ふるさと銀河鉄道

ふるさと銀河鉄道999に乗って
 
 「ふるさと銀河鉄道」なんとロマンチックな鉄道ではないか。ちほく(池北)高原鉄道、池田と北見を結ぶ 140km 1市6町を通る鉄道である。そこを松本零士のアニメ「銀河鉄道」のメーテルと哲郎を描いた銀河鉄道999号が走る。そして毎月1回イベント列車「スペシャル999号」が運行される。2両ある車両を連結したものだ。そのイベントが終わる。ラストランは11月16日。これはなんとしてでも乗らなければならない。しかもこの路線は廃線の噂さえあるのに一度も乗ったことがない。というわけで念願かなってラストランに乗ることができた。さらにこれは14駅に止まっただけである。33駅全部を見てみたい。と日を改めて鉄道沿いの国道を走った。池北高原はそれはそれはすばらしい高原であった。まことに池北高原鉄道とはよくいったものである。
 


 一番上の画像は「999イエロー&ホワイト号乗車記念証」で次が私たちの乗った北見駅での999号、銀河鉄道の車掌さんと共にバッチリ。
 私たちは北見駅まで車で行き駐車場に車を置いて、北見池田間を往復するつもりであった。しかし北見帯広間の往復券の方が安上がりとの駅員さんの勧めにより、足をのばして帯広まで行くことにした。
 3番目の画像はJR北見駅である。この駅の隣に「ふるさと銀河線」の事務所があり、発車ホームはJRと同じである。
北見 (赤字は列車の停車駅、青字は非停車)
 もとアイヌ語「ヌプンケシ」即ち「ヌプ・ホン・ケシ」(野・腹・下(しも))即ち「野の端」から「ヌプケウシ」となまり、それをノッケウシとなまり、地名も駅名も「野付牛」の字があてはめられていたが、昭和17年10月1日国名をとって北見市としたので駅名も改められたものである。
北光社
 カーナビを頼りに探すが入っていく細い道が分からず苦労する。やっと見つけた駅はプラットホームのみの駅であった。たくさんの自転車が置いてあった。通学用らしい。なるほどと納得する。
上常呂
 常呂は「ト・コロ・ベッ」(沼・もつ・川)をとったものである。当駅は常呂川の上流にあるので上の字を冠したのである。
広郷
 広い平野の中にプラットホームのみの駅がぽつんとあった。
日ノ出
 訓子府町の最も東寄りにあたるのでこの名を附した。
穂波
 プラットホームのすぐ脇を大型のダンプカーが行き交っていた。
訓子府(画像)
 アイヌ語「クンネ・プ」(黒い・もの)をとったもので、この附近は湿地が多く小川の水が黒いのでこう名づけられたものである。黒い化物がいたのでそういったのだという伝説もある。駅前の街並みはまるで西部劇を思わせる。駅に池田行きの列車が止まった。単線であるのでここで対向待ちをするらしい。 
 
 
 
西富(画像)
 北見行きの列車が止まったのでそれをバックにして写真を撮っていたら、運転士が笑いながら汽笛を鳴らし発車した。池田行きのライトが見えたので待っていた。さっき訓子府で止まっていた列車だ。雨が降ってきた。
西訓子府
 国道から少し入ったところにある。最初の駅では苦労したが慣れて駅へ通じる道を探すのが上手になった。
境野(画像)
 駅附近にオケト原野とクンネップ原野の境界をしている境川があるため、この附近を境川と名づけたものであるが、境川という駅名は他にあるため、原野の境の意味で境野と名づけたものである。
 蔬菜生産出荷組合の倉庫が並び玉葱がたくさん積まれていた。このあたりの常呂川はとてもきれいである。
豊住
 ここから見る山の景色は紅葉の頃ならさぞかし美しいことだろう。道は置戸国道へ入る。
置戸(画像)
 沿線一のユニークな駅である。人間ばんばの大きな像がひときわ目につく。ラッセル車、車輪を使ったベンチ、メモリアルレール・・・
 金色夜叉ゆかりの松とやらもある。尾崎紅葉の不朽の名作「金色夜叉」の後をつぐ長田幹彦作「続・金色夜叉」は、置戸を舞台に大ロマンを展開する。熱海の海岸涙の別れより十年目、お宮は置戸シイトコロ原野に農場「興農園」を経営する貫一と再会の夢を抱いて置戸駅に下車したところこの松があまりにも熱海の松に似ていたので思わずすがりよりしばし昔を偲んだと伝えられる。私は思わず笑ってしまった。
 この駅は沿線で最初に置かれた駅で「置戸驛開業 明治44年9月25日」の碑が建っていた。アイヌ語「オケドンナイ」即ち「オ・ケッ・ウン・ナイ」(川口に・獣皮を乾かす張り枠・ある・川)の上部をとったものである。
池北高原
 標高400mの分水嶺になっている池北峠のあたりに広がる高原で、車も少なく快適なドライブコースである。夫はこのあたりに自分の土地が持てたらとしきりにいう。
小利別(画像)
 アイヌ語「ポン・ドシベッ」から出たものである。利別川源流の地名、川名。小利別は雨竜川源流の母子里と共に冬の寒いので有名な処。小利別は利別川支流の「ポン・ドシベッ」(小さい・利別川(支流))の訳名だという。
 利別川は十勝川第一の支流である。松浦武四郎東蝦夷日誌は「トシベツ。訳して縄川と云儀は、昔より此川筋アシヨロ・リクンベツ(陸別)と云は、クスリ(釧路)領なるが故に、時々境目論起りしが、此川口に縄を張て、クスリ土人を十勝土人が通さざりしより号ると」と書いた。
 11月21日の気温は10.8度 10月中旬並みの暖かさであった。
川上
 もとはアイヌ語「ポン・ドシベッ・プト」(子なる・利別川・口)といったところであるが、利別川の川上にあるところからこう名づけたものである。人家は見当たらない。木を伐り出すために開いた駅であろうか。
 鹿よけのフェンスと川に囲まれて道路がつけられている。ここより陸別国道に入る。
分線
 プラットホームと小さな待合室がある。そろそろ暗くなってきた。
 
陸別(画像)
 アイヌ語「リクン・ベッ」(高く上っていく・川)から採ったもので、利別川がこの附近でけわしくなり、川が水源に向って急に高く上ってゆくからである。
 陸別は利別川を北に遡って北見国境の山裾まで来たところにある。こんな山中によくこれだけの街ができたと思うようなところである。ここで網走川境の高いところから西流してきた陸別川が本流に注いでいる。陸別は本流の源流部と陸別川筋を含む山間の土地であり、日本一寒い町として有名である。
 跨線橋は珍しいので撮った。
薫別
 国道から少し離れたところにある。 
 利別川東支流のペンケ(上の)・クンベッと、すぐ下のポン(小さい)・クンベッが流れていて、対岸(足寄側)にもクンベッ(今は大誉地川。昔はパンケ(下の)・クンベッか?)がある。たぶん「クウンベッ」(弓・ある・川)と読まれたのであろう。
大誉地
 アイヌ語「オヨチ」から採ったもので、「熊の害の多い所」の意であるというが、「オ・イ・オチ」(川そこに口・蛇・多いところ)であろう。イ(それ)は、恐ろしいもの、貴重なものを直接口でいうのを憚って「それ」といったもので、熊であったり蛇であったりあるいは菱の実であったりする。この場合はオチ(ごちゃごちゃいる)という動詞から見て熊か蛇らしい。
笹森(画像)
 わずかに道らしいものを見つけて入る。近くに廃業した牧舎のみが残っていたが、引込み線のあるところからみると昔はかなり栄えた集落があったのだろうか。
上利別
 利別はアイヌ語「ドシベッ」(綱(蛇の忌詞・川)から出たといわれる。利別川の上流にあるので上の字を冠したのである。
 かなり暗くなっており、駅舎のあかりがぼおっと灯っていた。
塩幌
 すっかり暗くなった。メモリアルレールのあるプラットホームに灯りが灯っていた。人家は全くない。
西一線
 西の空がそこだけ朱い。池田行きの列車が止まった。なんと銀河鉄道999号であった。まるでこれから宇宙へ旅立つみたいだ。
愛冠(画像)
 私たちも追いかけると銀河鉄道999号はこの駅に止まっていた。「さあ乗ってください」といわんばかりに。
 アイヌ語「アイカップ」からでたもので「アイカップ」は「届かぬ」という意であり、アイヌの人たちは山狩に行く時対岸の岩を射て猟運をためす風習があるが、このところはその矢が容易に岩に達しないところから名づけられたものといわれている。
 駅舎は明るかった。
足寄(画像)
 6月にこの駅前に来たときは、ラワン蕗が茂っていた。今夜は21銀河ホールのタワーが光っている。
 アイヌ語「エショロ・ベッ」(沿うて下る・川)から出たもので、釧路方面から阿寒を越えてこの川に沿って十勝または北見へ出たためこう名づけられたものである。
 松浦武四郎郡名建議書は、足寄の名を「土人に尋候ば、大古神が名附けし所にて、知らざる由相答申候」と書いた。
仙美里
 駅名だけが明るく光っていた。
 アイヌ語「パンケ・センビリ」(下流の・蔭)の下部をとったものである。それが何の蔭なのか分からない。安田岩城氏十勝地名解は「アイヌ等熊害などを避けし時樹蔭或は岩かげにかくれし事ありしより此名ありといふ」と書いた。また十勝アイヌの人がこの辺で北の釧路アイヌの人たちに逢い、蔭にかくれて逃れたとかの伝承もある。
 この夜は本別に泊まった。
 
 
 
 
本別
 この建物は「北海道赤レンガ建築賞(平成3年)」を受賞した建物である。
 アイヌ語「ポン・ベッ」(子なる・川)から出たものである。本別川は利別川の東支流で、相当の川ではあるが、対岸の美里別などと比較して小さい川と呼んだものか。
岡女堂(画像)
 すぐ後ろに岡女堂という会社があり、駅はこの会社への通勤者の便のため作られたものであろうか。
南本別
 非常に大きな製糖工場があった。「ほのぼの印」の名が見える。大きなテント倉庫がいくつも並び、中にはビートが詰まっていた。換気のためであろう天井近くの窓は開放されていた。
勇足(画像)
 駅舎の中に入りホームに出ると、引込み線があった。線路の上に降りて写真を撮った。
 アイヌ語「エサン・ピタラ」(差し出た・川原)から出たもので、駅附近の利別川に突出した川原のあるのに名づけたが、これに漢字「勇足(いさみたり)」をあてたため、後に字面を音読して今日に至ったものである。
大森
 国道からすぐ5段のコンクリート階段を上るとそこがプラットホーム。
高島(画像)
 この駅のもみじの大木は見事だ。雪が舞ってきた。10:08 上り下りの列車が重なる。高島農協の大きな倉庫が見える。馬鈴薯、大豆などと書いてあった。当駅は高島嘉右衛門の高島農場内に設置されたものであるためこのように名づけたものである。ここは昔ペッポと呼ばれた場所で、ペッポは「小川」の意。
様舞
 風のせいだろうか電柱がたくさん同じ方向に倒れていた。
 松浦図のシヤモマイはこれであろう。「シャム・オマ・イ」(和人・いる・処)の意。
池田(画像)
 銀河鉄道999号が止まっていたので駅の反対側に周り何枚も何枚も写真を撮った。
 池田は利別川東岸にある賑やかな街。十勝川と利別川が昔合流していた辺である。合流点の辺が「セイオロサム」(貝殻・の処・の傍)と呼ばれていたので、それによって明治32年凋寒村外十三村戸長役場を設置、同39年凋寒村となる。初めはシオレサムぐらいに呼んでいたらしいが、後にシボサムと呼び、更に音読みしてチョウカン村ともいった。難しい字をつけたものである。大正2年川合村と改称。十勝川、利別川の合流点の意。大正15年更にこれを池田町と改めた。明治29年に池田侯爵が開拓農場を作った処なので土地にその名が残っていたからであろう。今では十勝ワインの生産地として名高い町である。
 列車はそのままJRに連結されて帯広に向う。利別、幕別、稲士別、札内と止まり帯広に着いた。この列車は1時間20分後に折り返す。
 帯広を中心とするこの十勝はその昔、開拓に入った晩成社の依田勉三が「開拓のはじめは豚とひとつ鍋」と詠んだ非常な苦難の歴史があるところである。六花亭の銘菓にもそれにちなんだものがある。ここはなんとしても豚丼を・・・ハハハ「元祖豚丼のぱんちょう」に挑戦!ところが行ってみると長蛇の列。これでは乗り遅れる。またもや諦めざるを得ない。
 帰りの列車で印象的だったのは夕陽を受けて銀河鉄道の影が映し出されていることだった。なんとも幻想的な光景であった。
 かくして私たちの銀河鉄道999の旅は終わった。一日がかりのこの旅はすばらしい想い出となった。夢を乗せて走るこの列車をいつまでも残したいと強く思った。
 
 星は流れ メーテルは消えていく
 少年の日が二度と帰らないように
 メーテルもまた去って帰らない
 人はいう
 999は哲郎の心の中を走った
 青春という名の列車だから
 今一度万感の想いを込めて汽笛が鳴る
 今一度万感の思いを込めて汽車が行く
 さらばメーテル
 さらば銀河鉄道999
 ・・・・・そして少年は大人になる
 
 SAYONARA
 LOVE  LIGHT
  さようなら なつかしい思い出よ
  お別れです
  さようなら ふり向かないで
  そのわけは聞かないで
  きたるべき時がきて
  あなたはひとり旅立つ
  心にとどめて さようならの言葉を・・・
  だから いまは お別れのとき
  もうあなたは大人だから
  いっしょにはいられない
  ふたりの思い出を胸に
  あなたの行く道をさがして
  日ごとにたくましくなる あなたに
  語る言葉もなく つのるわが想い・・・
  さようなら なつかしい思い出よ
  お別れです
  さようなら ふり向かないで
  そのわけは聞かないで
  きたるべき時がきて
  あなたはひとり旅立つ
  心にとどめて さようならの言葉を・・・
 
  あなたの行く道をさがして
  日ごとにたくましくなる あなたに
  語る言葉もなく つのるわが想い・・・
 

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