スイスアルプスの名峰 アイガー・マッターホルン・モンブランを訪ねる

あこがれの
スイスアルプスをゆく
 2005年6月 息子と夫と私の三人でオーストリアの旅の帰り、スイスアルプスに行った。グリンデルワルトから登山鉄道でユングフラウヨッホまで登り、クライネ・シャイデックまで下りて、雪でまっ白に輝くアイガーを背にしてトレッキングを楽しんだ。そのすばらしさが忘れられず、名峰マッターホルンやモンブランも見てみたいと憧れていた。
 ところが、夫は10日間も仕事を休むわけにはいかず、「そんなに行きたければツアーに申し込めば1人でも行けるからそうしたらよい」という。ツアーなど参加したこともないから不安はあったが、それしか手はないと、思い切って申し込んだ。かくして「3大名峰と氷河特急乗車 スイス・アルプス パノラマ大周遊 8日間」の旅が実現した。


ルツェルンと世界遺産・ベルン歴史地区へ
7月4日
 出発はブリティッシュエアウェイズBA-8 ロンドン・ヒースロー空港いき 13:10発、昨年6月に家族旅行したときと全く同じ。ただし昨年は息子がワールドトラベラー・プラスというエコノミーとビジネスの中間クラスの席をとってくれたのでゆったりと旅ができた。今回はツアーなのでそうもいくまい。そこで、成田で前泊して旅に備えた。
7月5日
 生まれて始めてのツアー旅、どきどきしながら成田空港の出発ロビーに行った。しかし添乗員さんの親切なアドバイスやご配慮もあって難なくツアーの一員になることができてほっとする。飛行機はロンドン乗継で16時間30分後にチューリッヒのクローテン空港に着き、宿のパークイン・エアポートに直行。
7月6日
バスでルツェルンへ向う。午前7時出発。車中でスイスのあれこれを聞く。
 スイスは九州より少し広いぐらいの面積で、カントンと呼ばれる26の州に分かれている。人口は740万人。宗教は、カトリック約42%、プロテスタント約35%である。フランス、ドイツ、イタリア、オーストリアなどと国境を接し、公用語はドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語である。国土の7割が山岳地帯で、かつてのスイスは貧しい国であった。そこで若者たちは隣国などの傭兵となって働き、祖国に送金した。それを資金として産業を興し、時計、精密機械、金融、観光などが発達し、今では豊かな国となっている。「傭兵という語感は決していいものではないが、剛胆な山の民はヨーロッパ最強の軍団の誉れを得た。傭兵は国の外で戦うことによって、国内への外敵の侵入を防ぐ、つまり、金を稼ぎながら自国の永世中立を守ってきたのである。不思議だが、巧妙な国防理念だといえる。」とのガイドブックの説明を読んで、スイスは主権在民を根幹に据え、民主主義を貫いて理想国家を体現しようとしている国だと思い込んでいたので、永世中立とはそういうことだったのかとなんだか複雑な思いにとらわれた。
 フィアヴァルトシュテッテ湖がロイス川へ流れ出す場所に広がる歴史と文化が花開く美しい湖岸の町ルツェルンに着いた。まず訪れたのはライオン記念碑1792年に勃発したフランス革命時、パリのチュイルリー宮殿で王族一家(ルイ16世とマリー・アントワネット王妃)を警護して殉死・全滅した786人のスイス傭兵の追悼碑である。意外に大きなモニュメントで、瀕死のライオンの表情に、身を挺して忠誠を捧げた傭兵に思いを巡らせた。街中を歩いてカペル橋へ。ルツェルンのシンボルともいえる美しい屋根付きの橋。1333年に完成し、長い間木造の橋ではヨーロッパ最古だったが、1993年に北側の一部を残しその大半を焼失、翌年に再建された。屋根の梁には17世紀に描かれたオリジナルの絵も10枚ほど残っている。途中にある八角形の塔は水道塔で、1300年ごろに城壁の一部として造られたそうである。今もたくさんの花が飾られたいへん美しかった。白鳥広場からは、通りの正面にホーフ教会の2本の鋭い尖塔が望めた。 
 再びバスで首都ベルンへ向った。スイスの首都ベルンは、人口13万人、スイスで4番目に大きな町である。この町を造ったツェーリンゲン家のベルヒトルト5世が狩で最初に射止めた獲物の名を町の名にすると決め、その獲物が熊だったことが名前の由来だとか。まずバラ公園に上がった。ここからはアーレ川に囲まれた美しい町並みが見下ろせる。1983年、旧市街はユネスコの世界文化遺産に登録されている。建物の屋根は赤茶けた色の瓦屋根にしなくてはいけないなどの決まりがあるそうだ。そのために、中世の面影をよく留めている趣深い美しい町が目の前に広がっていて息を呑んだ。スイスで最も高い尖塔をもつ大聖堂も見える。急な坂道を下って熊公園にも立ち寄った。その後市街地に入り、レストランで魚料理の昼食をとり、しばらく町を散策した。時計塔が楽しかった。ベルンが建国された1191年から1250年まで市の西門として機能。1405年に大火に遭い、その後何度か修復されているものの、塔の基盤部分はベルンでも最古の建築物という。時報の4分前になると鶏が鳴き、道化師の鐘の音とともに小熊の行進が現れる。時報を告げるのは塔の上部にいる人形。これらの素朴でかわいい仕掛け人形を見ることができた。大聖堂へも行った。後期ゴシック様式で、高さ100mの尖塔をもつ。1421年に着工し完成は1893年。正面入口上部にある彫刻はエルハルト・キュングによる「最後の審判」、1495年当時のまま残されているそうだ。内部を飾る美しいステンドグラスは、あいにく葬儀の真っ最中で見ることができなかった。市街地を歩いているとあちこちで噴水にぶつかる。11あるそうだ。さまざまな像に細かい細工が施された色とりどりの噴水は、美しいベルンの町並みをいっそう表情豊かなものにしている。子供喰いの噴水、モーゼの噴水、旗手の噴水、正義の女神の噴水などを見て周った。市庁舎にも立ち寄ってみた。時間があったので再びバラ公園に登っていきたくさんのバラ園の中を散策して楽しんだ。
 その後は一路バスでグリンデルワルトへ。レストランで夕食のポーク料理を堪能したのち、今夜の宿 グランドホテル レジーナに到着した。午後8時40分であった。しかし外はまだ薄明るかった。一日がなんとも長い。
7月7日
世界遺産・ユングフラウヨッホ
 アルプスの3大リゾートのひとつであるグリンデルワルトは、大正時代から日本人登山家が訪ねており、今では長野県安曇村と姉妹村になっているそうだ。標高は1050mで、アイガーやヴェッターホルンなどの4000m級の峰々に抱かれた風情はやはり本物の雰囲気と迫力である。地名はケルト語に由来し「砕石=氷堆石と森」の意味だとか。
 今朝もまた早い、7:15発のクライネ・シャイデックいきの登山電車に乗っていた。アイガー(3970m 青年)、メンヒ(4099m 僧)、ユングフラウ(4158m 乙女)が望めるはずだが、あいにくの曇り空で、全く見えない。画像2段目左は早朝ホテルから見た朝焼けに染まるアイガーであるクライネ・シャイデック(2061m)から登山電車を乗り継ぐ。アイガーグレッチャー(2320m)、アイガーヴァント(2865m)ではトンネルに開けられた窓からアイガー北壁を見る予定だったが視界なし。アイスメーア(3160m)でも下りてみるがここもだめ。終点のユングフラウヨッホ(3454m)に着いた。今回もこんなところをトンネルでくり抜いて鉄道を通すなんて人間の執念にただただ脱帽。トップ・オブ・ヨーロッパの展望台に上がってみるが、昨年はすぐ目の前にくっきりと聳えていたメンヒは全く見えない。氷の殿堂を見物した後、雪原に出てみるがここも吹雪のように雪が降っていた。帰りは氷河を間近に望むアイガーグレッチャーで下りて希望者のみ2.5km(1時間)ほどを下る予定であったそうだが、雨で足元が悪くて滑りやすく、参加者多くのハイキングシューズでは危険とのことで断念。クライネ・シャイデックまで下りて早めの昼食に名物のレシュティ(短冊状に切ったジャガイモをフライパンで両面をこんがり焼いたもの)をいただいた。
クライネ・シャイデック ハイキング
 スイスには5万kmに及ぶハイキングトレイルがある。昼食後、駅すぐ近くにある「新田次郎 ここに眠る」のレリーフを見に行った。彼の「アルプスの谷 アルプスの村」は私の愛読書の一冊である。昨年はクライネ・シャイデック(2061m)からメンリッヒェンまでトレッキングした。青空の下、真っ白なアイガーを背にしての山歩きは快適そのものであった。しかし今回は時々落ちてくる小雨に傘をさしての山歩き。アルピグレン(1616m)までの4.3kmを歩いた。同行者には悪いが私はこのすばらしさを体験してあるのでまあいいかなんて心の中でつぶやきながら・・・ 花の写真を撮りながらゆっくりの歩きであったが、下りでもあり1時間10分の行程だった。時期も1ケ月違うし、コースも違ったので咲いている花はかなり違った。ことにアルペンローゼ(アルプスを代表する花は、エーデルワイス(国花 アルプスの星)、ゲンティアン・ウェルナ(春りんどう)、アルペンローゼ)が、昨年は咲きはじめだったのに、今回は真っ盛り、山の斜面を埋め尽くすさまに感動した。またはじめて見る濃い紫のピュテウマ・オルビクラレも珍しい形をしており美しかった。アルピグレンからはまた登山電車でグリンデルワルダーホフに着いた。
ブリエンツ湖・SL乗車とヨーデルディナー
(オプショナルツアー)
 一休みして、2:30 バスでブリエンツ湖に向った。インターラーケンを通っていった。インターラーケンとは湖の間という意味だそうで、スイスで最も美しいといわれるトゥーン湖とブリエンツ湖の間に広がる名門ホテルなど歴史のある建物が残る落着いた町である。アーレ川が2つの湖を結ぶ。そこから程なくでブリエンツ湖のほとりに着く。ひなびた町があり、100本以上の彫刻刀で彫るという木彫で有名である。ここからロートホルン鉄道(大井川鉄道の姉妹鉄道)に乗った。時刻表運行をしているスイス唯一のアプト式蒸気機関車で標高2244mの山頂駅(山頂は2298m)まで登る。ブリエンツ・ロートホルン鉄道は蒸気ロマンチシズム時代の生きた想い出なのである。列車は7.6km、標高差1678m、最高勾配25%を登っていくのである。6月から10月までしか運行していない。グリンデルワルトのように窓外にハイジの世界を思わせるような光景が広がるわけではない。蒸気機関車が喘ぐように後ろから押す客車に身を置き、急勾配を登っていく。しばらくではるか下の方にブリエンツ湖が顔を見せた。森林限界を過ぎると、どこまでも広がる山々のうねりがあり、アルプ(牧草地)が広がる。あんな高いところにと驚くほどの急斜面に牛が放牧されて牧歌的な風景。沿線に家は数えるほどしかないが、それでもここに人の営みがあると思うと胸が締め付けられるような感動を覚えた。人間ってすごいなあ! 窓の外に白い小さなパラディスィア・リリアストゥルムという百合が咲き心うばわれる。山頂駅に立つと、そこは全くの霧の中。やがてさっと霧が晴れ、ブリエンツ湖とそれを取り囲む山々の雄大な光景が展がる。まさに劇的な瞬間であった。下の方をゆく蒸気機関車も見えた。ああここまで登ってこられてほんとうによかった。帰りには中間駅プランアルプで水を補給する様子も見られた。
 下りてきて、バスでインターラーケンに戻り、ヨーデルディナーを楽しむ。
 グリンデルワルトでは連泊が叶わず、今夜の宿はグリンデルワルダーホフ。宿に帰ったのは21時を過ぎていた。今日もフル活動の旅であった。
 
7月8日
フルカ峠 ローヌ氷河
 今朝はよく晴れた。スイスの朝は早い。アイガーが朝日に輝いている。早朝にグリンデルワルトの町を散策した。まずは昨年3連泊したホテルの前へ。教会の裏へ周り墓地を歩いた。山で遭難した人たちの墓碑もありそれぞれ美しく飾られていた。
 バスが迎えにきた。今日はインターラーケンからアウトバーに乗り、アルプスの山並みを縫う快適なドライブである。
 スイスは鉄道王国でもある。5000kmもの鉄道網が敷かれている。4大特急と呼ぶものもある。
・氷河特急 ツェルマットとサンモリッツを結ぶ。
・ベルニナ特急 イタリアティラーノ〜サンモリッツ
・ウィリアム・テル特急 無名の英雄たちが住んだ山や村々を通る
・ゴールデン・パス スイスの山岳地帯を走る
 今日はそのうちの1つ、氷河特急に乗るのも楽しみだ。
 バスはマイリンゲンの町に入る。名探偵シャーロック・ホームズの「最後の事件」の舞台となったところだ。車窓から、ホームズが宿敵モリアーティ教授との対決の末に命を失ったとされるライヒェンバッハの滝が見えた。グリムゼル峠で休憩する。標高2165m、ナポレオンも通ったという激しい戦いの繰り広げられた峠。その下の湖はトウテンゼイ、死体の湖という意味だそうだ。戦いによる死者が多く投げ入れられたとか。この峠に修道院が建っていた。300年の間に難渋する2500人の旅人の命を救ったと伝わる。この修道院で飼われていたのがセントバーナード犬。セントバーナード犬発祥の地でもある。バスが進むと、クレッチャー氷河が見える。やがて2431mのフルカ峠、午後に乗る氷河特急は車窓にこれらの氷河が望めるところから名付けられたという。しかし今はトンネルを抜ける新しい軌道を走るため、氷河は全く見られない。そこで旧軌道に蒸気機関車を走らせている。折りしもその機関車が蒸気をはきながら走っていくのどかな風景が見えた。フルカ峠でバスを降りた。ここは分水嶺になっている。車窓からずっと見えていたローヌ氷河の中へも足を踏み入れた。峠から1000mを一気に下り、1464mのアンデルマットで昼食のアルペンマカロニを。ゆでたマカロニとジャガイモをチーズであえたものである。アンデルマットでは町の散策も楽しんだ。
氷河特急でツェルマットへ
 約270kmの距離を8時間ほどかけてゆっくりと走る「世界一遅い特急」である。私たちは、アンデルマット16:03からツェルマット19:45 4時間近い旅である。険しい渓谷、白銀に輝く山々、緑の牧草地、急勾配の峠越えなど変化に富んだ車窓風景を心ゆくまで楽しんだ。憧れていたツェルマットに着いた。ここはガソリン車の乗り入れが禁止されている。利用できるのは馬車と電気自動車・太陽エネルギーで走るソーラーバスのみ。
 夕食はナショナルホテルで。歩いて行く途中、線路の脇にヤナギランが一群れ咲いていたのが印象的だった。暮れ始めていたが橋のところからマッターホルンの全容が見えたときは感激であった。食事は名物のミートフォンデュ、特製鍋でサラダ油を熱し、サイコロ状に切った牛肉をフォークに刺し、油の中で素揚げする。好みのソースや薬味を付けて食べる。本場の名物料理、さすがにおいしかった。ホテルのエリーテに帰ったのは10時を過ぎていた。ああ今日も充実していたなあ。
 
7月9日
名峰マッターホルン
 標高1631mの山中にあるツェルマットは19世紀の初めまではイタリアとの通商路の宿駅の1つとして利用されるほかはごくわずかな住民が生活する谷の奥にひっそりとたたずむ寒村にすぎなかった。マッターホルンは「魔の山」と恐れられていた。1865年、英国人エドワード・ウィンパーが8度目の挑戦でやっとマッターホルン初登頂に成功するやツェルマットは一躍ヨーロッパ中に知れ渡った。
 早朝まだ暗いうちにカトリック教会近くの橋の上に出かけた。橋の上にはもうすでにたくさんの人が集まっていた。モーゲンロート 朝焼けに染まるマッターホルンを見る絶景ポイントなのである。やがて山頂がぽつんと赤くなったかと思うと次第にその朱が広がった。ああ朱いマッターホルンだ。それは感動的な光景であった。光は間もなく透明に変わった。大きなカメラを構えていた人に聞くと、その方は4度目の挑戦だそうで、今日ほどすばらしい朝焼けははじめてだとのこと。私が「今日がはじめて」というと、「なんとラッキーな」とおっしゃった。教会のそばまで戻り、振り返るとマッターホルンは金色に輝いていた。教会隣の墓地には多くの登山家たちが眠っていて、遭難したクライマーたちの追悼碑もあった。「ツェルマット・妙高高原姉妹都市提結記念」碑、マーモットの泉、ウィンパーの定宿だったというモンテ・ローザの壁にはウィンパーのレリーフがあるなどまだ人通りの少ない朝の町を散策した。マッターフィスパ川のほとりには、黒いカラマツ材で造られた小屋が並ぶ一角がある。これはネズミ返しの小屋とよばれるヴァレー地方独特の高床式の建物で、納屋または穀物倉庫として使われていた。小屋の柱とそれを支える柱の間に円盤状の石をはさみネズミの侵入を防いでいるものである。そばについ近年103歳で亡くなったという山案内人のレリーフもあった。
 快晴である。この旅一番の好天、もっともメインコースの今日が・・・ほんとうにラッキー。登山電車で標高3130mのゴルナーグラート展望台まで上がる。屋外に敷設された鉄道で登れる展望台としてはヨーロッパで最も高い位置(3089m)にある駅で所要時間約45分。展望台からは、4000m級の名峰、モンテローザ、リスカム、カストール、ポリュックス、ブライトホルンがずらりと見渡せる。眼下に横たわるのは雄大なゴルナー氷河。クライン・マッターホルンの下にはテオドゥル氷河。もちろんお目当てのマッターホルンも時々雲がかかるものの氷河に削り取られた独特な鋭い三角形の全容を見せてくれた。東壁が正面となるためツェルマットで見るのとはかなり違う。今年の6月に実妹がイタリアから見たら「えっ、あれが」とがっかりするほど山々の上に小さく先端を覗かせていたマッターホルンだったとか。展望台のところで、山岳犬といっしょに写真を撮ってもらいよい記念になった。
 1つ下のローテンボーデン駅で降りて、逆さマッターホルンが映えるリッフェル湖までハイキングすることになった。希望者はとなっていたが、全員が希望。坂を下ると程なくリッフェル湖、期待通りの逆さマッターホルンを見ることができた。配られた早めの昼食のおにぎりをいただいた。そこからの下りはさらに緩やかで花々を見ながらのんびりと歩いた。ことにゲンティアナ・ウェルナや氷河トチナイソウ(アンドロサケ・アルビナ)に出会えたことが嬉しかった。目的のリッフェルベルクに着いてもまだ12時前。それにここまでは民族衣装の登山者をたった一人見かけただけで、あとはほとんどがツアー客。韓国、中国、台湾、圧倒的に多いのが日本人の行列。まるで景観は違うものの日本の山を歩いているような錯覚を覚えた。幸い午後は自由行動であったので、もう一駅歩くことにした。3人のグループの方が歩くとおっしゃるのでご一緒させてもらった。途中で数人の大きなリュックを背負った登りの登山者に出会った。リッフェルアルプまでの1時間あまりのトレッキングは、天気はいいし、人も少ないしで最高に楽しかった。結局28人中10人がこのコースを歩かれたそうである。
 下りてきて、アルパイン博物館が開くのを待って見学にいった。ウィンパーらによるマッターホルン初登頂に関する記録と下山中遭難した4人の遺品を展示する部屋があり、歴史を感じた。バーンホフ通りはヤギの群れが朝山に行くときと夕方帰るときに通るというので是非見たいと思っていた。ガイドさんは4時半頃とのことであった。4時35分まで通りで待っていた。ところが急に気分が悪くなり吐き気がしてきた。山岳博物館の人はたしか5時頃と言ったように勘違いしたこともあって、一旦ホテルに戻った。10分後に出てきたときには通りにはフンがたくさん落ちていてすでに通り過ぎたところであった。聞けば4時40分頃、あっという間の通過であったとか。同行者で見物できた人は少なかったみたいだがその話によると「気品のある顔立ちの羊が20頭ほど群れをなし、それを民族衣装の子どもたちが棒を振って追うのだがその顔のかわいくて、いじらしくて、誇りさえ感じ感動した」と。これはショーではない。仕事である。生き様なのである。とても残念!見たかったなあ。
 夕食は、オプショナルで「スネガ展望台(2248m)よりマッターホルン眺望とラクレット(溶かした専用のヴァリサールプケーゼをゆでたジャガイモやピクルスにからめて食べるスイスの代表料理)ディナー」になっており、もちろん申し込んであった。気分が優れないが同行した。地下ケーブルカーでスネガ展望台まで上る。ところがとうとうケーブルカーの中でもどしてしまった。山裾から立ち上がる最も端正なマッターホルンの全姿が見られるポイントとのことであったので、必死にカメラに収めた。しかしここが限界、食事どころではない。添乗員さんに先に下りることをお願いする。次のケーブルカーで下りればいいと簡単に考えていたのだが、すでにケーブルカーの運行は終わり、貸切運行だったそうで、たいへん迷惑をかけたが、私一人のために下ろしていただいた。後日談で「まだましな方だ。後の団体の中の一人は意識を失ってヘリコプターで運ばれ大騒ぎだった」とか。ホテルに辿り着くとすぐ寝てしまった。9時に下りてこられた添乗員さんが、差し入れをしてくださったが実のところそれどころではなかった。3時に目覚めると気分もよくなっていたので、日記を書き、明日の準備をしてまた寝てしまった。
 
7月10日
レマン湖畔の名城シヨン城
 旅のはじめにスイスの水道水は飲料水だが硬水なので、ノンガスのミネラルウォーターを飲むようにと注意があった。飲み物の中では水が一番高いものだったが、いつも購入しなまぬるいそれを飲用していた。ところがうっかり朝の食卓にジュース類とともに並ぶ水を飲んでしまった。それが水道水だったとは。それに旅の疲れもたまりお腹を壊してしまったのだろう。迷惑をかけたが、一晩ぐっすり寝たらすっかり回復した。それでも朝はフルーツをほんの一口。これが正解で、旅の締めくくりの一日は快適に過ごすことができた。お天気も快晴、ラッキー、ラッキー。
 ツェルマットからガソリン車のバスも入る隣駅のテーシュに移動、バスに乗る。フッシュプで高速に乗る。ヴァリー・ヴァリス地方はブドウ酒造りが盛んで、車窓には見渡す限りのブドウ畑が広がっていた。マルティニで休憩。スイスには4000m級の山が34座あるがそのうち29座はツェルマットの周辺にあるという。これらの山々から流れ落ちたローヌの谷がレマン湖からの川と合流すところがマルティニで、ローヌ川はここから地中海に注ぐ。シーザーもナポレオンもここを越えたという。レマン湖畔の名城シヨン城に着く。長さ110m、幅80mの硬い岩盤の上に立つ古城である。ジュネーヴ独立運動に加担した修道院長ボニヴァールが捕らえられ1536年にベルン地方のスイス人が城を征服して解放するまでの4年間地下牢につながれていた。サヴォア家からの解放運動のシンボルとなったボニヴァールを高らかに謳いあげた詩人バイロンの「シヨンの囚人」によって、この城は一躍有名になったという。レマン湖の中にフランスとスイスの国境がある。7月末から8月にかけて開かれるジャズ・フェスティバルで有名なモントルーの町を抜けマルティニに戻る。ここはまたスイス、フランス、イタリアへの三叉路でもある。
白い山 モンブラン
 フォルクラス峠を越え、パスポートの呈示だけでスイスとフランスの国境を難なく越えてシャモニーに着いた。シャモニーはフランスであり第1回冬季オリンピックが開かれたところである。。まずはレストランで昼食の後、かなり待って待望のロープウェイに乗った。登山電車のようにゆっくりではなく、一気に高度の高いところまで上るので緊張する。キャンディを口に含み、深呼吸する。2706mの中間駅プラン・ド・レギーユで乗り継ぐ。前衛の針峰郡が迫ってくる。北峰駅は3777m、橋を渡ってさらに中央峰のエレベーターで上がったところが3842mのエギーユ・デュ・ミディ展望台である。「白い山」という意味のモンブランは、その名の通り頂を万年雪でおおわれた美しい姿で眼前にあった。標高4807m、ヨーロッパの最高峰である。息を呑む光景であった。はるかモンテローザまでも見える。屏風のように聳えるイタリアとの国境の山グランド・ジョラスが左に、眼下には大氷河が、そして右手にはモンブランの優美な山頂が一望のもとに見られる。エレベーターで下りて北峰の展望台にも上がってみた。感激のモンブランとの出会いであった。
 下山後、再び国境を越えてスイスのジュネーブに向う。ジュネーブでは車窓からサン・ピエール大聖堂を見、イギリス公園で降りて、大きな花時計、1815年ジュネーブがスイス連邦に加入したことを記念する国家記念碑、モニュメント、ジュネーブのシンボル・ジェッドー(大噴水)、遊覧船の発着所などを見て、今夜のホテル・コルナバンに着いた。
7月11日
 今朝の出発はゆっくりである。朝1時間ほど散歩に出た。モンブラン橋を渡り、ルソー島にあるジャン・ジャック・ルソーの像と記念撮影。ついでに銃を手にした兵士の立つ建物があったので写真を撮ってもいいかと尋ねたら、「ノン」、そりゃそうだろう。
 空港へ行くバスの中から、緒方貞子さんがトップを勤められた国連難民高等弁務官事務所、国連ヨーロッパ本部、OMPI(知的所有権保護のための国際機構)、アリアナ美術館、国際赤十字などを案内していただいた。
 13:35 ジュネーブ発の飛行機、ロンドン乗り継ぎで帰国の途についた。
7月12日
 成田着は、日本時間の11:05であった。充実した大満足の9日間であった。
 ツアーの海外旅行ははじめて、しかも一人での申し込みで不安もあった。
 しかし、ツアーというのは、なんと効率的な旅であろう。どんなに朝早くても、夜遅くてもバスがちゃんと待っていてくれて、見るべき場所に効率よく連れていってくれる。しかも、大きな荷物はすべてポーターさんまかせ。個人旅行ではこうはいかない。それがまた楽しみでもあるのだが、どこに行くか、そのためのルート、泊る宿から食べるものまで自分の好みで選択し決め、滞在する。自分の荷物は自分でゴロゴロと引っ張っていくことが多い。自由ではあるが効率という点では・・・
 今回のツアーは28人で、ご夫婦、親子、姉妹、友人などの小さなグループの集まり。ほとんどの方がツアー慣れしておられる。しかも8日間。それぞれ興味も関心も違う。買い物の好きな人、散歩、写真、食事や飲み物に関心のある人。トイレに行けば行列ができるし、集まるにも時間がかかる。これがツアーだと割り切りながら、それでも人間関係の難しさもちょっぴり感じた旅であった。みなさん、お世話になりました。ありがとうございました。

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