山陽・山陰の旅

かけあし
山陽・山陰めぐり
 1ケ月かけて九州を巡った時のようにゆっくりと山陽・山陰地方を旅したいと願っているが、夫の勤めがありそうもいかない。いたしかたないので、かけあし旅行にはなるが何度かに分けて出かけることにした。姫路、倉敷、岡山のあたりは大好きで何度も出かけているし、鳥取砂丘にも家族旅行で行ったことがあるなどと、まずはしょるところを除いて計画を立てた。といっても折角遠くまでいくのだからと欲張ってしまいどうしても超過密・・・
 第2回 春にはと思いつつなかなか実現できない。とうとう7ケ月が経ち梅雨のまっ最中に・・・でもこの機会を逃してはと出かけることにした。前回残した島根・鳥取を巡る旅である。


11月23日
 夫の勤務が終わってから出発し、キャンピングカーで、夜の伊勢自動車道、西名阪道、近畿道、中国道、山陽道をひた走る。福山SAに着いたのは午前2時になっていた。
11月24日
情緒が息づく坂の町 尾道
 山の尾の道といわれるように海際までせりだした山の裾に細長く延びる町で、開港800年以上の歴史をもつ。江戸時代には北前船の寄港地として賑わい、交易によって繁栄した町には多くの社寺が建立された。海岸から山に向って続く入り組んだ坂道の先には山肌にはりつくように家並みが広がる。その風情に魅せられて昔から多くの文人墨客が訪れここを舞台にした作品を残している。
 「出雲大社道」の標石の建つ街角を通って、ロープウェイで千光寺に上った。赤堂と呼ばれる朱塗りの本堂と紅葉が美しい。除夜の鐘で有名な「驚音楼」は「日本の音風景100選」に名を連ねているそうだ。巨岩が散在する境内で、鎖の輪に足を掛け岩をよじ登って石鎚大権現の祠の建つところまで登った。家並み、瀬戸内海に浮かぶ島々、尾道大橋が一望のもとにひらけまるで絵のようなの表現がぴったり。その後、「文学のこみち」を辿ることにした。徳富蘇峰、前田曙山、正岡子規、物外、十返舎一九、金田一京助、江見水蔭、志賀直哉、林芙美子、緒方洪庵、巌谷小波、山口玄洞、山口誓子、柳原白蓮、河東碧梧桐、松尾芭蕉、吉井勇、小杉放庵、菅茶山、陣幕久五郎、頼山陽など25の文学碑が建っていた。林芙美子のそれは、「放浪記」の一節が刻まれていた。また中村憲吉の歌碑は旧居のところに6基ほど建っていた。志賀直哉の旧居も訪ねてみた。駆け足の旅のつもりがすでに尾道でたっぷり3時間。ほんとうは松浦武四郎が奉納した鏡のある菅原道真を祀る御袖天満宮にも行きたかったのだがパス。カーナビのとおり竹原に向ったはずが「しまなみ海道」の方に入ってしまいここでもかなりの時間ロス。
製塩と酒造りで栄えた安芸の小京都・竹原
 製塩業で栄え、その豊かな経済力で豪商たちが築き上げ、国の重要伝統的建築物群保存地区に選定された竹原の町並みを歩いた。頼山陽の銅像を見ながら町並みに入る。静かで落着いた町である。笠井邸、地蔵堂、堀友邸、竹鶴酒造をはじめとする古い蔵元が点在する。松阪邸は中を見学させてもらった。唐破風の大屋根、彫りを施した出格子など贅を尽くした華やかな意匠がひときわ目を引く。吉井邸(本陣跡)、歴史民俗資料館(竹原書院跡)、頼惟清邸(県史跡)は中まで見せていただいた。酒造用の井戸、いっぱいの花で飾られた民家、ゑびす堂、酒蔵交流館、大黒神社、光本邸、復古館(国重文)、春風館(国重文)、大瀬邸、亀田邸、住吉神社と常夜燈などを巡った。時間があればもっとゆっくり周りたい町であった。
 この日は厳島神社、岩国を回る予定であった。ところが、山陽道を走り変だと思いながらもカーナビの指示通りのずいぶん手前のインターで下りると渋滞に巻き込まれ、とんでもない所に引っ張られ、挙句は広島市内のど真ん中、とうとう日が暮れる。宮島、岩国を諦め、広島岩国道路、山陽道、中国自動車道を走って今夜も美東SA泊りも致し方なし。
11月25日
 下関も近いが、九州旅行の時門司から渡ってあるし、長府にも行きたいが今回はパス。
秋吉台で自然の神秘にふれて
 昨日は欲張り過ぎていらいらしたので今日は目的地を減らし時間的にゆとりのあるコースにした。途端に旅が楽しくなりるんるん気分、おかしなものだ。
 茶色い石州瓦の豪邸を見ながら進むと30分で秋芳洞に着いた。ここは東洋屈指の規模を誇る大鍾乳洞。私は50年前の学生時代ここに来たことがあるのだが、中はその頃とあまり変わっていないような気がした。高さ30m、幅20mの巨大な空間を2時間あまりかけてゆっくりと往復した。なかでも「百枚皿」「黄金柱」は圧巻であった。その後、ここは始めての秋吉台を縦走するカルストロードを走った。標高200mから400mの台地に広がる緑の草原、あたかも羊が群れているかのように顔を出す石灰岩の白い岩肌、そんな起伏に富んだ壮大な光景を満喫した。およそ3億5千万年前のサンゴ礁が石灰化し隆起してできたそうである。
維新のふるさと 山陰の小京都 萩
 萩焼の里として知られる萩は、毛利家13代260年間にわたって賑わいをみせた城下町。土壁や白壁になまこ壁の情緒豊かな町並みが広がり当時の風情が色濃く残っていた。ここは時間をかけてゆっくりと散策したいと思った。まず行ったのは萩城城下町界隈。円政寺に入る。高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文らが学び遊んだという神仏混合の名残をとどめる寺である。境内には玄武岩でできた県下最大の石燈籠、幼少の晋作や博文が遊んだ木馬、晋作が度胸を鍛えたという天狗面などがあった。ここで城下町絵図をもらって歩いた。青木周弼旧宅、木戸孝允(桂小五郎)旧宅を見学、菊屋家住宅へ。ここは萩藩の豪商で、当時は本陣になっていたという。邸内には17世紀築という母屋をはじめ本蔵、金蔵などがあり、御用商人の暮らしぶりがうかがえた。田中義一誕生地、志賀義雄旧宅を見て高杉晋作誕生地を見学した。ついで松陰神社に向った。大きな鳥居を潜ると、明治維新胎動之地と刻まれた大きな石碑が建っていた。ここでは意外に小さかった松下村塾、吉田松陰幽囚の旧宅、松陰神社などを見学した。ここから比較的近い伊藤博文旧宅・別宅や東光寺、伝統的建物保存地区(町家)の浜崎を歩きたかったのだが、土曜日のせいか駐車場がいっぱいで断念し、広大な萩博物館へ戻った。博物館を見学した後、それに続くこれまた伝統的建物保存地区のお屋敷町を歩いたり旧厚狭毛利家萩屋敷長屋、萩キリシタン殉教者記念公園、萩城跡にも足を延ばしたかったのだが、夕暮れが迫り諦めた。そして今夜宿泊予定の津和野道の駅なごみの里に向った。温泉つきの道の駅である。
 
 
11月26日
優雅な城下町 山陰の小京都 津和野
 前2泊が高速道のSAであったので昨夜の道の駅は静かで車も少なく快適であった。
 鯉が泳ぐ掘割、赤い石州瓦の商家、白壁の町家など趣のある景観の津和野はあこがれの地であった。情緒豊かな作品を生み出した文豪森鴎外のふるさとであり、幕府の方針で改宗を迫られたキリシタンが殉教した悲しい歴史の残る地で、ゴシック様式の聖堂をはじめキリシタンゆかりの建物が点在する町でもある。鎌倉時代の末期に城が築かれるまで一面にツワブキが生い茂っていたことからその名がついたそうだ。
 早朝の森鴎外旧宅を外から眺め、津和野駅前に車を停めた。駅前はSLが今年最後の運行とかのイベントがあり、その準備が進められていた。駅から白壁の土蔵に連子格子、ベンガラ色の石州瓦をのせた商家の町本町を進む。土蔵の下を流れる堀に鯉がいるという米屋、森鴎外も愛用したという漢方胃腸薬「一等丸」を今も販売しているタカツヤ伊藤薬局があった。かつて本町通りとは惣門で厳しく隔てられていた殿町通りは白壁と掘割が続く武家の町。城下町で異彩を放つ石造りの重厚なゴシック建築の建物が津和野カトリック教会。その先に森鴎外も学んだ江戸時代に建てられた藩校「養老館」。門前の掘割には色鮮やかな鯉、ボランティアガイドの方が「ここの鯉はあなたと同じで少しダイエットが必要・・・」と観光客を笑わせている。その前の重厚な武家屋敷門は、津和野藩11代にわたり筆頭家老を務めた多胡家の表門。橋の側に鷺舞という像が建っており、盛りの紅葉に映えて美しかった。小高い山の上に津和野城址が見えていた。現在残っている大岡家老門を潜ると敷地内に津和野町役場というのも奥ゆかしい。続いて石州瓦の豪壮な邸宅となまこ壁。
 ほんとうは殉教した26人のキリシタンをしのんで建てられた乙女峠マリア聖堂にも行きたかったのだが、急な坂道を歩いてかなり登らなければならないとのことで諦めた。
 最初の予定では石見銀山、出雲大社、宍道湖、松江と回るつもりであったが日程が1日ずれており、次回これら山陰を中心に旅を組むことにした。それに津和野はかなり内陸部へ入っているので、残してきた岩国、宮島に戻ることにした。
岩国 日本三名橋の一つ 錦帯橋
 旅の2日間は好天に恵まれたが、今日は岩国に向う途中から降り出し、錦帯橋に着いたときは本格的な雨になっていた。
 その美しさから「山は富士、滝は那智、橋は錦帯」と讃えられた錦帯橋は、日本三名橋の一つに数えられる優美な橋。五連のアーチを描く木造部分は釘をほとんど使わず巻き金と鎹で組み上げられたもので、1673(延宝元)年に3代藩主吉川広嘉によって創建された。錦川には幾度となく橋が架けられたが増水する度に流失。流れない橋を架けたいという歴代藩主の思いを実現すべく築城技術と組み木の技法を最大限に生かしたアーチ型の橋が完成したという。長さ193.3m、幅5m、橋脚の高さ6.6mの錦帯橋を日曜日のこととてすごい人波に押されて渡った。
伝統と文化が息づく 宮島 厳島神社
 山陽自動車道を通って宮島口までは意外に早かった。しかし駐車場を探すのに苦労し、やっとの思いでフェリーに乗り宮島に着いた。この参道もすごい人波で、前回来たときと比べこんなに長かったかなと思いつつ厳島神社に着いた。
 日本三景の一つに数えられる宮島。古くから島そのものが信仰の対象とされ「神をいつき祀る」の意から島名を厳島と呼んでいたという。その中に世界文化遺産に登録された厳島神社がある。荘厳かつ優美で華麗な建築の朱塗りの社殿は瀬戸内の紺碧の海を敷地に17棟の各殿を約300mの回廊で結んだ奇想天外な構想、寝殿造りの様式を巧みに取り入れ、龍宮城を現世に再現したともいわれている。神社の前の沖には楠の自然木で造られた朱塗りの大鳥居、全国唯一の海に浮かぶ能舞台、神社の周辺には、千畳閣、五重塔など宮島の歴史を物語る貴重な建造物が多数点在している。それらを3時間を費やしゆっくりと見て周った。ロープウェイで弥山に登り瀬戸内海を見たかったがこの天候ではと止めにした。
 今回の旅の最後の宿泊は、蒜山高原の休暇村で蟹づくしの食事をと楽しみにしていたが、ここからでは如何にも遠い。そこで、急遽途中の広島の帝釈峡で宿をとることができ、そこに向い山陽道、広島道、中国道を走った。
11月27日
帝釈峡を歩く
 宿泊したのは湖畔に佇む帝釈峡観光ホテル錦彩館。
 まずは神龍湖を遊覧船で、120人乗りの大きな船に客は私たちたった2人、紅葉には少し遅かったがのんびりと周った。船を下りると車で湖を一周しスコラ高原を通って、帝釈峡へ。帝釈川の流れがカルスト台地を浸食してできた大峡谷で、約18kmも奇岩、大絶壁が続くところである。上帝釈から神龍湖に向って歩いた。まずは白雲洞へ入った。奥行き200mの狭い鍾乳洞窟に入ると、鍾乳石、石筍、石柱などがそのまま保存されていた。洞を出ると、雄橋だけは是非見ていってと勧められ渓谷を進む。途中でバイクを引っぱった郵便局員さんと出会った。パンクしたのだという。この山の奥にも人家があるらしい。未渡郵便局の人で、胸には「穴戸」というネームが・・・たいへんなことである。「山の郵便配達」という感動的な映画を思い出していた。雄橋は、渓水の侵食作用によってできた長さ90m、幅19m、高さ40m, 水面より橋の裏面まで18m、日本一の天然橋で、国の天然記念物に指定されている。スイスのプレビシュ、北アメリカのロックブリッジと並んで世界三大天然橋の一つとされている。さすがその迫力に圧倒された。見応えがあった。そこから引き返し、駐車場そばの弥生食堂に寄った。食堂の方に民話を聞かせていただいた。「神様から言い付かって男の鬼と女の鬼が一夜にして橋を架けた。ところが雌橋の方が大きかったので男の鬼が怒って踏みつけた。そこで雌橋は長いが雄橋の下にあり低くなった」と。
 1時に帝釈を離れた。ここから自宅まで450kmほど、遅くとも7時には着けるだろうと思っていた。ところが、登坂車線、長い下り坂を繰返し中国道を走りぬけるところまでは順調だったのだが、近畿道、西名阪道で渋滞に巻き込まれ、自宅に戻ったのは10時半を過ぎていた。それにしても毎日、朝早くから夜遅くまで走りに走った旅であった。
 
6月23日
 久しぶりに晴天、早朝に家を出る。中国道に入ったあたりから少し渋滞したが、11時には蒜山高原に着いた。
牧歌的な風景が続く蒜山高原
 蒜山ハーブガーデンのラベンダー畑を歩きながら、蒜山三座とその裾に広がる高原の展望を楽しむ。その後、茅部神社の石の大鳥居の前を通り、ジャージーランド・蒜山ホースパークの広い牧場を散策したり、水温11度、温度・量とも四季変わらないという塩釜冷泉を巡ったりした。
 ブナの原生林の美しい蒜山大山スカイラインを通り大山に向う。途中の鬼女台展望休憩所からは、待望の大山が望めた。少し下って今夜の宿泊地、休暇村鏡ケ成キャンプ場へ3時に入った。季節外れのためキャンプ場は私たちの1台だけ、静かで快適であった。
6月24日
 予定通りというか、今日は雨。大山環状道を大山寺に向う。鳥ケ山展望台は霧の中。途中でおもしろいものを見つけた。モリアオガエルの白いたまごがいくつも木にぶらさがっている。よく見ると、いたいた!大きな蛙が数匹、おじゃましますとそっと見る。このあたりのブナの原生林は昨日見たよりさらにすばらしい。鍵掛峠からはさらに近くて大きな大山が望めるはずであったがあいにく雲の中。標高1000mを行くと、沢がいくつも流れ落ち、大山の崩壊が激しく、駐車禁止となっていた。文殊堂遺跡峠、文殊堂を過ぎ、下ると桝水原。雨でリフトは運休していたが、リフトで中腹までいき、登ると弥山、ここを越えて大山へと登るコースの一つとなっている。
1300年の歴史を刻む名刹・大山寺を訪ねる
 古くから霊場として崇められてきた大山には、貴重な社寺や文化財が多い。先ず訪ねたのは、国の重要文化財に指定されている阿弥陀堂、静寂の中に佇んでいるお堂であった。石畳の参道を行き、高い石段を上ると大山寺。奈良時代に建立された寺で、天台宗別格本山の修験場として平安末期から室町時代に寺勢を誇っていたという。今日も白装束姿の信者が多数法螺貝を吹き、念仏を唱えていた。
 大山から米子を抜け、境港へ回った。妖怪漫画で知られる水木しげる氏の故郷である。しかし、大山ではあがっていた雨が激しく降り出し、魚山亭でお目当ての名物海鮮料理を堪能し早々に松江に向った。
水の都・松江をめぐる
 松江は、小泉八雲が愛した日本の面影が残る城下町である。山陰随一の都市でもあり、宍道湖に面し、すぐ東には中海が控えている。堀川めぐりの和船が増水のため運休になっていたので、雨の中を歩くことにした。城下町の面影をもっとも残しているのは、城の北堀沿いにある塩見縄手。深緑色の堀川に老松が影を落とし、威厳あるたたずまいの武家屋敷が軒を連ねている。先ず最初に入ったのは小泉八雲記念館。明治期の日本人の心を優しい眼差しと流麗な文章で描き、広く世界に紹介した小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の記念館。続いて小泉八雲旧居。武家屋敷。堀を巡って延々と歩き、松江城へ登った。別名「千鳥城」とも呼ばれ、築城の名手といわれた城主堀尾吉晴が慶長16年(1611)に築いたもので、五層六階のその姿は、要塞としての機能を備えた桃山時代初期の城郭の特徴を残しているといわれる。帰りは城山稲荷神社の前を通り、駐車場まで戻った。
 明日の行程に備えもう少し足を延ばすことにして宍道湖のほとりを走った。この旅では、宍道湖の北岸と南岸を4回走ることになるのだが、残念ながらいつも曇っていてその美しい姿は見ることができなかった。今夜は、道の駅・キララ多伎で車中泊。近くのいちじく温泉で温泉を楽しんだ。
6月25日
世界遺産・石見銀山・大森地区を行く
 大永6年(1526)開発以来、約400年間に亘って大量の銀を産出し、戦国大名の軍資金や江戸幕府の財源となり世界にもその名を知られた。大正12年(1923)閉山したが、鉱山遺跡や江戸時代の家並み、銀を積み出した港などの歴史的な景観が今も残る。間歩と呼ばれる坑道や製錬施設跡、住居跡が残るかつての鉱山町と、武家屋敷と御用商人の町屋が混在する独特の家並みが続く大森町(重要伝統的建造物群保存地区)がある。訪れた3日後の6月28日、世界遺産に登録された。バスを待つ間、城上神社を訪ね、乗客私たち2人だけのバスで、龍源寺間歩に行った。石見銀山に無数ある間歩(まぶ)の中で唯一公開されている江戸時代に開発された代官所直営の坑道跡で、かつては良質の銀鉱石が掘り出された。間歩内にはノミの跡や鉱脈に沿って掘り進んだ穴が生々しく残っていた。坑道は630mあるが、現在公開されているのは156mである。石見にはこれより大きい間歩もたくさんあるそうで、この谷間の小さな旧鉱山町に、最盛期には20万人の人が住んでいたという。
 ・・・
 銀山の谷に人口二十万
 寺院百か寺
 天領二百六十六年のドラマ
 いまは消えない郷愁
 全国四十七か国に散在する
 天領の中で
 石見銀山御料五万石は
 日本一の大銀山の天領として
 鮮烈な光芒をしるしぬ
 
 再びバスで銀山公園まで戻り、羅漢時・五百羅漢を訪ねた。銀山で働いて亡くなった人々の霊を供養しようと五百羅漢坐像が祀られている。その後、重要伝統的建造物群保存地区の大森地区を散策した。金森家、阿部家、雑や駒、栄泉寺、三宅家、旧大森区裁判所、旧河島家住宅(休館日)、鶴の石、観世音寺、郵便局、西性寺、青山家、熊谷家住宅(休館日)など見て歩き、銀の店で銀細工を購入した。最後に、石見銀山資料館へ。大森代官所跡に建てられた郡役所の建物をそのまま生かし、石見銀山の歴史資料や銀鉱石、島根県の岩石鉱物などを展示、大航海時代にすでに世界に知られていた石見銀山の地図資料や歴史、採掘方法を知ることができ、江戸時代の採鉱道具なども展示されている。
出雲へ
 出雲・吉兆館へ立ち寄り、今年の5月にできたばかりの島根県立古代出雲歴史博物館へ行った。出雲風土記の再現、銅鐸や銅剣などの展示もすばらしく、迫力ある映像で映し出される神話を楽しむうち瞬く間に2時間が経っていた。出雲大社は明日ゆっくり訪ねることにして、40kmほど離れているが運良くとれた玉造温泉の玉井別館へ向った。
6月26日
 ありがたいことに昨日も今日も曇り空で、念のために傘は持っているもののさすほどのことはない。
古代出雲の象徴・出雲大社
 玉造から出雲へ40kmを引き返す。
 途中寄ったのは出雲文化伝承館。出雲の伝統的な地主屋敷の母屋と長屋門を移築公開し、出雲流庭園や茶室を復元してあった。
 出雲大社はオオクニヌシノミコト(大国主命)を祀る古社。「古事記」「日本書紀」にも創建の由来が記され、巨大柱の発掘で伝説の高層神殿の存在がにわかに現実味を帯びてきた。木造鳥居をくぐり松並木が続く玉砂利の参道を歩くと、大国主命の像、正面に長さ8mの大注連縄のある拝殿が現れた。そして左甚五郎作と伝えられる流麗な彫刻が施された八足門の奥には高さ7mの楼門、さらに奥に国宝に指定されている大社造りの本殿が聳え立つ。八足門の前で参拝したのち、宝物館へいき、本殿の後ろを通って彰古館も見学した。神楽殿にも大きな注連縄が張られていた。巨大柱は、八足門の前あたりで発掘されたという1.2mの丸太を3本に束ねた直径3mの柱である。これが宮司家、出雲国造千家家に残された古代本殿の平面図「金輪御造営差図」の工法と一致することがわかった。これにより、本殿の高さ48m、あるいは97mの高層建築であったことが推定できるという。出土した柱は、昨日行った島根県立古代出雲歴史博物館に展示されていた。日を延ばしたおかげでゆっくりと参拝できた。
日御碕まで足を延ばす
 大社を出て少し西に行くと「国譲り神話」の舞台とされる稲佐の浜、ここから日御碕に続く奇岩や絶壁が連なる海岸は日本の自然百選の一つである。
 まず朱塗りが鮮やかで美しい日御碕神社にお参りした。徳川家3代将軍家光の命により10年の歳月をかけて寛永21年(1844)造営された桃山時代の面影を残す権現造りの神社である。神の宮(上の宮)に素戔嗚尊、日沈宮(下の宮)には天照大神を祀る国の重要文化財である。内部には狩野派、土佐派の絵師による華麗な壁画が残されている。この下の海からグラスボートが出ているがこの日は運休。
 少し先に、出雲日御碕灯台が見えてきた。日御碕の磯浜を散策し、経島を見に行った。経典を重ねたような形からこの名がある。ウミネコの繁殖地として国の天然記念物に指定されている。おりしもたくさんのウミネコが群れ飛んでいた。灯台は明治36年(1903)建造、灯塔の高さは43.65mで東洋一といわれる。外壁は石造り、内壁はレンガ造りという特殊構造で「世界の歴史的灯台百選」にも選定されている。内部の161段の螺旋階段を登って展望台からの絶景を楽しんだ。
再び松江に 
 前回心残りであった「ぐるっと松江堀川めぐり」を楽しんだ。松江城をとりまく堀川を和船に乗って巡るのである。樹木が茂り、水鳥が遊ぶ水辺から、大手門や武家屋敷が並ぶ塩見縄手、京橋の風景を眺めながらのんびりと過ごした。
 下船後、巡回バスでカラコロエ広場に行き、堀川べりの老舗風流堂でお土産のお菓子を購入し、ここの女主人に紹介していただいて、高級料亭みな美で、名物の鯛めしなど郷土の味に舌鼓を打った。
 前回寄ったとき、駐車場の方が「キャンピングカーなら是非ここで泊っていけ」と勧めてくださっていたので、今夜はここで車中泊。
6月27日
白壁土蔵が並ぶ倉吉
 山名氏の居城として室町時代から続く城下町である。国の重要伝統的建造物群保存地区の打吹地区には、玉川沿いに白壁土蔵が立ち並び、昔ながらの風景を今に残している。この白壁土蔵は、江戸時代に鳥取や大阪の豪商たちが建てた酒蔵や醤油蔵で、現在は倉吉の伝統工芸や地元の特産品を揃える「赤瓦」1〜8号館として利用されている。しっとりとした石州瓦の朱、白漆喰壁、焼き杉の腰板、内部は醤油蔵の造りをそのまま活かしなかなか趣がある。町外れの大岳院というお寺でおもしろいものを見つけた。里見家の墓所である。里見安房守忠義公は慶長19年倉吉に移封され、元和8年29歳で逝去され、近臣8人が殉死を遂げた。殉死8臣の遺骨もこの寺に納められている。8人の法名にもすべて忠義公と同じ「賢」の字がつけられており、「八賢士」と呼ばれており、滝沢馬琴作「南総里見八犬伝」のモデルになったといわれている。
 今夜は、休暇村・蒜山高原に宿泊することにした。好天でもあり、このまま行けば近いのだがもう一度大山を眺めたいと、海岸まで戻り大山をめざした。江戸時代の大山・船上山に通じる山岳信仰の参詣道が残っていた。道標としての松も残っており、松の傍らには石仏も安置されている。また「立て石」は、大山道と船上山道との分岐点を示す道標だという。大山寺の前を通り、木漏れ日の美しいブナ林を抜け、鍵掛峠に着くと、嬉しいことに大山の全容が望めた。鏡ケ成大山休暇村でしばらく遊び、蒜山高原休暇村に着いた。
6月28日
 往きにきた道をひたすら戻る。まっ昼間であったので、香芝のあたりで故障車渋滞があったもののすいすいと走り、3時には自宅に戻った。
 第2回の山陰の旅は、前回に比べると日程に余裕があり、比較的ゆっくりと楽しめ、人の心の優しさ温かさにもふれられた思い出に残る旅であった。

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