道祖神を訪ねて

道祖神を訪ねて
かねてより いつか道祖神を巡る旅をしたいと思っていた。
今回 3日間で、黒川郷と安曇野の道祖神を訪ねた。

なお最後の項に他のページにあった東山道の記録をこちらに移した。

4月21日
 早朝に家を出たので、中津川インターを降りたのは7時。そこで南木曽の天白公園に寄っていくことにした。ここに咲くミツバツツジの群落は天然記念物に指定されており、今まさにつつじ祭りが開催されていたからである。公園は桜、シャクナゲ、ツツジの競演で、ミツバツツジが全山を覆っておりそれは美しかった。遠くに雪を頂いた中央アルプス、長い吊り橋もあり、景色も美しい公園であった。
黒川郷に道祖神を訪ねる
 詳しく調べてなくて、黒川郷を歩けばいくつかの道祖神に出会えるものとばかり思い込んでいた。黒川郷道祖神の標識があったので、さっそく車を停めて歩き始めた。はじめは、ここにもあった、あそこにもあると片っ端から石仏を写真に収めた。そのうち「ああこれこそ道祖神!」とひと目でわかる道祖神を見つけた。栃本の道祖神である。この集落の旧道入口までいくと、道祖神の説明と地図の案内板が建っていた。それによると、
 黒川地区は木曽の中でも道祖神が多く、地区内に18箇所19体あり、双体道祖神が11体、文字だけの道祖神が8体あります。そのほとんどが江戸時代後半に作られ、一番古いのは栃本地区の享和2年(1802)のものです。その後、1846年から約40年のうちに集中して作られました。なぜこの時期に作られたのかは、はっきりわかっていません。又、男女握手像は古く、文字だけの道祖神は後に作られたものが多くなっています。
 道祖神はサエノカミとも呼ばれ、幸の神としての縁結び、五穀豊穣、繭の多収、疫病や悪人の侵入を塞ぎ止める神、旅人の安全神等どんなことでも頼める親しく身近な神様です。
 黒川の道祖神に多い男女握手像は男女円満の姿を示し、境界をかため外部からの邪神をしりごみさせる意味があるといわれます。これらは頭、顔の表情・服装などひとつひとつに個性があり、素朴でおおらかな表情は心温まるものです。道祖神のある場所では、毎年1月14日にどんど焼きが行われます。
 これによると、栃本には2体の道祖神があることがわかった。車に戻りつつあらためてこの2体の道祖神を訪ねた。そして黒川郷の広さもわかった。とても歩いて訪ねられる範囲ではない。そこでこの地図が欲しくなりあちこち行ってみたが手に入らなかった。聞けばずっと下の木曽福島町役場までいけばあるかもしれないとのことであった。結局開田高原まで行って昼食を済ませ、戻ってあちこちに立っていた黒川郷案内板の地図をノートに手書きで写した。
 集落の入口に車を止め、歩いて探すのだが、旧道のどんなところにどんな姿で祀られているかが次第にわかってきた。焚き火の跡も目印になった。地元の人に聞いてもわかったが、自分達で見つけるのもまた楽しかった。地図には、文字道祖神は□囲みになっており、それもわかりやすかった。
 平栃の文字道祖神、吉田の道祖神、溝口の文字道祖神。中谷では、大きくて立派な石仏と二十三夜塔を眺めていたら、さっき尋ねた人が追いかけてきてくださり「そっちじゃない!こっちこっち」と。そうそうここは文字道祖神のはずだった。島、島尻(土手の上にあった)のともに文字道祖神。下志木の文字道祖神、これは山の斜面にあり前に白や黄色の水仙が群生しておりかなり大きく立派で美しかった。案内図に1と表示されたものである。
 戻って、渡合から、木曽福島から飛騨国高山に通ずる飛騨街道に入る。二本木の文字道祖神を見てから、名勝の一つになっている唐沢の滝までいった。高さ135mの滝で、旧道はこの滝の右斜面を登り滝の上にでる。この滝の上に2体の道祖神が祀られていたというが、ちょうど滝のところにおられた役場の人の話によると、通る人もなくなり、盗難の恐れがあったので、1体は開田に、1体は木曽福島町に移転されたという。戻る道で一の萱の道祖神、猪の子島の道祖神を見つけた。野の中にひっそりと立つそれはなかなか風情があった。樽沢の道祖神は折りしも道路工事中でどうしても見つからず、工事をしていた人に聞くと「工事中だけ別の所に移してある。拝観料とるよ。」と笑いながら教えてくださった。元の道を更に戻り、橋詰の道祖神を見てから、なお道を分け上小川の道祖神を見に行った。白山神社のところへ戻ってから、村木の道祖神を探した。最後18番の芝原の道祖神は探したが見つからず、聞く人も見当たらないし、日は暮れてくるしで諦めた。キャンピングカーでは旧道は入りにくいし、歩いて丁寧に探せばあったに違いないのだが・・・
 車ではあったが、今日の道祖神めぐりはそれぞれに個性と風情があって楽しかった。 
 開田高原に行き、かなり奥まったところにある御岳明神温泉の「やまゆり荘」で温泉に入り、水生植物公園の駐車場で車中泊した。
  
4月22日
 水生植物園は水芭蕉が咲き、水車のまわる静かな美しい公園だった。早朝、散策を楽しむ。小学生が登校したり、農道を駆け足する姿を懐かしい気持ちで飽かず眺めた。
安曇野の道祖神を巡る
 パンフレットの「道祖神のおこり」には次のように述べられている。
 村の辻に古来から生産・生殖の神として五穀豊穣・子孫繁栄・縁結び・通行の安全・禍災が村に入らないようにとの願いを掛けた神といい、庚申塔、二十三夜塔、馬頭観世音、大黒天、地蔵尊などの石神・石仏と共に祀られていることも多くあります。
 中国古代の道の神の思想が我国に入り、日本古来の古代信仰と結びつき「旅」や「道」を守る「道祖」の文字があてられたとも言いますが、「古事記」「日本書紀」の神話では天孫ニニギの命を天八ちまたに迎え道案内をした「猿田彦命」がちまた神すなわち道祖神になったともいわれています。
 男女の二神が穏やかな表情で並び立ち手を握りあう「握手」、瓢箪の徳利と杯をもつ「酒器」、貴族の正装の笏と扇を持つ姿、そして「色直しの祭り」として色を塗り替える事を祭りとした「彩色」の神が身近な神様として、「どうそじん」「どうろくじん」「さえのかみ」などと呼び親しんで来ました。多くの神は一年一度のお祭りを地域の人々により今年も行われております。
 穂高駅前で自転車を借り、サイクリングで周ることにした。いろいろのコースがあるが、「縁結びの神コース」を中心に。穂高町区にある、握手像と文字碑二基を見て穂高神社にいった。ここには塩の道道祖神群として様々な道祖神がたくさん並んでいた。なかでも餅搗き道祖神がユニークでおもしろかった。また神社で「道祖神展」がひらかれていたので立ち寄った。
 本郷の文字碑。安曇野市穂高支所のところで、新しく作られたらしいきれいな握手像を見つけた。神田町の握手像(彩色)、近くで二十三夜塔と並んで立つ石仏を見つけた。ちなみに二十三夜塔とは、月齢23の月の日(二十三夜)に「講」(集い)を組織した人々が集まって月の出を待つ月行事「月待」にまつわる塔である。
 次いで、等々力の酒器像。等々力の握手像は、東光寺の山門前にあった。この山門に朱塗りの大きな高下駄が置いてあった。鯉幟とこの地に伝わる幟をあげてみえた住職に話を伺った。このあたりには道祖神がたくさんあり、等々力の握手像(彩色)等々力の握手像、等々力の握手像、等々力の握手像とそれぞれ様子を異にする道祖神と出会うことができた。ここから少し離れた同じく等々力の文字碑は小さくかわいかった。また道祖神公園には「水色の時」道祖神として二基の握手像があり、花の道が作られていた。
 わさび田を抜けにじます養殖場の横を通って穂高川の堤へ出た。早春賦碑の立つ公園でしばし休憩。穂高川の流れは清く、快適なサイクリング日和。
 等々力にある立派な握手像二基、文字碑二基と同じく等々力の握手像を見てから、久しぶりに碌山美術館へ行った。
 ほりでーゆ〜四季の郷で入浴と夕食を楽しみ、今夜は道の駅「アルプス安曇野ほりがねの里」。
4月23日
 目覚めると道の駅の横には広大な菜の花畑が広がり、その上に雪を被った北アルプスの山々。今日もよいお天気である。そこで再びサイクリングで道祖神めぐりをすることにした。
 まずは、神田町の酒器像(彩色)、大黒天と並んで祀られていた。本郷の握手像は、アルプスの山を背景になんとも美しい姿で立っていた。三枚橋の握手像と文字碑は、祠のなかに納まっていた。柏矢町の握手像と文字碑。今日も順調に出会える道祖神、サイクリングで巡るのは最高だ。矢原の握手像(彩色)は、色あざやかであった。同じく矢原の握手像は、パンフレットで見た写真では水田の中に立つ姿がなんとも素朴で郷愁をそそる風情があったが、来てみると屋根の下に祀られており残念! 風化を防ぐためであろうが、このあたりの道祖神は屋根付き柵囲みの中に祀られているものが多かった。 もう一つの矢原の握手像は、矢原神社の境内にあった。矢原の酒器像(彩色)も色鮮やかであった。矢原のもう1ケ所の酒器像(彩色)には、屋根にたくさんの幣がさげられていた。矢原の握手像。同じ矢原でも家の集まり毎に道祖神が祀られていた。矢原の酒器像は、碌山の生家近くにあった。最後に訪れたのは、白金の握手像であった。
茅野市 長円寺の石仏を訪ねる
 長円寺は真言宗で、慶安2年(1649)慶尊法印の開基と伝えられる。参道の左側には梵字碑2基と23体の石仏が、右側の池のまわりには百観音が並ぶ百観音のはじめの石碑に「西国當村 秩父中道 坂東菊澤 當山十五世法印祐慶造立」と彫られているから、この百観音は、十五世法印祐慶の在世の年代から推定して、江戸時代末期から明治初年頃造立されたものであろう。像容は如意輪観音8、千手観音28、十一面観音26、馬頭観音3、准提観音2、聖観音33である。・・・左側石垣の上に安置された石仏は、大日如来梵字碑・弘法大師像・地蔵菩薩像等多種多様であるが、渾然として融和し、百観音と共に信仰形態を示す民俗文化財として、また石造文化財として貴重である。と説明されていた。
 今夜は原村のペンション・ヴァルトハウスに泊ることにした。飛込みであったので夕食は、前にも行ったことのある富士見町のカントリー・キッチンで。
4月24日
 とうとう小雨になってしまった。蓼科や霧が峰の方に行っても景色も見えないしということで、メルヘン街道を通って麦草峠に行ってみることにした。登るほどに残雪が深くなり、2127mの麦草峠にある懐かしい麦草ヒュッテは深い雪の中であった。暖かいストーブとココアが迎えてくれた。ビーナスラインを通って一路帰途についた。
東山道
 信濃比叡といわれる岐阜との県境近くにある阿智・園原に残る東山道を歩いた。
 大宝元年(701)朝廷は近江国(滋賀県)を起点に「東山道」という道を作った。道は美濃の国(岐阜県)を経て上毛野(群馬県)、下毛野(栃木県)より陸奥・出羽国(東北地方)へ通じ1000kmに及んだ。東山道は、大和政権が地方を服従させるための「支配・軍事の道」、九州北辺の防衛に徴用された「防人の道」、税物を背負って歩いた「納税の道」、信濃の国で生産された馬を都に運ぶ「貢馬の道」として利用された。険しい山道が多く、最大の難関は神坂越えで、古事記・日本書紀をはじめ多くの古文学(歌・漢詩・物語)に地名や歌枕としてとりあげられてきた。
 園原の入口に車を停めて東山道を歩き始める。しばらく登ると月見堂があった。天台宗の祖・伝教大師(最澄)がこの山道のあまりの険しさに峠の両側に2つの寺(お助け小屋)を建てたといううちの1つ広拯院の跡地である。堂の前には満月の形をした「源仲正歌碑」があり、かつて文人たちが中秋の名月を賞したといわれている。さらに登ると、吉次に導かれ源義経が奥州に下向するとき馬を繋いだという駒つなぎの桜(エドヒガン桜)があり、その巨木は美しい若葉に覆われていた。ここまではどうにか車の通れる道であったが、ここからは細い山道となる。昔、京都の公家の娘客女姫がはるばる信濃を訪れこの池を鏡の代わりにしたという姿見の池があった。その先には「朝日松金鶏跡」がある。伏屋長者の吉次がこの地を去るにあたって秘蔵していた黄金の鶏をこの松の根元に埋めたという。どんどん登っていくと、夕暮れになるとほの白く見える暮白の滝があった。滝見台の上から願いを込めて皿を投げると望みが叶うという。さっそく投げてみたが滝は遠くて及ばなかった。街道を逸れて山を上っていくとその尾根に「帚木(ははき木)」があった。源氏物語や歌枕にその名を留めている名木で檜の老木である。幹がふたまたに分かれていてその先は広がって箒のように見えるところからその名がある。「その原や伏屋に生ふるははき木のありとはみえてあはぬ君かな 新古今和歌集」「帚木の心を知らで園原の道にあやなく惑ひぬるかな 源氏物語」 街道に戻りさらに登ると神坂神社があった。社殿は一間社流れ造りで、障璧、虹梁等の透かし彫りの精巧さがみごとである。境内には、樹齢1000年を超す日本杉や数百年を経た栃の巨木数本があり、社殿の横を通っていた古代東山道と共に万葉人の去来を偲ばせる。また富岡鉄斎揮毫による園原の由来を刻んだ園原碑、北原阿智之助揮毫の万葉集防人の歌碑「ちはやふる神の御坂に幣まつり斎ふ命は母父がため」、犬養孝筆による万葉集東歌の歌碑「信濃道は今の墾り道刈りばねに足ふましむな沓はけわが背」、黒坂周平筆による凌雲集の漢詩磨崖碑、日本武尊の腰掛石とも古代祭祀の磐座ともいわれる大石など石造文化財も多い。ここから神坂峠までは6.5kmであるが、3時間かかるというので引き返した。帰り道でもたくさんの歌碑を見た。最後に寄った信濃比叡根本中堂は新しく建て替えられたお寺で、伝教大師(最澄)の大きな像も建てられていた。古代に思いを馳せ歩くのが楽しい街道であった。

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