2006年 北の大地にて

2006
北の大地にて
 自然の景観や風景も単に美しいというだけでは強く人の心を捉えない。 もの悲しさが加わって美しさは一そう引き立ち、静寂に翳りがあって華やかさがより目立つというものだろう。 私が北海道オホーツクの自然を愛する理由はここにある。
                                             戸 川 幸 夫
 
 同じ思いの私もこよなく愛する北海道を今年も折りにふれて訪れたい。
 まずは、6月10日から18日までの9日間 知床(羅臼)を中心に北海道遺産と松浦武四郎の足跡を訪ねる旅に出た。
 北海道へはこのあと サハリンの行き帰りに2泊したし、夫は8月末に3泊4日の旅をした。
 今回は、10月4日から12日までの9日間の旅を綴ることにした。


知床岬の先端に立ちたい!
 今回の旅の最大の目的は、松浦武四郎も何度か立ったという知床岬の先端に立ちたいという長年の夢を叶えることであった。知床半島先端部地区は
・知床国立公園&知床世界自然遺産地域
・極めて原始性の高い自然景観と豊かな野生生物によって形成される多様な生態系を有する地域
・整備された歩道等の施設はなく、安全性や快適性の保証はない地域
・気象・ヒグマ等、極めて厳しい自然条件を有する地域
であり、自然環境保全のために立ち入りが禁止されている。ところが「NPO法人しれとこラ・ウシ」主催の知床岬クリーン作戦が展開されていることを知った。船舶運航費を含む1人15000円の参加費を負担する海岸清掃のボランティアを募集しているのである。これなら知床の自然を守るという運動のお役に立つこともできるし夢も叶う。早速参加を申し出たところ許可されたので、その日程に合わせて喜び勇んで出かけたのであった。
6月10日
 いつものように名古屋国際空港セントレアから釧路へ。釧路空港前で予約しておいたレンタカーを借りる。あいにくの雨であり気温は6度、寒い。別海、中標津、標津を走りぬけ一路羅臼へ。夕刻、羅臼の宿「まるみ」に着く。この夜、クリーン作戦のレクチャーがあるというので急いだのである。宿のストーブの暖かさにほっとする。
6月11日
 雨は止んだが岬周辺は殊に波が高いところで上陸不可能とのことで明日に延期。天候のためとあらば致し方なし、明日を楽しみに今日は相泊まで出かけることにした。車で一気に相泊まで行き、ゆっくりと下ることにした。相泊港はキタキツネやエゾシカが歩いていた。赤い灯台まで歩く。その後「熊の穴」という店で熊ラーメンを食べ、店の主人にいろいろの話を聞いたり、たくさんの貴重な写真を見せてもらったりした。数戸建っている家はすべて番屋で、冬になると木野本さんというこの店のご夫婦だけになるとのこと。日本最北東突端に到達したという証明書をもらった。時間的に余裕がありのんびりとしてこれもまたよい。根室海峡を挟んで眼前に国後島がくっきりと見える。その広大さに改めて驚く。知床半島の羅臼側は斜里側に比べて山が拓かれていないということが特徴だそうだ。そこを流れる川の一つひとつを、ここは砂防の堰があるからサケは上れないだろうとかこの川は自然のままのいい川だ、この川を遡れば山が低いからオホーツク側に越えられる、昔アイヌの人たちの辿った道だなどと話しながら飽くことなく眺めた。
 車の入れる一番奥が合泊川。無料で海のすぐ近くにある相泊温泉を夫は満足そうに楽しんだ。セセキの野天風呂は海草でぬめぬめしていて温度も低くさすがに入れなかった。岩壁から海に流れ落ちるセセキの滝は水量も多く美しかった。昆布でも採っているのだろう漁船が海に浮かんでいた。オショロッコ川、熊岩、番屋北浜という知床シーカヤックセンターがあった。ルサ川、知床橋の上から見るとなるほど山が切れていてアイヌの人たちが横断したのが頷ける。三本松、キキリベツ川(霧立橋)、北浜、ショウジ川(岩見橋)、建根別橋では桜が咲いていた。岬町では石楠花がきれい。知円別川(知円別橋)、知円別トンネル、モセカルベツ川(茂瀬刈別橋)、天狗岩トンネルを出るとすぐ天狗岩があり、ここは少し広くなっていた。朔北橋、オツカバケ漁港、刺類橋、海岸町、ハシコイ川(飛仁帯橋)、ざいもく岩トンネルの横にざいもく岩(ガゼ岩)、ざいもく岩地区を山に向ってかなりの勾配を上がっていくと赤白の羅臼灯台があった。(画像)ここからは国後島、海には定置網、海岸線、羅臼港などが見渡せすばらしかった。チトライ川(知徒来橋)はなんともいえずいい川だ。マッカウスの洞窟に着いた。ここのひかりごけは有名でこの日もたくさん光っているのが見えた。またこの洞窟は安政5年に松浦武四郎が野宿したところで、この夜熊が出て心細い思いをしたと記している。洞窟前に歌碑が建つ。羅臼港のところからしおかぜ公園に上がった。戸川幸夫の「知床の賦」の碑が建っていた。
 遠い はるかなる地の涯
 日本に 最後まで残された古き世界
 私は見た とぎすました氷の牙を
 私は聞いた 冷い朔風の挽歌を
 私は知った オホーツクの海の荘厳な
              美しさと悲しみを
               とりけものたちは
 彼らの慣習にしたがって生きそして死んでゆく
 人間もこの半島に生きる限り同じだ
 彼らは遠い祖先がしたように魚群を追い
 野獣を求め秘かに人類の歴史の一頁を綴る
  誰にも知られず 誰にも知らさず
 みんなが幸福にひっそりと生きそして逝く
 永遠の大地ー知床半島
また「オホーツク老人」の像が建っている。これは戸川幸夫の小説で、オホーツクの番屋は冬季無人になるのだが、番屋の網を鼠から守るため猫を飼う、その猫に餌をやるために一人の老人が棲みつくという話だ。この小説は森繁久弥主演の「地の果てに生きるもの」として映画化された。像はこの「彦市老人」を演じた森繁氏をモチーフに作られた。ロケに協力した羅臼町民に感謝を込めて送った歌「知床旅情」(原題は「サラバ羅臼」)の歌詞が森繁氏自身の筆で彫られている歌碑も建つ。
 まだ時間があったので、知床峠へ上がっていった。チシマザクラが咲いていた。峠は濃い霧が立ち込めていた。しかし峠を下ると羅臼岳がくっきりと見えた。久しぶりに知床自然センターへ寄った。よく晴れていてエゾハルゼミがしきりに鳴いていた。帰りに「熊の湯」を楽しんだ。熱いので有名だが今日もとびきりの熱さだった。さらに「北の国から」の「純の番屋」へも寄った。
6月12日
 明日は大丈夫ということで昨夜は長靴のサイズを合わせ準備万端整えていたのだが、極めて残念なことに荒波のため今日も中止。来週までは待てないので、また来年参加できることを期待して諦めた。最大の目的だったのに残念、無念!
 一緒に乗船するはずだった北海道新聞旭川の記者の方と長時間知床の自然保護について語り合う。その後「まるみ」のご主人に「羅臼町郷土資料館」に案内していただく。発掘された土器や珍しい(ここだけにしかない)熊頭注口木製槽、オタフク岩洞窟で14個の熊の頭蓋骨が発見され、擦文式土器を使用する人が熊送りをしたことが確認された写真、オホーツク文化の遺跡などたいへん貴重なものが展示されていた。資料館を出たところで、隣の公民館から呼び止められた。見ると昨日熊の湯で出会った高橋さんという方だった。聞けば羅臼文化協会の会長さんだという。教育委員会の文化課課長さんや挙句の果は羅臼町町長さんまで紹介していただいて話が弾む。
 とうとう昼過ぎに羅臼を後にした。知床峠を越え斜里へ。オシンコシンの滝は何度も訪れたがこんなに水量の多いのは初めてだ。思わず止まってしまった。網走から上湧別へ。ここのふるさと館で北海道遺産の屯田兵村と兵屋を見るはずであったが予定外の休館日、明日も開かないとのこと、チューリップ公園にあるのだが花も咲き終わり・・・早々に通過、紋別プリンスホテルへ泊ることにした。紋別では大山山頂園にあるオホーツクスカイタワーへ上がり紋別の町を眺めた。
オホーツクを北上
6月13日
 興部、雄武、枝幸と北上。
 枝幸では、三笠山展望閣へ。美しい海と町並みが広がっていた。「オホーツクミュージアムえさし」にも立ち寄った。間宮林蔵の地図特別展が行われていた。そして目梨泊遺跡を中心にオホーツク文化の展示がすばらしかった。学芸員さんのご好意で収蔵庫の中まで見せていただき感激であった。有名な毛ガニを購入する。北緯45度(北半球のど真中)を通過し、目梨泊遺跡、神威岬を見て、浜頓別、猿払と北上し、東浦からダートの道を入る。北海道遺産の宗谷丘陵周氷河地形を見るためである。オピラシュナイ橋より待望の鳥瞰図を見るような丘陵が見渡せた。林立する風車や広がる牧場を見ながら宗谷岬に着く。
 はだれに暗く緑する
 宗谷岬のたゞずみと
 北はま蒼に唾る
 サガレン島の東尾や
という宮沢賢治の歌碑が建っていた。
 宗谷岬灯台、祈りの塔、大岬旧海軍望楼、子育て平和の鐘、世界平和の鐘、宗谷丘陵展望休憩施設、宗谷岬えこ・びれっじ、平和の碑、てっぺんドーム、日本最北端の地モニュメント、間宮林蔵の立像、宗谷岬音楽碑などいろいろなものが建っていた。
 少し離れた「間宮林蔵渡樺の地」を見てから、豊富に向って南下する。途中タンポポの咲き乱れる牧草地を見たりして行くと天塩川水系のサロベツ川があった。そこに松浦武四郎の名があった。ああここも武四郎が通った道だった。広大なアシ原の中を屈曲して流れる支流である。今日の宿は北海道遺産モール温泉の一つ豊富温泉の観光ホテル。独特の黒っぽい温泉である。
天塩川を遡る
6月14日
 今日は比較的ゆとりがある。今夜の宿は中川町のポンピラアクアリズイングに決めていたからだ。宿を出て、トナカイ観光牧場へ向う。途中に幌延深地層研究所建設現場があった。もしかして核廃棄物を地中深く埋めてしまおうとの研究ではないのかと思った。牧場では立派な角を持ったトナカイがたくさん放牧されていた。トナカイもさることながら植えられていた花々がきれいでゆっくりと見物した。
 戻ってサロベツ原生花園へ。ここは何度来ても花の最盛期には合わない。ちらほらと散策する観光客に交じって小さな花を探して歩いた。以前来たときよりササの侵入が急速に広がっていた。稚咲内を通って、またまた北緯45度を通過し、車中泊したなつかしい幌延ビジターセンターへ。ここでも少し散策し、天塩川歴史資料館へ。見学の後、さらに南下。オトンルイ風力発電所の風車は珍しく28基がまっすぐに並んで建っていた。中川町へ入ってまずエコミュージアムへ行った。アンモナイトの大きな化石がいくつもいくつも並んでいて驚いた。中川町では天塩川の音威子府の川岸に松浦武四郎の「北海道命名之地」標を建てられた町議会議長の川口精雄さんと知り合いで、今日来ることを連絡してあったら「うちの庭でバーベキューでもしましょう」とお誘いを受けた。是非会いたかったので遠慮なくお邪魔し、ご馳走になり夜遅くまで語り合った。楽しい夜であった。
6月15日
 筬島の「北海道命名の地」標を見て、音威子府から南下 美深へ。ここではチョウザメ館、「天塩川名」由来の地「テッシ」と松浦武四郎踏査之地碑と歌碑を見る。さらに名寄、風連を走り士別へ行き、士別市博物館で北海道遺産の屯田兵屋と屯田兵の歴史の展示を見学する。そして足を延ばしてサフォークランドへ。丘の上のメルヘンチックなレストランで士別の町を見下ろしながらバーベキューを。お土産のラム肉を大量に買い込む。和寒、比布、旭川へ。ここでも陸上自衛隊旭川駐屯所の「北鎮記念館」へ屯田兵に関する資料を見に行きたかったのだが時間が迫っていたので諦めた。東神楽、西神楽、美瑛と過ぎ、上富良野にある北海道遺産の「土の館」へ。土の標本や農機具の展示が見事であった。中富良野から富良野の今夜の宿、民宿「あしたや」へ。ここはかつて1999年に5ケ月近くお世話になった倶知安町の泉郷のペンションでたいへん親切にしてくださった中島さんが建てられたもの、久しぶりの出会いを心から喜び合った。
北海道遺産と松浦武四郎の足跡を訪ねて
6月16日
 中島さんと別れを惜しみつつ宿を後にし、北海道遺産の北海幹線用水路を見学するため赤平に向った。途中、芦別市野花南(のかなん)に松浦武四郎の探険記念碑があるはずで、このあたりに違いないと何度も探すが見当たらない。車から降りて土手に上るとあるはずの道がこの土手で遮られてなくなっていたのだ。土手の向こうの細い道を探しようやく標柱を見つけた。しばらく進むと、思いもかけず旧住友石炭赤平炭砿立坑櫓が見えてきた。前に北海道遺産の空知の炭鉱関連施設と生活文化では夕張を訪れたのだが赤平にも立坑が残されていることは知っていた。が実際に目の前にするとその大きさ、立派さに驚いた。さらに走っていくと、日本一のズリ山階段の標識のあるところで、「赤い花サルビア炭田」の看板を立て、大勢の人たちがなにやら作業をしてみえた。聞いてみると「赤平は徹底的に赤にこだわるのです。それで赤いサルビアを炭鉱の最盛期の人口に因んで6万本植えようと毎年やっています。今日06年6月16日がその作業日です」とのことであった。記念に私達も植えさせていただき、サルビアと「燃ゆる思い」と書かれた赤い小さなタグをいただいた。このあたりにも炭鉱関連施設がたくさん残っていた。
 北海幹線用水路が見えてきた。想像していた以上に堂々とした用水路で水が満々と貯えられて流れていた。頭首工への入口には「北海幹線用水路」という北海道遺産の大きな看板が立っており、ここからは車進入禁止になっていたので200mほど歩いて見に行った。その後、国道38号からや空知川に架かる橋の上から取り入れ口を眺めた。
 富良野に戻った。原始ケ原には松浦武四郎通過の地の木碑があるのだが、かなり離れた山の中なので次回訪ねることにした。空知川に注ぐ支流の15線川、南富良野、樹林峠と進むうち雨が降ってきて、狩勝峠は濃い霧に包まれていた。原始ケ原を諦めたのでせめて新得町の佐幌ダム上流にある松浦武四郎野宿之地は是非見たいと思っていたのだが雨が激しくて山の中へは入れずここも諦めた。そこで清水町人舞にある宿泊の地を訪ねた。郵便局で尋ねようやく岸田政弘さん宅裏にあるそれを見つけた。人舞と判っていてもその広いこと、広いこと。牧場の入口に案内柱と案内板があり、その150m奥に立派な石の碑が建っていた。
 思えば今回の旅では、天塩川、石狩川、空知川など多くの大河を辿ったことになる。松浦武四郎が「十勝日誌」の中で「母なる川・石狩川、父なる川・十勝川」と記しているが、今日は空知川を上流へ上り、これから十勝川を下る。芽室、音更を通り下士幌に入った。ここに「十勝の水田発祥地」の標柱が立っていた。今日の宿は、北海道遺産モール温泉に指定された笹井ホテルである。大きなすばらしい温泉で何度もお風呂を楽しんだ。売店で「六花亭の十勝日誌の箱に入ったお菓子をお土産にしたい」というと、帯広にある六花亭本店まで車を走らせてくださった。感謝、感謝。
6月17日
 幕別、帯広を走り、中札内に入った。ここで松浦武四郎の歌碑を探そうというのである。防災ダムの側だとのことで点在する牧場で尋ねるのだがどうもよく判らない。ようやく西札内防災ダム桜公園の中にそれを見つけた。歌碑は「此のあたり 一夜かりても 鹿の音を 今宵は近く 聞かましものを」である。これは先住民族を語る百人委員会が建てられたもので、同じくその横に「サツナイウンクルの祖の像」という立派な像が建っていた。「先住民族アイヌの人々が和人の侵入で受けた苦難の歴史を偲び、ここにその像を建立し遺徳を讃える」と記されていた。しみじみと心に残る公園であった。その上にある一本山展望タワーへも登った。ただ一人会った散策しておられた方が春先にこのあたり一面に咲くカタクリの花の美しさを話してくださった。
 更別、大樹、札内川、歴舟川、広尾と下り黄金道路を行ってもいいと考えていたのだが雨のため通行止め。天馬街道を越えることにする。標高500mにある長いトンネルの中で十勝の国から日高の国に入る。広尾から浦河まで53km、店もガソリンスタンドももちろん信号も1つもない。オロマップ展望台で休憩し、牧場を眺め、日本乗馬療育インストラクター養成学校の前で始めて信号に出会う。ここから4kmで浦河。サラブレットロードを走り、三石、静内へ。ここで今回最後の北海道遺産「静内二十間道路の桜並木」を訪ねる。「日本の道百選」「北海道二十景北の彩時記」「北海道まちづくり100選」「さくら名所百選」「新・日本街路樹100景」などに選ばれているだけあって、広い道路と立ち並ぶ老樹にしばし見とれた。桜の花の咲く頃にもう一度訪れたい。
 新冠、門別、平取・・・二風谷の沙流川歴史館で松浦武四郎展を見た。二風谷アイヌ文化博物館へも寄った。いつかの夏、ここで黒川さんという職員の方に親切にしていただき、冷たいトマトをもらったことがあった。ちょうど黒川さんがみえたのでその話をすると、覚えていて懐かしがってくださり今回もトマトをたくさんくださった。ほんとうはつい先ごろ亡くなった萱野茂さんの仏壇に線香の1本もあげさせていただきたかったのだが、日暮れ近かったので遠慮した。
 鵡川、厚真、日高道を走り苫小牧、道央道で千歳と走りに走った。そして、今日の最終目的地サーモン橋に着いた。ここには松浦武四郎の和歌のレリーフが橋の四隅の欄干のところにあった。
 レンタカーを返しに行った。8日間の走行距離1967km。千歳空港内の三井アーバンホテルに宿泊。
6月18日
 千歳空港から名古屋国際空港へ・・・
 
 
宮島沼へ
10月4日
 三重の家を出るときは小雨が降っていたのだが、午後3時千歳に降り立つと晴れていた。ラッキー 予約してあったレンタカーを借りる。今夜の宿は旭川である。天気もいいし、夕焼けの中を飛ぶマガンの群れを見ようと、宮島沼に寄ることにした。宮島沼はラムサール条約に制定されている北海道の水辺の一つで、石狩川の氾濫で遺棄された残留湖沼である。ここは、マガンの日本最大最北の中継地で、もう来ているはずである。千歳を出発したのが4時。予想外に時間がかかり宮島沼に着いたのは5時半に近い。しかもあいにく曇ってきた。それでも餌場からねぐらの宮島沼へ帰って来るたくさんのマガンの群れを見ることができた。沼では、マガンの鳴き声がかしましく響いていた。6日の北海道新聞トップページに、「紅の空に秋の使者」のタイトルで真っ赤な夕焼けの中、宮島沼に戻るマガンの群れー5日午後5時30分ーという素晴らしい写真が出ていた。えっ、一日違いで残念! 5日現在、約34000羽が留まっているという。
大雪山 旭岳
10月5日
 早朝、旭岳ロープウェイで上った。紅葉のピークは1週間ほど前であったというがロープウェイの下に広がる樹林と草原、湖沼は素晴らしく美しかった。第1展望台からは、先年の夏登ったまだ冠雪していない旭岳のピークと噴煙がくっきりと見え、雄大な台地が広がっていた。ここは、北海道遺産の宗谷丘陵と同じ周氷河地形である。こんな好天はめったにないとのことであった。真っ青で美しい夫婦池(摺鉢池・鏡池)を見ながら、姿見の池までの周遊コースをのんびりと散策した。初夏に来た時ほどの花の山ではなかったが、シラタマノキの白い小さな花がたくさん咲いていて、なんとも気持ちのいい散策である。姿見の池も穏やかに澄んでいて、旭岳と噴煙を映していた。偶然あったボランティアガイドの人と話したひとときも楽しかった。下りてきてまだ時間はたっぷりあったので、天人峡へ周ることにした。こちらは紅葉の盛りでたいへん美しかった。森林浴を楽しみながら、羽衣の滝まで歩いた。この滝は、忠別川の支流アイシホップ沢川と双見沢川が合流する地点で絶壁を左折右折七段に分かれて落水する飛瀑で落差は270mの実にきれいな滝であった。「富士山に登って 山の大きさを語り 大雪山に登って 山の広さを語れ −大町桂月ー」の桂月碑があった。帰り道で、林野庁森の巨木たち100選の1つ「森の神様」を見に立ち寄った。幹周り11.5m 推定樹齢900年のカツラの巨木であった。幹をなで、その命を思った。
 ここから一路北上、美深アイランドまで走った。
天塩川を下る
10月6日
 松浦武四郎が遡って探険調査した天塩川を下り、文献に記述された地名の現場を見たいと、コスモスカヌー企画の方に案内を依頼し、カヌーで天塩川を60kmほど下る計画を立てた。
 出発地の美深アイランドはキャンピングカーで何度も泊ったところである。ここには「松浦武四郎踏査之地」碑と歌碑が建っている。
 近くの天塩川カヌーポートから漕ぎ出す。穏やかな好天である。天塩川の名の由来であるテシ(岩盤)があちこちに見られる。穏やかな流れのところあり、瀬あり、急流ありでなかなかスリルがある。川は澄んでいて、ピパ(烏貝)がびっしり付いているところがある。こんなところではそれを餌にするザリガニがたくさんいる。川から一斉に飛び立つカワアイサや青サギが水先案内を務めてくれているようだ。空にはオジロワシが舞っていた。川には産卵のため上って来たサケの姿も見られた。川岸に目をやると野菊の濃い紫の花が鮮やかに咲いていた。休憩に降りた中州には、産卵を終えたサケ(ホッチャレ)、サクラマス、大きなフナの死骸があった。さらに下り小車大橋の下を潜り、中州に上った。のんびりと昼食をとっていると曇ってきて、少し風も出てきた。見つけてもらった硅木(松や柏の木が化石になったもの)を持ち帰ろうとカヌーに積み、出発する。30分ほどはどうということもなかったが、突然強い向かい風となり、川面が大きく波立ってきた。しかし岸に上れるところもない。悪戦苦闘すること1時間近く、やがて山が途切れ視界が開けると嘘のように静かになった。カヌーポートが見えてきた。音威子府カヌーポート中の島である。今日はここに上る。美深から25km、休憩を含めて6時間の行程であった。
 迎えの車に少し戻ったところにある天塩川温泉まで送ってもらった。この温泉には「武四郎」という部屋があると知り、無理を言って予約しておいた。着いてみたら21畳の広間でぽつんと布団が2組、申し訳ないやら、おかしいやら。
10月7日
 昨日の続き、中の島から下る。曇天ながら少しある風は追い風、絶好のカヌー日和である。軽々と快調にカヌーはすべる。岸の高い木の上に巨大なオジロワシの巣を見つけ教えてもらった。たくさんのサケが上ってきており、船べりで勢いよく跳ねる。産卵場所の上を走っているようだ。ごめんなさい、お邪魔しますと急ぐ。中州に上がり、支流を遡ってみると、瀬を跳ねてたくさんのサケが遡っており、産卵していた。さらに下ると、「北海道命名之地」碑の立つ筬島である。ここでも上ってみる。また下る。1ケ所かなりの落差があり滝つぼのようになっている箇所があった。中州に上がり、カヌーを廻す。もう少し水量のある時期なら乗ったままで通過できるそうだ。川は日に日にその様相を変えるらしい。今日は岸に上って昼食。昼食後、さらにカヌーを進める。このあたりは川幅も広く天塩川はゆったりと流れている。堤防工事の監督さんらしい人が「どこまで行くの?気をつけて!」と声をかけてくださる。やがて雨がぽつぽつ落ちてきた。でも合羽を着ているから問題はない。フードだけ被る。雨はしばらくでやんだ。川の岸辺をJR宗谷線が走り、列車が名寄の方に走っていった。のどかである。腰まで浸かって魚釣りをしている人が見られた。佐久の町が見えてきた。今日の予定は、次のカヌーポート、中川町のナホートパークまであと10kmを下るつもりであったが、黒い雲が広がり、また雨になりそうなので、ここで終わることにした。中の島から佐久までちょうど25km、5時間であった。2日間で50kmを下ったことになる。今夜の宿は5日も泊った美深温泉、車で送ってもらう途中から雨が激しくなってきた。
屈斜路へ悪戦苦闘
10月8日
 昨夜はひどい風と雨で台風並。今朝の宿の周りは折れた小枝や木の葉がいっぱい散らばっていた。これでは今年の紅葉は期待できないだろう。それでも雨も小降りになっており、早めに宿を後にする。屈斜路に南下する途中、遠軽町丸瀬布に寄り道し、松浦武四郎研究会会長の秋葉實先生をお訪ねしたかったからである。
 名寄バイパスで名寄、士別からは道央道で塩狩峠を通り比布へ、層雲峡線で上川までは内陸部のせいか風も弱く雨も小降り、快調に走れた。ところが旭川紋別自動車道に乗りオホーツク方面に向うと雨がかなり降ってきた。白滝のあたりでは、川には濁流が流れ、畑や牧草地が冠水していた。それでものんきに紅葉を楽しみながら丸瀬布には予定どうりに到着。
 秋葉先生にお目にかかり、お元気なのを喜んだ。友人の嶋田さんという女性の車に乗せてもらいマウレ山荘に向った。途中の森林公園いこいの森にある北海道遺産の森林鉄道蒸気機関車「雨宮21号」が今年はまだ営業しているはずなので、今回それに乗るのを楽しみにしていたのだが、氾濫対策におおわらわの今日は公園は閉鎖、「雨宮21号」はまたしても機関庫の中、残念! 冠水した道路を飛ばし、マウレ山荘では、4人でいつもながらのおいしいランチをご馳走になった。久しぶりにセンスのある食事に大満足、幸せ!!
 屈斜路まで、2時間半もあればといわれたが、早めに出発する。遠軽から北見への最短コースの新道を行こうとしたがルクシ峠が通行止め、佐呂間へ出たがここもだめ、「沿岸部の住民はみんな避難した」といわれる。暗くなってきた。ガソリンスタンドを求めて、生田原から遠軽に戻る。遠軽では、もう進みも戻りもできないから、ここで宿をとるしかないと。困り果てていると、スタンドに来た人が、「留辺蕊ならなんとかいけるのじゃないか」と。行けなくてもともと、そのときはここまで戻ることにして、留辺蘂にむかう。幸運なことに留辺蕊までどうにか到着し、北見、美幌峠を越えて屈斜路に着いたのは8時であった。
阿寒湖まりも祭り 
10月9日
 風は強いが、曇天で時々日差しもある。
屈斜路は慣れたところ。アイヌ民俗資料館に顔を出し、友人の磯里博己さんにマイタケと山ブドウを探しにコタン山に連れて行ってもらった。午後は仁多の知人宅に寄り、阿寒湖へ走った。
 阿寒には4時半に着いた。祭りが始まるまでの3時間の寒かったこと。祭りは、丸木舟に乗った若者によって運ばれたまりもを迎える儀式から始まった。湖畔には篝火が焚かれ幻想的な雰囲気であった。その後コタンまで30分、松明行進があった。私たちも松明を持たせてもらって行列に加わった。歩いているとき、「あれっ、○○さんじゃないですか。私、一昨年の屈斜路でのイチャルパのとき、コテージに泊めていただきました。」という帯広の女性に声をかけられ驚く。はじめてではないが、私はこの松明行進が大好きだ。コタンの広場では各地の踊りが何曲も披露された。踊っていた阿寒の知人や札幌ウポポ会の知人を見つけ再会を喜んで話した。白糠の弓の舞を踊っていた若者にも「昨年はお世話になりました」と声をかけられた。借りていたコテージに一夜泊めただけなのに、よく覚えていてくれたと感激する。帯広の2人の青年の「剣の舞」も素晴らしかった。こうして伝統文化を受け継ぐ若者を見るのは、実に頼もしく嬉しいことだ。阿寒にもたくさんの知人がいるが、そのうち10人ほどと話をすることができた。故郷を遠く離れたこの地で「あれっ、○○さん、来てたの、しばらく」と声をかけられるのは不思議な気持ちでなんともおかしくなったことであった。屈斜路に着いたのは11時を過ぎていた。
別海へ
10月10日
 快晴である。摩周湖に上る。斜里岳は見えなかったが摩周湖はやはり美しかった。昨日尋ねた仁多の知人宅はご主人がお留守だった。今日は車を見つけ、挨拶に寄る。その後、広大な牧場主である別海の知人宅を訪ねた。ご夫婦ともお元気で再会を喜びしばらく話し込む。牧場ではたくさんの牛がのどかに草を食んでいた。別海は広い。古くからの交通の要所である奥行臼に行った。旧国鉄奥行臼駅、奥行臼駅逓、別海村営軌道、山藤の松などを見学した。駅逓とは、宿泊施設を備え、馬を飼育して人馬継立をし、郵便業務をも担った北海道独特の制度で、辺地の道路交通補助機関であった。それは、北海道開拓の歴史を物語るものである。次いで「第一次伊能忠敬測量隊最東端到達記念柱」の建つ地を訪れ、さらに一本松を見に行った。
 最も美味しいといわれる西別のサケを購入したいと西別漁港に行った。ところが、先日の台風並の突然の大風で定置網が流されたり破れたりの大損害の復旧にてんやわんや、それどころではないと。知らぬこととはいえ、悪い時に来てしまった。それでも20日過ぎでよかったら送ってあげるとのこと、申し訳ない気持ちでお願いした。おいしい食事をと楽しみにしていた白帆さんも閉まっていた。
帯広へ
10月11日
 阿寒の方へ向かい、オンネトーに寄る。そのままモアショロ原野のダート道を走る。途中一時激しい雷雨にあう。シオワッカを見て、ラワンブキの里ラワンを通り足寄へ。ここから道東道で池田、音更、帯広を通り、帯広百年記念館に着いたのは昼過ぎであった。ここに来たのは「アイヌ語地名を歩くー山田秀三の地名研究からー」の特別展を見るためである。展示もさることながら、山田秀三先生を、私たちの友人の大叔父である八重九郎エカシが案内するビデオがあり、それがとても興味深くていつまでも見入っていたことであった。
 今回の北海道の旅最後の宿は、有名な北海道ホテルを選んだ。アールデコ様式の建物、結婚式場となるチャペル、広いロビーの壁面は漆喰で、ナラの木を使った階段、建物に用いられるレンガはすべて十勝製、北海道の先住民族アイヌの伝統的な模様を描いた外壁、木製家具調度品を備えた客室はそれぞれ個性があるそうで広い。露天風呂を備えた温泉は、北海道遺産のモール温泉。食事はいうまでもない。前回泊った時は和食だったので、今回はテラスレストランで、美味十勝テロワールディナーを。そのおいしかったこと、絶品であった。また当ホテルの社長は松浦武四郎コレクターとして有名で、フロント壁面には松浦武四郎奉納「北辺図」(京都北野天満宮と上野東照宮に奉納した銅鏡の拓摺り二幅対)が掛けられていた。帰りに、1860年(安政7年)春作成の松浦武四郎の手による初版地図「蝦夷山川地理取調大槻図」など数点を見せていただいた。
日勝峠越え千歳へ
10月12日
 いよいよ最終日、快晴である。富良野を通って道央を行くコース、道南の海岸を行くコースなど考えたが、今日はゆっくりと最短コースを行くことにした。
 ダケカンバの白い幹が青い空に映える快晴の日勝峠を楽々と越え、ダムになっているニセクシュマナイ橋のところで休憩をとる。紅葉がすばらしく美しい。日高道の駅に寄り、石勝樹海ロード、三山国道を通り、夕張から道東道、千歳へ。
 千歳ではサーモンファクトリー「ちとせサケのふるさと館」を見学した。千歳川にはインディアン水車があり、近くの千歳橋には松浦武四郎のレリーフがはめ込まれていた。
 19:10分発の飛行機には随分時間があったので、ウトナイ湖まで足を延ばすことにした。ラムサール条約に選定された湖である。ここには早くもマガンや白鳥が来ており、宮島沼ほどの数ではないし、また夕焼けでもなかったが、青空の中を渡るたくさんのマガンを見ることができた。
 長いようでもあり、短くも感じられた今回の旅であったが、忘れられない充実した旅であった。

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