滞在型市民農園

謎の北緯34度32分 太陽の道 線上
滞在型市民農園
城山クラインガルテン
 奈良県にある卑弥呼の墓ではないかと言われている箸墓古墳を通る北緯34度32分線上には古代からの社寺、巨石信仰遺跡が並んでいると言われています。この線上を伊勢湾にある神島から西にたどると伊勢神宮に仕えた皇族の女性が宮とした斎宮、大日如来信仰の堀坂山、山麓に巨石の積み重なった地蔵堂のある大洞山、山腹に石塔霊石の狗留尊石を持つ倶留尊山と続いています。その大洞山と倶留尊山の中間に「滞在型市民農園 城山クラインガルテン」があります。

 最近、各地に市民農園がたくさん作られていますが中でもユニークなのが宿泊施設のついた「滞在型市民農園」です。三重県一志郡美杉村中太郎生にある「美杉倶留尊高原農場 城山クラインガルテン」は27区画のそれぞれにおよそ100平方メートルの畑と長期滞在ができるラウベと呼ばれる施設(7.5畳の部屋、7.5畳のロフト、台所、水洗トイレ、風呂、農機具庫、ケーブルテレビ線)がついています。すぐ近くにはあゆ釣りで賑わう名張川室生火山群の主峰、倶留尊山の直下に広がる池の平高原があります。
 この滞在型市民農園「城山クラインガルテン」に
  第1回 1998年5月〜1999年4月
  第2回 2000年6月〜2003年5月 滞在し、週の何日かを過ごしました。

 ラウベの縁側の前は畑です。近くのお年寄りご夫婦の指導で四季それぞれに野菜を作ったりドライフラワーを作るための花を育てたりしました。そして春は山菜採り、夏はあゆ釣り、秋は紅葉狩り、冬は雪がどっさり積もれば高原で歩くスキーを楽しみました。春の宵は値千金と楽しみ、エアコン不要の夏の夜は蛍狩り、秋の夜長は読書と落葉し見通しのよくなった高原で夜間動物ウオッチング、そして冬の夜はコタツで丸くなっているのです。
 このクラインガルテンは九軒の人が都市に住む人々と農山村の人々との交流を願って3年間の月日を要して作りあげたもので数少ない民活のクラインガルテンであり、春は田植え、夏は盆踊り、秋はハイキング、正月前は餅つきなどの行事がおこなわれます。 
 経済成長期の「豊かさ」は自動車、テレビ、洗濯機、冷蔵庫などのような具体的な物・形で見える便利さで感じていました。
 がしかし現在、「豊かさ」はもっと精神的なゆとりや安らぎを得られるものへと移行してきているように感じます。
 この「豊かさ」を感じさせてくれるものの一つが「滞在型農園」「クラインガルテン」のような気がします。
 この農園設立の意図を考え、自己中心的で勝手気ままな行動を厳に戒め、地域の人々に農園に集う人々に絶対迷惑をかけないという太いパイルを地中深く打ち込み生活を楽しんだのです。
 
 高原に花畑を
 城山クラインガルテンの素晴らしさは近くに春はホトトギス、カッコウが鳴き、夏は緑の岩壁、秋は紅葉とススキ、冬は雪景色と四季それぞれに楽しみを与えてくれ、生活に広がりと自然の変化、恵みを堪能させてくれる池の平高原を持っていることです。
 4月中旬桜がようやく咲き始めた頃に東海自然歩道が通る高原の入り口の3年間放置してあった畑に「登山者やハイカーに楽しんでもらうために花畑を作りたい」と思ったのが事の始まりで悪戦苦闘と喜びが交差する日々が続きました。仕事にかかった頃は雑草も目立たなかったです。が暖かくなるにしたがってものすごい雑草が生い茂り、びっしりと地面を覆った草、笹、蔓、雑木を夫と共に鉈で鎌で草刈り機でなぎ倒し鍬で耕しました。
 この花畑作りでたくさんの人に声をかけてもらうようになりました。土地の人は「なにしとんのや」と。「花畑作るんです」「それはたいへんやが頑張ってえな」と。隣の茶畑の人にも、14年前にログハウスを建てて毎週土日に大阪から来られるとんでもない博識の田中龍太郎さんや「くろそ山荘」の主人今井昭三さんにも励まされて開墾。何よりも嬉しかったのは「学ぶ心あれば師現わる」と地域のことを学ぶのに師と仰ぐ美杉村社会福祉協議会会長(2002年2月現在)の谷口光雄さんの励ましでした。いろんな人の励ましで200平方メートルほどの地を開き、下からポリタンクに入れた水を何回も運び上げて撒きました。
 
 
 花畑作りの夜間に山座同定板や花畑の看板を作りました。ペットボトルで風車、竹で鳴子も作りました。風が吹くと心地よく回り軽やかな音をたてました。
 夏近くになりました。ヒマワリが咲き出し、たくさんの人から「綺麗に咲いてるなあ。よう頑張ったなあ」と声が。
 「これから美しくなる」と思ったとたん、夜間にイノシシの猛攻撃にあいました。まるでブルドーザーで耕したように。特に秋に向けてのマリーゴールドの苗が踏み潰されました。でも笑ってすますしかありませんでした。「いのしし君やめてちょうだい荒らすのは」と看板を立てました。くろそ山荘のご主人の今井昭三さんと「いのししに字を教えやなあかんなあ」と大笑いしました。登山者も楽しそうに読んでいきました。花畑作りでたくさんの人々と知り合い「苦労の末の宝」となりました。
 台風と雨でコスモスが滅茶苦茶になりました。カラスが狸が狐が鹿が猿が来ました。それでも気になりませんでした。
 ススキの頃になり登山者やハイカーが急に多くなりました。いろんな人たちに楽しんでもらいました。
 
 コスモスが咲き始めました。
 台風と雨で美しさは今ひとつでしたが丹精込めて育てたコスモスです。一つひとつの花に「長く咲いてね」と祈りたいような気持ちで声をかけました。
 落ち葉で見通しがきくようになった高原へ夜間動物ウオッチングに行くと鹿を見ることが多くなり、冬が迫ってきたことを感じました。
 師の谷口光雄さんから「炊くほどは風がくれたる落ち葉かな」(小林一茶)を例に出し「人間に必要な量は自然が与えてくれる。むやみやたらの乱獲は自然を荒らす」と教えていただきました。
 11月中旬地区の文化祭を見に行きました。顔見知りになった方々から「見に来たんかいな」と声をかけてもらいました。ほんとうの成果は野菜や花や花畑ではなく、このような人々の仲間に加えてもらったことではなかったかと実感しました。
 いよいよ今期の花も終わりです。来春高原にまずどんな花を咲かせるかを考え、寒咲き菜花を蒔いて定植しました。この花が3月に咲き、2年越しのルピナスも5月に咲くことを楽しみに冬眠に入りました。ところがこの冬、この土地に土が入れられることになり芽を出していた花を別に借りた畑に移しました。ルピナスと花菱草は見事に咲きましたが楽しみにしていた寒咲き菜花は全滅でした。
 2001年は鳳仙花の花畑。でも結局土は入れられませんでした。春、鳳仙花を移植したら一面に広がり花をつけました。マリーゴールド、花菱草、向日葵、コスモスなども芽を出しました。草取り、水やりに忙しい日が続きましたが次々に花を咲かせてくれました。花畑の横でダッチオーブン料理を楽しみました。
 2002年は黄花コスモスがメインでした
他にもサルビアや各種ひまわりなどいろいろの花が咲きました。
 2003年、畑は野に化していました。5月ここに別れを告げました。9月久しぶりに訪れたら、手入れのされなくなった畑はすっかり野に化していました。一群れの黄花コスモスが印象的でした。自然ってすごいなあと思いました。畑の横に植えた白樺の木が背丈ほどに大きくなっていました。
 2003年10月12日 また池の平を訪ねました。谷口光雄さん、今井昭三さん、田中龍太郎さんが温かく迎えてくださいました。思いがけずコスモスが一面に咲いていました。私たちの心の中に忘れ難く残っている池の平は、その中に私たちの足あとを留めていてくれました。熱い想いがあふれました。かつて北海道の廃村を訪れたときルピナスが咲き残っているのを見つけました。そこは数十年前人々が住んでいた跡だとか。自然はその中に人の営みを記憶していてくれる、そんな感動が胸を打つのです。それになにより池の平はそこに生きる方々の人間性に魅かれるところです。その人と逢い、話すとまるで帰るべき心の故郷に戻ってきたような安らぎに包まれるのです。人といえば、ガルテンでいろいろ教えていただきお世話になった福地さんのおじいさんがこの夏急逝されました。寂しいことです。福地さんのおじいさんと、先年若くして亡くなったガルテンの設立者のお一人であった井上さんのお墓にお参りしご冥福を祈りました。
 塚も動け わが泣く声は 秋の風 (芭蕉)
 いつの日かこの地にまた滞在したいものだと強く思いました。

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