晩秋の中山道木曽路と懐かしい信州の山々

   晩秋の中山道木曽路と
   懐かしい信州の山々
 
 キャンピングカーの総点検をしてもらったらすこぶる調子がよい。さあ足のむくまま気のむくままの旅に出よう。紅葉狩りには少し遅いかな? まずは長年憧れていた中山道を歩きたいな! そして信州の山々も眺めたい。


11月3日
 南木曽温泉・木曽路館で入浴ののち妻籠駐車場でP泊。
11月4日
新茶屋から馬籠峠越えで妻籠までの中山道を歩く 
 妻籠宿からタクシーで落合宿と馬籠宿のちょうど真ん中にあたる新茶屋まで送ってもらった。ここに一里塚があり「是より北 木曽路」の碑が立っているからである。碑の文字は藤村の揮毫したものだという。天保13年(1842)建立の芭蕉句碑「送られつ 送りつ果ては 木曽の穐」も立つ。またここは信濃と美濃の国境でもあり国境碑も建っていた。まことにのどかな里で、民宿の佇まいも中山道の往時をしのばせるようでいい。少し上ったところに「桑の実の木曽路出づれば穂麦かな」の正岡子規の句碑もあった。さらになだらかな丘を越えて進むと戦国時代の山城丸山城跡があった。ここでスペインから来たという人にあった。諏訪神社には島崎正樹碑があった。島崎正樹は藤村の父で、馬籠宿本陣当主であり、小説「夜明け前」の主人公青山半蔵のモデルである。石屋坂を上るといよいよ馬籠宿。ここは木曽11宿の最南端、美濃との国境にあり、江戸板橋から数えて43番目の宿場。中山道が急な山の尾根を通っていることから全国でも珍しい「坂に開けた宿場」である。水利が悪くまた吹き上げる風が強いことからしばしば大火に見舞われ、とりわけ明治28年と大正4年の大火によって江戸時代の民家はことごとく焼失したという。車屋坂に阿弥陀堂、枡形があり、その上に水車小屋があった。何度も訪れたところであり、清水屋資料館、藤村記念館、大黒屋、馬籠脇本陣史料館など横目で見ながら先へ進む。車道を渡るといよいよ馬籠峠への登りにかかる。まず目につくのは立派な高札場。その少し上の馬籠上陣跡が展望台兼公園になっていた。島崎正樹翁の歌碑や「あの山の向うが中津川だよ 美濃は好い国だね!」・・・藤村の「夜明け前」の一節が書かれた説明板が立っていた。私たちはここで早めの昼食をとった。そして隣に座っていたドイツの人と話した。その後このご夫婦とは抜きつ抜かれつ何度も出会いすっかり親しくなった。なにより驚いたのはこの峠越えの中山道でたくさんの外国人と出あったことだ。イングランド、オランダ、イタリア、台湾・・・あとは聞くのが面倒になって止めたが、日本人より外国の人のほうがはるかに多かったのである。紅葉、黄葉は美しくすばらしい街道であるが上りにつぐ上りの坂道は険しくあえぎながら登り昔の人の苦労と強さを思った。更に登ると「山家にありて水にうもれたる蜂谷の家族四人の記念に 島崎藤村しるす」の水車塚。明治37年(1904)水害のためここにあった家屋は一瞬にして押し流され一家四人が惨死した。難を逃れた家族の一人が藤村と親交があったことから供養のため藤村に碑文を依頼して建てたのがこの水車塚である。梨乃木坂を上ると峠の集落。入口に十返舎一九の碑「渋皮のむけし女は見えねども栗のこはめし爰の名物」の狂歌碑である。2日は−4度、3日は積雪があったそうで、夕べも今朝も寒さに震え上がった。しかし今日はなんともすばらしい秋晴れ、しかも登るにつれ暑くて暑くて・・・着込んできた上着を一枚また一枚と脱ぐ。江戸の頃は民間の輸送には牛が使用され、牛は「岡船」とも呼ばれ陸路輸送の中心的存在で、峠集落の人々の多くが牛方の仕事に従事していた。峠集落は宝暦12年(1762)の大火でほぼ全焼したが、その後は火災もなく江戸時代の建築遺構がよく残っていた。何度も車道を横切り登っていくと「峠之御頭頌徳碑」があり、熊野神社を過ぎると馬籠峠である。標高801m、この峠が馬籠宿と妻籠宿の境。正岡子規の「白雲や青葉若葉の三十里」の句碑が道標を兼ねて建っている。峠の茶屋からの下りは石畳ではあるが傾斜が急で険しい。子安観音を過ぎると一石栃口留番所跡。木曽五木(ひのき、さわら、あすなろ、こうやまき、ねずこ)をはじめとする伐採禁止木の出荷統制が行われていた。ここには立場茶屋もあったが、今でも茶屋の接待があり、お茶をご馳走になった。近くに天狗の腰掛けと呼ばれる椹の巨木があった。男滝・女滝の下を通りたくて街道を離れ、少し車道を下った。この滝は吉川英治の「宮本武蔵」のなかに武蔵とお通のロマンスの舞台として登場する。水量豊かな美しい滝であった。その先の追分で街道に合流し、更に石畳の道を下ると倉科祖霊社。天正14年(1586)松本城主小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門朝記が従者30余名とともに地元の土豪たちによって全滅させられたところである。大妻籠一里塚、藤原家住宅を見、どんどん下っていくと飯田街道追分で大きな石柱道標が建っていた。更に下ると藁で作った大きな馬が飾られている茶店の前を通り目的地の妻籠宿。慶長6年(1601)、江戸幕府によって「宿駅」が定められ江戸から42番目の宿場として整備された。明治以降は宿場としての機能を失い衰退の一途を辿ったが昭和43年から歴史的町並みの保存事業により宿場の景観を蘇らせて、現在は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。昔の宿場としての面影を色濃く残す街である。ここも何度も訪れているが時間もあったのでゆっくりと散策した。妻籠宿保存の原点ともいえる寺下の町並みがことによい。上嵯峨屋、馬屋、下嵯峨屋、敵の侵入を阻むために道を直角に折り曲げた桝形の跡、常夜燈、延命地蔵、妻籠宿本陣、歴史資料館、脇本陣奥谷、人馬会所(問屋場)、高札場などを見て廻った。この日は木曽福島まで行き、二本木の湯に入ってから、更に北上し開田高原の水生植物園でP泊。
11月5日
開田高原から日和田高原へ
 開田高原は、道祖神めぐりでくまなく歩いたところだ。今日は、日和田高原を訪ねようと九蔵峠を越えた。九蔵峠から望む御岳山はうっすらと雪化粧しなんともいえず美しい。今日もよい天気だ。古生層チャートの大しゅう曲もみごとだ。さらに雪の残る山道を走り長峰峠を越えて岐阜県に入る。着いた日和田高原には驚いた。日和田といえば牧場というイメージだが、何年ぶりだろう、来てみると牧場は閉鎖され閑散としている。しかし白樺林が美しく、火祭りの大篝火をかかげる台が残されていた。帰りは御岳山の麓をとおり、御岳湖まで入った。そして御岳山日野百草本舗を見学。シナノキの説明で「信濃の国」は、この木が多いところから名付けられたと書かれていた。またシナはアイヌ語の「結ぶ 縛る くくる」からきており、樹皮の繊維が強く、織って「シナ布」としたとのこと。道の駅三岳、日義木曽駒高原に立ち寄った。ここに碑があり、「中山道東西中間之地」と彫りこまれていた。江戸へも京へも67里28町なのだそうである。木祖村郷土館を見学した後奈良井まで行きP泊。
11月6日
薮原宿から鳥居峠越え奈良井宿までを歩く
 JRで薮原まで行き、ここから中山道を歩き始めた。薮原宿の中でまず見つけたのは高札場跡であった。ついで防火高塀跡。元禄8年(1695)薮原宿の殆どを焼失する大火があった。その後防火対策として宿再建の際、各戸1間につき1寸の割合で提供し合って上横水と下横水の2ケ所、四ツ辻の広小路を作り、文化年間、上横水の広小路の北側に土を盛り石垣を築きその上に高い土塀を作って防火壁としたという。大きな焼き物のたぬきの立つ湯川酒造店のところで右折し、地下道を越えて薮原神社に上ってみた。線路沿いに行くと飛騨街道追分に出た。薮原宿は中山道の宿駅として発達したところだが、ここから奈川を経て野麦峠、飛騨高山へ通じる道を分ける。その上に御鷹匠役所跡があった。天降社水神と天然記念物のオオモミジを見ながら行くと、鳥居峠への案内板があり、林道と合流する。ここからは道が細くなりカラマツ林を行く美しい街道となる。さらに登ると熊除けの鐘と鳥居峠の説明板があった。いよいよここから峠越えの険しい坂となる。木曽鳥居峠は木曽川と信濃川の分水嶺である。古くは信濃国と美濃国の国境にあたり、「岐蘇路」が開通したころには「県坂」といわれていた。その後木曽義元が戦勝のお礼として御嶽神社の鳥居を再建し、「鳥居峠」と呼ばれるようになったという。1197mの峻嶺で、ここを歩いていると、悠久の昔が偲ばれるような気分になる。石畳の道をじぐざぐを繰り返し登りつめると測候所跡があり、東屋の建つ丸山公園である。ここには掘割状の地形が見られ、義仲硯水、芭蕉句碑があった。句碑には「木曽の栃うき世の人の土産かな」とあった。ほかにもいくつかの句碑とここは古戦場でもありその碑も建っている。ここでお弁当を食べ、さらに登ると御嶽神社があり、ここから御嶽を遥拝することができた。トチの木の群生地・子産の栃を見ながら下るとやがて鳥居峠、ここから遙か下に奈良井の町並みが見えた。「菊池寛の「恩讐の彼方に」の鳥居峠での場面は静かな中に一瞬凄絶を極める。そしてここから遠く青の洞門へと舞台は移ってゆく。この鳥居峠には作品として最も重要な動機が設定されているのであるが、思えばその動機の背景をこれほど見事にふさわしく偲ばせるところもないのである。鳥居峠の貫禄というものであろう。」とあった。葬沢・・・天正10年(1582)、木曽義昌が武田勝頼の2000余兵を迎撃し大勝利。この時武田方の戦死者500余名でこの谷が埋もれたという。急坂を下り、中の茶屋を経て、石畳の道をさらに下ると車道に出た。楢川歴史民俗資料館に寄るとちょうどお昼時で、お漬物、お茶のお相伴にあづかった。鎮神社や高札場跡から昔の面影を留める奈良井の町を散策した。「奈良井川に沿って緩やかに下りながら約1kmの中山道沿いに町並みが形成され、たぶん日本一長い宿場通り」とのこと。南北両端に神社があり、背後の山裾に五つの寺院が配されている。「奈良井千軒」といわれた建物の大部分は中二階建で、低い二階の前面を張り出して縁とし、勾配の緩い屋根をかけて深い軒を出している。現在も宿場当時の姿をよく残した建物が街道の両側に建ち並んでいる。ことに街のあちこちにある水場が風情があっておもしろかった。奈良井駅まで行ってから木曽の大橋まで戻った。
 奈良井を出て、飛騨川の源流境峠を越えて奈川を通り乗鞍高原に入った。イガヤキャンプ場などめぐり、大好きな湯けむり館で入浴した後、明日に備えて沢渡駐車場に移動してP泊。今日も終日快晴であった。
11月7日
懐かしい上高地を歩く
 30年以上前から北アルプスに登るためにしばしば上高地を訪れている。しかしこの前来たのはいつだったか? たぶん4〜5年前・・・懐かしい!久しぶりだね!!
 今日も快晴、全く天候に恵まれていて感謝。早朝、バスで上高地に入り大正池で降りる。焼岳が朝日に輝いている。大正池は昔とすっかり姿を変えてしまった。それこそ30余年前、息子や娘とともにここでボートを漕いだときは、噴火で枯れた樹木が何本も林立し水量も豊かで、これこそが大正池であった。水量の少なくなった池に下りると梓川をせきとめたその青い湖面に焼岳が逆さに映りそれはそれでまた美しかった。ここから歩き始める。田代池までの田代湿原一帯は早朝の冷え込みによってできた霧氷で木々も草も真っ白だ。たくさんの写真愛好家が大きなカメラを構えている。日が射すと一瞬に消えてしまう。田代橋に出たところで懐かしい帝国ホテルに寄ってみようと右折。このホテルにはたしか5泊ほどしただろうか、そのうち2度ラストナイトパーティーに参加した。明日が今年のラストナイトだそうで、勿論満室。2ケ月も前でないと予約がとれない。来年の予約をとる客もたくさんあるとか。赤い屋根が周囲にマッチし象徴的であった。田代橋に戻り梓川右岸を辿る。まもなくウェストン・レリーフ。英国人ウォルター・ウェストンは、明治24年から27年の間に槍ケ岳や穂高岳の山々を数多く歩き、日本に近代的な登山意識をもたらし日本山岳会結成のきっかけを作った。その旅の紀行文「日本アルプス登山と探検」により中部山岳を世界に紹介した人である。河童橋に到着。橋の上から、青緑色に流れる梓川の上に冠雪の北アルプスの山々が輝いていた。西穂高岳、天狗岩、奥穂高岳、吊尾根、前穂高岳・・・いずれも私たち夫婦でかつて登った山々が青空に屹立している! 涙が流れるようなすばらしく美しい光景が広がっていた。私たちはここからさらに右岸を進む。ここはずいぶん変わった。長い長い木道が敷設されていたのだ。カラマツ林の中をいく。しかし・・・ここはもはや軽装の観光客の世界。明神池もすっかり様変わりした。穂高神社奥宮に参拝する。ひっそりと佇む嘉門次小屋はいかにも山小屋らしくて大好きだったが、今改装された小屋は観光客であふれていた。私たちは、護岸工事のなされた梓川のほとりでお弁当を食べた。明神橋を渡り今度は左岸を歩く。ここまで来るとさすがに静かな山歩きが楽しめた。やがて「徳本峠へ」の看板があった。夫は55年も前に越えたこの峠をしきりに懐かしむ。途中の古池のあたりから対岸に聳える明神岳の山々もなんともいえず美しかった。やがて徳沢に着いた。ここはハルニレの巨木が点在する明るい草原で、明治初期「上高地牧場」と呼ばれ、昭和初期まで放牧が行われていたという。梓川をはさんでそそり立つ前穂高岳東壁は小説「氷壁」の舞台である。徳沢園も徳沢ロッジもすでに閉鎖されていてひっそりしていた。ここから引き返す。8時間にわたり思い出にひたった散策であった。沢渡に戻り、さわんど温泉のひとつホテル杣乃家で入浴をさせてもらい昨夜と同じところでP泊。
11月8日
乗鞍高原
 今日もよい天気、乗鞍へ戻ろうということになった。私たちは夫婦そろって乗鞍が好きなのである。いがやレクリェーションランドで遊び、一の瀬園地に入った。このあたりには歩くスキー、クロスカントリーのコースがたくさんある。私たちもかつてスキーで入ったコースを今日は歩くことにした。どじょう池を少し過ぎたあたりから登りはじめ一の瀬キャンプ場までいった。もちろん人気は極めて少ない。静かな白樺林が美しい。帰りは一の瀬園地の中の遊歩道を歩いた。
権兵衛峠
 松本へ出てもいいのだが、昔秋に越えてその美しさに感動した権兵衛峠が今はトンネルになっているという。もう一度あの紅葉を楽しもうと権兵衛峠を越えて伊那に出ることにした。木曽川の源流、姥神峠、番所を越え権兵衛峠へ。標高は1522m、その昔、伊那と木曽とを結ぶ最短コースであったが、人一人がやっと通れる険しい峠道であった。峠道で転び持っていた鍋がコロコロと転がり落ちて欠けてしまったほどの険しさで「鍋掛峠」と名が付いたという。この峠道を牛馬が通れる道にし、伊那から木曽へ米を運べるようにしたのが「米の道・権兵衛街道」である。現在はその峠の下を4470mの立派なトンネルが開通し楽々と越えられるようになっていた。黄葉した山々は実に美しかった。伊那ICから中央高速道を走り諏訪湖へ。見下ろす夜景がすてきだった。諏訪ではかの有名な片倉館の温泉を楽しみ、ヨットハーバー駐車場でP泊。
 
11月9日
中山道を訪ねる
 まずは下諏訪宿から和田宿へ車を走らせる。国道142号線は、少し離れたり交差したりしながら旧中山道に沿っている。従って車で走っていてもあちこちで中山道への標識を見ることができる。まず見つけたのが西餅屋茶屋跡。中山道は江戸と京を結ぶ裏街道で下諏訪宿と和田宿間は5里18丁、ここには「立場」(人馬が休息する所)があり、藩界でもあったのでときには穀留番所が置かれた。そのすぐ下に立派な一里塚が建っていた。江戸より53里と記されている。ここから1.5km登ったところが和田峠と示されていた。しばらく行くと今度は唐沢の一里塚、江戸から51番目の一里塚だという。植えられた榎か松は枯れてしまったが道の両側にこんもりとした塚が原型を留めている。その先にきれいな街道が続く。傾斜はかなり急だがこの街道を歩いてみたくなった。和田宿に着いた。あいにく月曜日でどこも閉まっていたが、本陣御入門、脇本陣、羽田野、大黒屋、かわちやなどを眺めた。ここは皇女和宮降嫁の宿泊地であったそうだ。和田峠は黒耀石の産地で、黒耀石石器資料館もあるが月曜休館で残念。少し離れた長久保宿へ。中山道28番目の宿場である。「長久保宿歴史資料館 一福処濱屋」も休館日。石合家(旧本陣)、羽毛田家(古久屋)、竹内家(釜鳴屋)、小林家(問屋)、竹重家(辰野屋)などを見てまわった。そして笠取峠へ。標高877mにあり、立場茶屋があった。「名物ちからもち」が売られていたという。銀明水、金明水の跡を見てきた。少し下ると笠取の一里塚。ここには赤松の大木も残っていた。中山道には立派な一里塚がたくさん残っており驚く。続いて天然記念物の笠取峠松並木。赤松の並木で、現在100本余の老松が残っている。みごとである。ここに「從是東小諸領」の石碑が建つ。公園になっており、ほかにも道祖神や皇女和宮に関わる碑などたくさん建つ。芦田宿まで行き引き返した。途中から美ヶ原への道をとる。登っていくと「国史跡の永代人馬施行所(和田峠接待)」があった。11月から3月まで峠を越える旅人に粥と焚火を、牛馬には年中桶一杯の煮麦を施行したという。その上に和田峠遺跡群があり、さらに上に東餅屋(1531m)、今は石垣を残すのみだがこの上がほんとうの和田峠である。ビーナスラインを走り、三峰峠を越え、扉峠までいくと美ヶ原が眼前に見えた。ここからまた引き返す。今度は鷲ケ峰、八島ケ原湿原を通り霧ケ峰へ。強清水へ行き、ホテル強清水で温泉に入らせてもらいP泊。
11月10日
 霧ケ峰を散策し、自然保護センターを見学、その後車山高原、白樺湖、蓼科高原で遊び自宅に帰った。旅の間中雨はなかったが、三重県に入ったとたん雨が降りだした。車の中でご飯を炊き、ほとんど自炊、7泊とも車中泊、全くのゆったりとしたキャンピングカーならではの旅であった。
 
 

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2010年11月11日
 早朝に出発し、妻籠の駐車場に車をいれてバスで馬籠へ。昨年は新茶屋から歩いたのだが、そこは明日歩く予定なので今日は馬籠宿から歩き始める。快晴である。明日宿泊予定の「但馬屋」に寄り明朝からの駐車を依頼し、馬籠宿の坂道を登っていく。山が酔ったように美しく染まっている。途中山水でからいもの味噌漬けを洗ってみえた方からそれをご馳走になったり、行き交う外国の人たちとの会話を楽しんだりしているうちに難なく馬籠峠に着いた。今回は距離が短いので「あらもう!」の感じ。峠の茶屋で休憩しあとは下り。紅葉を楽しみつつゆっくりと降りる。途中3箇所ほど新設されていた熊除けの鐘を鳴らしながら。そして昨年と同じ立場茶屋でお茶をいただく。その後、今回は男滝・女滝は上から見ることにして本来の旧街道を進んだ。やがて大妻籠、今夜の宿を確かめて、さらに下り妻籠宿へ。時間も早かったので妻籠宿をゆっくり散策し、車で大妻籠に戻る。今夜の宿は民宿「かめやま」。近くの「藤原家住宅」を見に行った。これは17世紀半ばまでさかのぼることができる古い建築物である。「かめやま」で驚いたのは「大正九年伊勢神宮御用材山出」の古い写真が飾ってあったことであった。
11月12日
 馬籠に車を移動し、歩き始めた。あいにく小雨が降っている。まずは新茶屋まで歩く。旧街道はカラー舗装がなされ、馬籠のいわれの馬と籠の模型が作ってあったりして楽しい。中山道は庶民が利用する生活の道というよりも、兵力の移動を円滑にするためや西国諸大名を支配するための政治的・軍事的な道で、容易に江戸に侵入できないようにわざと地形的に通行の困難なルートをとっているとも言われているそうだ。それにしてもこの落合の石畳は美しい。雨もまたよい。皇女和宮が江戸に向うさまを髣髴と甦らせるような街道である。山中薬師、医王寺・芭蕉句碑を見ながら急坂を下る。高札場跡碑がありここから落合宿である。江戸側桝形、秋葉常夜燈、脇本陣跡、本陣跡、大釜、門冠の松、中仙道道標、京側桝形などを見ながら進む。木曽義仲の家臣で四天王の一人といわれた落合五郎兼行が美濃の勢力に備えて館を構えた城址があった。ここは「伽藍」(大きな寺院)からきた「オガラン様」と呼ばれている。おがらん橋の上から越えてきた馬籠峠をはじめとする山々が遠く見渡せた。ここから美濃の中津川宿までは下りで楽々と思っていたのだが・・・あにはからんやいくつもの峠を越えるアップダウンの多い街道で、しかし雨も上がり日差しも見えて、カラー舗装で道に迷うこともなく・・・与坂、与坂立場茶屋跡、三五沢橋、子野一里塚跡碑、覚明神社、地蔵堂石仏群・しだれ桜、尾州白木改番所跡、石仏三井寺観音、経王書写塔、「山路来て何や羅遊かし寿み連草」の芭蕉句碑、元矩碑を訪ね、石畳道、茶屋坂を下ると高札場跡、常夜燈、庚申、二十三夜塔があった。中津川宿である。この宿では桂小五郎隠れ家跡、往来庭など見て、間家大正の蔵を見学。この家の祖が蒲生氏郷の家臣であり、また赤穂浪士の間家であることに驚く。中仙道歴史資料館、脇本陣跡・上段の間、本陣跡、曽我家住宅も見学した。さらに進み川上屋、白木屋、はざま酒造などの老舗、常夜燈など見て、橋の上からミニ中山道の植え込みを眺め、中津川駅に戻って、バスで馬籠へ。今夜の宿は「但馬屋」。夕食後、ほんのりと灯りの灯る宿場を散策、木曽節の歌や踊りを教わったりした。
11月13日
 久しぶりに「藤村記念館」を見学した。ここでも新発見、島崎家所蔵品の中に「本居宣長宣長全集」がずらり、そして「柿本大人像」掛軸の讃に「宣長」の名が。天気もよいし、御岳へ行くことにした。三岳道の駅に寄り御嶽神社に参拝の後、田ノ原まで入ろうとしたのだが、八海まで行くと「この先積雪のため全面通行止」。やむなく戻って開田高原、九蔵峠を経て木曽福島へ出、さらに北上して権兵衛峠を通り伊那へ。中山道と高原の秋を楽しんだ3日間であった。