これは、私と夫がおよそ40年にわたって楽しんだ山行の歴史です。
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夫(英雄)は、高校1年生の時、山岳部員として北アルプスの常念岳に登って以来、日本アルプスの山々や、大学が東北大学であったため東北地方にある山々を数多く登ってきた。
妻(淑子)は、松阪地方にある堀坂山や白米城、白猪山などに登るのが精々で、御在所岳はロープウェイを使って・・・
家族旅行は大好きで、二人の子どもと共に、年に2〜3回は車で出かけた。また、志摩の海へ泳ぎに行ったり、奈良公園をしばしば歩きに行くなど、とにかくアウトドアを楽しんできた。しかし、登山は視野になかった。
が、ある時・・・・・これは、山に魅せられ二人で時間を見つけては登った山の記録である。
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画像のトップは、’64年 二人で雪上車に乗り立山連峰弥陀ヶ原に行きスキーを楽しんだ。ここが出発点。
’83年 英雄45歳 淑子44歳 息子17歳 娘15歳 家族で始めて山へ登ることになった。蝶ガ岳である。徳沢から登る長塀のほんとうに長かったこと。しかし、登りつめた蝶ガ岳から見る北アルプスの山々の素晴らしかったこと。次はあの奥穂高岳へ登りたい。この日から山のとりこになった。ただし、二人の子どもは母親のあまりのスローペースにあきれかえり、再度いっしょに山へ登ろうとは言わなかった。
翌’84年 念願の奥穂高岳 前穂高岳 涸沢の小屋から「透明なる宇宙 気」の音楽が流れる中、ヘッドライトをつけてザイテングラートを登る。紀美子平から下る重太郎新道は高山の花々で埋められていた。
’85年は槍ガ岳 あこがれの山頂に立ったとき、感動で足が震えた。
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’86年 はじめての春山で中央アルプスの宝剣岳 木曽駒ヶ岳へ。 深い雪をラッセルし駒ヶ岳山頂へ。
夏は白馬岳。長い雪渓を登る。小蓮華山より下る時見えた白馬大池の美しかったこと。
秋11月は御岳山へ。王滝頂上の社務所には長いツララが下がり、その先はすでに深い雪であった。雪を掻き分けてやっと剣ヶ峰までたどり着いた。
’87年は八方尾根へ
’88年 春 西穂高岳をめざすが、寒さのため体調を崩し独標より引き返す。
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’88年 夏 淑子の実妹とその息子を連れて涸沢から屏風ノ頭へ。
また夏から秋にかけては、日帰りで三重県と奈良県の県境にある台高山脈の宮の谷へ行ったり、淑子が職場の同僚と倶留尊山へ登ったりした。
秋 再び聖職の碑と宝剣岳をまわった。
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’89年 春 八ガ岳の赤岳をめざした。行者小屋から赤岳山頂を目前にする地点まで登ったところで滑落事故があり、山頂を踏まずに下山したのはかえすがえすも残念であった。
同じ春 英雄が職場の同僚と雪の木曽駒ヶ岳へ。
夏は富士山へ妹と三人で。覚悟していたとはいえ登山者の行列。女性もたくさん登っていたが富士山へ女性が登れるようになったのは1872年(明治5年)であった。875年(貞観17年)には富士山に登頂した人があったらしいのに女性の登山禁制が解かれたのはおよそ1000年後。山に登るのさえ差別された女性。女性にとって登山史は悲しい歴史だ。それにしても、ああ富士山は眺める山で、登る山ではなかった。
秋も三人で中央アルプスの三ノ沢岳へ。千畳敷からの登山道は一人の登山者にも会わず全く静かな山行だった。
’90年 春の上高地はなつかしい穂高がまっ白に見え、梓川の雪解け水はどこまでも澄んで美しかった。
’90年夏は英雄の休みがとれず、淑子は妹と2人で北穂高岳へ。山頂から職場にいる夫に「着いた!絶景かな!」とTEL.
秋は木枯らしの吹き始めた伊吹山へ。
’91年春 立山雄山・大汝山は全く素晴らしい広大な雪原の上に聳えていた。
夏また淑子と妹は剣岳をめざす。雷鳥沢を別山乗越まで登ると、雨が降り始め強風となる。学生パーティの間に入れてもらい剣山荘に着く。翌朝は雨も止んでおり、一服剣、前剣まで登りつめるが再び雨。「危ないから下りた方がよい」と強く勧められて泣く泣く下山。剣は、今でも強く心引かれる山である。登りたい!!
初秋 夜叉神峠へ。トリカブトがたくさん咲いていた。
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