東海道・鈴鹿峠から関宿までを歩く

秋風にふかれて
東海道・鈴鹿峠から関宿までを歩く
 東海道を江戸から京都まで歩くという話をよく聞くが、やりたいことが山ほどあってとてもそんな体力も時間もない。せめて三重県内の東海道を名だたる難所の鈴鹿峠、そしてかねてより一度訪れたいと願っていた坂下宿、街並み保存がなされている関宿までを歩くことにした。

 鈴鹿峠(378m)を越える初めての官道は「阿須波道」と呼ばれ、平安時代の仁和2年(886年)に開通した。八町二十七曲といわれるほど、急な曲がり道の連続するこの険しい峠道は、平安時代の今昔物語集に水銀商人が盗賊に襲われた際、飼っていた蜂の大群を呪文をとなえて呼び寄せ、山賊を撃退したという話や、坂上田村麻呂が立鳥帽子という山賊を捕らえたという話など山賊に関する伝承が多く伝わっており、箱根峠に並ぶ東海道の難所であった。
 また鈴鹿峠は、平安時代の歌人西行法師に「鈴鹿山 浮き世をよそにふり捨てて いかになりゆく わが身なるらむ」と詠まれている。
 江戸時代の俳人、松尾芭蕉は鈴鹿峠について「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」の句を残している。
 
 株式会社ウエッジの「東海道 人と文化の万華鏡」という本の中で久保田展弘氏はこう述べている。
 いったい460万人もの人が、伊勢神宮へ参詣する光景を、どう想像できるだろうか。それは「お伊勢参り」というには、あまりにも型破りな参詣であった。江戸時代の慶安3年(1650年)にはじまる伊勢神宮への集団参詣は「おかげまいり」の名で呼ばれ、幕末までの前後7回が記録にのぼっている。このうち天保元年(1830年)の閏3月に、四国の阿波(現在の徳島県)にはじまった「おかげまいり」は、5cm
ほどの長さの「おふだ」が降ってきたことがきっかけだった。四国はもとより京都・大坂から、東は遠州、駿州、伊豆、相模、さらに美濃、尾張、越前等々にまでおよんだ「おふだふり」という奇異な現象は、はじめは子どもたちの集団を誘い、参宮熱ともいうべきそれは、あっという間に各地を襲い、ふだんは旅する機会もない人々を伊勢参宮へと駆りたてていったのである。「おかげまいり」と書いた笠をかぶり、一人ひとりが杓をもった群参。大坂からは若い50人余の女たちが男模様の衣装を身につけ、緋縮緬のふんどしまでしめ、髪も男まげに結んで、道中「御蔭でさ、するりとな、抜けたとさ」とはやしたてて歩いた。さらに京都からの参宮者もまた鬼面をかぶったり、赤い衣装をまとうなどして、華美をきわめたという。いったい伊勢神宮へ詣でるのに、時代の常識、倫理意識を破ることこそが目的であるようなこの出立ちは何をうったえていたのだろうか。
 伊勢をめざした民衆の爆発的なエネルギーは東海道を駆け抜ける。この道を夫と私も歩くことにした。
 

 鈴鹿山脈は三重県側が険しく、滋賀県側はなだらかになっている。また天候の変化が激しく、鈴鹿馬子唄に「坂は照る照る鈴鹿はくもるあいの土山雨が降る」と歌われている。
 そこで私たちは、ゆっくりと景観を楽しみ情緒を味わおうと関宿の観光駐車場に車を止め、タクシーで鈴鹿峠まで送ってもらった。ここから関宿までを歩こうというのである。
 出発点に万人講常夜燈があった。これは「江戸時代に金毘羅参りの講中が道中の安全を祈願して建立したものである。重さ38t、高さ5m44cmの自然石の常夜燈で、地元山中村をはじめ、坂下宿や甲賀谷の人々の奉仕によって出来上がったと伝えられている。もともとは東海道沿いに立っていたが、鈴鹿トンネルの工事のために現在の位置に移設された。東海道の難所であった鈴鹿峠に立つ常夜灯は、近江国側の目印として旅人たちの心を慰めたことであろう。」との説明板が立っている。ほんとうに立派な石燈籠であった。
 しばらくいくと、滋賀県と三重県の県境である。ここは東海自然歩道にもなっている。県境のところをすこし左に入ると六体地蔵と安政など江戸時代の年号が刻まれている20基ほどの墓石群があった。ここからは杉木立の中をいくさわやかな峠道であった。街道右側に無名の小さな地蔵がある。このあたりには、山崎屋、井筒屋、境屋、伊勢屋などの6軒の茶屋があり、地蔵が立っているのは鉄屋跡だという。
 さらに進んで、今度は右側の杉木立の中へ入っていくと田村神社跡の石柱が立っている。そのまましばらく分け入ると、鈴鹿山の鏡岩がある。これは三重県指定の天然記念物になっており、かつては表面が鏡のように輝いていたらしい。「天下の峻険鈴鹿峠頂上の南方120mにあり、岩石の種類は硅岩。鏡岩の肌面は縦2.3m、横2m。むかし峠に住む盗賊が街道を通る旅人の姿をこの岩に映して危害を加えたという伝説から俗称「鬼の姿見」ともいう。」との説明板がある。鏡岩の前に立ち下を覗くとそこは絶壁になっており、はるか下の方にくねくねと曲がる国道1号線があり、走っているたくさんの車が小さく見えた。
 旧街道に戻り、急な坂道をどんどん下っていく。途中石段になっているところもある。この石段の途中に「馬の水のみ鉢」というのがあった。これはかなり新しいものらしいが、この険しい峠への登り道、重い荷を積んだ馬もあえぎあえぎ登ったことであろう。そしてこの水飲み場でしばしの休息をしたのであろう昔の旅の姿を思い描いた。「ほっしんの 初に越ゆる 鈴鹿山」の松尾芭蕉の句碑が立っていた。石段を降りきった広場に「天然記念物鈴鹿山の鏡岩」と刻んだ県建立の標石があった。ここで国道1号と交わる。国道を渡りさらにどんどん下っていく。
 やがて燈籠坂に着いた。かつては一定の間隔で常夜燈が立っていたのでこう呼ばれる。石畳は昭和初期に敷かれたものと言われる。昔は、燈籠坂の両側に並んでいた常夜燈だが、現在は延亨元年(1744)、文化11年(1814)、享保2年(1717)、安政6年(1859)の4基だけが残っている。その下に御馬屋の跡らしきものが見える。石段を上がると片山神社である。明治以前は鈴鹿明神や鈴鹿権現と呼ばれ、室町時代には「鈴鹿姫と申す小社」と書かれた古い神社である。色づきはじめた紅葉が美しい。少し下った林の中に宝永7年(1710)建立の自然石に「南無阿弥陀仏」と刻まれた名号碑があった。このあたりの道路が小川を越えるところは琴の橋と呼ばれるそうだ。
 街道が神社の参道と重なっている。昔はこのあたりに坂下宿があったが、慶安3年(1650)の大洪水によって集落が壊滅し、現在の位置に移ったという。以後このあたりを古町と呼ぶ。歴史の道100選にも選ばれている静かで落ち着いた街道である。国道にぶつかったところから街道は川の横を走る国道に沿って作られた舗装された側道らしい。しかし街道歩きとしてはおもしろくない。そこで数段の石段を上り、東海自然歩道と記された山へと登っていった。側道を周りこんだ山道らしい。しかし登るにつれ道は次第に細くなって、大勢の人が行き交った旧街道とはとても考えられない。再び国道に降りきったあたりで今度はほんとうに国道と別れて旧街道に入る。  
 国道を鈴鹿トンネルにむかって車で通るたび、一度歩いてみたいと憧れていた坂下宿に入った。坂下宿についての説明書を読むとこう書いてある。
 坂下宿は江戸から48番目の宿駅であり、鈴鹿峠の下にあることからその名が付いたといわれています。元々は峠の麓に位置していましたが、慶安3年(1650)の大洪水によってほとんどが壊滅したため、現在の場所へ移転しました。坂下宿は峠の宿場の典型で、天保4年(1846)の記録によると戸数153、人口564、本陣3、脇本陣1で、旅籠の数は48と、亀山宿の21、関宿の42よりも多く、全戸数に占める旅籠の割合は五十三次中、箱根宿に次ぐ高いものでした。
 最初に出会うのが、万治年間(1658〜61)、法安寺の実参和尚が旅人の道中安全を祈って造立した岩屋観音である。町指定名勝で、高さ18mの巨岩の岩窟に弥陀、観音、勢至の三体の石仏を安置してあるというが、お堂の中は見られない。
 如来堂橋のたもとに櫛屋の地蔵が祀られている。三体の石地蔵で、古町に祀られていたが、明治維新後古町から移されたそうだ。民家が移転する際、夢のお告げで「わしも一緒につれていってくれ」と言ったという言い伝えがある。如来堂橋は別名上の橋。このあたりが宿の端であった。細い旧道と宿場らしい家並みがわずかに残っている。明治初年に廃寺になったが、家康や家光が小休止したといわれる金蔵院の高い石垣も残っている。その下に人の身代わりになってくれるということから身代わり地蔵と呼ばれる地蔵堂があった。
 やがて河原谷橋。沓掛と伊勢国最後の宿・坂下の境界で下の橋ともいう。このあたりに街道名残の一本松があったというが、今は見当たらない。橋のたもとに「小竹屋脇本陣跡」の石柱がある。道から少しそれ細い谷沿いに法安寺がある。この寺の玄関は、本陣松屋の玄関を移築したものである。茶畑の中に、「梅屋本陣跡」「大竹屋本陣跡」の石柱がある。梅屋本陣の横に街道の松並木を復活させようとの松の若木が植えられている。問屋を兼ねた「本陣松屋跡」の石柱もある。
 さらに下っていく。旧坂下小学校で坂下青少年研修センターには坂下地区の資料館が併設されていた。鈴鹿馬子唄会館で、鈴鹿馬子唄を聞きたいと思ったが、残念ながら聞けなかった。ここから沓掛本郷の集落に入る。街道の雰囲気を残した情緒のある家並みである。起こし坂の景観も美しい。五十鈴川に沿って下っていくと町指定史跡の筆捨山が望める。室町時代に、画家の狩野法眼元伸がこの山の風景を描こうとしたところ、雲や霞がたちこめ、風景がめまぐるしく変わったため、ついに描くことができず、筆を捨てたという伝説から名付けられたそうだ。秋あかねがたくさん飛び交う街道はまさに秋まっただなかであった。集落のはずれで国道と交わる。国道脇に一里塚跡の標石があった。古い道が消えたり残ったりしていた。
 浄土真宗本願寺派の西願寺、その門前の常夜燈、大きくて立派な市ノ瀬社常夜燈などと続いている。この街道の常夜燈は自然石のものが多い。
 道路脇の畑の中に転がる直径2mの岩石で「弁慶ころがし」と言われ、何度片づけても街道に転び出たという「ころび石」を探したがどうしても見つからない。諦めかけたころ、それは駐車場のフェンスの中に捉えられていた。これではさすがに逃げ出せまいとおかしいやら気の毒やら・・・
 
 いよいよ関宿である。ここは私たちの住んでいるところから比較的近いので何度も訪れたことがある。関宿のパンフレットからこの街を紹介したい。
 関宿は古代から交通の要衝であり、古代三関のひとつ「伊勢鈴鹿の関」が置かれていたところです。関の名もこの鈴鹿の関に由来しています。江戸時代には、東海道53次の江戸から数えて47番目の宿場町として、参勤交代や伊勢参りの人々などでにぎわいました。現在、旧東海道の宿場町のほとんどが旧態をとどめない中にあって、唯一歴史的な町並みが残ることから、昭和59年、国の重要伝統的建造物保存地区に選定されました。関宿の範囲は、東西追分の間約1.8km、25haに及び、江戸時代から明治時代にかけて建てられた古い町家200軒あまりが残っています。
 西の追分に着いた私たちは改めてこの宿場町を東の追分まで歩いてみることにした。県指定史跡の西追分は関宿の西の入口にあたり、東海道と大和・伊賀街道の分岐点。石柱には「ひだりハいかやまとみち」とある。やがて国重要文化財の地蔵院の前に出る。「関の地蔵に振袖着せて、奈良の大仏婿に取ろ」の俗謡で名高い関地蔵院である。天平13年(741)行基菩薩の開創と伝えられている。近郷の人々に加え、東海道を旅する人々の信仰を集め、現在でも多くの参拝客でにぎわっている。境内の本堂、鐘楼、愛染堂の三棟が国の重要文化財に指定されている。この門前の町並みが美しい。「会津屋」は関宿を代表する」旅籠のひとつである。もとは山田屋と言い、小万が育ったことで知られている。二階に洋風意匠の窓がついた「洋館屋」、米をつく水車の音から名付けられたという「川音」、伝統のある鍛冶屋など、特色のある町屋が並んでいる。私たちはその一軒で軽い遅めの昼食をとった。さらに東へ街道を歩く。
 土蔵づくり風の郵便局の前には、高札場の跡が再現されていた。少し行くと「深川屋」がある。寛永年間から「関の戸餅」を売っていた。2階に掲げられた看板は、表と裏で書体が違っている。たくさんのお寺、道標、常夜燈、旅籠、茶店、本陣跡、神社、御馳走場跡(宿役人が大名行列を出迎えた場所)、火縄屋、芸妓置店、馬つなぎの鉄環なども残りそれらには一つひとつ説明書きがついている。また関まちなみ資料館や各所に休み処も設けられている。それらを一つひとつ見ながら歩いたのでかなり時間がかかったが、なかなか見ごたえのある街並みであった。
 とうとう東の追分に着いた。ここも県指定史跡になっていて関宿の東の入口にあたる。東海道と伊勢別街道の分岐点である。大鳥居は伊勢神宮を遥拝するためのもので、20年に一度の伊勢神宮式年遷宮の際、内宮宇治橋南詰の鳥居が移されてくる。常夜燈、道標なども残っているとのことであったが、どう探しても道標は見つけられなかった。私たちはここから来た道を戻り、地蔵院のそばの駐車場まで帰った。
 またいずれの日か、東の追分から伊勢別街道を辿りたいと思っている。

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