の森である。普段は入ることができないがこの時期、許可を受けて歩くことができる。いつもは道路に沿った駐車場から見ているナラワラの中を歩いた。しばらく進んで後、笹原を横切って野付湾に出た。海岸に張った氷にひび割れができていた。強い海風に木々は同じ方向に曲がり同じ高さで切りそろえたようになっていた。対岸には尾岱沼が見えていた。海岸をかなり歩いてから再び笹原を横切り湿地帯のようなところに出た。雪が積もっているのでスノーシューでなら容易に歩くことができた。ここには道路から見るのとは桁違いに大きい立ち枯れの大木の森が広がっていた。水辺にはアマモが堆積しており、これが野付湾を豊かな海にしていることがわかる。その後是非見たいと思っていた擦文時代の竪穴式住居跡であるオンニクル遺跡を訪ねた。遺跡は雪の中であったがたくさんの窪みがあり、それとわかった。このオンニクルの森はかつて松浦武四郎も訪れたところであり、ここに立てたことは感慨深いものがあった。ただ鳥や動物にほとんど出会わなかったのは残念であった。帰りは、尾岱沼に寄りいつもの白帆さんで郷土料理を堪能した。
3月14日
 あいにくの雨。明日に備えて知床に行くのだが雨にかすみ眺望はよくない。野上峠を越え清里から斜里に下り、知床博物館に行った。何度か来たことがあるのだがたっぷりと時間があり一つ一つの展示をゆっくり見ていくとなかなか充実したいい博物館であることがわかった。今夜の宿はウトロの知床グランドホテル北こぶし。夜は例によってオーロラファンタジーを楽しんだ。
3月15日
冬の知床五湖へ
 知床ネイチャーオフィスに依頼してスキーハイキングに出かけた。歩くスキーを履いておよそ片道5kmの道のりを知床五湖をめざすプログラムである。所要時間は8:30〜16:00までの7時間半。参加者は私たち夫婦を含めて3人とガイドさん。勿論この時期の知床は入山が禁止されている。そこで許可を得たしるしの腕章をつけて入った。ところが前日の雨で登山道は雪がシャーベット状となりてかてかに光っている。とてもスキーでは上れない。やむなく長靴に履き替え、スノーシューを担いで5kmの登山。それでも世界遺産、植生、植樹、熊の爪あと、凍裂、開拓村と廃村、廃墟の跡と話は尽きず楽しく語らいながら登っていった。五湖近くになって、数十頭はいるかと思われる雄ジカの群れに遭遇。ツノのあまりのみごとさに見とれ何枚もシャッターをきった。2時間で五湖に着く。スノーシューに履き替えて五湖へ入った。ほんとうはスキーで湖の上を渡る快適なコースのはずであったが、暖冬のせいか氷も薄くひび割れてきている。湖の縁を歩く。一湖、二湖と巡り、ここでお弁当。知床連山は頂上に雲がかかっていた。三湖まで行く。日差しが射すと氷の湖面がきらきらと輝き美しい。4時になっても戻らないと捜索隊が組織されるそうで、余裕をもってここで引き返す。帰りは下り、てくてくと歩く。ゲートまでおよそ500mあたりまで来た。カラスが騒いでいる。なにかあるのか?50m先を見やると「あっ、いた!!」巨大なヒグマである。前足で地面を叩き威嚇している。どうやらエゾシカでも倒した直後らしく、しきりに食べている。私たちはさらに50mほど後ずさりして見守ることにした。獲物を獲た熊は動きそうにないし、道路のすぐ横なのでそこを通って降りることもならず。100kg以上だろうとのヒグマは夕陽を浴びて背中が金色に輝き誠に美しい。私たち人間が危害を加えないことがわかったのかただただ夢中で食べている。携帯も通じず助けも呼べない。知床自然センターの車が植生の調査に入っていることがわかっていたので、その帰りを待つことにした。ひたすら待つこと40分。やっと下りてきた車に無線で連絡し、羆対策専門員の方を呼んでもらいその車に助けられて下山したのは発見から1時間以上が経過していた。遅くなったのでこの夜は、網走の「友愛荘」に宿泊。
3月16日
 せっかく来たのだからこのまま帰るのも惜しい。遠軽もそう遠いことはない。丸瀬布の秋葉實先生をお訪ねしようということになり宿を出る。まずはその前に久しぶりに能取岬燈台に寄ることにした。数年ぶりに訪れた燈台への道は舗装された立派な道路ができていて快適なドライブコースであった。しかし燈台のある岬は風も強く寒かった。丸瀬布への道で悠々と飛ぶオジロワシを見かけた。お元気そうな秋葉先生にお目にかかれたのはたいへん嬉しかった。美幌を通って帰った。
3月17日
 今日こそ屈斜路でゆっくり・・・小高い丘の上に上り、藻琴山、コタン山、屈斜路湖などのすばらしい景色を堪能し、摩周湖へ、そして900草原へ。牧場までの舗装路は開けてあったが900草原へは上れなかった。雪の中でキタキツネがのんびりと日向ぼっこをしていた。桜ケ丘公園を見て、スキー等の荷物を自宅に送り返す。その後今回はじめて屈斜路湖の白鳥に挨拶にいく。屈斜路湖の氷は、釧路川に流れ出るあたりが大きく開けていた。なんと早い。夜は知人と遅くまで話しこむ。
3月18日
 いよいよ帰る日である。阿寒へ回ろうかとも考えたが丹頂鶴を見て行くことにした。伊藤サンクチュアリーと鶴見台へ寄った。雪融けが早く餌があるのか給餌場に集まる鶴は意外に少なかった。空港は霧が深くて、離着陸の飛行機の欠航もあったが、私たちの乗った飛行機は無事離陸した。さようなら北の大地、また来るからね。 
5月30日
 いざ出発! 高速船フェリーに車1台と2人の料金はあまりにも高い。青函フェリーとガソリン代はかかっても例の土日高速道料金1000円は魅力的、迷わず後者に決めた。伊勢道、東名阪道、名古屋高速、東名道、中央道、長野道、上信越道、北陸道、磐越道、東北道と走りに走って、鶴巣PA泊。
5月31日
 名古屋高速は別料金のため東名一宮ICから青森ICを出る。「料金は1000円です。」やった〜思わず歓声をあげる。青函フェリーが函館に着いたのは6時30分。今回の旅で北海道の海岸部を1周するつもりであったが、遅かったので松前を省略して、うずら温泉で入浴し、道の駅「あっさぶ」泊。
6月1日
 それなりの準備はしてきたが、あまりにも寒く、冬物の下着を購入。
江差に行く。
 豪華絢爛の大祭りで有名な姥神大神宮の前にその山車模型が出ていたので早速パチリ。姥神大神宮横の天満宮に、本居宣長が国学四大人として祀られていたのには驚いた。しっとりと落着いた江差いにしえ街道を歩く。ここも菅江真澄の世界で歌碑が立っている。江差追分会館で追分の実演を見た後、なつかしい「百印百詩碑」を見に行った。頼三樹三郎が詩を詠み、松浦武四郎が詩題を印石に篆刻し、「百印百詩」を一日で完成させたというものである。本堂の7m四方の天井に描かれた池大雅作の「八方睨みの龍」で有名な法華寺、代々受け継がれた鰊御殿の横山家、開陽丸、かもめ島、瓶子岩、繁次郎浜などたっぷり楽しんだ。
 追分ソーランラインを走って、元和台、鮪岬、親子熊岩などに寄る。ここにも菅江真澄の歌碑があちこちに立っていた。国民宿舎あわび山荘の温泉に入り、道の駅「てっくいランド大成」泊。
6月2日
いざ 太田神社
 先ずは相泊の地蔵尊に手を合わせてからせたな町太田に向う。ここは今延長工事が進められているが追分ソーランラインの終点となる秘境である。太田神社は海沿いに建っていた。その前に円空堂がある。円空は寛文6(1666)年太田山の岩窟で数多くの仏像を彫った。また木喰行道も安永7(1778)年、ここで作仏に至ったことに由来する。太田神社には、菅江真澄の歌碑と並んで、松浦武四郎の歌碑が立っていた。そこには「太田山太きくさりの一筋に 頼まざらめや 君の恵みを」と刻まれていた。近くの岩の上に珍しい籠常夜灯が設置されていた。さていよいよなんとしてでも松浦武四郎も登った洞窟を本殿とする太田山大権現に登らずばなるまい!「太田山大権現は、北海道西海岸随一の霊場にて、有珠の善光寺と並び称さる。往時より参詣者絶ゆることなし、太田山(485m)は、一名帆越岬と称し、沖合通過の船は必ず下帆の礼を為し,然らざれば航路難渋すと伝へらる。その由来は、遠く享徳3(1454)年武田信広(松前藩祖)一族70余名を卒へ蝦夷島に向い奥尻島へ停船して対岸の情勢を探らんと上陸するにアイヌこの山嶺を仰ぎ跪座して礼拝し居るを見、その理由を問うにアイヌ答えて曰く「この山頂に霊神あり、オホタカモイと称し航海を護り病災を救う霊験顕著にして、蝦夷地の守護神なり」と。・・・その洞窟鉄鎖3丈(9m)を攀じ登る険崖にあり。・・・」と説明されている。松浦武四郎は本殿まで辿る道のりを猿がよじのぼり、蟹が歩むが如く・・・300余間・・・その険しさを描写、その様子は今も昔と変わらず・・・これは相当の覚悟がいる。傾斜のきつい長い石段にはすでに綱がついている。ここから登りはじめる。登山道はほぼ全域綱が張ってある。そうここは修験場なのである。攀じ登ること2時間、ようやく洞窟の直下に着く。見上げると太い鉄の鎖が岩肌にほぼ垂直に4〜5本ぶら下がっている。長さは9mだそうだが岩はオーバーハングしているところもあり、しかも下を覗くと切り立った崖。足がすくんで一歩も踏み出せない。立っていることさえ怖い。誠に誠に残念だが私はパスするしかない。夫はさすが男性、代表して登ってくれた。私は夫の無事を必死で祈った。夫は、洞窟で音曲が好きであるというこの神に口琴を演奏して献じた。
 下って、少し戻り寿都で女主お一人で守っておられるという鰊御殿(旅館)を見学させていただいた。寿都温泉「ゆべつのゆ」を楽しみ、道の駅「シェルプラザ・港」泊。
6月3日
 岩内港へ行った後郷土館へ行った。久しぶりに訪れた郷土館はずいぶんきれいに整備されていたが、松浦武四郎がアイヌの人たちと安政3年に岩内の地に立ったという絵はしっかりと残されており、観覧券にもなっていて安心した。神恵内の武四郎歌碑を見てから、かつては女人禁制であった神威岬の先端まで歩いた。積丹の海はきれいで、センダイハギ、スカシユリが咲き始めていた。史蹟・しゃこたん場所運上家出張所の所在地を見てから、日本の渚百選の島武意海岸へ。ここの象徴的な花・キスゲがたくさん花をつけていた。積丹燈台へも足をのばした。余市の鶴亀温泉に行ってから、道の駅「スペース・アップルよいち」泊。
6月4日
 ソーラン節発祥の地、奇岩えびす・大黒岩、幸田露伴句碑を見る。夫はここで見つけた「里遠しいざ露と寝ん草枕」の句が、今の自分の旅と重ね合わせてたいへん気に入ったようだ。その後、国指定史跡・重要文化財・旧下ヨイチ運上家をじっくりと見学し、ニッカウヰスキー工場で遊んだ。稲穂峠の松浦武四郎翁記念碑を見て、懐かしい倶知安町に入った。残念ながら後方羊蹄山は雲でその全容が見られなかった。旭ケ丘公園、倶知安駅を回り、泉郷へ。ここは11年前、5ケ月を過ごした地である。コテージに落着く。想い出が走馬灯のように駆け巡る。
6月5日
 想い出の地を巡った。東山花の丘、ニセコパノラマラインを走り、大谷地、神仙沼まで歩く。このあたりにはまだ残雪がある。五色温泉にゆっくり浸る。白木建設さんの武四郎歌碑「あやうしとしりべつ川の白波を命にかけてけふわたりけり」も見せてもらった。小川原脩記念美術館、風土館にも行った。夜は10年来の友人宅でご馳走になる。
6月6日
 その友人が外国人向け(このあたりは近年外国人がたいへん多い)に貸し室として建てられたすばらしい家を見せていただく。京極温泉の武四郎歌碑を見て、京極郷土館(湧学館)へ。久しぶりの中山峠を越えて、これまた4ケ月を過ごしたコンドミニアム定山渓へ。今夜は札幌市内に行くのだが市内には背の高い車の駐車場所にたいへん困る。そこでバス・地下鉄を乗り継いで札幌に出た。ヤマハミュージック北海道で行われた「マウコピリカ音楽祭」にいくためである。音楽祭では、アイヌや和人の知人、友人にたくさん出会え嬉しかった。またデポさんの歌には魅了された。夫は友人達と踊り狂っていた。
6月7日
 開拓記念館に行く。何年ぶりかであったが、やはりここの展示はすごい。3時間かけて展示を見て回ったり、10年来の知人と旧交を温めたりした。
6月8日
 千歳川と漁川の合流点付近にある「イザリブト番屋と船着場」の跡を探しに行った。そこ漁太は、エゾ松の流送、鮭漁の拠点であり、交通、産業、文化の拠点であった。ここに説明板があり、松浦武四郎・再航蝦夷日誌の中のイザリブト番屋の図が描かれていた。
 登別に行った。知里眞志保之碑や金成マツの碑、知里幸恵の墓に詣でた。その後知人を訪ね、松浦武四郎ゆかりの地を案内してもらった。
 鵡川では、友人宅を訪ねる。あいにく留守であったが、近くに大きな「アイヌ碑」が建てられていて驚いた。碑文には「私達の住むこの北海道は、アイヌモシリ(人間の住む大地の意)と云い、大古より多くの人々が住み、中世には蝦夷人と呼ばれ現在に至っている。私達の住む大地鵡川の中央を流れる大川は、古来鵡川と云わずモシリカペッと云われていた。この川筋は昔から漁猟の盛んな地で多くのアイヌ達が住んでいた。アイヌ達はこの地の厳しくも豊かな大自然の中で民族の生活、精神文化を継承しつゝ生活を送ってきた。明治になってから、先人のアイヌ達は鵡川の開拓に励み今日の町の発展の礎を築く事に協力して来た。この幾多の先人ウタリ(同胞の意)の其の苦労に感謝し、功績を讃え、町の協賛を得て、茲に開町百年を記念しこの碑を建立する。」と記されている。ム・ペッ館、むかわ四季の館により、晴天らしい明日アポイ岳に登りたいとなるべく近いところへと急ぐ。道の駅「みついし」で入浴と泊。
 
6月9日
アポイ岳へ
 北海道へ来てから10日、すっきりと晴れた日はなかった。今日は朝のうちガスがかかっていたものの予報どおりの晴天、絶好の登山日和である。宿泊地近くの「高田屋嘉兵衛碑」を見てから、登山口に向った。アポイ岳は日高山脈の南端付近の西海岸よりに位置する山で810.6m、低標高ながら稜線部に高山植生が成立する花の名山で、かねてから登りたいと願っていた。「花には少し遅いかも?」という話ではあったが。しばらくは樹林帯の中の登り、800mとはいえ殆ど海抜0mからの登りだからそう容易いことではない。ところどころに熊よけの鐘が設置されているのがおもしろい。5合目山小屋から山頂が見えた。馬の背までの登りがまたきつい。それでもこのあたりから高山植物が見られ、馬の背お花畑の花の種類の多さ、その可憐さに驚いた。花を見つけるたび歓声をあげてカメラに収めるため、山頂に着いたのは3時間20分後であった。山の由来は「昔アイヌの人達が主食にしていた鹿がいなくなった。そこで、アポイ岳の頂上で大きな火を焚いて神に鹿が捕れるようお祈りをした。それから間もなく鹿が捕れるようになりアイヌの人達の生活が豊かになった。それ以来この山をアペオイヌプリ(大きな火を燃やした山)と呼ぶようになった。」帰りは幌満お花畑(実際には入れなかったが)を見ようなどと考えたものだから、10分で下りられるはずのトラバース分岐まで1時間かかってしまった。アポイ山荘で夕食と入浴、予定通り「襟裳岬」まで行って泊。
6月10日
 襟裳岬には特別の思い入れがあった。何年か前、夜明け前の丘の上に数頭の鹿のシルエットが浮かび上がったそのすばらしく美しい光景が忘れられないからである。それでもアポイ岳に登るためとはいえ、通り過ぎてきた静内がどうにも気にかかる。さりとて襟裳からではあまりにも遠い。迷った末、やはり思い切って戻ることにした。2時間かけて静内に戻り、真歌山、シャクシャインの像、アイヌ民族資料館、記念館、シベチャリチャシ跡、チセ、役場など回った。ついで知り合いの幌別民芸店に寄る。予定では黄金道路を北上するつもりであったが、そこまで戻るのはまたまたたいへん、風も強くなってきたことだしと、天馬街道を越える。道の駅「忠類」で、入浴と泊。
6月11日
 大樹から海岸線に戻り、ホロカヤントー遺跡へ。この遺跡は擦文文化期を主体とする竪穴住居跡の群落で百数十を数える。ひどい風と雨の中見学した。あまりに濡れたので晩成温泉(モール温泉)で温まる。途中で丹頂を見つつ、十勝開拓の祖・依田勉三ゆかりの晩成社の跡、オイカマナイトウ(生花苗沼)、湧洞湖、長節湖、十勝発祥之地碑などを見、白糠生活館へ知人を訪ねる。道の駅「阿寒丹頂の里」で入浴と泊。
6月12日
 釧路に行き、東方ビジネスで地図購入などの用事を済ませ弟子屈へ。仁多の知人宅へ寄るとコマクサがたくさん花をつけており驚く。更科源蔵館を見て、いつものエメラルドレイク屈斜路へ。今日から3泊を予約した。とにかくここに来るとまるで家に帰ったように落ち着きのんびりする。
6月13日
 部屋中に衣類を広げストーブで乾かす。砂湯、屈斜路湖畔のチセ、アイヌ民俗資料館などを訪れ、たくさんの知人、友人と歓談する。夜は、3人の友人を招き、白糠でいただいてきた鹿肉で焼肉パーティ。
6月14日
 なかなか天候がすっきりしない。硫黄山へイソツツジを見に行ったり、川湯のエコミュージアムでのんびり。
6月15日
 朝キツツキに起こされる。別海を通り厚岸町の太田屯田開拓記念館へ行ったが休館日、郷土館も閉まっていた。そう今日は月曜日なのだ。隣の国泰寺で中を見学させていただいたり、庭園を散歩したり。史跡・神明宮跡で、松浦武四郎の「はるかなる此島かげにいかにして鷲の山風ふきかよいけん」の歌を読む。またアイヌ民族弔魂碑に詣でる。あやめケ原に寄ったがまだ少し早く数輪咲いているだけであった。霧の中に浮かびあがるあやめの群落は幻想的で見事なのだが。かわりに馬が放牧されていた。美しい馬であった。琵琶瀬展望台に上がり、霧多布岬へ。久しぶりに燈台を越え、岬の先端まで降りた。美しい海を背景に木製の松浦武四郎歌碑が立っていた。なんとも情緒のある歌碑である。あたりにはたんぽぽが一面に咲き乱れ、オオバナノエンレイソウの白い花もひときわ目立ってこれまた情感を添える。霧多布湿原をまわり、ビジターセンターにも立ち寄る。続いて躊躇無く花咲港へ。花咲蟹がめあてである。ところがところが、花咲港は閑散としていた。なんと花咲蟹の漁期は7月からだと!調べてこなければね!!これでは納沙布岬に行く気力も失せ、別海ふれあいキャンプ場へ。残念ながら近くの温泉も休館中。
6月16日
 まだ少し花には早いだろうと思いながらやはり野付半島を見過ごしにはできない。竜神崎燈台まで入った。ところがどうして花はいっぱい咲いていた。クロユリ、センダイハギ、キスゲ、ハマナス等々。特にクロユリの多さに驚いた。国後島がよく見えた。ビジターセンターに寄りうたせ船による漁が始まったばかりの北海シマエビの踊り喰いに挑戦、なかなかの美味であった。いつも見慣れた「野付半島」の石柱があった。ふと見ると下の碑文に「松浦武四郎の「知床日誌」によれば・・・」と記されており、おやおやこんなところにもとびっくりした。
 羅臼に行き、知人宅へお礼とお願いに伺った。知床峠は濃いガスの中、残雪も多い。角に袋を被った鹿に遭遇。知床自然センターに寄り、フレペの滝まで散策。コロラド州から来たというご夫婦とすっかり意気投合しいっしょに歩く。道の駅「はなやか(葉菜野花)小清水」で白花のハマナスを見つける。実の色を問うたらやはり紅いそうだ。「開拓記念の碑」のある前のふれあいセンターで入浴と泊。
6月17日
 フレトイ(「丘がそこで決潰している所」というアイヌ語に由来する)貝塚へ。ついでスカシユリやクロユリがきれいに咲いていた小清水原生花園を散策し、日本最北鳴り砂浜を歩いた。北浜の駅にも立ち寄った。ワッカ原生花園はサイクリングで。センダイハギ、エゾカンゾウ、エゾスカシユリ、ヒオウギアヤメ、ハマナスなどの花咲く道をワッカまでいった。少し寒かったが快適なサイクリングであった。今日は丸瀬布のいこいの森キャンプ場へ。秋葉實先生にお目にかかる。お元気そうで一安心。近くに住んでおられる知人2人を交え5人でマウレ山荘へ行き秋葉先生にご馳走になりつつ歓談。「やまびこ」で入浴する。
6月18日
 キャンプ場に友人が朝ごはんを届けてくださる。そのおもてなしに心が温かくなる。郷土資料館を覗いたり、車庫の中の雨宮号を見たり。北海道遺産にもなっている「森林鉄道蒸気機関車「雨宮21号」の走っている姿をいつも見たいと思いながらその機会を得ない。ところが聞けば今日12:30に臨時号が運行されるそうだ。日程を考えると4時間の待ち時間はやはり・・・と諦めた。途中、立派な「開拓記念碑」を見つける。鴻舞銀山跡に行こうとしたが通行止めで断念。太陽の丘に上り、オホーツクを北上する。上湧別の屯田歴史館へ。ここで思わぬものを発見、驚く。夫がかつて勤めた三重県の海辺の小さな村から屯田兵として入った人の写真付履歴を発見したのである。しかも三重県からの入植29戸のうちその小さな村から6戸も。オムサロ原生花園、日出岬、歌登キャンプ場と回り、枝幸で待望の毛ガニを賞味し大満足する。浜頓別クッチャロ湖キャンプ場に入る。久しぶりに湖に沈む見事な夕陽を堪能した後、近くのホテルで夕食と入浴。
6月19日
 浜頓別クッチャロ湖畔竪穴群を見た後、浜頓別郷土資料館を見学し松浦武四郎の掲示物を見つける。道の駅「さるふつ公園」で、インデギルカ号遭難者慰霊碑、ほたて化石群などを訪れる。宗谷岬は間宮林蔵一色、たいへんな人出であった。丘の上にも上り、広い台地に点在する数々のモニュメントを見てまわった。北海道遺産の宗谷丘陵周氷河地形の看板もあった。間宮林蔵渡華の地にも立ち寄った。稚内では、まず稚内港北防波堤ドームを訪れ、ついで稚内市開基百年記念塔・北方記念館へ行った。間宮海峡発見200年祭・間宮林蔵展を見に行ったのである。ところがそれは明日からとのこと。諦めきれず覗き込んでいると、なんと大阪の民族学博物館の佐々木利和先生を発見、思わず大きな声で「佐々木先生!」と呼ぶ。先生とは今回北海道にきて2度目、1回は札幌でのマウコピリカ音楽祭で。「まだ北海道にいたの!」とあきれられる。先生は稚内のお生まれでこの間宮林蔵展に関わっておられた。先生のおかげで、準備中の会場を案内していただけた。バンザイ!公園内の氷雪の門、「皆さんこれが最後です。さようなら さようなら」に涙し、ノシャップ岬に立ち稚内に別れを告げる。砂丘のえき・稚咲内園地で今を盛りと一面に咲くキスゲの群落を堪能し、止宿所跡(松浦武四郎休憩地)を訪ねる。オロロンラインの道の両側はキスゲ、エゾニュウで埋め尽くされ正しく花街道であった。快適なドライブを心ゆくまで楽しんだ。天塩の運上屋跡を見、鏡沼海浜公園キャンプ場に入る。日本海に沈む夕陽とかすかに浮かぶ利尻富士がなんともきれいでしばし見とれた。天塩温泉で入浴。キャンプ場の隣ではあきれるほどたくさんの自衛隊の演習テントが張ってあった。
6月20日
 おなじみの松浦武四郎の像と歌碑に朝の挨拶。河岸にある松浦武四郎一色の天塩川の看板を見に行く。時間があったので再びオロロンラインを利尻富士と風車と道の両側のお花畑を楽しみつつ北上し、幌延ビジターセンターへ。10年も昔ここでたった1台で車中泊したことを懐かしむ。北緯45度通過点(北半球ど真中)で休憩し、サロベツ原生花園へ。ここにはワタスゲが一面に。中川町を南下し、筬島の「北海道命名之地」碑によって、ピンネシリへ。問い合わせたコテージが空いていなかったので「ふるさと体験館」へ。ここで一夜昔ながらのおもしろい体験を。
6月21日
敏音知岳
 かねてより北海道最北登山道のあるこの山へ登りたいと願っていた。そこで敏音知岳山開きに合わせて来町し申し込んであった。何か開会行事でもあるのかと待っていたが早朝より三々五々登っていかれる。テントなど張ってあるのは、メインイベントの登山マラソンのためらしい。前日問い合わせたら「雨でもやります」とのこと。私たちも登り始めた。はじめはとても美しい樹林帯の中を行く。千本シナ、松の木並木、白樺の泉など見ながら進む。駒返しの坂のあたりから岩場で登りもきつくなってきた。水松の曲、軍艦岩と過ぎ、2時間半で頂上へ。眺望がすばらしいといわれた山頂は、あいにく途中から降りだした雨のため四方ガスの中であった。それでも山頂で係りの人から「登頂証明書」をもらい大満足。
 下山の後、中川町のナポートパークオートキャンプ場に。いつもお世話になる川口精雄町会議長さんのお家に伺い、奥様お手製の地元産物の珍しいお料理の数々をご馳走になる。思わず箸が進んでしまった。ポンピラアクアリズイングで入浴。
6月22日
 朝から中川町町長を表敬訪問。午後は、幌延河川事務所の方に、松浦武四郎の辿った道を案内していただく。作返川合流点、そしてサコカイシにある松浦武四郎の著作をもとにした天塩川の看板、オンカンランマ(安牛)などである。いずれも河川が改修されていて、武四郎記述の場所は案内していただかなければとても分りそうにない。感謝することしきり。キャンプ場へ戻る。ポンピラホテルで夕食と入浴。夜は「NPO ECOの声」の皆さんに多数お集まりいただき、「松浦武四郎を語る」との話と懇談会を。
6月23日
 待望の天塩川をカヌーで下る予定だったが、雨がぱらつき風も強いので、もう1泊し明日に。中川駅、「感染列島」のロケ地めぐり、エコミュージアム、旧作久小などをめぐりのんびり。
6月24日
 雨は上がったが風はあいかわらず強い。それに天塩川は水量も多く濁っている。今回は諦めることに。日本海側をひたすら下る。金浦原生花園、初山別みさき台公園、羽幌海鳥センター、苫前郷土資料館。小平でトワイライトアーチの下に立つ松浦武四郎像と再会。鰊番屋(花田家番屋)をゆっくり見学する。その後、今日の目的である彦部橋に行き「松浦武四郎信砂越えの地」標を探す。かなり大きかったが丈の高い草に隠れて探すのに苦労した。前面の草を刈り木標が見えるようにした。どんな山道になるかと心配しつつ武四郎が通った信砂越えの道を辿った。道は意外と整備されていた。道の駅「サンフラワー北竜」で入浴と泊。
6月25日
 かなり苦労して面白内神社を探し、「史跡松浦武四郎宿泊之地」碑を訪ねる。新十津川開拓記念館で松浦武四郎の記録と歌碑に接し、浦臼町郷土史料館でも松浦武四郎の記録が大きく壁面に掲示されているのに驚く。そしてまた晩生内の「松浦武四郎止宿の場」を探すのに苦労し、看板を見つける。土地の人からこの地の昔、そして変わっていったようすを詳しく話してもらったのもおもしろかった。旭川に出て旭川博物館へ。美瑛を通り国設白金野営場に向う途中、畑をしておられた方に山の名前を聞くと丁寧に説明してくださり、立派なアスパラまでいただいた。80歳になられるという。忘れられない方だ。望岳台に登り暮れ行く十勝岳を飽かず眺めた。大雪山白金観光ホテルで入浴し、野営場に戻ると久しぶりのすばらしい星空であった。
6月26日
 5時に起き、「北の国から」で宮沢りえも入ったというかの有名な吹上温泉露天風呂に行く。少し熱めのすばらしい温泉であった。夫は土地の人と話し込み、私は偶然三重県の人と出会った。
旭岳 姿見の池散策
 ロープウェーで上がり、残雪の多い山道を姿見の池まで登った。早くも高山の花があちこちに咲き、キバナシャクナゲ、コケモモ、エゾコザクラ、キジムシロ、アカモノ、エゾノツガザクラなど楽しめた。夫は口琴を鳴らし、噴煙をバックに何枚も写真を撮った。青く澄んだ残雪の中の夫婦池もすばらしかった。2時間半大自然を満喫した。ロープウェーを降りるとヤチブキ(エゾノリュウキンカ)が一面に咲いていた。
 深山峠に「松浦武四郎顕彰之碑」を訪ね、今夜は上富良野の民宿「ステラ」さんへ。夕方懇意にしてもらっている佐川さんと知人の方が一人で作っておられる山小屋を見せてもらいにいった。
6月27日
 新富良野プリンスホテルの前まで来ると人でごったがえしている。見れば「風のガーデン」がお目当てらしい。「あっ、私も行ってみたいな」なんて思ったりして・・・横の富良野スキー場のロープウェーに乗る。
富良野西岳
 ロープウェーを利用するのだからとたかをくくっていたが、どうしてどうして富良野西岳はなかなかの山であった。ここも昨日はじめて山開きしただけ。起伏の多い山で山頂まで2時間かかった。しかしたくさんの花に慰められた。ツバメオモト、ハクサンチドリ、ヤチブキ、ウコンウツギ、コナスビ、エゾイソツツジ、アマドコロ、サンカヨウ、エゾイチゲ、ヤマシャクナゲ、マイヅルソウ、スミレ、チシマフウロなどなど。
 サホロリゾートのホテルで久しぶりにステーキのディナー・・・おいしかった〜、そして入浴。サホロ湖キャンプ場へ移動。広大な芝生が広がり、しかも無料、すばらしい。
6月28日
 朝管理人さんと話した。山の仕事をしてみえた方で、この奥にある「松浦武四郎野宿之地」碑のこと、地形から見た松浦武四郎の通った道・・・私たちは聞き入ってしまった。そしてこの方はこう言われた。「私の祖父の代に入植したのだが、北海道を開くというような壮大な夢を持っていたわけではない。その日その日生きることに必死だった。その結果アイヌの人達が豊かに暮らしていたこの大地を奪った。」私たちは絶句した。和人でこのように率直に語られる方にはじめて出合ったからである。
 新得、清水町を通り、十勝千年の森で遊んだ後、道の駅「しかおい」へ。トリムセンターで入浴し泊。
 
 

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