暗越奈良街道・上街道

暗越奈良街道・上街道
 
 暗峠越の街道を歩いてみたくて出かけた。難所といわれたいくつもの峠を越える道はさすがにきつかった。しかし楽しかった。俄然この旧奈良街道を通して歩きたくなった。
 「伊勢への道はこころの旅路」として今注目をあびる伊勢参宮本街道は、暗越奈良街道、奈良上街道、初瀬街道、伊勢本街道を通る玉造稲荷神社から伊勢神宮まで約170kmにおよぶ街道である。折りしも来2010年は「お蔭参り」の年でもある。私はかつて奈良から伊勢神宮まで歩いたことがある。しかし、奈良から桜井までは山辺の道を通った。そこで今回は奈良上街道を歩き桜井までつなげようと考えた。


12月1日
玉造稲荷神社から枚岡神社へ
 JR玉造駅から近年のお伊勢参りの起点となっている玉造稲荷神社へ。祭神は豊御食津神で伊勢の外宮の豊受大神と同じである。この地は古代の国際港「難波津」を形成する以前の港があった地であり、川の名前に残る「高麗川」「百済川」は、その当時の最新技術を伝えた朝鮮半島渡来の文化人の息吹を感じさせるところだ。「玉造」は難波宮を東に下ったところに位置し、曲玉などの工房があったとされている。玉造稲荷神社は、古来権威の象徴として珍重されてきた玉を加工する集団・玉作部ゆかりの古い歴史をもつ。境内には「豊臣秀頼寄進の鳥居」「千利休居士顕彰碑」があり、また「伊勢迄歩講起点」「是れより神宮まで170キロ」の標柱も建っていた。玉造駅に戻り東に向うとすぐ「二軒茶屋・石橋旧跡」の碑があり、ここを流れていた川が高麗川だそうだ。大通りを少し外れ裏の細道を商店、住宅、町工場の間を縫うように進む。やがて「平野川」、この川はもと「百済川」と呼ばれていたそうで、玉津橋の欄干に説明図が取り付けられていた。いくつも立っている「暗越奈良街道」の石標に導かれて曲がりを重ねる。街角に「常善寺道標」と大きな石造りの奈良街道の説明板があった。銘板に伊勢参宮「お蔭げ参り」のときは1日7,8万人の旅人で賑わったなどお伊勢参りの様子が刻まれている。今里の広い道路のこちら側に「高麗橋・玉造」の、道路を渡ると「高井田・菱江」に分けて「暗越奈良街道」の大きな解説板が設置されていた。また近くに堺屋太一氏の「シルクロードの終わるところ・暗越奈良街道」の解説文があった。さらに行くと「三條通・春日大宮」の解説板。熊野大神宮、近世国学の大家・契沖の供養塔のある妙法寺に参った。産業道路に出ると、四角い火袋を備えた角柱の上部に屋根形の笠を乗せた笠灯篭の道標が建っていた。このあたりは江戸時代には釘・針金の産地で、今も工場が点在しているが、この常夜燈には「施主 江戸積釘問屋」の文字が見える。しばらく進んで、深江稲荷神社へ。この地の笠縫氏は代々菅笠作りを営んだという。江戸時代に伊勢参りの参拝者はこの地で作られた菅笠(深江笠)をかぶって旅立ったのである。境内に笠縫氏の祖を祀る笠縫社があった。またアシの産地(湿地帯)で「あじろ笠」に因む足代でもある。ここから北へ向う放出街道は「左専道(させんどう)」「馬のかしら」とも呼ばれ、菅原道真が馬にひかれて左遷されたことに由来するという。さらに南東へ向う道は「十三越」の道。しばらく産業道路を行き北側の路地への入口に「歴史の道 暗峠越え 旧奈良街道」の道標があった。街道を進むと「西高井田如意輪観音石仏」があり、辻々には古い道標が立っていた。長瀬川を渡ると「放出停車場三十丁」と刻まれた小さな道標。何度か産業道路を横断し、八角形大型石燈籠、狛犬、手水鉢など古い石造物のある天神社のところで細い街道に入り、地蔵、行者堂、御厨(皇室の領地あるいは伊勢神宮への神饌を意味する)の植田邸(本陣)、菅原神社、河内街道との分岐に立つ道標、八剣神社(数基の道標が集められていた)、もちの木地蔵、おかげ燈籠と次々に現れる興味深いものに目を奪われながら進み何度目かの産業道路に出るとようやく前方に生駒山が見えてきた。花園ラグビー場のところで産業道路に別れ旧街道に入る。このあたりは旧大和川の分流吉田川と恩智川との間に開けた「松原宿」である。地蔵、「右ならいせ道 左大坂道」の古い道標、宝箱太鼓台収納庫(今年が最後の引き出しになると張り紙があった)、祠、箱殿の道標を見ながら坂を登り、やがて今日の目的地の枚岡神社に着いた。奈良の春日大社に祀られている神々のうち二神がここから分祀されたことから「元春日」ともいうと説明されていた。紅葉今盛りの美しい神社であった。
 
11月28日
枚岡神社から砂茶屋まで
 大阪(難波津)から奈良(大和)へ向うためには生駒から葛城に連なる連山のいずれかを越えなければならない。その中で暗峠越えのコースは最短のコースであり、伊勢参りの大坂からの主要道となっていた。といっても峠を3つ越す起伏に富んだコースである。近鉄枚岡駅で降りると、枚岡神社は目の前。河内国一宮であり、紅葉が美しい神社をゆっくりと巡り、そのまま裏山を登っていく。椋ケ根橋を渡ると道標があった。ここから街道はほぼ国道308号線をいく。ずいぶんな急坂で、さすが国道?のせいか全線舗装されている。といっても車の対向が非常に難しい細い道である。松尾芭蕉はこの道を下って大坂に入り亡くなったという。「歴史の道 暗越奈良街道」の道標の傍に 「菊の香に くらがり登る 節句かな」の句碑が建っていた。法照寺の前の坂道は燃えるような紅葉のトンネルであった。豊浦渓谷、豊浦橋のあたりの紅葉もみごと! このあたりは、紅葉狩りを楽しむ人で賑わっていた。禊行場を過ぎ、観音寺を下に見て、振り向くとはるか眼下に枚岡の町並みが見えた。こんなにも高く登って来ていたのだ。額田橋を渡ると赤い鳥居の美しい神社があり、その反対側に不動明王が祀られていた。さらにきつい上りが続く。立派な道標が立つ坂をあえぎつつ登っていくと、急に風が出てきて紅葉がはらはらと舞い散ってこれまた美しい。「万葉の道」の標識を過ぎると「弘法の水と笠塔婆」があり、竹箒をかついだ人が登ってこられ、清掃を始められた。地蔵堂と道標、おかげ燈籠を見て進むとようやく石畳の暗峠に着いた。「暗峠」は、「鞍のような嶺・鞍ケ嶺峠」から、「松や杉が繁り暗い峠」から、「辺りの山の小椋山の椋ケ嶺(くらがね)」からなどに由来する。紅葉の古道歩きを満喫したわけだが、舗装路につぐ石畳道はいささか足にきつく、土の感触が乞われる道でもあった。この峠は大阪府と奈良県の県境でもある。往時は「河内屋」「油屋」など20軒近くの茶屋や旅籠がならび賑わったという峠に、今日も生駒山を縦走したり、近くの園地を散策する人で賑わっていた。「暗峠」の碑、「日本の道百選 くらがりとうげ」の碑、道標、地蔵尊を観た後、情緒あふれる茶店で休んだ。じつはこの暗峠を通りたいと思ったのは、わが松阪出身の落語家桂文我さんが伊勢街道を歩く番組で、この「峠の茶屋・すえひろ」で寄席の会を開くのを観たからである。私は文我さんの子ども時代を知っており、茶屋のご夫婦と文我さんの話に花を咲かせた。峠からは奈良県側の下りであり「本陣跡」と書かれたあたりからは、たくさんの棚田が広がり、その先の紅葉の山の向うに生駒の町が広がっていた。阿弥陀磨崖仏、「くらがり峠 旅行く芭蕉」の碑、たくさんの石仏を見ながらひたすら降りる。ことに「石造阿弥陀如来立像」は美しい。石仏寺、応願寺の前を通り、竜田川を渡り、南生駒駅の西の踏切を渡り、矢田丘陵への急な坂を登って大瀬ふれあい公園の角を曲がり、小瀬で更に左折する。足湯のあるやすらぎの杜のあたりから下を見ると、越えてきた暗峠のあたりがはるか遠くに望めた。急な上りの狭い道を登っていくと、地蔵が祀られている榁木峠である。さらに行き2基の道標を過ぎると追分峠で、追分神社があり、その先に追分本陣村井家の立派な住居があった。ここが大和郡山との分岐である。この分岐にも道標や道標地蔵が建っていた。梅林碑のある方へ降りて行くと広大な梅林が広がっていた。さらに下ると田園風景が望め、ようやくひとまず峠道を越えたことが実感できた。矢田と書かれた道標、大きな常夜燈があった。そのまま富雄川の下鳥見橋を渡ると、砂茶屋の地蔵堂があり、その先が砂茶屋のバス停。私たちはここからバスで近鉄富雄駅に向った。
12月2日
砂茶屋から奈良猿沢の池まで
 好天が続く。そこで昨日に続き奈良街道を歩くことにした。富雄駅からタクシーで砂茶屋へ。砂茶屋の地蔵堂から出発する。ゆるやかな坂を上り、大きな蔵をみながらその先の遠州七窯の一つ赤膚焼きの窯元を過ぎ第二阪奈のガードをくぐりさらに上っていくと垂仁天皇陵(宝来山古墳)に着いた。「歴史の道」の道標が立つ。全長227mもある前方後円墳である。ここを半周した。周濠の東側に小島が浮かぶ。不老不死の果実を求めて常世国へ旅立った田道間守の墓とか奈良時代の権力者・橘諸兄の墓とかいわれているものだ。東に若草山や春日山が望める。戻って尼ケ辻駅の踏切を渡る。大通りに出るとどこもここも道路の拡張工事中でなんの変哲もない道を東へ東へとひたすら歩く。ただ「おおっ」と思ったのは北に平城京跡があり、建物の間から朱雀門が見えた時だ。国道24号バイパスをくぐり、佐保川を渡るとやがて三條通り。JR奈良駅の踏切を渡る。右手に今は観光案内所になっている旧奈良駅があり、その前の大きな常夜燈が二基建っているあたりは工事中であったが、休工していたのでその横に建つ「平城宮大極殿跡」の石柱とともに写真をとっていたら注意された。ごめんなさい。さらに東に行くと、浄教寺がありその奥が開化天皇陵(念仏寺山古墳)。このあたりは墨、筆、扇子、奈良漬といった名産品を商う店が並ぶ。その中で、小さな「奈良市道路元標」の石柱を見つけた。これこそ奈良街道の起点である。高札場を過ぎると間もなく左手に興福寺・五重の塔、南園堂が見え、その下が猿沢の池。とうとう奈良街道を歩ききった瞬間。
奈良上街道(上ツ道)を帯解まで
 桜井の山辺の道との合流点まであと1日でつなげるとなると私にはかなりの距離。今日の行程は短くまだ時間も早いので上街道をできるだけ南下しておきたいと思った。上街道は飛鳥時代に南の飛鳥の都と北の奈良を結ぶ幹線として造られた3本の道のひとつ。猿沢の池でしばらく休憩の後、池の下の常夜燈の建つ上街道の入口から出発する。すぐ下に率川が流れ、石仏群が舟形の島に安置されていた。「ならまち」と呼ばれる古い街並みが続く。まさしく日本人の心のふるさととでもいおうか懐かしい光景が広がる。猿田彦神社の前に「上ツ道 伊勢街道」の看板が掲げられていた。「さるぼぼ」を吊るした店も。住吉神社を過ぎ広い道路を渡ると奈良町情報館がある。道が突き当たるところに、菊岡漢方薬、奈良町物語館、吉田蚊帳など見所が多い。この町には前にも訪れたことがあるが、もっとじっくり散策したい。が今日のところは、元興寺塔跡、御霊神社、ならまち格子の家をさっと見学。心を残しながらならまちを後にした。京終駅を過ぎると、文政13年の銘が刻まれた伊勢燈籠(常夜燈)があった。このあたりまで来ると田畑が広がり、大きな溜池もあちこちに見られる。北西には生駒山が、北東に若草山が見えている。一本道をどんどん行くと、青井神社、続いて地蔵堂があり、地蔵院橋を渡って右折すると帯解寺があった。近くのJR帯解駅から桜井へ出て戻った。
12月27日
 年内に山辺道との合流地までつなげたいと出かけた。あいにく午前中は曇天だったが昼前から晴れてきて風もなく穏やかな街道歩き日和であった。
帯解から金屋河川敷公園(桜井)まで
 早朝、帯解駅から歩き始めた。街道の両側に相前後して二つの「帯解寺」がある。一つは華厳宗・子安山地蔵院、文徳天皇皇后が当寺に祈願をかけ清和天皇を安産したという。重文の本尊は座高2mに近い木彫半跏像の地蔵菩薩(鎌倉時代) もう一つは臨済宗・宝寿山竜象資聖禅寺(竜象寺)、本尊の木造地蔵菩薩坐像は平安時代の作。菩堤仙川を渡ると稲荷神社がある。かつては茅葺であっただろう大きな屋根の民家や海鼠壁の土蔵がいくつも残りいかにも街道らしい雰囲気のある街並みを抜けていく。やがて楢大明神社。境内には第8代市川団十郎が寄進した実増井の井筒や街道に面して銅製鳥居や大神宮常夜燈が建っていた。「不動山大師道」「和珥坂下傅稱地」の道標があり、そこからやや街道を逸れたところに、長寺遺跡・高良神社があった。街道に戻ると奈良への石道標が半ば舗装に埋もれるようにいくつか立っていた。幾度かの廃藩置県名残の「大阪府奈良警察署檪本分署跡」もあった。馬出の街並みに入る。ここは上街道(上ツ道)と高瀬街道の交わったところで、上街道から東方へ高瀬街道に沿ってのびたあたりが「馬出」で、大和高原から高瀬川を薪炭を乗せて下り、帰りに食料品や日用品を買っていく人馬で賑わった。荷を運ぶ馬をつないだ「馬つなぎ」の遺構も残されていた。西名阪自動車道のガードをくぐる。地蔵堂、道標、大神宮の常夜燈、祠、大きな御神木、さらに道標、石造物等を見ながら進む。神社や寺も多く、また天理教の詰所もたくさんある。右手に天理駅を見てさらに行くと、藁で笠状のものを作り地面に直接置く珍しい注連飾りを見つけた。俄かに道幅が広がり、昔のアーケードともいうべき屋根掛けが残りかつての市場町の名残を見せる丹波市に出た。白壁の商家も並ぶ。市場の神様である市座神社。境内には付近の街道筋から移設された大小の伊勢燈籠(おかげ燈籠・常夜燈)、「丹波市町道路元標」、青砥石という巨大な一枚岩があった。これは布留川に架かった橋であるが、もとは石棺の蓋であったという。端に穴が開けられており、運搬用の綱を通すための穴だろうとのこと。神社では、1月8日に行われる八日恵比須祭の準備がなされており、恵比寿飾りをいくつか見せていただいた。八坂権現を曲がったところに芭蕉句碑があった。「笈の小文」にある「草臥れて宿かる比や藤の花」の句が自然石に刻まれており、藤棚が作られていた。国道169号線を渡り右折し、石仏を見て再び国道を横断する。馬口山古墳のところで300mの参道の奥に旧官幣大社大和神社があった。4月1日に行われる古式豊かな「ちゃんちゃん祭り」は春日おん祭りと並ぶ大和の二大祭り。境内の祖霊社には太平洋戦争で沈没した戦艦大和と戦死者3721柱の御霊を祀っているそうだ。古墳、大樹の根元に祀られる石仏群、五智堂と進む。これは長岳寺の飛び地境内に残る小さなお堂で、太い1本の心柱の上に屋根が載っているため傘堂ともいう。心柱の四方に梵字を刻んだ額がかかり、常夜燈には太神宮と天満宮の文字がある。長大な竪穴式石室から33面もの三角縁神獣鏡が発見された3世紀後半から4世紀にかけての前方後円墳黒塚古墳はこの近くである。大きな常夜燈、地蔵堂、石の鳥居、朝臣柿本人麻呂公屋敷跡等を見ながらどんどん進み、巻向駅の南で3度国道のガードを潜ると、巨大な箸墓古墳があった。遠くに三輪山が見える。自然石の燈籠があり、案内板に従っていくと大通りの右に大きな鳥居、左が官幣大神大神神社である。細道を行くと日本で最初の市場・海柘榴市の守護神三輪恵比須神社。稲妻型といわれる曲がりくねった細い道が続き大和格子のある古い民家も多く残っている。春日神社、大和川のそばにある大きな常夜燈を見て進みJRの踏切を越えるとやがて金屋の石仏への道標が立つ三叉路、つまり山辺道との合流地にとうとう着いた。さらに石標や「佛教傅来之地」の大きな碑の建つ金屋河川敷公園まで足を延ばした。バスを探したが見つからず1.7kmの道を桜井駅まで歩いた。今日は20kmあまりの歩行距離でまさに「草臥れて」であった。

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