サハリン紀行

松浦武四郎翁の足跡を訪ねて
          IN サハリン
 樺太は巨大な原野だった
樺太については、松浦武四郎著「近世蝦夷人物誌」に詳しく述べられている。しかし難しくて解読が困難であるので、更科源蔵・吉田豊共訳による「アイヌ人物誌」より抜粋してみたい。
 カラフト島(サカレン島)というのは、北緯46度付近から54度17分あたりにまで及ぶ大きな島全体の名称であり、アイヌたちはこれをカラフトと呼んでいる。
 このカラフトとは唐人の意味であることはわが国の民衆が、外国を指して唐と呼び、その上、近ごろでは、アメリカ、ロシア、イギリスの人々までもひっくるめて唐人と言っていることからもわかるであろう。
 このフトとは人である。ロシア人はよく赤い衣服を着ているので赤人と呼ばれるが、奥羽、松前、箱館あたりの人々はこれをアカフトと呼んでいるのは耳馴れたことである。
 カラフトの語源については、いろいろとこじつけて、人々を驚かせるような説もあるが、私はつぎのように考えている。
 最初は、見慣れぬ人々がかの地に渡ってきて、大陸産の品物を持ちこみ、カワウソ、狐、黄テンの毛皮などと交易していたのを、アイヌたちは、あの島にはこのような品物を作る人が住んでいるものと推測して、カラヒトシマと呼ぶようになったのであろう。ところが、この呼び方は不適当だというので、文化半ばのころ以後はあの島は必ず北蝦夷地と呼び、カラフトとは呼ばぬようにとのお触れが出たため、現在では北蝦夷と呼ぶようになった。
 しかし、それはわが国の支配下にあるアイヌたちが住んでいる土地だけのことである。・・・(他の民族は知らない)・・・
 もしまた、これを知ったとしても、そのように呼んだならば、交易所から漁場に集められて酷使されることを恐れ、そのようには呼ぶまいと思われる。心ある者として、まことに嘆かわしいことではないか。
 さらに洞富雄氏は「間宮海峡発見とシーボルト」の中で、次のように述べている。
 ・・・満州人はカラフトをサガリヤン・ウラ・アンガ・ハタと呼んでいた。これはサガレン江の河口の向うにある島という意味であるが、ヨーロッパ人はそれを略して、たんにサハリン、サガレンと呼んでいた。このサハリンとカラフトとが実は同一の島ではなかろうかと内外の学者の間で問題にされていたのである。・・・
 ・・・1787年のフランス人ドゥ・ラ・ペルーズ、1797年のイギルス人プロートン、1805、6年のロシア人クルーゼンシュテルン、この3大航海家のカラフト沿岸探険の結果、サハリンとカラフトが同一地域であることは確認できたが、彼らはいずれも、やはり黒竜江口の南方でわずかに大陸につながっていると誤断している。
 ・・・間宮林蔵は、1809年(文化6年)5月12日、海峡を突破して、北緯53度15分のカラフト北端ナニオーに漕ぎわたったのである。カラフトが離島であることが、はじめて日本人科学者によって実証されたのであった。・・・ 

プロローグ・・・旅のはじめに
 松浦武四郎研究会から「松浦武四郎翁の足跡を訪ねて IN サハリン」の案内状が夫のもとに届いた。夫と私は、北海道のあちこちを訪ねて、松浦武四郎が歩き、記録した現場に立つことを喜びとして旅をしている。サハリンに行ける・・・この機会を逃してはならじと勢い込む。しかし誰よりも行きたかった夫は、仕事の関係で諦めなければならない。私は、研究会の会員ではないけれども是非行きたい!! そこで、研究会会長の秋葉實先生に電話した。先生は快く「私が紹介してあげましょう」と言ってくださった。かくして研究会の皆様に同行させていただくことができ、今回の旅が実現したのである。行けることになって、その後20日間、松浦武四郎の樺太の記録を必死で読んで、ユジノサハリンスクへの飛行機に乗ったのであった。
 
 松浦武四郎は二度にわたってサハリンの調査をしている。
● 弘化3年(1846) 宗谷→(波高く白主に着岸できず)ベシトモナイ→シラヌシ→タラントマリ→クシュンコタン→トウブチ→シラリウトル→(トウブチまで戻り湖沼を舟で北上)→トンナイチャ(東海岸を北上)→ヲフツサキ→イヌヌシナイ→ヲショヱコン→ナイフツ→マトマナイ→シララオロ→マーヌイ(ここから東西横断の最短を通り西海岸へ)→クシュンナイ(西海岸を南下)→ナヨロ→ノタシャム→ヒロチタラントマリ→トコンボ→モイレトマリ→ショウニ→ベシトモナイ→シラヌシ
● 安政2年12月25日 蝦夷地御用にて御雇入仰せつけらる。
● 安政3年(1856) シラヌシ→リヤトマリ→イクマイレイ→クシュンコタン→シュシュヤ(内陸部を北上)→ヘンケチフヤンケウシ→ハアセ→イクルケ→タコイ→ヘン子カルウシ→ホロヌフ→ナイフツ(東海岸を北上)→ヲタサン→シラヽヲロ→マーヌイ→チカヘロシナイ→トッソ→ノボリホ→マグンコタン→シヨウンナイ→フヌフ→カシホ→ウエンコタン→サツコタン→アイヘシナイ→ニイツイ→コタンケシ→ナヨロ→シツカハタ→タランコタン(タライカ湖見聞を断念し、ここから南下してマーヌイに戻る)→マーヌイ(西海岸へ横断)→ヘンケハヌフ→クシュンナイ(西海岸を北上)→エヒシ→ヲタス→ライチシカ(西海岸南下)→クシュンナイ→ノタシャム→トウコタン→エンルンモコマフ→タナントマリ→トコンホ→モイレトマリ→シヨウニ→シラヌシ
 

8月5日 千歳で前泊
ユジノサハリンスクへ
8月6日
 千歳からユジノサハリンスクへ飛び立った。飛行時間およそ1時間でサハリンが見えてきた。機上から見えるサハリンは大きな川が蛇行する緑広がる大地で美しかった。しかし予想したタイガの針葉樹林帯は、伐り尽くしたのかそれらしきものは殆ど見当たらなかった。1時間10分で空港着。空港は兵士によって守られ、撮影禁止。まさに近くて遠い国であった。
 ロシア語で「南のサハリン」を意味するユジノサハリンスクは、サハリン州の州都。日本時代の豊原である。人口は18万人とか。しかしどこにそんなに人が住んでいるのかと不思議なほど小さな町である。
 サハリン州立博物館を見学した。かつての樺太庁博物館のままで、日本の城郭を思わせる造りの純日本風の建物は1938年の建造(私と同じ歳だ!)。説明書に「かなり老朽化している」と書かれていた。ハハハ しかし中味は、サハリンの自然、歴史、文化、産業などの資料が約8万点あるそうで充実している。かつての日本人の生活の実態を知るコーナーもある。私は、先住民族の生活物を展示した一室に強く興味をひかれた。建物の前にある狛犬もおもしろく、庭の片隅にそのまま放置されていた奉安殿にも驚いた。
トンナイチャ湖・オホーツコエ(旧富内)へ
 バスの窓から自由市場の賑わいを見つつヘンケチフヤンケウシのあたりまで南下し、東に向う。オホーツコエはユジノサハリンスクから40kmと近く、オホーツク海に面し、アウトドアスポーツのメッカになっているので、道路もかなり整えられている。トンナイチャ湖の見えたあたりでバスを止めてもらい降りると、武四郎の描いた風景とそっくりの景色が展がっており感激する。足元には、花穂が30cmもあろうかと思われるオオバコ(エルムキナ)が生えており驚いた。さらに行くとオホーツク海に出、ここがトンナイチャ(富内)であった。武四郎は次のように記録している。
 内に引込し処なれば波浪穏にし而、此処ニ湊を開かばクシュンコタンにも不下好港となるべし。又漁猟も到而多きよし也。土地肥沃にし而椴木陰森、また虎杖、・・等は一丈弐三尺も長る也。扨其地浪打際より十四五間の間は小石まざり、また沙浜なれども、其上ニ及びて土地至而よろし。ヲロツコ人毎年是より上る也。
 湖から続く河口、湾、そして真っ青なオホーツク海が静かに佇み、沈んだ色合いの家屋が数十戸道端に見えていた。海岸とそれに続く湿地帯は花々の咲き競う原生花園であるらしいが、残念ながらすでに花の季節は過ぎていた。わずかに色濃いハマナスが美しかった。
 さらに武四郎の記録にある落帆にも行きたいと交渉してもらったらしいが、どうもまだ武四郎の足跡を辿るという趣旨がよく理解してもらえないらしくて、「そこに行っても何もない」と断られたそうだ。
ユジノサハリンスクへ戻って
 3泊する宿は、ユジノサハリンスク駅の隣のユーラシアホテル。荷物を置いてから市内を散策する。カムニスチーチェスキー大通りを歩く。レーニン広場には巨大なレーニン像が見下ろしている。その前が市役所、「ふる里」という日本食レストランもある。アクチャープリ映画館、サハリン州行政府、チェーホフ劇場、東洋大学と続く。小躍りしたのは、東洋大学の裏あたりで、豊原女学校を見つけたことである。ここはかつて、知里真志保が勤めていた学校であり、その建物が当時のままで残っていた。保存されているというのではなく、壊されずに放置されているという状態であったが、しばし佇み、往時を偲んだ。
 この時期でもサハリンは、9時頃まで薄明るい。夕食後、再び街に出た。高田屋嘉兵衛とともに幕府とロシアとの間の交渉にあたったゴローニン(ガラブニーン)の像があると聞き、見に行ったのである。それは自由市場の前の小さな公園の中にあった。ここへくる途中の鉄道沿いに、かつて日本で見られた除雪車や蒸気機関車が展示されていたのを懐かしい気持ちで眺めた。
 サハリンの店は閉まるのが早いような気がする。自由市場は早く店じまいする。他の店も5時、遅くとも6時には殆ど閉まってしまう。そんな中で花屋さんだけは開いていることがある。街の規模にしては花屋さんが多い。路端に出ている小さな店だ。その殆どが朝鮮系の人たちであるのに驚いた。かつて、日本統治時代、朝鮮半島からたくさんの人を強制的に連行してきて、炭鉱、道路や鉄道の敷設、漁業、森林伐採、製紙工場などで過酷な労働を課した。終戦と同時に、日本人、アイヌ人はこれまた強制的に船に乗せ北海道などに送り返された。ほんの一部日本人で朝鮮の人などと家庭を築いた人は、自分の意志で残ったというが。その時、無理やり連れてこられた朝鮮の人たちはそのまま捨てられた。棄民である。どんな思いであったろうか。現在、サハリンには朝鮮系の人たちが4万人とか。サハリン州全体の人口は約70万人。ロシア人のほか、ウクライナ人、朝鮮人、モルドワ人など20余もの人種・民族、さらにニプヒ、ウイルタなど北方少数民族が居住しているという。
 レーニン広場で、結婚式らしい若者に逢い、微笑ましく、了解を得て写真を撮らせてもらった。お幸せに!
8月7日
東海岸を北上
 ユジノサハリンスクから内陸部を北上する。武四郎はイクルケ、タコイに宿泊しているが、それぞれ富岡、大谷あたりだろうか、舗装された幹線道路は快適でバスはどんどん飛ばしどこがどこやら分らない。ただただ広い原野の中に、ぽつんぽつんと数戸の家が見えるのみ。イクルケに至る手前のチツホイナヲカルウシでの武四郎の記録に
 此処木幣を多く立たり。其因縁は、往古此地へ鍋と云ものゝ未だ渡らざりし時、タコイの婆と云もの土にて鍋を作り、南海岸へ持来るとて此処にて割りし由。其より始りて、此島の者土にて鍋を作り用ひしと。よつて此婆を此処へ神に祭りて木幣を立置とかや。故に此島で土鍋をばカモイシユウと号て、其神の鍋と云訳也。土鍋と云ならばトイシユウとも云べきを、往来の土人皆此処へ幣を立て拝し行。とあるが勿論その場所も分らない。
 ヘン子カルウシもわからないまま過ぎ、落合に着く。現在のドリンスクで、人口は28000人。町は谷間の低地にあり、ロシア語でそれを意味する「ドリナ」から名付けられた。王子製紙と共に発展した町で、樺太庁鉄道とは別に、北の奥地の開発を目的に敷設された樺太鉄道の分岐駅としても栄えた。王子製紙の工場は日本時代の姿をほぼ残していた。なお王子製紙の工場はあちこちにあり、今度の旅でも数箇所を見た。またサハリンの鉄道は、日本時代のものがそのまま使用されているそうだ。ここでは、市役所近くの公園でチェーホフ像、落合駅、奉安殿、日本時代の落合橋などを見学した。
 落合から海岸に出、ホロヌフ・栄浜を訪れた。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の舞台になった地である。物語の「宝石の河原」そっくりに、今でも天然の琥珀が見つかる。武四郎の記録
 其家の女子首に琥珀の丸く薄きシトキを懸たり。扨不思儀に思ひ其を取て見しに、頗る宜敷様に見えしまゝ、其母に所望せし処、針五本を呉候様申候まゝ、いと安き事と申、針五本に古き手拭一すじを遣して是を与て、此品は何処に有るやと聞に、女夷低笑して不答しが、アカラカイ此辺の浜に有よし申候まゝ、直に出立して浜に出て見しに、此浜辺一面の埋れ木様の者黒く堅く成しが敷重り、其中に米粒豆粒のもの接るて取揚るまゝ、暫時に一握を得て持行。此品夷言ロコウと云よしなり。
 私も米粒大のものをいくつか拾った。
 さらにこの海岸で、コンブを拾っている二人の老女に逢った。聞けば朝鮮民族だとのこと。この地で4年生まで尋常小学校に通ったので日本語が話せるし、父母の言葉朝鮮語と、ロシア語を少し話せるとのこと。「あなただけはと信じつつ・・・」と日本の歌を歌ってくれた。ともに歌いながら目頭が熱くなった。捨てられた日本に対する恨みもあろうに、「コンブを持って行け」とか、「帰り家に寄りなさい、琥珀をあげるから」と言ってくれた。しみじみと心に残る女性であった。
 落合に戻り昼食の後、さらに北上する。武四郎の泊った内淵川の河口でバスを降りる。武四郎の絵と照らし合わせるとまさにここだと思われる景色が展がっていた。感激である。
 バスは鉄道に沿って快調に走る。海の中に入っている牛を見て驚く。見渡す限りの草原には、ヤナギラン、ルリトラノオ、エゾニュウ、シモツケソウ、ハマナスなどが咲いていて美しい。オロサム川を越えるとヲタサン(小田寒)、武四郎の宿泊地だ。が、あっという間に通り過ぎる。
 やがて道路の行く手に大きな山が立ちはだかっている。あの山の下あたりがシラヽヲロ(白浦)、武四郎の宿泊地だ。シラヽヲロについての武四郎の記録はたいへん詳しい。その一部を紹介すると
 ウイキシユは赤地牡丹なる純子の広袖を着し、我が刀を荷にし先に立行に、当所は別て大村の事なればとて、召連し土人も皆一同威義正敷して、ツクニウは陣羽織を着して、村に懸るや入口にヲロツコ人共五人座して我を出迎ひたり、先第一にタナシコタンの酋長ソロブカノレ、運上屋の交易に持来る赤の唐木綿の?袖を着し座し、其次四人共皆三旦風の衣装を着し、セ子リヌ、キヤウトカ、キウンカレ、ルツトノ、並て座するものはヲタサンの土人ヌカケリ、次にキトウシナイのチヨ、次に当所のシユンハノアイノ、同くトシアンアイノ、恭く我を迎え、ウイキシユの家へ到るや、門口にライムニキナを敷て我を饗せり。此家は凡五間に六間も有、爐を二つ切、当島第一の大家にして、ウイキシウの祖父と云はノテカリマと云て、余が先年来りし時も逢しが、聊豪気の者にして、運上屋にても中々手余せし者也しが、・・・其母と云はノテカリマの実の娘なるが、父はウシカンテと云て、是も此辺にて誰壱人此者の命令を負くもの無、英邁有る者なりしに、近年死去したりと。今は後家と成て居るよしにて、西海岸ナヨロのシシクライが東海岸へ出し時の妾と致し置るとかや。我が到るを待て座をもうけ、キナをもて四方を囲ひ、至極叮嚀に致したり。又家の前には仮屋二棟を建て、此処は米・烟草等も少し備有るよし。・・・扨此処の地勢は巳午に向ひ、右の方直に平浜砂地、左りの方岩石峨々として海中に一條突出し、其内一つの船澗と成、村の後ろ峨々たる高山にして、北西の風を凌ぎ、東地第一の場所也。又漁業は鯡多し。此辺春鯡時には?網にて舟え汲込程に群来るよし也。また水豹海?多く、海布・裾帯菜・海蘿其外種々の海藻多く、其澗は相応の弁才も入るによろし。また三旦人も冬分雪車にて此処まで来り、此辺の土人と交易を致し帰るに依て、先東部の一大都会とせり。
 この山を周り込んだ所がマーヌイ(真縫)である。ここでも武四郎は泊っている。マーヌイの駅の前で、小さな市場がたっていた。
 武四郎は、ここから北、ウエンコタンまでは舟を使っている。したがって描く世界は舟からの風景である。
セツトシナイホ 相応の川有。是より先は海岸絶壁にして山高し、岩尖り、水清く、歩行立睦ケ敷由。夷人共はソヱコタンまでは可也に汐干の頃岩石の上を飛越刎越行もする様なりける由なりける。又暗礁の間丑にさし六七丁行、
チトカンチシ 海中礁多く水豹多し。此処峨々たる岩壁海中に突出してヲハコタンと対峙して聊澗形をなす。風波少にても有る時は海陸共行がたし。此処はむかしより剛勇のもの各々弓勢を試ん為に此下に来り矢を放つに、此岩面に当り刺りしは生涯如何なる豪羆に逢とも射損ずる事なしと神明に誓て試むる処なりとかや。・・・
モホヤンケ 峨々たる絶壁の根に一つの岩窟有。石燕多く栖よしなり。 
 チカヘロシナイ(近幌)を過ぎると、いよいよトッソである。武四郎は同じく海上から記す。
 絶壁の嶮岩、山の形ちは遠くより不見しては却て其奇景を尽しがたし。其裾に有滝、または奇成岩窟二ツ有て至極眺望よろし。土人共は此山はリイシリの女神の住玉ふよし申伝ふ由。またリイシリも此山の後ろより抜出て彼方へ飛しもの也と。依て此山の後ろに山の抜し跡有と云。神霊著しき由にて、皆木幣を削りて海中に納む。よつて我もまた国風を、一つは其木幣の柄にしるして波上に流すに、
  事なくてトツソの岬を越るとは
         手向の稲穂神やうけらん
と額拝奉りて行に、・・・
 バスの右に高い山々の連なりが見えてきた。トッソである。しかし山の反対側の内陸部から見ているので、武四郎の描く海岸に落ち込む岩壁の険しさ、荒々しさとはかなり違ってみえる。
 
 
マグンコタンを訪ねて
 マーヌイからさらに北上し、マグンコタンをめざす。武四郎が
 此処峨々たる岩壁の下に長十七八丁の砂浜有。・・・船を着て昼休す。土人共の云に、南より来る者はトッソを越て此処にて必ずトッソの神を拝し、北より来る者も必ず此処にて休み拝してトッソを越ること也。如何斗急敷船にても必ず此処へ一端上陸致し休むこと例なりと。・・・
と記したノボリホは海岸側であるからもちろん見えない。
 通訳さんが「石油会社さん、ありがとう」と言った舗装路は途中から切れる。ガタガタと揺られながら進む。やがて川が現れた。この川の右岸河口付近にマグンコタンはあるはずだ。しかし道は閉ざされている。少し戻って見つけた道を海岸方向に向う。途中で、大型トラックで仕事をしてみえた人に尋ねる。だがこの先に村はないという。教えられた通り元の道に戻り、さらに4km北上し、曲がって1km、海岸に出た。通訳さんによると、ここはウォーカンガヤマというらしい。武四郎のいうシヨウンナイか。いずれにしてもここ以外は海岸に出られないが、さりとてここから海岸を歩いて行くわけにはいかない。一同すっかり諦めて戻り始めた。ところが運転手さんと通訳さんはまだまだ諦めていなかった。どこまでも客を喜ばせたい一心だ。路端に車を止め野菜を売っていた人に尋ねている。たまたまその人はこのあたりの副知事さんとかで、別の道を教えていただく。車が入れるのかと思われるような細い道を探して入る。ところが途中で、道路がバーで遮断されている。密漁取締りの海岸警備隊とのこと。訪れたわけを話し、長い交渉の結果、やっと通してもらえる。皆さん、ほんとうにありがとうございました。
 海岸に着き、バスを降りると、全員「ああ、ここだ!」と叫んだ。丸い穴の開いた岩、そして岩山。写真で見たそのままの景色だ。なによりそこに広がる湾と浜辺は150年前、武四郎の描いた風景そのものだ。感激のため声も出ない。
 なぜそこまでここに拘ったかというと、ここには1996年、マカロフ市の手によって建立された武四郎の肖像付き石製歌碑が建っていたからである。その前年、梅木孝(武四郎の道研究会代表)さんらによって木製の歌碑が建てられたが、「木製は風化するので新たに石碑を建立したい」とのマカルフ市長の提案が実現したのであった。建立された碑は、日ロの友好を願って精魂込めて造られた見事な記念碑である。なお木製の歌碑は、マカロフ市の博物館に収められているという。歌はもちろん
  事なくてトッソの岬越ゆるとは
       手向の稲穂神やうけらん
私たち一行は、碑を磨き、お酒を手向けて記念撮影を繰り返した。今日のハイライトであった。
 湾に注ぐ大河(マグンコタン川)の河口は東海岸第一の漁場であるとか。美しい川の対岸には、さらに昔、オホーツク文化が花開いた土地で、たくさんの遺跡が残っているとか。如何にもと頷けるツンドラの草原がどこまでもどこまでも広がっていた。
 武四郎がマグンコタンへ泊ったときの記録に
・・・夜に入西風強敷、雨も降出し、椴皮の仮屋処々に雨漏り候処、家の主イホーノとキシロカリは夜中何処えか去りしが、夜明て帰り来る故、何処へ行しやと聞しに、夜前は余り雨が漏りし故、此先の方の岩屋へ行て寝たりと云しに、一同笑たりけり。 
 マーヌイまで戻る。すでに6時前。ここからユジノサハリンスクまでは、少なくとも3時間はかかる。しかも夕食の予約は7時。それでもクシュンナイまで行くという。「約束だから」・・・えっ、嬉しいけど。
西海岸クシュンナイ(久春内)へ
 縦に長いサハリン島の中でも、東西の幅が30km足らずの最狭部を越える。サハリンの東西を結ぶ重要な道路だが、路面はかなり悪くよく揺れる。バスはスピードを上げ、砂埃を撒き散らしながら走る。私は、武四郎の旅に思いを馳せ、窓の外に流れる景色を眺めていた。
 武四郎は、
此辺え来るや、川巾十間斗。川浅く、急流にして逆り悪し。又両岸柳・赤楊多く生繁りたり。此処より上陸す。とヘンケハヌフから船を諦め徒歩で行く。扨是より山道へ懸り、九折とはいへども椴木立の中少しも路形ち無処をば上るに、始めの人数の足跡にて少し分りたり。と進む。バンケナイボでは、此処迄は土人共の足跡叢の中に有しが、此処に及びて其足跡絶たり。扨こそ如何にせんと見廻すに、此足跡右往左往。右にて大に迷ひ候得共、・・・椴・グイの中を無二無三に行たりける。と道に迷いつ進む。トロツマフチヤラでは、・・・最早此処にて日は暮たり。二十五日の事、くらさはくらし、前後如何とも致し難き故、野宿せましと相談を致さば、此野原は水も薪もなしと云に力を落し、又糠蚊多くして股引の間より肌に付身は腫し心地致し、身躰此処に窮りしが・・・と野宿さえできず、二日行程を一日で越え、ようやくの思いでクシュンナイに到着する。クシュンナイは、うしろ平山、右の方ノツト岬左りの方ヲテツコロの岬の間少しの湾をなして、至極宜敷素浜也。であった。
 現在のクシュンナイ(久春内)は小さな漁港の町であり、南サハリンの中部にある。国鉄西部本線の北のターミナルで、東西連絡の重要路線、北部横断線が接続している。バスを降りたのは、久春内の崩れた古い港であった。荒涼とした、これが間宮海峡か。晴れていたなら海の向こうに大陸が見えるはずだが。今日はあいにく雲が厚く、打ち寄せる激しい波の音ばかりが響いていた。駅にも寄って久春内を後にした。ユジノサハリンスクに着いたのは10時になっていた。
 予約時間を変更してもらってあったレストランで、夕食を摂った。サハリンでは8回、ロシア料理を堪能したが、どれも珍しく、彩りもよくて、おいしかった。
8月8日
西海岸を南下する
 朝、レーニン広場を散策した。
 同宿した4人の人とレストランで話した。幌延から1週間の予定で来たとのこと。ここから8kmほどのナミカワの出身で故郷を訪れたのだという。
 昨日の悪路でマフラーが外れたとか、修理のため、今日のバスは小型バスから大型に替わった。のびのびと座れて快適だ。
 西海岸に向うと程なくそのナミカワ(軍川)であった。農村地帯である。4人の故郷訪問がよい想い出になるよう願った。蛇行しながらアニワ湾に注ぐ大河ホロタカ川を何度も横切り進む。橋の一つに瑞穂橋、追分、西久保、春日峠、大曲、中野、清水、逢坂、二股など如何にも日本的な地名がそのまま残っている。
 バスはやがて峠道にかかる。海峡が近くこのあたりは霧が多いという。今日も濃い霧に包まれた。この国道は冬には閉鎖されるとか。
 峠は熊笹峠である。ここは、戦争終結後も日ソ両軍の激戦があったところだ。ここには「戦勝記念碑」が立てられ、その記念の大砲は日本の方を向いている。旧日本軍のトーチカなども残っている、痛ましい戦場跡である。
 検問を通り、エンルンモコマフ(真岡)の町に入った。現在ホルムスクと呼ばれるここは、西海岸最大の港湾都市で、大陸のワニノを結ぶ鉄道連絡線が発着している不凍港がある。人口は52000人でサハリン州第二の都市。
 まず博物館を見学した。ここでお土産にサハリンのCDを買った。灯台のある高台に上がると港が一望できた。武四郎の描いた世界もそこにあった。下に見える旧真岡神社跡にはサハリン船舶会社の社屋が建っているが、石段だけは日本時代のままで残っていると聞いた。稚内公園の高台に建つ「氷雪の門」と「九人の乙女の碑」を見て以来、私にとって真岡と言えば、樺太・真岡郵便局の電話交換手「九人の乙女」の集団自決のことが思われる。太平洋戦争が終結した5日後の1945年8月20日、真岡の町はソ連軍の艦砲射撃による急襲を受け、多数の市民が犠牲になった。そしてこの惨禍の止めを刺すかのような惨事が、同郵便局の電話交換室で起きた。戦火の中で最後まで職場を死守した9人の女性電話交換手の青酸カリ自決だった。「皆さんこれが最後です。さようならさようなら」の言葉を残して。その跡は今はもう残っていない。旧フェリーターミナルのあたりだという。私はそのあたりに目を留め静かに祈った。同行の一人がオカリナで鎮魂の曲を奏でられた。
 昼食後、王子製紙の裏の丘に上がった。そこには、地元出身の方々が建てられたらしい大きな石の鎮魂の碑が港を見下ろしていた。王子製紙の工場も残っており、丘のあたりにはたぶん製紙工場の住宅だったのだろうと思われる日本式の古びた家が残っていた。
 武四郎は、隊長の向山源太夫が病に倒れたため、この地に7月4日から27日まで留まっていた。
 製紙工場の横を通り、海岸線に出る。ここから西海岸を北上し、武四郎が宿泊した蘭泊まで行く予定であったが、バスを4時半までに返さなければならないとかで、諦めて南下する。
 ホロトマリについて武四郎は記す。
 此処より夷家一条の市町のごとく、山手の方は家、浜手の方は庫に成て立継く也。中に三旦風の組立の家一軒を見たり。致極寒気を凌ぐによろしと聞。・・・此処に打貫門を入て左右茅屋立継く。
 海岸沿いの道は、細く未舗装で打って変わってひどい道。でもなんだかこれぞサハリンの道と変に納得している。広地、南泊、コキジ、オタドマリ(たぶん武四郎の宿泊したところだろう)など通訳の方が地名を言ってくださるが、猛スピードで走るバスの窓から砂煙の中に、数戸の家を垣間見るだけ。やがて海上にアザラシの遊ぶ姿が見え心慰められる。はるかむこうに武四郎の絵にあったのとそっくりの岬が見えてきた。たぶんあれが宿泊したタナントマリ(多蘭泊)だろう。岬を周ると難破船が海中に横たわっていた。知根平、滝があり、バスを停めて運転手さんが水を汲んでいた。ここの水はおいしいそうだ。アサナイ(麻内)、ヲコウ(阿幸)、トフシ(遠節)と通り、本斗に着いた。
 ホント(本斗) 現ネベリスクである。西海岸南部の港町で、人口は24000人。日本時代には稚内とを結ぶ連絡船の発着港であった。当時の鉄道連絡船は稚内〜大泊(現コルサコフ)にもあったが、大泊港は、冬季しばしば凍結して使えなくなり、不凍港の本斗への航路が開設されていた。現在は漁港として機能し、日本への魚介類、特にカニの積出港として活況を呈している。
 稚内と姉妹都市になっているこの町で、最後の博物館見学をした。ビルの一室にある小さな博物館だった。この町のはずれに、第二次世界大戦の記念碑とガガーリンの像が建っていた。
 当所の予定では、武四郎の宿泊したトコンホ(吐鯤保)を見て、ここから16kmほど南下したところにあるゴルノザボーツク、日本時代の内幌で炭鉱の町。鉄道西海岸線の終点になっているところまで行き、さらに南名好まで行く計画であったが、これも断念。ユジノサハリンスクへ向った。途中の丘の上からアニワ湾が望めた。着いたのは5時半。通訳の方は「バスを返す約束は4時半。それは予定で、現実は違う。」と笑っている。なあ〜だ、そうだったのか、心配して損したなあ。
 お蔭で百貨店でたっぷり時間がとれ、お土産も整えられたし、中でもサハリンの地図が手に入ったのが嬉しかった。
8月9日
 ユジノサハリンスクの空港から函館行きの飛行機に乗った。珍しいプロペラ機でおもしろかった。
 函館では、五稜郭の博物館、北方民族資料館を見学し、充実した半日を過ごした。この日は、千歳まで行き宿泊。
8月10日
 午後の飛行機で帰省した。
 ほんとうに充実した旅で大満足であった。松浦武四郎研究会の皆様、めったにできない体験をさせていただきました。たいへんお世話になり、ありがとうございました。

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