伊賀街道・奈良街道を歩く

伊賀街道
奈良街道を歩く
 伊勢平野の真ん中に位置するわが町・松阪は、古来より交通の要衝で、参宮街道(伊勢街道)、伊勢本街道、和歌山街道、和歌山別街道、熊野街道、初瀬街道、奈良街道(伊賀街道)など大きな街道が通っている。私は1つを除きすべての街道の全行程を歩き通した。残っている1つは奈良街道(伊賀街道)である。是非ここを歩き、松阪を通る街道歩きを完成させたいと思った。

 伊勢国と伊賀国にまたがる伊賀街道は、津から橡ノ木峠(長野峠)を越えて上野に至る全長12里(50km)の街道で、月本の追分を起点とする奈良街道(伊賀越奈良道)と重なる。この街道は、京、大和、山城方面と伊勢神宮を結ぶ参宮の道としての性格を備えた地方路に過ぎなかったが、慶長13年(1608)に藤堂高虎が伊勢・伊賀二国の大名として移封され、津を本城に、伊賀上野を支城にしたため、津を起点に藩のふたつの拠点を結ぶ津藩内の最も重要な官道として整備された。またこの街道は、津方面からは水産物や塩が、伊賀方面からは種油や綿などが津へ運ばれ、その一部は江戸まで船で運ばれるなど、伊賀・伊勢両国の物資や人が行き交う経済・生活の大動脈としての役割も担っていた。
 

松阪市中林町月本の追分から五百野まで
 月本の追分に立つと、巨大な常夜燈と道標に圧倒される。ここは参宮街道(伊勢街道)と奈良街道(伊賀越奈良道)との追分である。道標には「月本おひわけ」「左いがご江なら道」「右さんぐうみち」と深く刻まれている。奈良街道を進む。道は拡張舗装され、新しい住宅もたくさん建ち街道の面影はない。集落の名前を言って道を尋ねてもほとんど通じない。ちなみにこの日は田植えなどの農作業をしてみえるお年寄りがあちこちにいらして、道を尋ねると仕事の手を休めて丁寧に説明してくださり申し訳ないと思いつつもありがたかった。小村を過ぎJRの踏切を渡ると、新屋庄(にわのしょう)の入口には6体の地蔵様等と自然石の道標が立っていた。新屋庄神社の参道入口の鳥居の下には立派な石仏と地蔵像2体が祀られていた。しばらく行くと右手に川原木造の集落が見えてきた。おそらくこの集落を越えたところに雲津川の渡しがあったと思われるが、大正橋を渡るため、そのまま進む。道下の大木の根元に幣をめぐらせた小さな祠が祀られていた。雲津川は水量の多い大きな河川であり、河川敷には広いスポーツ公園があった。大正橋も長い長い橋であった。堤防の下の道を道なりに進む。キャベツの収穫をしてみえた方に尋ねると、旧道はJRの線路のあたりを通っていたそうだ。牧町への入口を教えていただき田の中の畦道を行く。小さな川を渡ったところにほとんど土に埋もれた「左な」だけしか見えない道標があった。少し坂を上がったところにも道標、これには「右ならみち 左さんぐうみち」と刻まれていた。また町の出口のところにも同様の道標が立っていた。川方には天満宮があり、二基の古い常夜燈があった。やがて久居の中心部へと入っていく。元町の大きな道標は民家の庭の中にあった。本町の道標は残念ながら上半分が折れていた。門屋道標はどう探しても見つからなかった。旅籠町を直角に曲がると万町で美しい家並みが連なっていた。道の少し奥に子午(とき)の鐘があった。この鐘はもと武家屋敷の中大手町に元文元年(1736)に造られたそうだ。街道は久居陣屋の北側を回るように作られている。久居藩は津藤堂藩の分封で、久居陣屋の建設は寛文10年(1670)である。道が左折する中町には大きな地蔵堂があった。旧道がなくなっているので道なりに迂回し伊勢自動車道の下を潜る。次の集落は戸木(へき)の街並で、ここは天文23年(1554)、北畠氏家臣の木造具政が戸木城を構築したところだ。戸木のはずれに常夜燈があるとのことで探したが見つからなかった。稲代橋を渡ると羽野でここには常夜燈があった。庄田に入ると、立派な自然石の道標が建っていた。国道16号を渡ったところで、知り合いの食堂で昼食をとった。
 そのまままっすぐ進むと庄田の沓掛で、道の両側に山神が祀られていた。その先道を右にとったところが加村で、石造地蔵菩薩立像が立派なお堂の中に祀られていた。村の出口にはこれまた立派な常夜燈があった。信号を渡り水田の中の道を行く。少し離れた林にはあちこちに藤が今花盛りでなんとも長閑であった。教えてもらった黒い橋を渡ると、多野田・下稲葉である。街道を少し離れたところに常夜燈があった。稲初橋を渡って行くと北出である。ここにも大きい常夜燈があった。そのまま進むと三軒茶屋で、ここには常夜燈と道標が建っていた。ここは奈良・上野方面から伊勢へつながる最短の街道「奈良道」と津から上野への伊賀街道が合流するところで、伊能忠敬も測量のために宿泊したと記録にあるそうだ。道標には「右さんぐう道・すぐ津道・左なら大さか道」と刻まれており、天明6年(1786)とある。国道163号の五百野吹上のバス停は目の前である。しかしこの日はあいにく祝日で、バスはあと2時間近く待たねばならない。申し訳ないと思いつつSOS、救援の迎えを夫に頼んだ。
津から平木まで
 津城は天正8年(1580)織田信長の弟信包によって築城され、慶長13年(1608)藤堂高虎が大改修を加えた典型的な平城である。ここを出発し伊賀街道を旅する。津の本城と伊賀上野の支城を結ぶ津藩内の最も重要な官道である。八町の通りをまっすぐに進む。途中に慈眼院観音寺があり、山門を潜るとすぐのところに子安地蔵尊と琴平大権現が祀られていた。また行くと格子戸を開けると六阿弥陀が祀られているところもあった。国指定史跡になっている国語辞典の先駆「和訓栞」の著者・谷川士清の旧宅があったので立ち寄って見学させてもらった。安濃川の蛇行に沿って曲がった納所橋のたもとに延命地蔵尊が祀ってあった。そのまま進むと街道の名残の大木が堂々たる姿で立っていた。さらに行くと川幅が広くなる。このあたりが「さんし」と呼ばれた堤防が一段低くなっているところで、城下を洪水から守るため造られたもの。大水の時はここを切って岩田川に水を流したという。川岸に樹木が茂っているところがあり、サギのコロニーになっているのかたくさんのサギの群れが見られた。道を直角に曲がり野田に入ると「新四国霊場八十八カ所 此ヨリ三丁」の石柱が立っていた。伊勢自動車道の下を潜り田尻橋のところまで行くと街道が消えているので迂回する。少し離れたところに平忠盛誕生の地に塚があるのが見えた。街道沿いに私の実妹の家があるので立ち寄った。さらに行くと八乳合神社があり、鳥居の脇に山の神が祀られていた。木陰で例によって持ってきたおにぎりを食べた。
 片田・前田宿に入った。古い町並みが残されており、町垣内と呼ばれ宿場の問屋場や札場のあったあたりには白壁の土蔵があちこちに見られた。堂々たる風格の旅籠屋「徳田屋」もあった。他にも「野田屋」「久保屋」「片田屋」「伊賀屋」などがあったという。橋を渡ると、光善寺・薬師堂・観慶寺への方向と距離を示す道標があり、近くに常夜燈もあった。吹上坂を登っていくと五百野である。ここで奈良街道(旧伊賀街道)と合流する。街道は残っていないので少し迂回すると合流点に前に見た天明6年(1786)の道標と天保3年(1832)の常夜燈が建っている。道なりに行くと「従是南一志郡」の石柱があり、その先に「右さんぐう道 右津道」の自然石の道標があった。国道163号とは少し離れた細く曲がった街道を歩く。道の角に御神燈の台石が残っており、上に小さな祠が祀られていた。その奥に西方寺が見える。国道に戻り少し進んでまた離れる。延命地蔵尊・供養塔・一石五輪塔は国道沿いに移されていた。足坂の東に文政10年(1827)の御神燈と万度石、そこから300m西にも御神燈と万度石があった。またしばらく国道を行き離れる。御神燈と供養塔の建つ街道を行き長野川を新開橋で渡り、新開は街道の名残の細い道を歩いた。再び分郷へと川を越える。橋の下の川に巨大な岩が見えた。ここからはまたしばらく国道である。ここまでも徐々に登って来ていたのだがここからの登りは一段ときつくなる。道の上の観音寺に供養塔二基があった。自然石の六字名号碑や庚申塔などを見ながら長野宿に入る。街道沿いに国指定史跡になっている南北朝期の城址・長野氏城址への案内板があった。ここは交通の要衝だったのである。経ケ峰の中腹にある目無地蔵尊への看板もある。古い家並みのなかには連子格子の家も見られる。石で組まれた防火の役割を果した火除土手の上には「頌徳碑・供養塔・常夜燈」と刻まれた石柱がある。道の脇に小さな馬頭観音が祀られていた。ここからはさらに険しい山道を平木まで登る。しかし木陰があり静かで、道端に咲く野の花に慰められつつひたすら歩く。
平木から三谷まで
 旧街道の峠越えは、世界遺産・熊野古道の峠ならたくさんの人が歩いているが、他の街道ではめったに人に会うことがなく一人では心細い。そこで夫の休暇を利用して同行してもらった。バスの終点の平木で降りた。下見にきた時街道はこの集落を通っているのだろうと登っていった。静かな集落があり、立派な常夜燈が建っていた。しかし街道はここを通らず長野川に沿ってつけられた国道163号を登っていく。この街道は全てほぼ163号に沿っているのである。犬塚のところから国道を離れる。この犬塚には、よく慣れていたはずの犬が吠えかかってきたので飼い主がその首を切り落としたところ、犬の首はそのまま背後にいた大蛇に噛み付き飼い主を救ったという義犬伝説が残る。その横に天保5年(1834)の地蔵尊と供養塔が祀られている。このあたりに明治初年まで人家があったとの記録があるが、現在新しい家が1軒建っている。緩やかな坂道をおよそ30分登ると標高530mの長野峠に着く。伊勢国と伊賀国の国境で、天正9年(1579)、織田信雄が松ケ島城から伊賀攻略に通った峠である。立派な舗装路の林道がつけられていて驚いた。苔むした美しい峠を下っていくと思いがけずバス1台分のツアー客が登ってくるのに出会った。中には腰の曲がった老婦人も・・・歩き慣れている者にとってはたいした峠ではないと思われても、これはたいへんだ。手入れされた杉林と若葉の美しい山道である。街道は一部谷川になっているところもあるがそこを下り、その先街道がわからなくなっているので国道を迂回する。さらに下ると猿蓑塚があった。天明8年(1788)建立の芭蕉句碑である。「初しぐれ猿も小蓑を欲しげなり」の句は、芭蕉が奥の細道の旅を終え、伊勢へ足をのばして遷宮を拝した後故郷上野へ帰る途中にこの山中で詠んだものだとか。ちなみに近くにある温泉「サルビノ」はこの句から採ったそうだ。しばし芭蕉の旅に思いを馳せる。少し下った小高い山中に庚申塔を見つけ登っていった。享保17年(1732)と刻まれており立派なものであった。国道163は今度は服部川に沿う。汁付に入ると五社八幡宮の常夜燈があった。蔦が絡まりなかなか風情があった。その先山際に若葉につつまれた朱い弁天堂が見え美しかった。元町、街道を少し上がったところに旧慈眼寺(神仏分離により寺号を廃し観音堂)があった。本尊は弘法大師作の十一面観音である。境内に、江戸品川遍光寺寄進の正徳4年(1713)の手水鉢、珍しい形の常夜燈、街道から移された慶応3年(1867)の道標・弘法大師碑があった。さらに細く長い石段を登っていくと愛宕社があり、このあたりで最も古いといわれる常夜燈がひっそりと立っていた。慶長20年(1615)のものという。元町のはずれで国道を離れ別府橋を渡る。再び橋を渡り国道に合しわずかに進むと天眞大御神が祀られたところで国道を離れる。平松宿の入口である。伊賀八宿のうちでも最も重要な宿場町の上阿波宿(元町宿)が元禄年間に何度も大火災に見舞われたためその代わりとしてわずか7か月の間に原形ができたという平松宿である。平松宿は宿場町の面影を残している。中でも旅籠屋「いたや」は目をひく。今は空き家だが、御宿いたや、七福神、鯉大橋茶屋をかたどった瓦はすばらしい。慶応2年(1866)の屋根に動物の乗った常夜燈もあった。阿波大仏の自然石の大きな道標のところからも新大仏寺へは行けるのだが曲がらずそのまま街道を進む。服部川に沿う国道に出てから新大仏寺へ戻った。重源上人、建仁2年(1202)創建の真言宗のお寺である。本尊は快慶作の丈六金色阿弥陀如来三尊像。境内に芭蕉句碑「丈六に 陽炎高し 石の上」があった。寺の前にある大山田村郷土資料館に寄った。無料なのにお茶と茶菓子をご馳走になり恐縮した。戻って国道を逸れた川沿いの街道をすすむと小さな祠が祀られていた。国道を渡った大橋茶屋跡に、「左京なら大坂道」正面に「南無阿弥陀仏」の大きな自然石の道標、その横に「から傘に 押し分け見たる 柳かな」の芭蕉句碑があった。橋を渡り、街道は国道を離れ蛇行する川に沿う。川向かいに山の神3基があり、その上に毎年1月の山の神カギヒキ行事に使う藁が掛けられているそうだが今の季節はなかった。須原の外れに祠と「右なら道」の道標があった。しばらく国道を進み正覚寺を過ぎたところでまた離れる。途中に大きな観音堂があった。国道はこの先切り通しの立派な道になっているが、街道は大きく蛇行する川に沿って進む。昔、椎の木岩伝いと呼ばれた難所である。国道を進むと小さな集落があり、ここが三谷である。次の集落までは時間的に無理と考え、20分ほど待ってバスに乗った。
三谷から上野(城)まで
 三谷までは何度か交通機関を乗り換えねばならずたいへんなので、早朝夫の出勤前に車で送ってもらった。長野峠を分水嶺として盆地の中を西に向って流れる服部川に沿ってどんどん下る。五月の風がさわやかで心地よい。木の館のところで国道を離れて進む。出後橋のところで街道は二手に分れているが川向の道がおもしろそうなので橋を渡ることにした。渡るとすぐ川沿いに桜並木があり、反対側に墓石のない墓地「さんまい」があった。しばらく行くと自然石の巨大な常夜燈がでんと建っていた。途中街道が消えているので大山田教育センターのところを周って大山田橋を渡る。ここから美しい町並みを残す平田宿に入る。宿の入口に、榎の大木があり、その下に水神社の祠が祀られており、道の反対側に嘉永5年(1852)と刻まれた水神碑が立っていた。曲がると植木神社。寛永元年(1624)ごろ、悪疫退散のため始められたという植木神社祇園祭は県指定無形民俗文化財だという。境内には「枯芝や ややかげろふの 十二寸」の芭蕉句碑があった。平田宿には、古い屋号の家、連子格子の家が残っている。東町だんじり小屋、祇園祭の時にはせえくろ餅を作るお菓子屋つばや、札の辻、津島神社、今も営業を続ける旅館梅屋、西町だんじり小屋、祇園祭のときのお旅所となる八王子社跡などを見て歩く。小さな川を越え次の集落に入る。入口の大木が目印である。水神碑を見るために街道を離れて川のそばに出た。そこには龍神碑、地蔵、庚申塔が祀られていた。そして街道へ戻る。街道はこのまま進み1kmほどで簡単な橋がかかっていたのを対岸に渡ったのだが今は橋がないので、真泥大橋を渡る。橋から見える川岸が化石を含んだ地層だという。はるか古代このあたりには古琵琶湖があり、その地層からゾウやワニの足跡が発見されたそうだ。服部川は水量豊かで滔々と流れている。堤防上の道、川沿いの街道はのどかで気持ちがよい。あちこちで雲雀の声が聞こえる。小さな中之瀬の集落の外れで初老の女の方に荒木へ通じる街道を訪ねた。「一人で行くの?歩いてなら通れるけど、気をつけて!」 わずかに踏み跡が残るだけの草道に少しためらうが行くしかない! 道はますます細くなり、蜘蛛の巣をはらいながら進む。この山道によく目を凝らして探すといくつかの磨崖仏が彫られている。江戸末期の目明かし地蔵、文殊立像、持錫地蔵立像、「太神宮□□□」と刻まれた太神宮岩、弥勒坐像が次々に現れる。反対側を覗くと川ははるか下の方を流れている。かつては底なし淵と恐れられた山伏淵である。湧き水が流れているところを過ぎると、室町時代末期に作られたという小石仏三基、小石仏一基、さらに一つの石に並んで彫られた六地蔵があった。この間いろいろあって1kmあまりであろうが探すのに夢中で1時間ほどかかった。しかし勿論人っ子一人通らず、時折ギギィ、ギギィと木や竹の擦れあう音、あまり気持ちのよいものではなかった。荒木石の石切り場を過ぎると荒木の里。荒木集落を流れる川にはたっぷりと水が流れ、そばに建つ家並みが美しい。須賀荒木神社があり、その境内にびっくりするほど巨大な燈籠が建っていた。また「畠うつ音やあらしのさくら麻」の芭蕉句碑があった。荒木又右衛門出生伝承の地である竹薮も見た。寺田橋のたもとに、荒木又右衛門誕生記念碑、太神宮常夜燈、大釜地蔵(複製)が並んでいた。西明寺には小さな山の神が祀られいよいよ上野の城下町に入る。寛政11年(1769)の太神宮常夜燈と子安地蔵尊が迎えてくれる。菅野酒蔵、連子格子・虫籠窓の家を見ながら行くと、とうとう目的地の伊賀街道起点の地に着く。大和街道はここから始まる。その分岐に「すく 京 大坂 なら はせ道」の道標が建っていた。
 早朝に出発したので午前中に到着した。そこで、松尾芭蕉ゆかりの地を訪ねることにした。まず愛染院に行き、芭蕉の遺髪を祀る故郷塚に詣でた。「家はみな杖にしら髪の墓参り」「数ならぬ身となおもひそ玉祭り」などの芭蕉句碑、門人などの句碑多数、記念碑、「偲翁碑」などが建っていた。次に芭蕉翁生家を訪れた。生家の後園に建つ釣月軒は若き日の芭蕉翁の書斎(草庵)である。「古里や臍の緒に泣く年の暮」 また同所の伊賀の芭蕉五庵の一つ「無名庵」跡には「冬籠りまたよりそはん此はしら」の句碑が建つ。 寺町を通り、茅町にある蓑虫庵へ向った。芭蕉翁五庵の一つ「蓑虫庵」は蕉門伊賀連衆服部土芳が結んだもので、その名は「みの虫の音をききにこよ草の庵 芭蕉」からとってある。ここには服部土芳供養墓所、芭蕉堂、わらじ塚、若菜塚、「よく見ればなづな花咲く垣ねかな はせを」に因むなづな塚、みの虫塚、「古池や蛙飛こむ水の音 はせを」に因む古池塚などがある。中之立町通りを武家屋敷を見ながら歩き、上野城へ上がった。津藩主藤堂高虎が築城し、白鳳城とも呼ばれる城である。今も残る約30mの内堀の石垣は日本一の高さを誇る。続いて俳聖殿、芭蕉翁記念館を見て公園を出た。そして前にあるだんじり会館も見学し上野市駅に来ると、大きな芭蕉翁銅像が建っていた。午後4時間ほどかけて上野市内を5kmほど散策したことになり、充実した1日であった。

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