小さな旅・四国を訪ねる 1

小さな旅
四国を訪ねる 1
 十数年前、宮尾登美子の「天涯の花」を読み、心に染み入る感動にひたった。以来私もキレンゲショウマに会いたいと思い続けていた。それは、深山幽谷に咲く険しい山を登りきった者だけが目にすることのできる幻の花であった。ところが数年前、キレンゲショウマの咲く剱山にはリフトが架かり、比較的簡単に登れることを知った。こうなると花への憧れも半減・・・でもやっぱり見たい!最盛期の今をおいてはと出かけることにした。そしてせっかく行くのだからと、3泊4日で徳島県を周ることにした。
 さて松浦武四郎は、天保7年(1863)丙申の年の19歳、5月25日、伊予の石槌山に登り、天狗嶽にいたって「実に是れ予が望足りぬと言ひつと思わる。」と感激し、これより讃岐の金毘羅に参詣し、山越しに箸蔵寺に上り、平家の落人という阿波の祖谷、鳴滝、怒竈、七段滝などを見て、剣山に一泊し・・・その紀行を「四国遍路道中雑誌・附録」(以下松浦記と略す)として残している。今回の旅はその足跡を辿る旅ともなった。

 いつか四国一周をと願いつつなかなか実現しない。そこで無理やり4日間の休暇をとり、半分だけでも周ってみようということになった。今回は淡路から徳島(阿波)へ渡り、徳島南部の阿南海岸を走り、高知(土佐)の室戸・龍河洞・桂浜・高知を巡り、四国を縦断して香川(伊予)の琴平・丸亀・高松・八島を訪ねるコース。岬と城と巡礼の旅となった。それはまた、松浦武四郎が2度にわたって四国八十八カ所霊場を巡り、「四国遍路道中雑記」(以下松浦記と略す)を著したその足跡を辿る旅でもあった。

8月6日
 早朝に出発し、6時には朝日にきらきらと輝く明石海峡大橋を渡って淡路島に入り、子午線135°を見て、さらに鳴門海峡を大鳴門橋で渡り鳴門に着いた。
うだつを掲げた町並みの残る脇町
 朝の静かな町並みを散策した。風情のある町である。「卯建」とは屋敷の軒下に設けられた防火用の袖壁のことで、造るのに多額の費用が必要だったことからいつしか富の象徴となった。脇町は江戸後期から明治期にかけて吉野川中流域の藍の集散地として繁栄した町で、現在も多数のうだつが約430mの古い町並みに残っており、国の重要伝統的建造物保存地区に指定されている。「吉田家住宅・藍商佐直」を見学した。主屋、質蔵、藍の寝床、荷の積み下ろしを行った石段、舟着門などがあった。次いで脇町劇場・オデオン座。昭和9年建造の芝居小屋である。直径6mの廻り舞台、花道、うずら桟橋、太夫座などを備えた本格的な造りであった。「急ぐ必要はない 君の速さで歩けばいい。君が君でいる事が何よりも大切なんだから」「虹をつかむ男」をここで撮った山田洋次監督の言葉が掲げられていた。古い藍蔵を利用した食事処でそばをいただいた。その後、堤防に上がり吉野川に架かる素朴な生活橋、脇町の潜水橋を眺めた。洪水などで増水すると水中に潜るそうである。  
国指定の天然記念物・阿波の土柱
 アメリカのロッキー山脈、イタリアのチロル地方と並ぶ世界三大奇勝のひとつ、約130万年前の地層が風雨に削られてできた断崖絶壁で、3つの山に波濤嶽、橘嶽、灯籠嶽など5つの土柱がある。かつてカナダでフードゥーという土柱を見て感動したが、遠くその規模には・・・
二層うだつのある町並み・つるぎ町貞光
 西日本第二の高峰「剣山」に源を発する貞光川が四国三郎吉野川と合流する貞光は江戸中期以降、商業と交通の要衝として栄えた。昭和30年頃まで山村の葉煙草の収納、繭、蒟蒻の収穫と引き替えに農具・日用品・薬品などを購入する人々で賑わっていた。漆喰を塗った上に鏝で風景や動植物などを描いた鏝絵(漆喰細工)、家ごとに異なる美しい絵模様が施された二層うだつの連なる景観はまさに壮観で時の経つのも忘れて一つひとつ見入った。煙草や藍の商売で隆盛を極めた明治期以降の町屋が殆どであるそうだ。その代表的な酒造業を営んでいた商家・織本屋と旧永井家庄屋屋敷を見学した。その後、葉煙草で有名な半田を通り土々呂の滝まで足を延ばした。
鳴滝
 一宇街道を剣山へ向かう途中、山から一条の大きな滝が流れ落ちるのを見つけた。対岸に渡り細い山道を進んでその滝の下まで行った。標高1073mの三角点を源とする成谷が3段、全長85mの滝となって水量豊かに流れ落ちていた。
 松浦記「其高数十丈の岩面ニ幅ハ壹丈餘。高凡十(丈)餘なるが七段ニなりて落るなり。故土人(土地の人の意)は是を七段瀧と云り。此壹丁斗も近き邊りニ行や沫泡衣を浸して甚物寂しき処也。此瀧の下ニまた石有。此上を飛行ニ其上段は其影の上ニも落かゝるやうニ覺へて頗る物すごし・・・」
土釜(怒竈)
 県指定の天然記念物で、両岸にそそり立つ岩盤の間に落差約7mの滝が激しく流れ落ち轟音が鳴り響いていた。落下した水しぶきが七色の虹をかけて神秘的な景観をつくり出している。岩盤が水の勢いで削られ丸い釜のような淵をいくつも造り出していた。
 松浦記「此処両岸より巨岩差出たる其かたち竈のごとき処に、上の方より落くる水此間ニ入る。其音法螺の音のごとし。其両岸緑樹陰森として其物寂しきこと云わんかたなし。
 その後、国道438号線とは名ばかりの細く曲がりくねった山道を延々と走り、夫婦池のほとりに建つ今夜の宿、「ラ・フォーレつるぎ山」に入った。
8月7日
キレンゲショウマに会いに 剱山へ 
 山荘からリフトのある見の越までは車で5分。車窓から剱山とそれに続くジロウキュウ(次郎笈)のなだらかな山稜が美しく望めた。
 松浦記「見残シ・・・此処籠堂一宇有。此処ニは六月十六日夜より十八日迄 祖谷村なる圓n宸ニいへる寺より僧到りて相詰、・・・」
 見の越からはリフト。「天涯の花」の主人公珠子の世界を味わいたいと願っていた私には少々気がひけるが。リフトで標高差330mの急斜面を1750mまで15分で上る。剣山は1955m、西日本第二 徳島県の最高峰であり、別名太郎笈、日本百名山の一つである。山名は安徳天皇ゆかりの剣に由来するとか。
 リフトの西島駅からはかなりの勾配の木の階段を登って刀掛の松まで。ここから登山道をそれてキレンゲショウマを見に下り、行場を通って長年憧れていたキレンゲショウマの群生地へ行った。キレンゲショウマ(ユキノシタ科)は深山に稀に生える多年草で、宮尾登美子が「凛として気高い月光の花」と称したように、可憐にひっそりと咲いていた。今が最盛期のようであった。刀掛の松まで戻り、1kmほど登ると剱山本宮宝蔵石神社。大きな茅の輪のある拝殿の上に御神体の岩があった。松浦記「剱山大権現 本社小き石の祠也。祭所安徳天皇の御太刀を置と云傅ふ也。また是よりして南ニ少し隔りて小き谷を越 小剱山権現の社有。此餘山中ニは八十五末社有と。」 頂上ヒュッテの横を通り山頂への道を辿る。ここは「平家の馬場」と呼ばれ、ミヤマクマザサの平坦な草原となっており、草原保護のための木道が頂上まで続いていた。360度の展望が望めるはずであった山頂は、あいにく霧の中であった。三角点の周りは石積みがなされ、注連縄が張られたサークルになっていた。帰りは、これまた「天涯の花」に出てきた測候所(今は無人)の前を通り、本宮神社のところから、大剱神社への道をとる。そしてここの神主さんから松浦武四郎が辿ったであろう昔の道について詳しくお話を聞いた。そこから少し下り名水百選の剣山御神水で石灰岩質でミネラル分に富んだ水を味わい、遊歩道コースをリフト駅まで下った。松浦記「大剱山の下ニ来るに おしき水といへる清水有。此水四時ともニ涌出る。参詣の人竹の筒を持行て皆是に入帰る也。
 リフトで降りた見の越で剱神社と剣山円福寺にお参りした。神社には、「さわやかな月光の花は 凛として気高い」という宮尾登美子の美しい碑が立っていた。
 この後祖谷渓に下りるはずであったが、昨夜、今夜予約してある宿から電話があり、台風による土砂崩れのため道路が通行止めで延々と回り道するしか手がないとの連絡を受けた。聞けばここからだと奥祖谷のさらに先だという。そこで8km先の奥祖谷まで入ることにした。二重かずら橋が見たかったからである。祖谷川下流に男橋、上流に女橋と二つの橋が架かっていることからこう呼ばれる。かずら橋は生活橋であるが、800年の昔、平家の落ち武者が渡ったともいわれ、木挽、杣、猟師等の使った道でもある。つるで編まれた橋を渡ると水音高い深い谷底が見えスリル満点であった。また野猿という籠をロープで渡したような乗り物も体験した。いずれも楽しくこちらに廻ってきてよかったと思った。ここからは見の越まで8km戻り、それからつるぎ町、高速を使って井川池田、そこからまた細い山道を登り、深い祖谷渓の断崖絶壁の上に立つ小便小僧の像を見て、ホテルかずら橋に着いた。延々116kmの回り道であった。
 
8月8日
祖谷のかずら橋
 ケーブルカーで山頂の露天風呂を楽しんだホテルかずら橋を後にして、近くのかずら橋に行った。この祖谷のかずら橋は、山に自生するシラクチカズラを編んで架けられた吊橋で、国指定重要文化財である。奥祖谷二重かずら橋より少し長く、その作りや趣が異なる。早朝であったため観光客もいなくて渡って十分に堪能できた。その先に、琵琶の滝があった。平家の落人が昔日の古都の生活をしのびながら滝の下で琵琶を奏でつれづれを慰めあったと伝えられている。見事な滝であった。松浦記「此祖谷山ニは祖谷の懸はしとて、大ぼけと申地ニ此向の山崖より彼向の断崖ニ、一本の大木を渡し而往来する地等も有よし。其又麓には小ぼけと申て柴もて懸たる橋等も有よし。その餘琵琶ケ瀧、并ニかつら橋と云有と。此かつら橋は数十丈深き谷の上に纔二條の藤かつらを引渡し、此かつらに木を二ツわりニし而其をこゝかしこと、壹尺間位に是を結つけたりと。此邊り之人は柴を負薪を荷て此橋を渡るに何のつらさも無りしが、他村より行しものは中々此橋を渡ることをやう到(致)さゞりし(と)かや。
 安徳天皇の御典医・堀川内記の子孫の屋敷が平家屋敷民俗資料館になっていたので立ち寄った。
大歩危峡観光遊覧船で
 2億年前の結晶片岩が侵食されてできた大峡谷で、「大股で歩くと危ない、小股で歩いても危ない」という意の名。遊覧船に乗って迫力ある巨岩奇岩を楽しもうと川辺に下りた。船着場は逆巻く川水が轟々と流れスリルがありそう。船が出て間もなく川は一転して水量はあるが穏やかな流れにやや拍子抜けした。のんびりと船下りを楽しむ。船頭さんに、昔の街道は絶壁の一番上近くを通っていて、「あの険しい崖の見える所を猿返しといいます。あまりの難所に皆、馬や駕籠を下りて通ったそうです。」と指差して話してもらった。戻ると例の激流でラフティングに興じる若者の姿があった。ああ、あれに乗りたかったなあ!
箸蔵山へ
 松浦武四郎は、金毘羅宮から山越えで箸蔵寺に詣でている。松浦記「神護山箸蔵寺ニ到る。此寺近比焼失到(致)し而假堂なりしが、土地樹木多きが故に随分大寺也。本堂本尊薬師如来。弘法大師御作にし而脇立并ニ十二神は後世添しものなりと。未だ焼失後なりしかば護摩堂並大師堂も皆本堂中ニ相殿とす。扨此寺を金毘羅の奥院と云傳ふ・・・」
 寺の少し上に3〜4軒の家が見えていてこれが金毘羅からの山越えの街道沿いらしい。今でもこれらの家までは車で上れるらしいが、一般車は無理。ロープウェイで箸蔵山に昇る。真言宗別格本山箸蔵寺は、箸蔵山600mの山頂にあり約1200年の昔、弘法大師がこの地で修行された折、金毘羅大権現のお告げを受け、本尊として箸蔵寺を開かれた。杉、檜が鬱蒼と茂る中に国指定重要文化財の本殿、薬師堂、護摩堂等30余の建物が点在し、左甚五郎の弟子の作といわれる彫刻が有名。各お堂に施された彫刻は誠に見事なものであった。
吉野川を下る
 「四国三郎」と呼ばれる吉野川は日本有数の大河である。この川があればこそこの地の歴史や文化がある、そう思わせるすばらしい川である。あまりの雄大さにこの川を下ってみたくなった。吉野川SAのところから和船に乗せてもらった。この地生まれの船頭さんの話がまたいい。
 美濃田の瀬と美濃田の渡しのこと。対岸に田畑をもつ農家の人が、牛馬や農具も舟で渡していた。大水が出ると何日も渡れず農作業に差し障るため、昭和29年54人の人が私財を投げ打って橋を架けようとした。しかし資金難と自然災害、中心人物の死などが重なっていつしか絶ち消えとなった。今でも川の中ほどに立派な橋脚が残っている。美濃田の渡しは昭和36,7年頃まであったそうだ。吉野川にはたくさんの渡しがあったが、船着場のすぐ上が桜の瀬といわれ、胸くらいの深さで歩いて渡れたそうだ。壇ノ浦で敗れた平家の落ち武者がこの瀬を渡り祖谷へ逃れたというのが定説だとか。
阿波徳島で
 夕刻徳島に着いた。まずは徳島城址へ。徳島城は、天正13年(1585)に阿波国の領主となった蜂須賀家政によって建設された城で標高約61mの山城である。徳島城博物館に入った。ここでは「蜂須賀家の名宝と大名美術の世界」という特別展が開かれていた。旧徳島城表御殿庭園も見られた。いくつかの「城山の貝塚」を見ながら、山頂の本丸跡まで登ってみた。
 徳島の町は3日後の11日から始まる阿波踊りの会場設営でごったがえしていた。やっと眉山の麓のグランドホテル偕楽園に着いた。夜は、阿波おどり会館に行き、阿波踊りを見たり体験したりして楽しんだ。
8月9日
眉山で
 眉山にはロープウェイで昇れるが私たちは車で。山頂からは、麓に広がる徳島の市街地とそのむこうに悠々と流れる吉野川が美しく見渡せた。日本を愛し、眉山の緑を愛し、文筆により徳島の風物を海外に紹介したポルトガル人ウェンセスラウ・デ・モラエスの記念館もあった。
阿波十郎兵衛屋敷
 阿波十郎兵衛屋敷は、「傾城阿波鳴門」のモデル坂東十郎兵衛の屋敷跡で「傾城阿波の鳴門」ゆかりの場所である。阿波人形浄瑠璃は、義太夫節の浄瑠璃と太棹の三味線、3人遣いの人形の三者によって演じられる人形芝居で、徳島が全国に誇る伝統芸能である。ここで、傾城阿波の鳴門「順礼歌の段」を見た。その後、木偶人形会館も訪れた。そういえば高田屋嘉兵衛の物語、司馬遼太郎作「菜の花の沖」にも人形浄瑠璃・木偶人形のことが出ていたなあ。
 帰路は徳島から和歌山へフェリーで渡り、途中吉野へ寄ったりしながら和歌山街道を戻った。
 
3月27日
 夫の会議が終わるのを待って深夜に出発する。
3月28日
 明石海峡大橋を渡り、淡路島南PAで3時間ほど仮眠。大鳴門橋の上から渦潮を見て、阿南海岸をひた走る。
四国最東端の蒲生田岬へ
 岬へ行く途中の椿川河口の堤防には、珍しいひ魚漁だという仕掛けの網が並んでいた。咲き始めた桜とマッチして情緒ある風景であった。岬の最も高い所に蒲生田岬灯台が建っていた。灯台に登ると、黒潮に洗われた断崖絶壁の向こうに多くの岩礁と速い潮流が眺望でき、この灯台の重要性がよくわかった。
二十三番醫王山無量(壽)院薬王寺
 松浦記「兼而阿讃土豫の地は、弘法大師の遺跡多くして靈驗威コ著しきと聞しかば、何時かは烏藤を曳て八十八ケ所え遍路し奉らんことを希といへども・・・」と記し、その装束について
 莎笠 奉遍路四國八十八ケ所南無大師遍照金剛并四句之文國所性(姓)名同行何人(一人の場合も同行二人と書く。自分のそばには常に弘法大師様がついているという意味)
 札挟 南無大師遍照金剛其字を両脇に書、中行奉遍禮(路)四國八十八ケ所同行何人と書也。并ニ國所性(姓)名を認む。壹寸五六分ニ五寸位の板二枚を合せしもの、此間ニ納札を入るゝ也。
 杖 杉の木にて角ニ削る。上の方を五輪に彫 杉杖の由来 本尊大師尊像に傍ニ右ヱ(衛)門三郎が髪をさばき、石ニ腰打かけて杉の杖をつんばりたる姿を安置す。前ニ右ヱ門三郎が杖の生しと云大なる杉の古木壹本有。其ゆわれを聞に、昔伊豫の國の大守右ヱ門三郎なるもの邪見(慳)有慾のものに而、大師が洪(功)コをねたミけるが、後發心して四國を遍(巡)禮セんと八十八ケ所を廻りしが・・・貳十一度の間大師に拜面することを得ざりしが、貳十一度滿願之時此處に而大師ニ行逢、則得度することを得此處に而死セしと。則此杖を此岩の脇ニ立しが、今繁茂して數圍の大樹となりしとかや。故に四國遍路の(者)等は皆杉の杖をつき竹杖を用ひず。
 昔しは餘程の伽藍なりしと聞り。今ニも當國之者女は十九才、三十三才。男は二十五才、四十二才等ニ皆此寺ニ参詣して除厄を祈るが故繁華也。
と記しているが、私たち二人はとっくにその年を過ぎているし・・・などと言い訳して門前にて参拝し写真を撮って、近くのレストランでバイキング・・・なんとも罰当たりなことである。街道には巡礼姿のお遍路さんが何人も何人も歩いておられた。これがほんとうの姿であろう。いつか私たちも・・・
 春めくや 人それぞれの 遍路みち
室戸へ 
 眼前には太平洋が広がっている。潮目がはっきりわかる海はどこまでも青い。地球の丸いことを感じつつ走る。やがて巨大な岩の林立する夫婦岩にきた。誠に雄大な景観で、高知県の県鳥だという美しい羽をもったヤイロチョウが群れ飛んでいた。
 いよいよ室戸岬。室戸青年大師像、弘法大師修行の地である御厨人窟、弘法大師行水の池、ビシャゴ岩、中岡慎太郎像(太平洋を見据える目は、高知市桂浜に立つ坂本龍馬に向けられているという)を見て周り、室戸岬を一望する展望台へも上がってみた。ここから見た空と海に感銘を受けたのが空海の法名の由来とか。
 ついで室戸岬灯台へ。明治32年(1899)建設、レンズの直径が2.6mと日本最大。ここでフランスから来た人たちと出会いしばし歓談。画像はフランス人の一人に撮ってもらったものである。
二十四番室戸山明星院最御崎寺
 地元では、通称東寺と呼ばれる空海が悟りを開いたといわれる名刹。山門前に佇む大師像、石でたたくと鐘のような音が鳴る鐘石、小さくて愛らしい「一言お願い地蔵」など巡る。おもしろい看板をみつけた。「くわずいも(空海の七不思議) 昔、土地の者が芋を洗っていると、一人の遍路(弘法大師)が通りかかりその芋を乞うたところ「これは食えない芋だ」といって与えなかった。それ以来本当に食べられなくなったと伝えられている。」
 松浦記「此山は摩(魔)所ニ而女人をかたく禁ず。・・・是より下り坂七八丁にして女人道と行逢濱ニ出る。小石大石のまざり道甚よろしからず。又此處に不喰芋と云もの有。其ゆわれは此あたりに而娘が芋をあらひ居たるを、大師乞給ふニ奉らざりしかば其芋皆かたくなりしと云傳ふ。
土佐漆喰と白壁の町並み 吉良川町
 明治から昭和初期にかけて土佐備長炭の集散地として栄えた吉良川の町並みを散策した。国の重要伝統的建造物群に指定されており、土佐漆喰の白壁や水切り瓦、特徴的な石垣が見られ、かつての繁栄ぶりを偲ばせていた。
 今夜は、少し戻って道の駅「キラメッセ室戸」で泊。レストランで鯨料理フルコースを堪能。
3月29日
 早朝に大師道を歩いてみた。特産のびわに袋がかけられたわわに実っていた。
昔ながらの町並みが残る安芸
 花こぶし 人なつかしく 咲きにけり
 安芸はどこか懐かしい風情あふれる町である。明治20年(1887)頃につくられた野良時計。西欧文明に憧れた地主の畠中源馬が時計を何度も分解してその仕組みを学びこの大時計を作り上げた。当時は時計が一般家庭に普及しておらずこの時計台は農作業をする人々に時刻を知らせる重要な役割を担っていたという。土佐藩家老五藤氏の家臣たちの武家屋敷がある小城下町、土居廓中。水切り瓦や瓦の練塀など独特の建築様式が見られた。安芸城跡、歴史民俗資料館、書道美術館などを見学し、岩崎弥太郎生家にも寄ってみた。ここは生垣の中にひっそり佇む藁葺き屋根に漆喰壁の造り、土蔵の鬼瓦には三菱マークの原型になった岩崎家の家紋や三階菱が残されていた。
龍河洞
 自然が創りだした鍾乳洞で国の天然記念物。が秋芳洞に比べると・・・
桂浜
 龍頭岬と龍王岬の間に広がる弓状の緩やかな砂浜で、背後には緑の松原が生い繁り、美しい砂浜と紺碧の海とが見事に調和していた。まっすぐ太平洋を見据える坂本龍馬像が印象的であった。
高知城
 土佐の初代藩主山内一豊によって築かれた城で、天守閣、本丸御殿、黒鉄門など15の建築物が国の重要文化財に指定されている。天守閣や懐徳館へも入りたかったのだが夕方で時間切れ、残念!
 はりまや橋には駐車場がないのでタクシーで出かけた。
 その後日程の関係で、高知自動車道を走り四国を縦断した。この四国の背骨を横切るコースも真っ暗でなにも見えなかったが、昼間通ったらおもしろかろうと残念だった。
 今夜は、「ふれあいパークみの」、温泉つきの大きな道の駅である。
3月30日
 春に3日の晴天なしというが、この日はあいにくの雨。
七十一番劔五山千手院彌谷寺
 山の上にあり、霊気漂う神秘的な雰囲気の霊場であった。たくさんの遍路さんたちに出会った。
 松浦記「境内岩壁多くし而嶢角たる山形也。其西ニ皆佛菩薩之像并ニ梵字また觀經之文等を彫り、頗る危絶也。また山中ニ天霧山とて香川信景の城跡有。此山の東の尾也。并ニ下戰場等有。
七十五番五岳山誕生院善通寺
 松浦記「善通寺町ニ出る。商家三百餘軒。農家また入接りにし春秋二季ニ戯演有。頗る繁栄の地也。
 ここは弘法大師誕生の地である。善通寺は、高野山金剛峯寺、京都東寺と並ぶ弘法大師三大霊跡の一つ。境内は東西2院に分かれ、東院には薬師如来像を祀る金堂や五重塔、西院には御影堂や奥殿があった。
金刀比羅宮
 いよいよ石段で有名な金刀比羅宮の門前町として古くから栄えた琴平に着いた。まず旧金毘羅大芝居(金丸座)を見に行った。踊りの会があるとかで豪華な花が飾られていた。しかし残念ながら内部を見ることはできなかった。さて石段への挑戦である。駕籠に乗って参拝する老人も見かけた。境内の総門である大門を潜る。そこには五人百姓と呼ばれる人たちが店を出していた。その昔たいへん貢献のあった五人のお百姓が、今も唯一境内で商いを許されているそうだ。桜の花咲く石段を登り、宝物館で空海作といわれる重要文化財の「十一面観音立像」を鑑賞した。精緻な彫刻が施され天保芸術の粋を集めた旭社、そして785段の石段を登ってたどり着く御本宮。ずいぶん下に琴平の町が見渡せ、讃岐富士といわれる飯野山も美しい姿を見せていた。帰りに表書院に入り、円山応挙の障壁画「遊虎図」「瀑布古松図」「竹林七賢図」「遊鶴図」などを堪能した。その後参道に並ぶ老舗の一軒「とらや」で讃岐うどんを賞味。
 少し離れた 松浦記「則弘法大師作り給ふまんのうの池といへるもの有。」の満(萬)濃池にも行ってみた。があまりに大きすぎてその全景を見ることはできなかった。
丸亀
 松浦記「讃州那珂郡城主京極佐渡守。此城慶長年間より生駒家在せしが事有而、寛永十八年より山崎甲斐守是ニ住し、其後萬治元年より京極家住す。城下市町一萬餘軒。繁華の湊なり。・・・また此地ニ而は日々人の門口ニ立而、一手一錢の功コをうけて廻るものを上遍路と云ひ、左もせで廻るものを中遍路と號、合力を連是に荷物を負ハセて歩行を下遍路と云る也。其故信心之輩は皆首ニ頭陀を懸、札挟に笠杖を装ひ、一手一錢の合力を受て廻るが故に、四百里ニ不満道なれども三十日、五十日かゝりて廻るものわなく、皆三五ケ月も懸ること也。
 美しい白壁と堀に囲まれた丸亀城は丸亀のシンボル。内堀から天守閣まで4段に積まれた石垣のみごとな曲線。御殿表門などに江戸時代の名残を見せていた。桜咲く天守閣にも登ってみた。うちわの名産地でもある。
 今日もまた温泉つきの道の駅「香南楽湯」で一泊。

戻る