イチャルパへの旅
 
 

イチャルパへの旅
 11月3日から28日までアイヌの友人たちのイチャルパ(先祖供養祭)に参加させていただくために北海道に行った。途中上士幌のアーチ橋を訪ね、イチャルパの準備とお祭りへの参加で屈斜路湖畔に2週間滞在し、「ふるさと銀河鉄道」(北見ー池田)にも乗った。帰途には東北の温泉をいくつか楽しんだ。これはその思い出の記録である。


ひがし大雪アーチ橋をめぐる
11月3日
 松阪では氏郷祭りの日。あいにくの雨であったが、午後出発した。23:30敦賀発苫小牧行きの新日本海高速フェリーに乗船する。
11月4日
 1:30出航 低気圧の前線接近により荒天、揺れ烈しく船酔い。21:00ようやく苫小牧着。26時間絶食の後コンビニでおにぎりを買って食べる。樹海ロード日高(道の駅)に着いたのは23:30 車中で仮眠。
11月5日
 快晴 なんどか越えたがこんなに美しい日勝峠は初めてである。フェリーでは苦しんだがやっぱり北海道はいい。帯広に着く。かの有名な「元祖豚丼のぱんちょう」はあいにく定休日。午後上士幌のひがし大雪アーチ橋をまわる。ここは北海道遺産の一つで、今年6月巡ったことがあるが、木の葉の落ちた季節はいくつかの橋が国道からもよく見えるとのことであったので、その頃是非訪れたいと願っていたところだ。国鉄士幌線は十勝北部の農産物の運搬や森林資源の開発に貢献した鉄道である。このコンクリート製のアーチ橋は1936(昭和11)年から1955(昭和30)年にかけて造られた。士幌線は急勾配と急カーブの続く本格的な山岳路線。工事費をおさえるために現地で調達可能な砂利や砂を利用でき、また音更川の渓谷美に調和したデザインをということからアーチ橋となったのである。しかし車社会の到来によって鉄道は廃止になった。がアーチ橋は地元の人々の熱い想いによって開拓の歴史を伝える近代産業遺産・文化財として今に残っている。
第三音更川橋梁(画像) 鉄筋コンクリートアーチとしては北海道一の大きさを誇る32mをもつ全長71mの美しい橋で登録有形文化財。桜と釣りの名所「泉翠橋」という景勝地にかかり元小屋ダムの静かな湖面に影を落としている。泉翠橋からも美しく見えたが橋の下まで降りていくとその大きさに圧倒された。
糠平第一陸橋 長さ47m 国道から木の間隠れに見ることができた。
第二音更川陸橋 長さ63m 音更川の断崖絶壁に沿った士幌線では川を渡らない陸橋も造られた。国道から急斜面の堤防を川のところまで降りていくと、淵に落すアーチの影がきれいだ。整然とした石積み護岸が続き天然素材と人工素材であるコンクリートが自然と調和している美しい景観を見ることができる。
第四音更川橋梁 上と同じ場所から見える。長さは91mあった。音更川に架かるところは36mの鉄の桁橋であったが撤去されたそうだ。残ったアーチ橋の上には木が茂り列車が走らなくなってからの歳月を感じさせる。
下の沢陸橋 国道に戻るとかなり高いところに長さ47mの橋が見える。
中の沢陸橋 トンネルを出るとすぐ糠平大橋の上からこの陸橋とトンネルが見える。ずいぶん離れているがすっかり木の葉を落とした木々の上に見ることができた。
三の沢橋梁(画像) 長さ40m 三の沢橋の上から間近かに中央の大きなアーチ部分が糠平湖の湖面に映えて白と青のそれはそれは美しいコントラストを見せてくれた。
五の沢橋梁 長さはわずか7m 白樺橋のところから少し降りると木の間隠れに見ることができた。
第五音更川橋梁(画像) 長さは109mもある登録有形文化財。滝の沢橋から見える。10mの無筋コンクリートが連続し音更川をまたぐところには23mのコンクリートアーチが造られたとても大きなアーチ橋である。音更川の流れがすばらしく美しい。
第六音更川橋梁 国道から車で少し入ったところに架かる長さ96mの大きな橋で登録有形文化財。険しい崖とのコントラスト、滔々と流れる音更川の流れは迫力があり心地よい。
十三の沢橋梁(画像) 国道からかなりのダートの道を走ったところに長さ58mで登録有形文化財のこの橋がある。ロープを伝って川のところまで降り、見上げるとすごい迫力である。
タウシュベツ川橋梁 2003年10月5日 十勝沖地震で一部損壊したと聞いていたので心配して見に行ったら6月に見たあの美しい橋はすでに湖中に沈んでいた。
 夕暮れも迫ってきた。今夜は糠平館観光ホテルに泊まる。
11月6日
 昨日見残したアーチ橋を回る。
糠平川橋梁(画像) ひがし大雪博物館のところから糠平温泉の「小鳥の森の散歩道」を辿る。糠平ダムの建設で士幌線が付け替えとなったときに造られた長さ63mの橋。極寒地でも耐える新しいコンクリートを使っているため現在でもしっかりしている。
勇川橋梁(画像) 国道からダートの道をまだかまだかとずいぶん入る。やっと地図に書かれたらしい場所に着く。表示はないが流れに沿って15分ほど徒歩で下る。あった。長さ4mの登録有形文化財の橋梁である。芽登から藤屋牧場の表示のところを入り、白雲橋を通り清流橋まで3.4kmであった。見られるという橋はすべて回ったので、これでアーチ橋めぐりを終えることにした。
 この後、足寄、阿寒を通り、夕刻いつも滞在するエメラルドレイク屈斜路湖に着いた。 
 
 
イチャルパの準備
11月7日
 今年6月・7月に北海道に来たとき、ウタリ協会の支部長である岩谷さんを訪ねた。その時「11月に盛大なイチャルパを行うから来ないか。そこでゆっくり話そう。」とお誘いをうけた。私たちは喜んでそれを楽しみにしていた。ところが思いもかけず9月に支部長さんが急逝された。悲しいことである。今日は49日忌が営まれるとのこと。私たちもお参りさせていただいた。
 松浦武四郎が屈斜路を訪れたとき案内をしたイソリツカラの子孫のお一人である磯里明さんご夫妻が古丹の人々とともに屈斜路湖畔に松浦武四郎の歌碑を建てられた。「汐ならぬ久寿里の湖に舟うけて身も若がえるこヽちこそすれ」と刻まれている。碑を見に行った。碑は白鳥の浮かぶ真っ青な湖を背にそれは美しいところに建っている。(画像)
11月8日
 イチャルパに用いるどぶろく作りが始まった。ご飯を炊き、冷ましてからほぐした糀を混ぜ合わせ、人肌の湯を注ぐ。これを毛布でくるんで5日間ねかせ発酵させるのである。これは女性の仕事である。
 夫は男の人たちとイナウを作るための柳を伐りに行った。その皮を剥ぐと真っ白なきれいな木肌が表れる。それを乾かす。一連の作業はすべてカムイノミ(祈り)をした後に行われ、女性は柳に触ることは許されない。
 終わってから山葡萄を採りに連れてもらった。たくさん採れ山葡萄ジュースを作った。驚いたことに北海道は今、午後4時ともなるともう真っ暗である。
11月9日
 松浦武四郎の記録に出てくる野付半島を歩きに行った。ここは国後・択捉へ渡る基地で、そのため通行屋(役所)が置かれ、その先にはまぼろしの町キラク(喜楽)があったという。また船が着くと国後に火を焚いて知らせたという木巻、いくつかの番屋、そして松浦武四郎と交流があり仲のよかった加賀伝蔵が作っていた畑の跡もあるという。さらにオロシヤに備えるために会津藩士がいた。極寒の地でたくさんの藩士が亡くなった。その墓も残されている。
 私たちは、野付埼灯台手前の最終駐車場に駐車し、歩き始めた。この時期半島には人っ子一人見当たらない。5つ6つ点在する水産会社の建物にも人影はない。半島の一方の先端までおよそ1時間半かけて歩いた。ここには番屋の跡があるはずである。標識は全くない。おそらく満潮のため沈んでいるのであろう。諦めて戻りはじめた。途中から分かれる通行屋のあるもう一方の先端までいきたい。しかしすでに2時半、とても無理である。そこへ自然保護監察員の永野さんという方が車で通りかかられ見かねて通行屋跡まで乗せて行ってくださった。そこには発掘調査の行われたトレンチの跡、数基の墓石などが残り(画像)、繁栄の跡を偲ぶことができた。想いがかない永野さんにはお礼の言葉もない。帰りは往時を偲びながら歩き駐車場に着く前に真っ赤な太陽が沈み急に寒さが堪えた。
11月10日
 コタン近くの丸山に登る。深い笹に覆われた急斜面である。頂上のやや平坦なところにタクサ(笹の葉で作ったイナウのようなもの)を作り祀った。(画像)3頭の鹿が見ていた。
 夜は阿寒湖畔の火祭り(イオマンテ)を見に行った。
11月11日
 祭りで使う太いヨモギの茎を取りに行く。
 夜、磯里博己さんと知人が来訪。ナベを囲み歓談する。
11月12日
 神に供えるシト(白玉粉と上新粉で作るお団子)を作る。
11月13日
 神への供物とふるまいの料理作りに忙しい。酒こし、アマム(稲黍、小豆、ブップサ(行者にんにく)の入ったご飯)、土豆入りご飯、おにぎり作り、ポッチェいも、レタシケップ、いもチョッケップ、鮭の切り身、汁もの、つけもの等々である。
 男の人たちはチセ(アイヌ民族の家)でたくさんのイナウやタクサ作り、祭壇の準備、祭祀用具の準備(画像)、供物の準備、いろりの火を保つなどこれまた忙しい。
 
イチャルパへの参加
11月13日
 午後5時 いよいよチセでイチャルパ(先祖供養祭)前夜祭が始まった。先ず祭主であるエカシの指図に従ってシントコの中のお酒を吟味役が吟味する「シントコサンケ」が行われた。「ピリカ トノト」(よいお酒ができました。)の返事があり、エカシをはじめ前列に座った男の人の高杯にお酒が配られる。それをカムイノミし、イクパスイで神に捧げてからいただく。杯は後ろのフチをはじめとする女性に渡され女性もいただく。次に女性の持つ高杯にもお酒が配られる。女性はそれをいただいて、前の男性に返す。次に男性の若者の手によってシントコ、囲炉裏、チセの隅々など大切なものにイナウを捧げる。ついでエカシがアイヌの言葉で神々への祈り、先祖への祈りの言葉を述べる。いよいよ最も大切な儀式であるイチャルパが行われる。これはすべて女性である。つまりイチャルパの主役は女性なのである。しかしイナウを作り祭壇を飾り、カムイノミをし、儀式の準備をするのはすべて男性。両者がいなければこの儀式は成り立たない。祭壇には、鮭、昆布、牛蒡,人参、大根、林檎、蜜柑、バナナ、米、稲キビ、塩、シト、アマム、土豆ご飯、レタシケップ、いもチョッケップ、ポッチェいも、菓子などが並んでいる。イチャルパの際は野菜や果物は細かく刻む。女性はそれらの一つ一つを自分の口で吟味して囲炉裏端の神や先祖に供える。米一粒は米俵百俵ともなって天に届くという。そして翌年多くの恵みをもたらすのである。(画像) 続いて遊びに来てくださった神や先祖に踊りや歌を披露し楽しんでもらう。儀式に参列したのは、コタンの人々、コタン出身の人々、招かれたエカシをはじめ近隣のウタリの人々、町役場の人、アイヌ文化に強い関心をもち参加を許された人である。私たちもお借りしたアイヌ衣装を身に着け参加させていただいた。(画像)ここまでの儀式が古式に則り厳かに執り行われた。その後、おにぎりや炉辺で焼かれたシト、鮭、汁ものなどをいただいた。火を守り歓談は遅くまで続いた。なお用いた高杯などの用具はすべて男性の手によって洗われしまわれた。
11月14日
 いよいよ本祭である。朝からチセでカムイノミ、杯事、神と先祖への祈りなどがおこなわれた。湖畔の春ニレの大木の前に祭壇(ヌサ)が整えられる。チセの中のイナウ、高杯、イクパスイ、供物などはすべて神の窓から手渡される。湖畔では、古いイナウや削られた柳の皮などが燃やされる。儀式は、カムイノミ、杯事、女性によるイチャルパ、踊りと歌の披露と続いた。(画像)風は少し冷たかったがよく晴れたすばらしい日であった。チセに戻り、お昼にはたくさんのご馳走の並んだ宴となった。一連の儀式は感動的であった。アイヌの人たちの文化や生き様をひしひしと感じ、考えさせられた。参加させていただいてほんとうによかった。
11月15日
 積雪の小清水峠を越え網走に入った。夏お知り合いになった内匠英雄さんを訪ねたのだ。内匠さんに再会できたことは誠に嬉しいことであった。北浜の鐺沸湖で白鳥やたくさんの水鳥、古樋駅逓跡、オシンコシンの滝を見、知床ウトロに入る。ここで番屋祭を楽しむ。野上峠を越えて屈斜路に戻った。
11月16日
 北見から「ふるさと銀河鉄道999」に乗る。(これについては別項をご覧ください。)
11月17日
 磯里博己さんにかねてより行きたいと思っていた幻の滝に連れていただく。営林省の許可をもつ博己さんの車で林道を終点まで入る。かなりの距離だ。そこから滝は500mと聞くが熊の通り道だともいい、1時間近くかけてやっと着く。滝は2つあり、いずれもすばらしい滝であった。「釣鐘の滝」と「夕染めの滝」とか。博己さんに感謝、感謝。
 夜は、イチャルパの中心となられた支部長代理の八重清敏さん、裕子さんを招き心ばかりの会食をし、夜遅くまで歓談した。
11月18日
 屈斜路を離れる日が近づいた。快晴である。藻琴山8合目駐車場まで上ると真っ白に冠雪した斜里岳がなんともいえず美しかった。摩周湖へも行ってみた。
11月19日
 八重清敏さん、裕子さんと阿寒へユーカラ劇(サコロベ)「天駆ける英雄の物語」を見に行った。
11月20日
 屈斜路に別れを告げ、網走郷土博物館へ行った。八重清敏さんが特別に収蔵品のマキリを見せていただくのについていったのだ。
 夜は丸瀬布のマウレ山荘に泊まった。ここで知り合いの嶋田玲子さんに紹介していただいて松浦武四郎研究会会長の秋葉實先生にお目にかかることができた。かねてより敬愛していた先生にお目にかかれて夫は大感激であった。
11月21日
 「ふるさと銀河鉄道」に沿う国道を走り各駅を訪ねることにした、(別項)
 本別グランドホテルに泊まる。
11月22日
 昨日の続きで池田までいき、道東道、暴風雪の日勝峠を越え、石勝樹海ロードを走り、道央道で苫小牧まで行く。津軽海峡は非常に波が高いとのこと。この日は苫小牧プリンスホテル泊。
11月23日
 白老ポロトコタンと豊浦のインディアン水車公園に寄り道央道長万部から一路南下し函館に着く。20:10発の青函フェリーに乗る。
東北温泉めぐり
芭蕉の「奥の細道」を訪ねて
11月24日
 0:15青森に着く。東北自動車道を走り高館Pに着く。車中で仮眠。
 昨秋3週間の東北旅行をし、すっかり東北の魅力にとりつかれ、帰りはゆっくり温泉巡りをしようと決めていた。
 東北道を黒石で下り十和田湖を巡ってから奥入瀬渓流に入った。雲井の滝はみごとであった。蔦温泉を通り睡蓮沼に行った。ここからは八甲田山系の八甲田大岳や高田大岳が一望できた。酸ケ湯、碇ケ関、矢立峠を経て、今夜の宿は大館の秘湯日景温泉へ。湯はさすがにいい湯であった。この宿でのもう一つの楽しみは本場のキリタンポを食べることだったが、こちらは少し物足りなかった。
11月25日
 今夜はかの有名な銀山温泉に泊まりたかったので350kmをひた走る。大館樹海ロードで秋田ブキ発祥の地を見つけた。小坂から築館まで東北道。移動するだけではつまらない。「奥の細道」を少し辿ってみることにした。鳴子温泉のあたりまで来ると立派な屋敷森のある家が目立った。
尿前(しとまえ)の関(画像)
 「義経記」に、奥州平泉へ遁れる源義経一行が、亀割山で生まれた亀若丸を伴い出羽街道を東へ向かう記述がある。尿前にはその伝承の流れがあり、幼児がはじめて尿をしたのが地名になったという。
 芭蕉の「おくのほそ道」の紀行文には
南部道遥にみやりて、岩手の里に泊まる。小黒ケ崎みづの小嶋を過てなるごの湯より尿前の関にかかりて、出羽の国に越んとす此路旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて漸として関を越す」とある。
 この関の近くに「蚤虱馬の尿(しと)する枕もと」の句碑が建っている。ところが1996年に芭蕉の直筆本が見つかり、この句は正しくは「蚤虱馬の尿(ばり)する枕もと」であることが分かった。なおこの句は「封人の家」で詠まれたものである。 
 出羽街道中山越は、奥羽山脈中の最低部をきり開いて造られた多賀城より出羽柵への最短の街道であるが、たいへんな難所である。芭蕉は曽良とともにこの街道を歩いたのである。今この街道を車で越えると紅葉が美しく、中山平ではいたるところから温泉が噴出していた。
封人の家(画像) 重要文化財旧有路家住宅と資料展示室
 「封人の家」とは国境を守る役人の家のことで、芭蕉と曽良はこの家に泊まっている。芭蕉は
大山を登って日すでに暮れければ、封人の家を見かけて宿りを求む。三日風雨荒れてよしなき山中に逗留す。」と綴っている。
山刀伐峠(なたぎりとうげ)
あるじの云、是より出羽の国に、大山を隔て、道さだかならざれば、道しるべの人を頼て越べきよしを申。さらばと云て、人を頼侍れば、究竟の若者、反脇指をよこたえ、樫の杖を携て、我我が先に立て行。けふこそ必あやうきめにもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行。あるじの云にたがはず、高山森々として一鳥声きかず、木の下闇茂りあひて、夜る行がごとし。雲端につちふる心地して、篠の中踏分踏分、水をわたり岩に蹶て、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せしおのこの云やう、「此みち必不用の事有。恙なうをくりまいらせて仕合したり」と、よろこびてわかれぬ。跡に聞てさへ胸とゞろくのみ也。」と記されている。
 この山刀伐峠は、最上町と尾花沢市を結ぶ標高470mの峠で、峠の形状がかつて山仕事や狩りの際にかぶった「なたぎり」という冠物の形に似ていることから、峠名が発生したと言われている。芭蕉師弟は尾花沢への近道としてこの峠を利用した。山刀伐峠は「おくのほそ道」の山場の1つとも言われ、また芭蕉の作風が変わった転換点とも言われている。
 現在は「中型バス以上の通行はできません」と書かれている細い山道ながら、驚いたことに峠近くには駐車場まであった。
 今夜の宿は銀山温泉。温泉の入口に立つと時代の歯車が大正時代でとまってしまったような錯覚にとらわれる。川をはさんで両側に建つ旅館はまるで昔の宿屋の舞台装置である。その中でも江戸時代から18代続く伝統の宿、どっしりした構えの古山閣が今夜の宿。部屋の造りや料理、温泉を楽しみ、夜の街のそぞろ歩きもまた楽しい。
11月26日
 朝から街並みを散策し(画像)、足湯にも浸かった。そして銀山跡にも行った。この銀鉱洞は薪木や木炭を燃やして表面を加熱し、水によって急冷して母岩から鉱床を剥ぎ取るように鉱石だけを採掘した「焼き堀り」であった。その後尾花沢に戻った。
芭蕉清風歴史資料館
 芭蕉師弟は尾花沢に鈴木清風をたずね10泊した。「かれは富める者なれども志いやしからず」と記している。清風は元禄期における出羽の豪商で風雅にも心を寄せた人物であった。
 涼しさを我宿にしてねまる也
 まゆはきを俤にして紅粉の花
 這出よかひやが下のひきの声
 芭蕉が7泊したという養泉寺も訪ねた。境内には句碑「涼し塚」やゆかりの井戸があった。
 最上徳内生誕の地の村山、将棋の駒で有名な天童を通り山形へ。ここからは蔵王の山々が真っ白に望め、あたりは紅葉がきれいだ。米沢から福島へ。吾妻小富士、一切経山が夕陽の中にくっきりと見えた。昨秋は雪で苦労した土湯峠もすいすい、今夜の宿秘湯鷲倉温泉に着いた。1230mの高原にある一軒宿だ。今日はイイフロ(1126 いい風呂)の日だそうだが、宿のすぐ近くに噴煙がもうもうと上がり泉質の違う2つの温泉。この旅一番の名湯であった。ただ旅館が3泊も続くとおいしそうな料理がたくさん並びついつい手が出て、いささか疲れた。
11月27日 
 磐梯吾妻スカイラインは11月16日に閉鎖されたとのこと、少し登りたかったが残念。猪苗代磐梯高原からは磐梯山が美しい。中国の故事に「秋の山は装い、冬の山は眠る」というそうだが今はその間か。磐越自動車道を走る。会津盆地は深い霧の中であった。新潟から北陸道へ。26の長いトンネルをやっとの思いで越えると懐かしい立山連峰が真っ白に見えた。「チューリップと散居のとなみ」を過ぎ小矢部砺波JCTから東海北陸道に入る。延々455km走り疲れたので五箇山で泊まることにし、よしのや旅館に入った。
11月28日
 世界遺産である相倉合掌造り集落へ行った。相倉民俗館を見学し、村上家も見せてもらった。菅沼合掌造り集落(画像)では五箇山民俗館と塩硝の館を見学した。庄川を挟んでかつて桂と加須良という2つの小さな合掌の村があったという。2つの村は属する県が違ったがいつも助け合ってきた。しかし今は一方は原野と化し、一方はダムの底に沈んだという。合掌大橋を渡る。水流が美しい。白川郷に入る。荻町城跡大展望台から荻町合掌集落を望む。ここでは長瀬家と明善寺・明善寺郷土館を見学する。荘川から再び東海北陸自動車道に乗る。分水嶺があり、橋脚高日本一の鷲見橋を渡る。ひるがの高原からひたすらの下りである。ところどころにブレーキ故障車緊急避難所が設けられている。冗談じゃない!こんなところでブレーキが故障したらひとたまりもないとゾッとした。白鳥で中部縦貫道を分け、一宮JCTから名神道で大垣へ。桑名東から西名阪道で関、伊勢自動車道で松阪へ帰った。ほんとうは大垣は芭蕉がおくのほそ道の旅を終えたところである。ここで「おくの細道記念館」を訪ね私たちも今回の旅の締めくくりとしたかったが、時間の関係で残念ながら寄れなかった。
 この大垣で芭蕉は「伊勢の遷宮、おがまん」と、又ふねに乗て、
 蛤のふたみに別行秋ぞ
と奥の細道を結び、伊勢へと旅立った。私たちは芭蕉の後を追って伊勢松坂へと帰った。 
 

戻る