参宮街道をいく(東海道七里の渡しから日永追分まで・伊勢街道日永追分から伊勢神宮まで)

参宮街道をいく
東海道・七里の渡しから日永追分
伊勢街道・日永追分から伊勢神宮
 
 退屈を託っていた私は、夫が1998年に歩いた伊勢街道を歩いてみようと思いたった。
 伊勢街道は松阪に住む私にとって最も身近な旧街道である。いままで伊勢本街道、和歌山街道、菅笠日記の道など夫と二人で歩いてきたが、最も身近な伊勢街道に挑戦しなかったのは、私が在職中、1年早く退職した夫がここを歩いていたからに他ならない。
 今年、夫が職を得て、毎日家に閉じこもりがちな私であったので、それではと一念発起し一人で歩いてみようと思った次第である。
 伊勢街道は、四日市の日永の追分から伊勢神宮に至る街道であるが、かつて夫がそうしたように桑名の七里の渡しから東海道を南下して日永の追分までも歩くことにした。それでもすでに歩ききった街道に比べれば距離にしたら3分の1にも満たないと思われるし、街道は比較的よく残っている、しかも平坦、かなり楽なルートと思われる。さあいざ出発!!
 張り切って出たもののどうも一人で黙々と歩いていてもおもしろくない。あれこれ話しながら歩くと時間はかかるがはるかに楽しい。結局半分ほどの行程は夫につきあってもらっての二人旅となってしまった。

    いにしえ息づく 時の道で
      変わりゆくもの 変わらぬもの
      たどりめぐりて ふたたび出逢う
                面影をこの心に
                     新日本紀行より
    

七里の渡しから四日市宿まで
 東海道を伊勢街道の始まる日永の追分までつなぎたいと七里の渡し跡に立った。水路(堀)には小さな舟がたくさん繋いであった。大きな水門があり、その横に水門統合管理所があって「2階の展示室を是非見ていってください」とお誘いをうけたので、見せていただいた。尾張の宮の宿より海路七里の渡しがあったところだ。天明年間に建てられた伊勢神宮一の鳥居や安政3年(1856)と刻まれた常夜燈があった。さすが東海道の大きな渡し場だけあって、今も営業を続ける料亭が多い。中でも大塚本陣だったという船津屋、この裏庭からは直接乗船できたという。脇本陣「駿河屋」はその一部が料理旅館「山月」となっている。いずれも堂々とした構えだ。北大手橋、江戸時代の水道井戸の跡だといわれる通り井では、道の真ん中に「井」と書かれた石が埋め込まれていた。青銅鳥居は寛文7年(1667)に作られたもの。「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱女郎」と謡われた桑名の代表的産業である鋳物産業のシンボル的存在だそうだ。なおこの歌は「山月」の前に碑に記されている。横に「志るべい志」「おしゆるかた」「たづぬるかた」と刻まれたしるべ石は行方不明の人を探すための伝言板。町のいたるところに、復元されたもの、東海道の標識や案内板が立っておりたいへん分りやすい。ここまで来て見忘れた歌行燈の句碑がどうしても見たくなり、渡しのところまで約300mを戻った。それは料亭船津屋の塀の外側にあり、泉鏡花の「歌行燈」を戯曲化した久保田万太郎の句「かわをそに火をぬすまれてあけやすき」が刻まれている。
 春日神社のところまで戻り直進すると南大手橋が見える。桑名は東海道四十二番目の宿駅であり、桑名藩の城下町であり、木曽三川の河川交通、伊勢湾の海上交通を担う港町であり、一の鳥居を擁する伊勢路の玄関口でもあった。桑名城の城壁が残っていた。ここを右折して広い通りへ出ると「左 江戸橋」「右 京いせ道」と刻まれた石造の道標があった。道路を横切りさらに行くと毘沙門堂がありその向こうが京橋、このあたりは桑名城の外堀にあたるそうで街道は升形に曲がっていた。少し戻り右折し進むと江戸時代からの石屋石市や廣房刃物店があった。ここ鍛冶町には多くの鍛冶屋があったそうだ。道は微妙に鈎の手に曲がっていた。教宗寺、七里の渡し船が遭難した際に亡くなった旅人の供養碑が残る光明寺、法盛寺、光徳寺、天保3年(1843)の「左ふなばみち」「右きょういせみち」の道標がある泡洲八幡社、十念寺、寿量寺など多くの寺が続く。日進小学校のところでまた鈎の手に曲がっていたそうで入ってみたが街道はなくなっていた。ここを曲がって西へ進む。
 寛政12年(1800)「善光寺一分身如来」「世話人万屋嘉兵衛」の標柱があり、道の反対側に「左東海道渡船場道・・・」「右西京伊勢道・・・」の道標、その向かいに金属工業の神様一目連神社、明円寺、教覚寺、善西寺、立坂神社石造鳥居、江戸時代人夫が駕篭などを留めて休憩した矢田立場、火の見櫓が復元されている。立場というのは宿駅と宿駅の間や景色のよいところにある茶屋のことである。馬をつないだ鉄環が残る連子格子の家もある。現在もつり鐘などの鋳造所があり店の前に大きな釣り鐘が置いてあった。ここまで見るべきものが多くゆっくりしていたので2時間もかかってしまった。
 角を曲がると神戸岡神社、了順寺、城南神社、晴雲寺がある。連子格子の家が見られる。今でも東海道は歩く人が多いのか、「東海道」の看板、新しい道標がたくさん設置されていた。やがて員弁川のほとりに出た。安永餅店「玉喜」、文政元年(1818)の常夜燈、「従町屋川中央北桑名郡」「距三重県庁舎拾一里□町余」の石造里程標、樹齢二百年以上、しめ縄がはってある楠の大木、町屋橋跡がある。員弁川を町屋橋に迂回し渡った。川を渡ると真光寺が見えてきた。伊勢朝日駅のところで近鉄名古屋線の線路を越える。
 だらだら坂と呼ばれる坂を上っていくと、浄泉坊、西光寺がある。昔は朝明川まで続く並木道で追い剥ぎが出没したという。また侍が試し切りをしたため夜遅くに通るのは危険であった。しかしふと街道横の小川を覗くとオタマジャクシ、ドジョウ、カワニナ、メダカ、ハヨ、フナがたくさんいた。また久しぶりにオハグロチョウも見た。自然がいっぱい残っている。感動だった。堤防のところに「多賀神社常夜燈」「五穀成就」と刻まれた弘化3年(1846)に作られた常夜燈があった。朝明川の橋の上から覗くとここにもたくさんの魚が群れていた。驚きだった。御厨神社の前を通りどんどん進む。長明寺を過ぎ、JR関西本線、三岐鉄道の高架を潜り、再び近鉄名古屋線の高架を抜け小さな一里塚橋を渡ると、富田一里塚跡石碑があった。八幡神社址がある。直角に曲がってしばらく行くと広大な善教寺があった。橋を渡ったところに天保16年(1845)の常夜燈があった。薬師堂、延命地蔵を見ながらいく。常照寺の角に力石があり、続いて證圓寺、また右折してどんどん行くと川の側に常夜燈が建っていた。案内所に2本の元気な松と書いてあったが今は1本だけになり、名残松と記されていた。志氏神社には享保10年(1725)の鳥居や文政元年(1818)・天保10年(1840)の常夜燈があった。光明寺を過ぎたあたりでまた曲がる。多度神社の前を通り桜堤へ出ると立派な一里塚跡の碑が建っていた。三ツ谷一里塚跡である。海蔵川は海蔵橋に迂回して渡る。三角州を横切り三滝川を越えると、天文16年(1550)創業、街道名物なが餅の老舗笹井屋があったので、私も家へのお土産として買ってきた。「すぐ江戸 京いせ道」と刻まれた道標のところから街道は途切れているので少し迂回し国道1号線を横切ると目の前に諏訪神社がありアーケードのある商店街の中。ここは四日市宿の横断幕がかかっていた。中央通りに出ると近鉄四日市駅は目の前であった。
四日市から日永の追分まで
 近鉄四日市駅から歩き始めた。街道は幹線の国道1号線からわずかに離れた静かな通りである。店も殆どなく今はしもた屋が続く。近鉄名古屋線を跨ぎ内部線に沿って歩く。連子格子の家の前の小さな祠にお地蔵さんが祀られていた。赤堀駅の前を通り小さな川を2つ越えると、日永最古の神社といわれる大宮神明社の鳥居と石燈籠が見えてきた。しばらくで寛政年間建立の「水沢は藍より出て紅葉かな」「猿丸太夫名歌古跡水沢是より三里」と刻まれた道標があった。
 興正寺、また川を越えて踊りながら太鼓を打ちならす「つんつく踊り」の両聖寺、日永神社、薬師如来坐像を祀るお堂、西唱寺と続く。一里塚阯の石標柱があったとのことで何人かの人に聞いて探すが見当たらなかった。このあたりは茶屋,宿屋、味噌屋、桶屋、酒屋、両替屋など多くの店が並んでいたというが今はその面影はない。また300mも続く松並木があったそうだが現在は1本だけが残っていた。街道名残松である。ほどなく日永の追分に着いた。
日永の追分から白子まで
 いよいよ伊勢街道である。今日は続けて歩く。日永の追分は、東海道と伊勢街道の分岐点で、常夜燈や道標がある。嘉永2年(1849)の道標には「左いせ参宮道」「右京大坂道」「すく江戸」と刻まれている。
 賑やかな通りを行くと街角に道標四基が立っていた。やや迂回し河原田橋で渡って街道へ戻ると石の距離標があった。真ん中で折れ継ぎ足したようなそれには「津市六里三十二町以下」と刻まれていた。やがて河原田神社の大きな鳥居が見えた。近くに自然石の庚申塔八基があるそうで見たかったが今日は目的地までかなりの距離があり諦めた。JR関西本線の高架下を潜ると寛政11年(1799)の常夜燈があった。鈴鹿川は迂回して長い高岡橋を渡った。堤防に「太神宮常夜燈」と刻まれた文化4年(1807)の常夜燈があり、点灯のために石の階段がつけられていた。ここからは古代条里制の面影が残る畦道で長い一直線の道である。道の途中に文化14年(1817)建立の常夜燈があった。やがて神戸の見附。街道の両側に石垣とそれに続く土塁が築かれ、石垣には木戸を支えた溝が残る。参宮の旅人等を監視する番所が置かれ、夜間には木戸を閉じて通行を禁じ、町の治安を守ったといわれる。市指定史跡である。「式内阿自賀神社」の社標も残っている。また旅籠屋「かみ亭」をはじめ連子格子の家も数軒残っている。大橋を渡ると、「東海道中膝栗毛」の中で「安穏に火よけ地蔵の守るらん、夏のあつさも冬の神戸も」と詠まれた宝珠山地蔵院、高札場のあった札の辻、「距 津市元標五里参拾四町参拾六間・・・」と刻んだ神戸道路元標がある。このあたりは城の守りに寺を集めた寺町ともいうべきところか寺がたいへん多い。真宗高田派別院、願行寺、萬福寺、浄願寺等を見ながら歩く。街道ガイドブックに、少し奥まったところに常夜燈があると出ていたので、人に尋ねて探しに入った。それは嘉永2年(1849)建立のもので、竿部分だけが残されていた。近くに元禄2年(1699)の「右いなふ道」「左志ろこ道」と刻まれた道標もあった。街道に戻ると、大きな常夜燈、嘉永4年(1851)の道標もあった。目的地に着く目安もたってきたので、また少し街道を逸れた。露坐の大日像が残る大日堂跡へ立ち寄るためである。すぐ前に円柱が立っていた。「寛治元年(1087)」「鎌倉権五郎之塚」と刻まれていた。伊勢鉄道を渡ると山ノ神・鳥居・燈籠があった。町の外れに、道標と山ノ神・鳥居・燈籠、また次の集落にも山ノ神・鳥居・燈籠、この隣には天白社があった。天白とは伊勢神宮のことであるそうだ。やがて正信寺という大きなお寺。その道端に文化4年(1807)の丸い自然石に「右さんぐう道」と深く刻まれた道標。少し離れて「左さんぐう道」と刻まれた元治2年(1865)の道標。式内弥都加伎(みずかき)神社の角を曲がる。丸い自然石の道標があった。また村の出口に山ノ神・鳥居・燈籠があった。フジクラ鈴鹿工場の前を進む。まわりには団地が広がっている。ここにも名残松があると聞いて尋ねたが、今はもうなくなったのか誰に聞いても分らなかった。
 近鉄名古屋線の踏切を越える。鎌倉時代のものといわれる北の端の地蔵、役行者神変大菩薩が祀られている。このあたりの家の建ち方は直線でなくギザギザになっている。防御を目的とした武者隠れのある町づくりである。目的地はすぐそこ、江戸時代初期の絵馬が多く保存されているという江島神社へまわった。文政3年(1820)の常夜燈があり、江戸時代このあたりは海岸に近く、白子港に出入りする廻船の目印や灯台の役目を果したという大きなものであった。街道に戻ると江島神社の社標。街道のところどころに連子格子の家が残っていた。角を曲がっていくと白子駅だ。
白子から江戸橋まで
 白子駅から東に向かい旧河芸郡役所跡の碑のあるところで街道と合流し歩きはじめた。今日は夫と二人である。久留真神社、唯信寺と見て「さんぐう道」の道標を曲がる。小さな橋を渡ったところで右折すると正面に名刹子安観音寺が見える。境内に県指定文化財の楼門,銅燈籠、国天然記念物の不断桜があった。道は武者隠しように曲がりくねっていて弘化4年(1847)の「左くわんおん道 右さんくう道」と刻まれた道標や「左いせみち」の道標が残っていた。この道標の頂上部分と北面のすりへったくぼみは、伊勢型紙の型彫りに使う砥石をならした跡だという。
 堀切川の左岸に沿いしばらく上って橋を渡り今度は右岸を行き川を離れると国道と平行した一本道である。途中街道少し奥に八幡神社、専照寺が見える。さらに橋を渡り国道を横切って反対側を行く。甕釜冠(かめかまかぶり)地蔵堂という珍しいお堂があった。参宮道者の無事を祈願し茶を接待した休憩所で屋根上の露盤の代わりに瓦製の竈を置き、その上に宝珠の代わりに水甕が伏せてある。本福寺の前を通り、尾前神社の参道を見ながら行く。千里駅手前で線路を渡り国道を横切る。田中地蔵の角を曲がり再び川を渡る。切妻連子格子の家、上野神社参道、最勝寺があり、虫籠窓・連子格子の立派な造りの家も見られる。このあたりが宿場の中心街で、本陣、高札場、問屋、脇本陣などがあったという。弘法井戸が残っていた。
 満流寺、光勝寺と見ながら河芸町役場の前で国道を横切る。高山地蔵尊のあるあたりは上野城時代に罪人を処刑したところだそうだ。国道に沿ったまっすぐな街道である。ぢ神神社がある。このあたりは寺・神社の多いところだ。また国道を横断し、地蔵堂、逆川神社と続く。次の地蔵堂のところで街道は途切れるので少し迂回する。またまた国道を渡り、巡礼道を合わせるあたりに、天保10年(1839)の大きな両宮常夜燈、名残松、道標がある。さらに行くと、地蔵堂、嘉永4年(1851)の自然石でできた大きな常夜燈があった。しばらく国道に沿っていくと今日の終点江戸橋である。江戸橋の上で、公害パトロール車が止まり月に1度水質検査をするとのことで、バケツを下ろし水を汲み上げていた。
江戸橋から高茶屋まで
 つきあってくれた夫とふたりで歩いた。
 江戸に向う藩主の見送りもここまでということで江戸橋と命名されたという木造の橋のたもとに、安永6年(1777)の常夜燈と道標がある。ここが伊勢街道と伊勢別街道の追分である。
 蔵のある家の前を通り街道を進むと深正寺、光蓮寺があり、津市指定文化財となっている醸造業の大店・阿部家の前に出る。なんとも幸運なことにちょうど家から出てらした奥様が私たちの姿を見て「どうぞお入りください」と言ってくださった。同家は公開されているのだが、この日は公開日ではなくしかも予約が必要なのにである。広大なお屋敷で千本格子、高塀、雨除けとして軒先に下がるおおだれ、防火用の袖塀で繁栄のしるしでもある卯建、貴賓用の隠し木戸が見られる。座敷に上がらせていただくと、銀箔押しの襖を用いる付書院のある座敷、糸巻きを象った彫刻のある欄間など贅をつくしたものであった。本居大平の掛け軸、津藩の藩政に大きな影響力をもった幕末の学者で津藩に種痘を広め松浦武四郎とも親交のあった斉藤拙堂の書、三条実美の書、屏風や襖にも立派な書画の数々、時間を忘れて鑑賞させていただいた。こんな幸運はやっぱり歩いてこそと感無量なひとときであった。
 善徳寺の前を通り安濃川の近くまでいくと四天王寺がある。境内に薬師堂や太子堂がある。寺記に「用明天皇の御宇に聖徳太子物部守屋を討ちて四箇所の天王寺を創建せらる。本寺即ちその一なり」とある古刹。四天王寺山門、北向地蔵、目洗地蔵などもあった。
 安濃川(塔世川)は軍事的目的から橋が架けられなかったが、延宝3年(1675)に架橋された。幕末までは土橋で河原へ降りて橋を渡ったという。川で石積みをして網で囲い鰻を捕っていたのでおもしろく見ていた。
 塔世橋を渡り国道を離れてしばらくで恵日山観音寺である。日本三大観音の一つといわれ、藤堂高虎の祈願寺でもあった。仁王門、如意輪観音堂、天保7年(1836)の銅製水盤、寛永5年(1628)の銅燈籠、嘉永6年(1853)の鉄製樋受、元和3年(1617)の銅鐘などがあった。すぐそばに「右さんぐう道左こうのあみだ」と刻まれた道標が商店街のアーケードの中にあるのもおもしろい。
 かつて商店や旅籠屋で賑わい、問屋・本陣・脇本陣などもあったという通りを進む。二代目藩主藤堂高次が架け替えた際、当時では珍しい銅製の擬宝珠が付けられ街道の名所の一つになったという岩田橋を渡る。しばらくは国道23号線であまりおもしろくない。仏眼寺、浄安寺をちらりと見ながらさっさと歩く。国道を逸れたところで昼食をとり、街道らしい街道に入る。
 伊勢国司・北畠氏の守り神であった市杵島姫神社があった。境内に文化10年(1813)の常夜燈があり、隣に閻魔堂、延命子安地蔵尊も祀られていた。
 教円寺、神明神社、薬師寺などを見ながら格子や軒の低い二階づくりの家並みの中を歩いた。ここが安濃郡と一志郡の堺であったそうだ。弘法太師の作といわれる地蔵を祀る地蔵堂、それを挟んで400mほど離れて立つ「八幡神社」の2本の石標がある。
 やがて香良洲道との追分。「お伊勢詣らば可良須に詣れ、可良須詣らな片参宮」といわれ、伊勢街道を往来する旅人は、伊勢参宮の往路・帰路に香良洲神社に参詣するのが普通であったそうだ。ここはまた遊郭が建ち並ぶ街の入口でそこに思案橋がある。
 さらに行くと古道との合流点があり、その先に成就寺、安永2年(1773)の石標、すぐ近くに金剛寺、その境内に念仏塚があるということで探したが見当たらない。思い切ってお寺に入りご住職に尋ねると、壊れかけ板で覆ってあったのを外して見せてくださった。いきなりであったのに快く応じてくださり大感激であった。南昌寺、須賀神社の前を通りさらに行く。
 するとまたまた「どこへ行く?」と声がかかり、附近を案内していただいた。石標、明和元年(1764)の銅製の常夜燈、加良比之神社、嘉永8年(1631)創立の円光寺、西福寺などである。それにしてもこの街道はお寺がたいへん多いことに驚く。切妻連子格子の家並みが美しい。
 ここから高台へと上がっていく。稲作に苦労したのか用水路や耕地整理の記念碑があちこちに建っている。天神橋を越えると称念寺、常夜燈、小型常夜燈があった。間もなく勅使休泊所であった高茶屋神社、その前に文久3年(1863)の大きな春日型常夜燈がある。やがて今日の目的地の高茶屋駅に着いた。
高茶屋から六軒まで
 休館日を選んで夫と二人で歩く。
 JR紀勢本線の高茶屋駅を出て100m程西に行くと街道である。そこから南に向かう。踏み切りを渡りさらに行くと小さな集落があり社跡があった。ここに山ノ神が4基祀られていた。やがて道は島貫へと入っていく。集落の中央に碑があり「史跡 明治天皇島貫御小休所跡」と刻まれていた。その奥に槇の大木があり、その下に山ノ神二基が祀られていた。その隣が円福寺、街道沿いに「神明道」と刻まれた道標が立っていた。雲出川の堤防下に、根周りが2.6mある県天然記念物の島貫の松があったというが、伊勢湾台風で倒れ、現在は碑のみが残っていた。
 雲出の渡し(小野江の渡し)場跡に今はもうないが小さな橋が架かり、堤防の曲がり角に天保5年(1835)の大きな常夜燈があった。それが昭和30年頃、200m東に移されたそうだ。さらに平成12年少し上流に新道ができ立派な橋が架けられたので、常夜燈もそこに移されている。橋がないので新しい橋へ迂回する。橋を渡ったところにもこれまた渡し場の南にあった寛政12年(1800)の常夜燈が移されていた。これは昭和19年の東南海大地震で崩壊し再建されたもので宮立型花崗岩製である。もとの常夜燈の傍らには松の大木があったそうだ。雲出川は大河で、南北朝時代には南朝と北朝の境界であったとのこと。橋のたもとの「小野古江渡趾 をのゝふるえのわたりあと」の碑が新しい。
 街道へ戻る。江戸時代に4回おこった「おかげまいり」では、伊勢参宮のために全国各地から多いときには500万人以上の民衆が往来したといわれ、宿場もたいそうな賑わいを呈していたといわれる。この宿場もその一つで、渡海屋、柿屋、樽屋等の旅籠があったという。ここに、北海道の名付け親であり、アイヌ民族のよき理解者でアイヌ民族解放の先駆者でもあった松浦武四郎の生家がある。さらに街道を離れ200mほど西に行ったところに「松浦武四郎記念館」がある。
 肥留にも大きな常夜燈がある。文政7年の建立という。さらに南に行くと小村縄手の人家の垣根のところに、文政4年(1821)の道標があった。
 月本追分の道標、常夜燈は目を見張るばかりに大きくて立派だ。ここに月本茶屋があった。道標は天保13年(1842)の建立で、奈良街道との分岐点に立つ。伊勢街道で最大の道標で「月本おいわけ」と刻まれている。さらに変形宮立形燈籠の道標があり「右大和七在所道ならはせかうや道いがごゑ本道」と刻まれている。常夜燈には「両宮 常夜燈」と彫ってある。常夜燈は仏教とともに伝来した石燈籠の一つで道中の安全を守る役割をもっている。また石に大きく刻まれている「常夜燈」には、常に心の不浄を焼き払い家内安全を祈るもので、神仏に帰依するために献燈することを意味している。常夜燈の奉献については、建立する土地と献燈用の油代を賄う田を寄進し、地元で管理をしていたという。このあたりには大きな燈籠がたくさん残っている。
 曽原には道標、天保3年(1832)の常夜燈、勅使塚がある。これは大正8年建立で、「吾妻鏡」の中に源氏追討の祈願のために伊勢神宮に向った勅使大中臣定隆が一志駅で急に亡くなったことが記されており、それをもとに碑が建てられたという。ここにあった曽原茶屋では「こわめし、でんがく、さざい(サザエ)の壷焼」を売っていたそうな。
 中道手前の曲がり角に、第61回神宮御遷宮を記念して地元の人が建てた道標、常夜燈、山ノ神があった。中道には、「右からす道」と書かれた道標、「左からす道」と刻まれた道標、常夜燈がある。街道沿いには機関(からくり)的、射的、文楽などがあり土産も売られていたそうだ。龍宮橋の近くに小津一里塚跡の碑があった。小津には、道標と常夜燈が建つ。明治の終わり頃、鉄道の参宮線が開通しても白装束姿の旅人は六軒駅で降りこの曲がり角を通って伊勢まで参宮したという。
六軒から松阪大橋まで
 ここも夫と二人旅である。
 三渡川を越えるとそこは初瀬街道との分岐。道標には「大和七在所順道」「やまとめぐりかうや道」と豪快な書体で刻まれている。反対側に文政元年(1818)の立派な常夜燈が建っている。ここに旅籠屋「磯部屋」があった。古い宿屋の看板や全国からの参宮道者の講看板が残っている。このあたりの家なみは街道筋の面影を残している。
 市場庄では切妻連子格子の家があちこちに残り,各家に屋号の看板を掲げて家なみの保存と街作りに力を注がれしっとりと落着いたすばらしい街道である。宝暦元年(1751)といわれる道標の角を曲がると、神楽寺、さらに100mほどで忘れ井がある。
 久米に入ると、いがみち分岐の道の一隅に「左さんぐう道」と刻まれた道標、行者堂、嘉永5年(1853)の常夜燈,庚申堂、いおちかんのん道標、山ノ神二基などがかためて建てられていた。なまこ壁の長屋門のある船木家を見ながら行くとまた庚申堂があった。さらに行くと万延2年(1861)の古川水神常夜燈があり、塚本の百々川のほとりにも嘉永5年(1852)の常夜燈があった。
 船江には薬師寺がある。唐様を基調として和様を混入した建物で、承応2年(1653)の建築。薬師如来坐像は県指定文化財。立派な仁王門がある。このあたりにも連子格子の家が残る。街道が大きくカギ形に曲がったあたりに黒門があったといわれている。道は川井町から西町に入っていく。
 
松阪から斎宮まで
 8月26日、台風11号が去った。日差しはきついが風もあるしと、伊勢に向って歩くことにした。出発点は坂内川に架かる松阪大橋、自宅を出てここに至る前に、松阪の観光案内書にも載っている松阪もめん手織りセンターに寄った。ここは江戸で活躍した松阪商人・越後屋(三井家)の店舗跡で、私も時々松阪木綿の反物を織るために通うところである。そして魚町にある本居宣長旧宅前を通る。本居宣長は言わずと知れた著書「古事記伝」で、日本人古来のものの見方である「もののあわれ」や「やまとごころ」を説いた江戸中期の国学者で歌人でもあった。この地にあった鈴屋は現在松阪城址に移築されている。しばらくいくと赤い欄干にぎぼしの残るなつかしい松阪大橋。私は幼い頃このあたりに住んでいたのでことのほか懐かしい街道なのである。橋の北側は西町で昔の面影を残す金物やの須川屋が今もある。御当主は私の同級生であったが、今はない。
 橋を渡ると本町、江戸の紙問屋・小津家がある。小津家は松阪の御三家の一つに数えられ、かつては大橋の東側一角は小津家で占められていたという。今は「松阪商人の館」として公開されている。少し行くと松阪商人の代表格として知られる三井家の発祥の地があり、市の指定史跡になっている。肘折橋を渡ると中町、松阪肉で有名な和田金、お菓子の老舗・柳屋、昔懐かしい昔菓子の店、宿場の名残を留める宿やなどが並ぶ。
 やがて参宮街道と和歌山街道の分岐点で、「右わかやま道」「左さんぐう道 八雲神社」と刻まれた立派な道標が建っている。日野町、湊町、平生町、愛宕町、昔の街道沿いの町々ではあるが、今は美しく整備され広い通りが貫く。本居宣長と賀茂真淵があったという「松坂の一夜」で有名な「新上屋跡」の碑もいつのまにかなくなっている。私が子どものころはまだ残っていた道幅の狭い街道の両側にあった家並もにおいも今はすっかりない。
 もとの興和紡績松阪工場の横を通り垣鼻に入る。ここから道は急に狭くなり、昔の面影を残す街道となる。荒神山稲荷、閻魔堂、信楽寺などがある。ここには、信楽寺の旧本堂の鬼瓦や天明5年(1785)、広瀬永正寺の名僧・天阿上人の建立による仏足石が残っていた。神戸神社の前を通りゆるやかな徳和坂を上っていくと青面金剛の石像が祀られている庚申堂があった。
 金剛橋を渡ったあたりから田園が広がる。ここから極門橋までを徳和畷と呼び白酒を名物とする店が数軒建ち並んでいたそうである。日差しがきつくなってきた。水分を補給しつつ歩いて行くと、江戸干鰯問屋等の寄進によるという文政12年(1829)建立の立派な常夜燈があった。JR徳和駅を過ぎさらに進むと、これまた立派な天保2年(1836)建立の常夜燈と大日寺の町石、明治13年建立の女人の供養塔、行き倒れた参宮道者の霊が祀られている北上神社があった。
 このあたりから家なみが続き連子格子の家があちこちに残っている。おもん茶屋、おかん茶屋跡もあったと聞くが通り過ぎてしまった。弘化3年(1846)建立の道標には「從是外宮四里」と刻まれていた。国道を横断し、大櫛神社の前と通って豊原に入る。ここにも昔の雰囲気を伝える家なみが残っている。櫛田川に突き当たったところの道標は文化2年(1819)のもので「左さんくうみち」と刻まれていた。近くに大正3年の標石があり、かつて櫛田川の渡し場があったところである。櫛田橋を迂回し対岸の街道に戻った。日差しはますます厳しくなり全くの真夏日、電柱の影さえ選んでふらふらしながら歩いた。かつては茶屋や旅籠屋が並んでいたという街道である。櫛田川の渡し場にほど近いところに「つる屋」という旅籠屋があった。大きな料理旅館になっていて私も35年ほど前利用したことを覚えているが、今は跡かたもない。少し街道を離れたところに大乗寺、早馬瀬神社がある。この境内に渡し場附近から移されたという文化13年(1816)の道標があった。天保9年(1838)建立の石地蔵を拝みいくと、道の傍らに文化14年(1817)の六字名号碑があり、たいへん深く六文字の梵語が刻まれていた。
 斎王群行の際祓いをして斎王宮に入ったことから名付けられた祓川を越えると弘化4年(1847)の道標に「從是外宮三里」とあった。竹川に入る。ここには駕篭屋の溜まり場、馬の取次ぎ場がある立場茶屋があり、明治以降は人力車、馬車の溜まり場があった。今も切り妻・連子格子の家が建ち並ぶ。冷房の効いた斎宮駅の待合室に辿り着いたのは出発してから4時間近くが経ってからであった。疲れた。
斎宮から筋向橋まで
 9月になった。それに今日は曇っている。続きを歩くことにした。ところが歩きはじめると雲ひとつない青空で前回にも増して猛暑。熱中症になりそうな暑さだ。
 牛葉公民館のところに「観音寺」があったところだと記されていた。ここには観音寺と境内を同じくした八王子と称していた宇志葉神社があったそうだ。程なく竹神社(野々宮跡)、斎王まつりの斎王行列の出発点。このあたり一帯は、伊勢神宮に奉祀する斎王を中心に500人近い人々が住まいした斎宮の跡で、道路や溝で碁盤目状に区切られ、都風の建物が整然と並ぶ地域であったという。しばらく行くと道標が立っていた。北野天満宮への道案内で、昔ここに黒木(皮が付いたままの木)の鳥居があったそうだ。また絵馬堂と称する小堂があり絵馬が掲げられており、この絵の馬の毛色で豊作を占うといわれていた。謡曲の「絵馬」で有名。今、絵馬は竹神社に保管されている。すぐ近くの笛川地蔵院跡には、永正10年(1513)のもので町指定文化財の六地蔵石幢(有明六地蔵)、庚申堂三棟、山ノ神五基が祀られていた。街道を50mほど西に入ったところに盃地蔵と地蔵が祀ってあった。このあたりの家なみはたいへんきれいである。さらに行くと、天延2年(974)病気のため斎宮でなくなった斎王・隆子女王の墓への案内「斎王隆子女王御墓従是拾五丁」の道標と、天然記念物どんど花(野花しょうぶ)群生地への案内「斎宮旧蹟蛭澤之花園」の道標が並んで立っている。また山ノ神三基もある。街道の面影の残る道をいく。しかし伊勢に近づくに従って常夜燈がほとんど残されていないことに気づいた。伊勢本街道にはたくさんあった、天照大神(伊勢神宮)をあらわす「太一燈籠」は全くないことを不思議に思った。街道は賑やかで常夜燈は必要なかったのだろうか。
 永仁5年(1297)創建の安養寺は、江戸時代参宮客に湯茶の接待をしたので賑わったそうだ。山門前に元禄15年(1702)建立の地蔵・五輪塔、庚申堂がある。昔、そうめん屋があったというそうめん坂を上がり、街道を逸れて200m西に行くと古代の土器製作の工程がわかる現在は史跡公園になっている水池土器製作遺跡がある。ここの木陰で持ってきたおにぎりを食べて休憩した。街道に戻ると、本堂も大きく立派で、庫裡・山門・鐘楼のある格式高い転輪寺があった。切妻・連子格子の家が並ぶ道をひたすら歩く。嘉永6年(1853)建立の「従是外宮二里」の道標、弘法大師堂などを見る。天保7年(1836)建立「上人さん」と呼ばれる「徳浄上人千日祈願の塔」があった。庚申堂を霊場としていた徳浄上人が大飢饉・疫病に見舞われた村民の窮状を目の当たりにし、その救済のため雨の日も風の日も伊勢神宮両宮に千日の間素足で日参したという言い伝えが残っている。寛保元年(1741)年の廻国供養塔、庚申堂もある。街道がはっきりしているし一人で歩いているせいもあって、いつもの街道歩きのように人と出会い、話をする楽しみは少ない。ただただ黙々と歩くのみ。
 街道は大きく右折し、老舗「へんばや」の前に出る。へんばとは、三宝荒神など馬に乗った参宮客がここから馬を返して(返馬)一休みしたことから名付けられたへんば餅を売る茶店である。昔は椎の木の並木があったといわれるが、今は数本しか残っていない。畷と呼ばれたところを過ぎ、相合川に架かる相合橋を渡る。新道がまっすぐ延びているが別れて旧道に入る。入ったところに庚申堂があった。切妻・連子格子の家が並んでいる。伊勢周辺で特徴的なのが切妻・妻入、入母屋・妻入の家並み。これは伊勢神宮の建物が切妻・平入であることに遠慮したからとか。また普通は正月三が日ではずしてしまう注連縄を一年中玄関にかけているのも伊勢周辺の風習。私の家もそうで、先日も観光客に尋ねられたことがある。外城田川を渡りしばらく行くと離宮院址がある。斎宮に起居していた斎王が伊勢神宮へ向う際、立ち寄って宿泊した所。天長元年からしばらくは離宮院そのものが斎宮として用いられたが火事により再び明和町へと移ったという。かつては和歌山藩の高札場があったという札の辻、屋号「丸吉」、煙草入れ、薬等を販売していた虫籠窓が残る格子の町家、浄土寺、不動堂を見、切妻の家なみの中を歩く。「参宮人見付」と刻まれた石柱が宮古橋のたもとに立つ。この先が宮川で、桜の渡しがあった。宮川橋に迂回する。街道を行くと文政5年(1822)建立の「すぐ外宮江十三丁半、内宮江壱里三十三丁半」と刻まれた道標がある。街道はしばらく途切れているのでやや迂回しつつ行くと間もなく筋向橋に着いた。 
筋向橋から伊勢神宮内宮まで
 伊勢街道最後の行程は夫とともに歩いた。
 筋向橋の川は、現在地下の水路になっており、嘉永2年(1849)の欄干のみが残っている。かつて江戸から伊勢までの距離は日本橋から筋向橋までの距離を測ったという。
 しばらく行くと小西万金丹薬舗の堂々たる建物が見える。延宝4年(1676)創業、切妻の建築様式を今に伝え、現在も漢方薬「万金丹」などを販売している。私も万金丹を買った。ここはまた「町かど博物館」になっている。
 道をはさんで前に福島みさき太夫邸跡がある。太夫は徳川将軍家の祈祷所もつとめたほど格式の高い御師で、ここに広大な屋敷を構えていた。その門は、神宮文庫入口に移築されているそうだ。御師(おんし)は「御祈祷師」からきた呼び名で、貴族や武士の祈願や奉幣を伊勢神宮に取り次いでいたが、のちに伊勢信仰を各地に布教するようになり、講と呼ばれる信者集団をまとめ、伊勢参宮の際には宿の手配などをしたのである。
 いよいよ外宮である。豊受大神宮という。内宮が伊勢に鎮座してから約500年後、天照大神の大御饌(食事)を司る神として丹波の国から迎えられた豊受大神を祀る。米つくりを始め衣食住すべてに関わる産業の神様である。
 御成街道をすすみ小田の橋を渡る。昔は本橋の横に小橋(仮屋橋)が架けられており、忌服の人や生理中の人は小橋を通ることになっていたという。尾部(おべ)坂(間の山)を上っていく。このあたりが古市で、古市はかつて伊勢参りの人々が精進落としに立ち寄ることで賑わいを極めた歓楽街である。歌舞伎「伊勢音頭恋寝刃」の舞台である遊郭油屋の跡の標柱が立っている。また俗称を「うずめさん」というアマノウズメノミコトを祀る長峰神社があった。この辺りを昔、寒風(さむかぜ)の里といったそうだ。嘉永4年(1851)創業の旅籠屋「麻吉旅館」は山崖利用の積み上げ建築で渡り廊下などかつての趣が残っている。伊勢国最大の歓楽街として、また伊勢歌舞伎で知られ、役者の登竜門としても有名であった古市の歴史的資料を収集、保存、展示する古市参宮街道資料館もあった。
 牛谷坂の上にある立派な常夜燈二基を見て坂を下ると猿田彦神社。天孫降臨の際、道案内をつとめた猿田彦命を祀る。みちひらき(開運)の神様として信仰される。 おはらい町に入る。伊勢神宮内宮の門前町で切妻妻入の伝統的な伊勢の町並みが復元されている。その一角のおかげ横丁には明治時代の洋館なども復元され、郷土料理や名産品の店が並ぶ。宝永4年(1707)創業の老舗「赤福本舗」。伊勢土産として人気の赤福餅は、白い餅が五十鈴川の川底の石を、三筋の指の跡が付いた餡が川の流れをあらわしているという。ヨーヨー、けん玉、だるま落としなど昔懐かしい手作りの木のおもちゃが並ぶ伊勢玩具「上地木工所」、伊勢参りの名物餅・岩戸餅の老舗「岩戸屋」などが並ぶ。
 宇治橋の手前少し奥まったところに国指定史跡の旧林崎文庫がある。江戸時代の内宮領の学舎で、本居宣長や鴨長明など参宮に訪れた学者が立ち寄って講義をしたという。一度訪ねたいものである。五十鈴川に架かる長さ約102mの総檜造りの宇治橋を渡ると内宮である。橋の両側に立つ二つの鳥居は内宮・外宮の正殿の旧棟持柱で作られているそうだ。
 内宮は、垂仁天皇皇女・倭姫命が天照大神がご鎮座する地を求めて各地を旅し、大神のお告げによってここ伊勢を鎮座地に選ばれたのが始まりといわれ、その歴史は約2000年にも及ぶといわれる。いよいよ目的地に到着した。
 今までの街道歩きに比べるとやや単調な旅ではあったが、ともかくも伊勢参宮街道という重要な街道を歩き、往時の旅や街道の様子を忍ぶことができた。宇治橋のたもとで赤福を食べ旅の疲れを癒した。
 道中伊勢音頭に「伊勢へゆきたい伊勢路がみたい せめて一生に一度でも わしが国さは伊勢路が遠い お伊勢行きたや参りたや」と人々が憧れたお伊勢さんへの道をいにしえの旅人と同じように歩いた。歩く速さで見えてくるものがある、歩くからこそ出会うものがある、そんな旅であった。 

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香良洲道 「お伊勢詣らば可良須に詣れ、可良須詣らな片参宮」と謳われた香良洲神社に詣でる道である。秋晴れの一日、阿漕駅から歩き、伊勢街道から香良洲道との追分へ。ここに松・扇・梅が浮き彫りされた石造りの思案橋が架かっていた。「文政6年(1823)」「山半」と刻まれている。山半は付近にあった遊郭の名。この街道はなくなっているところも多く迂回路を通るせいもあって道標等は殆ど残されていない。雲出に入ってようやく街道らしくなってきた。ここに移されたらしい庚申・地蔵二体・山ノ神が祀られていた。近くに浄蓮寺。常念寺には、六地蔵・青面金剛庚申塔・嘉永年間の五輪塔などがあった。このあたりには山ノ神があちこちに祀られている。近くの方に3基ほど案内していただいた。雲出神社には元禄8年(1695)に寄進された燈籠があった。ここからまた街道が消える。やがて香良洲大橋。堤防の下に道標が集められている。元治2年(1865)の大きな常夜燈・思案橋南から移設されたという文政6年(1823)建立の「右さんくう道」「左からす道」と刻まれた道標・明治2年の「すぐからす道 右津みち」の道標・大正14年の道標があった。ここからかなり距離はあるが香良洲神社へ。天照大神の妹神・天津稚日女尊を祀る。木彫の白い神馬や神宮遥拝所もあり、さすがと思われる神社であった。なおこの神社も20年に一度の遷宮があるそうで、その敷地が並んであった。往時の旅人は、白砂青松の海岸を満喫したのち香良洲大橋付近にあった矢野の渡しに戻ったそうで、私たちも。途中前浜物の魚などがたくさん並んだ魚屋さんがあり、私たちはかなり大きいわたり蟹を賞味、なんとも美味であった。ここからまた道は消える。星合に入ると、元禄11年(1698)建立の明照寺があり、正徳年間の石燈籠・自然石の庚申、室町末期の六地蔵が。波氏神社、その境内に石燈籠、擬宝珠のある鵲橋、大伴家持「かささぎの・・・」の石碑、海運寺、八雲神社、元禄・寛文期の石燈籠や石手水鉢、元禄2年(1689)の鳥居、類例の少ない北斗七星社がある。松養寺を過ぎ、このまま西に向えば伊勢街道へ。南への道をとる。やがて碧川橋のたもとに富士権現が祀られていた。富士登山の際、碧川で沐浴祈願をして出発したそうだ。法性寺を過ぎると「右さんぐう道・左からす道」の道標、天白神社参道口に弘化2年(1845)の町石、天白神社には移設された文政12年(1829)の常夜燈。近くに嘉永7年(1854)の道標、西に行けば伊勢街道へ。さらに南に向かう。そして右折、左折、さらに右折すると中道公民館の少し南の伊勢街道に合流する。「左からす道」の道標が立っていた。