小さな旅・四国を訪ねる 2
 

小さな旅
四国を訪ねる 2
 四国の後半(西側)を周るべく小さな旅を計画した。ところが・・・あわてていた私はこともあろうに自転車で坂を登りきれず転倒し、肩甲骨を骨折してしまった。しかし折角やっととれた休暇であり、これを逃しては・・・結局夫が運転してやると言ってくれたので・・・それにしても1800kmを一人で・・・夫には感謝、感謝の旅であった。


3月31日
 雨も上がった。今日は帰宅する日。高松でゆっくり過ごそうというつもりだったが・・・
栗林公園へ
 松浦記「高松 香川郡。八千餘軒の城下ニ而頗る繁花の地也。市中寺院、~社多し。然れどもしるすにいとまなければ略す。・・・不喰梨といへるもの有。大師此處へ遍路し給ひし時、山夫のとれる梨を乞給ひしニ其を奉らざりしかば、其梨即時ニ石の如くなりしと云傳ふ。」 ハハハ弘法大師も意外と意地悪だったのだなあ。
 早朝に出発したので駐車場は悠々。
 栗林公園は、松の緑、築山、池・・・など、一歩ごとに違った趣が楽しめることから「一歩一景」ともいわれる名園である。純和風の南庭、明治から大正初期にかけて整備された北庭の風情の違いもまたすばらしい。広い園内をのんびりと散策した。そして掬月亭で抹茶を一服。
玉藻公園
 駐車場がないとのことで、ここもタクシーで。
 玉藻は讃岐の枕詞、生駒・松平藩の居城として築城された高松城跡である。高松城は海の上から見るとまるで水の上に浮かんでいるように見えたので「浮き城」と呼ばれていたそうだ。堀に海水を引き込む珍しい設計で、現在も月見櫓、水手御門など当時の面影が残っている。「鯛願城就」の幟を立てた鯛の餌やり場があり、私も買ってきて投げてみたらたくさんの鯛が群がり飛び上がって餌を争っていたのがおもしろかった。枯山水の庭園や披雲閣も趣があった。
 公園そばに建つシンボルタワーの中の中村孝明レストランで懐石料理を。今回の旅はじめての豪華な料理に舌鼓をうった。
八十四番南面山屋島寺
 少し時間もあり、屋島寺により古戦場を訪ねることにした。
 かなり高いところまで車で上れ、山頂に屋島寺はあった。唐僧鑑真和上過海大師が開創の基を開いた寺。その後、弘法大師が真言宗に改めたという。
 門前に池があった。松浦記「瑠璃の池といへるもの有。また誰が號つらん近年源平血の池といへり。」看板には「屋島寺伽藍草創のおり弘法大師が「遍照金剛、三蜜行所、当都率天、内院管門」と書き、宝珠とともにおさめ周囲を池としました。ところが竜神が宝珠を奪いに来ると伝えられ瑠璃宝の池の名があります。また、源平合戦のとき壇の浦で戦った武士たちが血刀を洗ったため、池の水が赤くなり血の池とも呼ばれるようになりました。」とある。スカイラインからは壇の浦がよく見えた。
風の港 引田の町並み
 最後に引田に立ち寄った。細い道で駐車場まで辿りつくのに悪戦苦闘。朱塗りの橋からはじまる町並みは、かめびし醤油のべんがら塗りの建物がまず強烈な印象で目に飛び込んでくる。ここは庄屋屋敷や醤油蔵が並ぶ懐かしい雰囲気の町だと案内書にあった。松浦記「引田 千軒の湊。出入の船多し。故ニ商戸、漁家甍を并て美々敷市町也。又此處より醤油を製す。
 その後、自動車道を利用して徳島へ。19時発の南海フェリーに滑り込む。和歌山港へ上陸し、自宅へ戻ったのは午前2時であった。
 
11月20日
 明日は朝から四国にいたいと午後8時出発。はじめて通った新名神は車も少なく快適。その後も名神、中国道、山陽道、瀬戸中央道と順調に進み、午前2時には鴻池SAに着いた。
11月21日
 瀬戸中央自動車道を渡り、高松道、トンネルの多い高知道を通って高知に入った。
四国カルスト台地は雪
 愛媛県と高知県の県境にある標高約1000m〜1500mの高原で、特有のカレンフェルドと呼ばれる石灰岩が顔を出し、大自然の神秘を感じつつ、四国カルスト縦断線25kmの雲上ドライブを楽しみにしていた。須崎東で下り、幹線林道を上るにつれ雨が落ちてきた。道路には一昨日降った雪が残っている。2時間かかってようやくたどり着いた四国カルストで最も標高の高い天狗高原は深い霧の中であった。そのまま引き返す。期待していた姫鶴平も五段高原も地芳峠も大野ケ原も遠ざかっていく。道の駅「あぐり窪川」で泊。
11月22日
四万十川を楽しむ
 一路南下する。「かわうその住む町」「鯨の見える町」「くじらに会えるまち」など町のキャッチコピーがおもしろい。
 四万十川は川遊びが盛んである。カヌーや屋形船などあるが、今回は舟母を選んだ。帆をかけて風の力で進む川舟である。貸切でよく晴れた穏やかな水面をのんびりと進む。川を上っていくと「佐田の沈下橋」が見えた。大水の時流されないよう水面に沈むように設計された橋で、欄干がない独特の形をしている。四万十川の本流に21橋、支流に26橋あり、いずれも住民の生活橋として大切に使われているそうだ。佐田の沈下橋は最下流のものである。
 安並水車の里にも行った。藩政時代に野中兼山が整備したという用水路に、昔懐かしい大小の水車が設置されていた。
四国最南端の岬・足摺岬に立つ
 まず迎えてくれたのは中浜ジョン万次郎。80mの海食断崖が聳える展望台に立ち、真っ青な太平洋の眺めを堪能した後、天狗の鼻まで歩いていった。岬にはビロー樹が自生する。天狗の鼻への道は椿の林で、その下にツワブキの群生が美しかった。そしてここで「アサギマダラ」に再会した。ああもうここまで南下してきたのかと感激! 戻って灯台、38番札所金剛福寺にも寄った。残念ながら花崗岩の海食洞門としては日本一の規模といわれる白山洞門には寄れなかった。足摺スカイライン、足摺サニーロードを通り、竜串海岸へ。永い年月をかけ浸食されてきた奇岩・奇勝はまさに波と風による壮大な自然のオブジェである。海に向って何本も延びる芸術的な奇岩に感動した。
 道の駅「すくも」にて泊。
 
11月23日
城のある町 宇和島
 いよいよ四国の旅も最後の県愛媛県に入った。かつて伊達十万石の城下町として栄えた宇和島である。向う途中で南楽園を見つけたので訪れることにした。40種類20万本もの花木が植えられた広大な日本庭園である。といっても来園者はほとんどいない。梅、桜、つつじ、菖蒲の時期はたいへんな賑わいだそうだが、いまは季節外れ、その上早朝ときては・・・実は今朝はキーウィフルーツを一つ食べただけだったので朝食をと思ったのだが園内のレストランも開いていない。それでも静かな庭園散策も悪くない。愛媛県に多いという屋根のある橋がつくられていたり、広い池には鴨や鷺の姿が。紅葉をバックに紅い橋の色がひときわ鮮やかだ。
 次に訪れたのが天赦園。七代藩主宗紀が造った大名庭園である。命名の由来は、伊達政宗が退隠後群臣に示した述懐から採ったという。
 馬上に少年過ぎ 世は平にして白髪多し
 残躯は天の赦す所 楽しまずんば是を如何せん
 池泉廻遊式庭園を巡ると遙かな時の流れを感じた。
 さていよいよ宇和島城である。慶長6年(1601)に築城されたといわれる江戸時代様式の三重三層の天守閣は国の重要文化財になっているという。藩老桑折氏武家長屋門前に立つと登山口と書かれていて驚く。そうここは典型的な山城なのである。さらに驚いたのは、この城は藤堂高虎の創建になるということ、高虎はわが町の隣町・津の城主であったからだ。急な勾配の長い石段をあえぎつつ登りながら、余計なお世話ながら殿様もこうして登ったのだろうか、それとも駕籠でなどと思ったりした。宇和島で思いつくのはまず真珠、そして新鮮な海の幸を使った郷土料理。お昼もとっくに過ぎていたが、車が大きくて街中に駐車場がない。諦めて次の町に向って出発。
清流・肱川沿いに広がる水郷大洲
 大洲に向う山の斜面には、ここはさすが愛媛、鈴なりのみかんの黄色が目に鮮やかだ。まずは大洲城へ。どうして四国にはこうも城が多いのだろう。常に日本社会を動かしてきたという自負がそうさせるのだろうか。慶長年間に近世城郭が整備されたといわれている大洲城を伝統的な工法によって2004年に復元したものである。ここにも藤堂高虎が城主として入城している。城を後にして、大洲の街中を歩いた。おおず赤煉瓦館(明治34年建築の和洋折衷のレンガ建築)、「伊予の小京都」と呼ばれる明治の家並み。昔ながらの土蔵や腰壁・板張りの建物、明治・大正に養蚕や製糸が盛んだった職人町の面影が残る。おはなはん通り、大洲まちの駅あさもやなどを見て歩いた。最後に臥龍山荘。かつて藩主の庭園であった場所に明治の貿易商が桂離宮などを模して築いたもの。肱川一の景勝地臥龍淵を見下ろす不老庵と臥龍院、茶室として使われている知止庵が今を盛りの紅葉の中に佇む様は幽玄の世界であった。ここでも司馬遼太郎の「街道をゆく」に登場した名旅館の蔵の梁や建具を使って造られた食事処油屋をめざしたが時間が合わない。全く食事についてない一日であった。大洲市河辺町には「かわべ浪漫八橋」という屋根のある橋がある。これを是非見たかったのだが、山の中であり、日暮れも迫っていたのでこれまた諦めた。ここから佐田岬に向う手もあるが、明日は雨らしく風も強いそうなので回避。
 道の駅「内子フレッシュパークからり」で泊。
11月24日
昔の家並が軒を連ねる白壁の町並み・内子
 早朝、約600mに渡り江戸から明治の町家が軒を連ねる国の重要伝統的建造物保存地区の八日市・護国の町並を散策した。内子はかつて和紙や木蝋の生産が盛んで商いの町として栄えたところで、旧街道沿いに町が広がる。あいにくの雨であったが。八日市護国町並センターで資料をもらい出発する。明治27年建築の木蝋商の屋敷上芳我邸は国の重要文化財であるが、現在修復中で見られなかったが、木蝋資料館だけは見学させてもらった。本芳我家、大村家、寛政5年(1793)に建てられた典型的な町家造りの資料館、文化交流ヴィラ(高橋邸)、六日市に入り、大正10年ころの薬屋の暮らしを再現した商いと暮らし博物館、大正5年に建てられた本格的歌舞伎劇場を当時の姿に復元した内子座などを見てまわった。
 愛媛特有の屋根付き生活橋の代表的存在である田丸橋へは車で20分だそうだが雨も降っていることであり山道なので中止。午後は道後温泉でのんびりしようと向う途中、立派な屋根付き橋を見つけた。
 
11月24日(午後)
 時間も早いことであり、焼き物の町・砥部へ廻ってもよかったのだがなんだか疲れてきたので省略。道後へ向う。
「坊ちゃん」の町・道後温泉
 今夜の宿・ホテル椿館へ車を入れて、町へ出た。道後温泉は夏目漱石の「坊ちゃん」一色といった感じのする町である。駅の方に歩いて行くと、ちょうど駅には「坊ちゃん列車」が停まっていた。わが国初の軽便鉄道機関車として愛媛県指定有形文化財で現役である。坊ちゃんにちなむ書生やマドンナ姿のガイドさんと記念撮影をしたり、ちょうど4時で、坊ちゃんカラクリ時計を楽しんだりした。各所にある足湯にも入ってみた。さて本番道後温泉本館である。写真では何度も見ていたが明かりが灯るとひときわ情緒がある。温泉も、昔の風情があり楽しかった。宿での夜は、松山水軍太鼓の迫力ある演奏に圧倒された。
11月25日
文学の香り高い松山
 松山城へ行こうと駐車場を探すうち、やっと二之丸史跡庭園の駐車場にたどり着いた。まずここから見学。松山城藩主の邸であったニ之丸の間取りを奥御殿跡は流水で、表御殿跡は柑橘類や草花で表現してある。そのままの姿で展示してある大井戸遺構、池や滝を配置した林泉庭、茶室などを見て回った。天守閣へは反対側からはロープウェイもついているのだが、ここからだと山を登るしかない。30分をかけて登った。松山城は標高132mの勝山山頂に加藤嘉明が慶長7年(1602)から
26年かけて完成させた連立式天守を持つ平山城である。規模の大きさと美しさに圧倒される。それに精巧な門の数多さにも驚かされた。天守からは松山の町が一望であった。ロープウェイで下り、坂の上の雲ミュージアム、大正11年に旧松山藩主の子孫が別邸としてフランス風に建築しステンドグラス、大理石のマントルピースなど趣向を凝らした室内が見ものだという萬翠荘、戦火で焼失した夏目漱石の松山中学赴任時の下宿先を復元した愚陀佛庵に行ったがあいにくいずれも休館日。正岡子規が17歳まで暮らした子規堂、栗田樗堂草庵の庚申庵史跡庭園、漂泊の俳人山頭火終焉の場一草庵など訪ねたいところはいっぱいあったが駐車場の関係で諦めた。
世界的産業遺産の里・別子銅山
 道の駅「マイントピア別子」に着く。早速明治26年に開通した蒸気機関車に乗って坑道見学。戻って周辺を散策。川の向こうにはよく写真で紹介される水力発電所の赤レンガの建物が見えた。この道の駅の施設はたいへん立派で大きな温泉施設もあった。ゆっくりと温泉を楽しんだ。
11月26日
 朝起きると、私たちのキャンピングカーは一面のイチョウ落ち葉の中にあった。川向こうを少し上ると、別子銅山の管理施設があり、その上に本物の坑道跡があった。昨日見学したのは、坑道の中でも火薬庫になっていたところだそうである。職員の方に詳しく説明していただいた。
松浦武四郎も登った石鎚山へ
 このまま帰るのはもったいないと石鎚山へ行くことにした。ほんとうはこの山の反対側から紅葉真っ盛りで岩盤と清流が織りなす渓谷美の面河渓谷に入りたかったのだが日程の関係で断念したところ。石鎚山は標高1982mを誇る西日本最高峰。古くから信仰の山として知られている。この山を中腹から眺めようというのである。1300mまではロープウェイで。ここには前神寺奥之院・石鎚山大権現が祀られていた。ここから標高1400mの成就社まで雪の残る道を登る。見返り拝殿からは御神体の石鎚山が拝めた。
 帰りは、今治小松自動車道からしまなみ街道を通り、西瀬戸尾道道から山陽道に戻り、往きにきた道を逆に辿って一路帰宅、家に着いたのは11月27日午前2時になっていた。

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