ミヤマキリシマをめぐる九州の旅

ミヤマキリシマをめぐる
         九州の旅
 松浦武四郎は、その著「西海雑志」の中の温泉嶽ー妙見ケ岳の項で「すべて山内は躑躅多く白、赤、紫など目を悦しむ。當山の祭りは四月八日なるが、其時節ハいつも盛に咲ていと見事なる事也。里人これを瓔珞つゝじといふ」と記している。おそらくこれがミヤマキリシマであろう。今回は、ミヤマキリシマとの出会いを求めての旅である。


5月16日 いざ出発
 週末特別割引の阪九フェリーを利用する。個室をとったらホテルなみに美しく快適。瀬戸内海だから波も静かで船内で入浴までしてしまった。
5月17日
何はともあれツツジ!ツツジ!
 早朝、新門司港に着く。仙酔峡が今満開だと聞いて、九州自動車道を熊本までひた走り仙酔峡へ。なるほど山の斜面が一面ピンクに染まっている。まるで箱庭のようだ。ミヤマキリシマの中の斜面を登る。高度が増すごとにつぼみが多くなる。そのまま登り続け、火口展望所へ。阿蘇山の火口からは盛んに噴煙が上がっていた。さらに登り、中岳の山頂(1506m)までいった。前回は砂千里の方から登り、ガスと強風のためあとわずかのところで登頂を諦めた山頂である。せっかくここまで来たので阿蘇山を周遊し草千里を通って火口の望める展望所へ。ここからは黄緑色の水を湛えた火口の底までが見え、噴煙の迫力も違う。砂千里まで降りてみた。帰りは、このまま南下してもいいのだが明日から数日は雨とのことで、その間山を諦め国東半島の石仏を巡ろうと引き返すことにした。快適なやまなみハイウェイを走り、阿蘇神社へお参りした。阿蘇神社は大きな屋根が特徴的なすばらしい造りの神社であった。道の駅波野で休憩し、ながゆ温泉を楽しんで、今夜は道の駅ながゆ温泉泊。
5月18日
 やまなみハイウェイの途中で見つけた九重花公園に寄った。雄大な久住高原に広がるこの公園は20万uと広大で春から秋にかけ500種、300万本の花々が咲き誇るという。この日も色とりどりの花々の畑が広がる公園内の散策を堪能した。次にあざみ台展望所に上って眼下に広がる景色を楽しんだ。与謝野晶子の歌碑「久住山阿蘇のさかひをする谷の 外は襞さへ無き裾野かな」が建っていた。牧の戸峠にも立ち寄った。ここからいずれ星生山へ登る予定だが、ここのミヤマキリシマは6月上旬にならないと咲かないそうでまだつぼみ固しだとのこと。長者原で休憩し、九重夢大吊橋へ行った。天空の散歩道と称されるこの吊橋は九酔渓の標高777mに架かる長さ390m、高さ173mという人が渡る吊り橋としては日本一だそうだ。長い吊り橋を渡りながら、紅葉の頃はもっときれいだろうなと思った。由布岳を眺めながら道の駅ゆふいんに立ち寄り、由布院の町を歩き、金鱗湖そばの駐車場に車を止めてから、金鱗湖や湯布院の温泉街を散策した。温泉も楽しみ、この日はここで泊。
5月19日
 大分自動車道、宇佐別府道路を走り中津市へ。秀吉の命で九州に入った武将達が築いた九州最古の近世城郭の一つと言われる中津城や歴史民俗資料館を訪ね、大分県立歴史博物館も見学した。隣接して宇佐風土記の丘が広がっていた。この日の最後は宇佐神社、全国八幡社の総本宮である。大鳥居を潜り、宝物館を見学したのち、イチイガシの森に囲まれた丹塗りの神殿、春宮、下宮、若宮、国宝宇佐神宮本殿などに詣で、菱形池、能楽殿、絵馬殿、呉橋、神橋など広い境内をゆっくりと周った。名物だというだご汁などを食し、神宮前の駐車場泊。
5月20日
国東半島の石造文化財を巡る
 国東半島には六郷満山文化の遺産として、国東塔、宝篋印塔、五輪塔、板碑、石仏など多くの石造文化財が残されている。そのうちのいくつかを巡りたい。
熊野磨崖仏(胎蔵寺) 国指定史跡重要文化財
 山道を300mほど登ると鬼が一夜で築いたと伝えられる自然石の乱積石段があり、これを登ると巨岩壁に刻まれた日本一雄大荘厳といわれる石仏大日如来と不動明王が聳えていた。熊野磨崖仏であった。ただただ圧倒された。
真木大堂 六郷満山65ケ寺のうち本山本寺として36坊の霊場を有した最大の寺院であった馬城山伝乗寺のことで、お堂の中には、日本一大きな大威徳明王、大火焔を負った不動明王、四天王を従えた阿弥陀如来などすばらしい仏像が安置されていた。このお堂は小さな集落で守っていると聞き驚いた。
元宮磨崖仏 崖に彫られた5体の大きな仏像。前にまだ新しいと思われるお堂が建っていた。
蓮華山富貴寺(蕗寺) 六郷満山のなかで、満山を統括した西叡山高山寺の末寺の一つ。榧の大木1本で大堂を造り、仏像を刻んだと言い伝えられており、この国宝大堂は、西国唯一の阿弥陀堂であり、九州最古の和様建築物である。お堂の中でご住職から詳しいお話を伺った。
両子寺 六郷満山の中では中山本寺、つまり山岳修行の根本道場に当たり、特に江戸期より六郷満山の総持院として全山を統括してきたが、次第に堂宇は往時の姿が薄れかけている。しかし長い長い石段と山道を登り奥の院までお参りした。・・・・・
ここまでは順調だったのだが、次にめざすお寺は、カーナビに導かれてこんな細い道が通れるのかと不安になるような道を迷いに迷って50分かかりやっとたどり着いた。
岩戸寺 六郷満山末山本寺。室町期には12坊を有していたと記されていた。来浦川が走る谷の奥にあり、参道の石段を登ると二躯の仁王像が建つ。県内の在銘石造仁王像では最古のもの。また境内には国宝の国東塔が建っていた。
峨眉山文殊仙寺 役小角(役行者)の開基、ご本尊は文殊菩薩で、日本三文殊の一つ。山内は仙境秘境の地、奇峰怪岩に囲まれた国東半島随一の古刹だそうだ。夕刻近かったが、小さな男の子とお父さんが登ってこられ、土地の人々に親しまれ信仰されている様子を感じることができた。
 この日は、道の駅「くにさき」の方に案内していただいた「海六呼」で海の幸を堪能、サイクリングターミナルで入浴させていただいて車中泊。   
 
5月21日
臼杵磨崖仏 
 大分自動車道・東九州自動車道を走り臼杵に。ここの石仏は平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫られたといわれる。臼杵磨崖仏4群59体が平成7年国宝に指定されたとのこと。大きさといい彫りといい保存状態といい誠に見事なもので、世界遺産に指定されても不思議はないと思わされた。
西都原へ
 口蹄疫にゆれる宮崎県に県外の車が入って迷惑なことだと思いつつも、さりとて宮崎県を通らずに南下はできず、せめてもなるべく素早く通り抜けようと東九州自動車道・日向街道をひた走る。道の駅「北川はゆま」でからくり時計を見て休憩。国道に通じる道の出入り口はすべて消石灰で真っ白、要所要所で徐行し車輪の消毒、宮崎の人々の苦しみと悲しみをひしひしと感じた。西都原(さいとばる)古墳群に着き、西都原考古博物館を見学の後、この駐車場で泊。
5月22日
霧島中岳
 東九州自動車道・宮崎自動車道を走り高千穂河原ビジターセンターへ。天気予報にかかわらず朝は晴れていて午前中は雨はないだろうとのことだったので、雨具を用意し霧島の中岳に登ることにした。松浦武四郎が「此處に大隈の國一の宮あり。表の鳥居を入て石壇の下に石燈籠數基あり。朱の大華表を過れバ左右に廻廊、籠り殿、~楽所、拜殿いと美麗に、本社は朱塗檜皮葺、彫物の龍虎花鳥ハ丹青を以て彩色し壯觀いふばかりなり」と記した霧島神宮があるところである。つつじコースを通って登山開始。このコースのミヤマキリシマは満開に近く山の斜面を埋め尽くしておりたいへん美しい。コースを出て登山道にかかった頃から霧雨が・・・雨にかすむミヤマキリシマもこれまた風情があっていい。ようやく1345mの中岳に到着。山頂のミヤマキリシマはまだ蕾が多く、この一面のミヤマキリシマが満開を迎えたらさぞかしきれいだろうとその光景を思った。
 国民宿舎みやま荘の温泉で疲れを癒しえびの高原へ。前回何泊かしたお気に入りの高原である。しかしミヤマキリシマにはかなり早く、その上今夜は雷注意報が出た。そこで鹿に別れを告げ早々に引き返す。この夜は道の駅「霧島」で泊。
5月23日
 夜半からはげしい雨。霧島市でコインランドリーに寄り、お昼ごろ道の駅「おおすみ弥五郎伝説の里」に着く。やごろう亭で黒豚づくしの食事をし、市場で買い物、弥五郎まつり館の見学、弥五郎の湯で入浴などをし半日をゆったりと過ごしここで泊。
5月24日
本土最南端の佐多岬へ 
 うぐいすの声で目覚め、さすが鹿児島、さつまいも畑の広がる道を走り出す。かごしまロマン街道は海に面しヤシの木が並ぶ情緒豊かな街道である。南蛮船係留の大クスを見たりしながら大迫本土最南端の郵便局(「本土」なんてなんだか抵抗があるがそう書いてあるのだから致し方ない)でいろいろおもしろい話を聞き、佐多岬ロードパークへ。道路にソテツの樹皮がちらばっていたり、「北緯31度線」の大きな標識が立っていたり、サルの群れに出会ったりしながら佐多岬へ。駐車場に車を止めてからしばらく歩く。松浦武四郎は次のように記している。「大隈の國佐田の御崎ハ、九州南の果なれバ暖氣ゆへ冬中も綿衣を着る人すくなし。此濱三里の間蘇鐡のミにて餘の木のいさゝかもなし。里人は漁を業として田畑なきゆへ、薩摩より入船の米を買取日用にするなり。又ハ蘇鐵の實を取て粉團(團子)となし食するに至る。」 この岬には、大きなガジュマル、ソテツの林、咲き誇るブーゲンビリア、デイゴの花などいかにも南国らしい木や花がたくさんあった。また途中には御崎神社、川田順歌碑などあり、先端に佐多岬展望所、燈台は少し離れた島の上に建っていた。おもしろい看板を見つけた。
日本本土最端地 四極交流盟約
 最東端 北海道根室市
 最西端 長崎県小佐々町
 最南端 鹿児島県佐多町
 最北端 北海道稚内市
となると3ケ所は行ったからあとは小佐々町に行ってみたいなあ。この後、錦江から指宿のフェリーを考えていたのだが、船が小さく(車は8台のみ)、今日は風が強いのでキャンセル、垂水から鴨池(鹿児島)までのフェリーを利用し指宿まで南下し指宿国民休暇村オートキャンプ場へ。ホテルで豪華なさつま膳を堪能し、砂風呂なども楽しんで、オートキャンプ場泊。コインランドリーも使えるし、電気は使い放題、やっぱりオートキャンプはいいなあ。
5月25日
砂州を知林ケ島へ渡る
 黄砂か桜島の噴煙か空は薄曇。鴬がしきりに鳴いている。鹿児島湾(錦江湾)に浮かぶ周囲約3km、面積約60ha、最大標高約90mの知林ケ島は、大潮や中潮の干潮時に出現する全国的にも珍しい長さ約800mの砂州で本土と結ばれる。ここを歩いて知林ケ島に渡った。「もし万一島に取り残されても、この周辺は潮の流れが非常に速く複雑だから、決して泳いで渡ってはならない」と注意書があった。島に渡って、岩場を歩いたり、展望台へ登ったりした。戻ってから係りの方のお話を伺い衝撃を受けた。「そこにあるのが特攻機の残骸です。この海には特攻機が丸々原型のまま眠っています。そしてその杭が、飛び立った桟橋です。」 特攻隊といえば知覧とばかり思っていた私・・・知覧に比べれば規模は違うが、この指宿でも82名が飛び立ち亡くなったそうだ。
 池田湖へ寄り、枚聞神社(開聞神社・開聞岳をご神体とする)に詣で、JR日本最南端の駅西大山駅へ。ここからも開聞岳が美しく見えた。ここにも看板が
 最北端の駅 稚内    最東端の駅 東根室
 最南端の駅 西大山   最西端の駅 佐世保
これはどうしても佐世保にいかなければ!
ところが枕崎に着いたら「JR日本最南端・始発・終着駅 枕崎駅」あらあらここにも!
 それはともかくとして、「なにわ食堂」で「カツオビンタ定食」「カツオタタキ定食」を、そうここはカツオの名産地なんだった。食後、枕崎かつお街道を走り、道の駅「川辺やすらぎの郷」で泊。
 
5月26日
 指宿スカイライン・九州自動車道を北上する。このまま熊本県を海沿いに行って天草に渡るという手もあるのだが、大好きなえびの高原の魅力捨て難く、東へ進路をとった。硫黄谷のすさまじい噴煙を見て、まずは
大浪池まで登ることにした。松浦武四郎はこの池も見ている。もっとも「天の御鉾は其長さ七八尺ばかり。大(太)さは一尺五六寸廻りにして全躰銅の如くなれど眞性は分りがたし。」と高千穂嶺から下ってきてのことらしいが。「漸く心も安堵して暫く木かげに憩ひて、細道三十町ばかりくだれバ大波の池といふあり。雑木篠竹茂りたる中に水色青く見えたり。蟒蛇など住ける由なれバ邊り近くはすゝみ寄らず。」と記している。1時間足らずで大浪池に着いた。火口湖の一つで水面の直径は約650m、標高は1239mもあり、ほぼ正確な円形をしている。火口の内壁は樹林に覆われ、水は空の色を映してか深い青色に澄んでいた。「大浪池の池の字がニスイになっている」との連絡がありなおしに来たとおっしゃる県職員の方と出会い、山々のことなどいろいろお話が伺え楽しかった。池にまつわる「お浪」という娘の伝説が書かれていたのもおもしろかった。
えびの高原
 エコミュージアムに立ち寄った後、広大なミヤマキリシマの群生地であるつつじが丘を散策した。ミヤマキリシマは今年は寒く、まだ1週間ほども早いのか蕾が多かった。韓国岳登山口の方へ行ってみたら地熱の関係か日当たりがいいのかこちらの方は満開に近かった。えびの温泉ホテルで日帰り入浴をさせてもらい、駐車場泊。
5月27日
硫黄山登山
 韓国岳登山口の近くから硫黄山に登ることにした。ミヤマキリシマに埋め尽くされた斜面を登っていく。そのまま進むとやがて硫黄に覆われた火口に着く。そこを降りて登山道に着くとなんと「立ち入り禁止」の標示があり驚く。あれっ!登って来た方向にはそんなこと書いてなかったのに!韓国岳登山口のミヤマキリシマも満開であった。
 九州自動車道を通り、熊本港から熊本フェリーで島原に渡った。ほんとうはこの近くの港で大きくて立派な打瀬船が見られ、土日には体験乗船もできるそうなのだが、今日は木曜だからせめて見てみたいと思っていたのだが、自動車道を走り、その上フェリーの時刻がちょうどいいとくれば乗らざるをえない。
仁田峠! ああ仁田峠!! 
 雲仙岳災害記念館を見学して、仁田峠に向った。風が非常に強い。寒い。それでもミヤマキリシマが満開だとの情報を得たことだし・・・峠に着いて息をのんだ。ああこれがミヤマキリシマなんだ!! 「満開だ、斜面を埋め尽くす」といっても、どこか「写真ではね!」という気持ちがあった。ところが、ところが恐れ入りました。満開です! ピンク一面です! 斜面を埋め尽くしています! ミヤマキリシマです!! 写真どころではありません! ロープウェイで妙見岳に登ってみたがこちらはガスの中。
 雲仙駐車場に車を止め、近くの共同浴場を遣わせてもらう。
5月28日
龍馬が見上げた長崎の空
 長崎駅に着いた。駅前では東京から来た中学生が「蛇おどり」を披露していた。体験学習だという。おもしろい取り組みだと思った。長崎は今龍馬に湧いている。前回あちこち回ったので、今回は龍馬に絞ることにした。バスで風頭山まで行き、そこから寺町まで下るのである。風頭公園では、上野家墓地、司馬遼太郎「竜馬がゆく」文学碑などを見、坂本龍馬之像前で記念写真をパチリ。さらに下って亀山焼窯跡を見、若宮稲荷神社の四角い柱の鳥居を潜り神社に詣で、亀山社中資料展示場でお話を聞き、良林亭跡を覗き、龍馬のぶーつに足を入れ、少し戻って亀山社中記念館を見学。龍馬通りを下った。なかなか充実した半日を過ごし、長崎自動車道にのって大村湾PAで泊。
5月29日
 長崎自動車道・西九州自動車道を走り、佐世保駅に。車を止めておくところがないので、「日本最西端佐世保駅 JR」の標柱を写真に撮り早々に退散。西海パールシーリゾートに行った。大きな遊覧船に乗り、九十九島巡りを楽しんだ。ここまで来れば小佐々にある日本最西端の神崎鼻を訪ねなければ。「日本本土最西端の碑」は海に臨む岩の上に立っていた。小佐々行政センターで岬を訪れた証明書をもらい、近くの「清裕」で食事、郷土色豊かでなかなかおいしかった。続いて平戸の千光禅寺へ伺った。松浦武四郎がお坊さんをしていたことのあるお寺である。今は無住になっていたが、運よく檀家総代さんにお会いでき、詳しいお話を聞くことができた。栄西禅師が臨済宗を継承して帰り開いた禅房である冨春庵跡やこの時持ち帰った日本最初の茶畑などを巡った。更にもっと先へ行きたかったのだが夕刻が迫ってきたので途中から引き返した。そしてたびら平戸口駅へ。こちらは私鉄(松浦鉄道)ではあるが、まさしく日本最西端の駅である。松浦シティホテルでラジウム温泉まつらの湯に入れてもらい道の駅「松浦海のふるさと館」で泊。
5月30日
 早朝、松浦漁港で松浦水産のはまちの水揚げと出荷の様子を見せていただいた。水揚げされたはまちは重さを量り1尾ずつ丁寧に箱詰めされていた。今日は1000尾ほどだとのこと。
大宰府へ
 長崎自動車道・九州自動車道を走り、前回も訪れたのだが太宰府天満宮だけだったので、政庁跡訪ねなければ話にならないと再訪。まずは広大な建物の九州国立博物館へ。古来より交流の窓口であった九州の地に「日本文化の形成をアジア史的観点から捉える」という新しい視点を持ち誕生した博物館である。今回は「パリに咲いた古伊万里の華」という特別展を中心に鑑賞した。続いて隣接する太宰府天満宮へ。宝物館をはじめゆっくりと見学した。見所は多いのだが、次はお目当ての大宰府展示館と大宰府政庁跡へ。「都府楼跡」の名で親しまれているここは九州全体を治める役所大宰府があったところで、7世紀の後半から奈良・平安時代を通じて九州を治め、わが国の西の守りとして防衛を、また外国との交渉の窓口として重要な役割を果たしてきた。現在も大宰府政庁跡の中心にはその大きさをしのばせる立派な礎石が残り、そこを中心に門や回廊、周辺の役所跡が復元されていた。菅原道真は左遷されたというが果たして? 今回ここを訪れることができてほんとうによかったと思った。
 明日、英産山に登りたいこともあって、少し遠かったが道の駅「歓遊舎ひこさん」まで走り泊。 
 
 
5月31日
英産山へ
 松浦武四郎も登った山である。その著に「并(並)木を過れバ坊舎二百ばかり左右に建連れり。是は當山の修験者にてのこらず妻帯なり。坊中z謇@の聞亮といへるハ四國徑(經)歴のをりから、一面の交りあれバ尋ね行て一宿し、明日朝諸共に登山せんとて打連て立出、三町ばかりのぼりて大講堂あり。・・・道は誠に急峻ければ喘ぎ喘ぎ三四十町登れバ、一の鎖と稱するに至り着ぬ。しばらく木の根に腰をかけ息を入レツヽ其さまを見あげるに、高さ五丈許の大岩壁の如くなるに銕鎖二條を上より垂たり。只見るにさへ危ければ身振ふこゝちなれども、いかでか半途に止ミなんやと膽氣を出して、いざとて兩人身を起し銘々鎖に取すがりて、いささか窪める岩穴に足の爪先踏かけ踏かけ、手繰銕鎖を力草とし心中に~佛を祈念なしツツ辛うじて升(昇)り果たる嬉しさ、惣身の冷汗は肌着を浸したり。又四五町も登れバ二の鎖に至るに、其さま巳前に異ならねど岩の高さもまた一層にて、嶮しさも初にまされバ其危き事いわん方なく、戰く足を蹈損ぜじと心をせめて漸に登り終りてやゝ暫く息をつき、急ぎ七八町登れバ頂上の宮建なり。」 私たちも登ることにした。まずは銅(かね)の鳥居前へ。長い長い石段がどこまでも続いているのが見えた。修験者の方が二人鳥居前で法螺貝を吹き鈴を鳴らして祈っておられた。この石段は下ることにして、英産山神宮(奉幣殿)まではスロープカーで。あたりを見廻すと宿坊の跡らしきものがいくつも見える。武四郎の時代でさえ200余の宿坊が残っていたという。覚悟を決めて登り始めた。英産山神宮(下宮)、鎖場、中津宮(中宮)、稚子落、関銭の跡(下乗)、産霊神社(行者堂)、英産山神宮(上宮)と登っていく。今は登山道も整えられており、確かに鎖場もあるのだが、武四郎の時代とは比較にならない。それでもかなりきついことは確かだ。たどり着いた上宮は大きな社であったが、かなり傷んできていた。その下に英産山中岳(1188m)の山頂があった。帰りは宿坊跡の説明を読みながらゆっくりと下った。跡ではなく、今も宿坊が残っていたり、子孫の方が住んでみえるところもあった。武四郎の泊まった福壽坊は跡地になっていた。知足院、英産山会所跡、智楽院と見て歩いた。途中に立派な宝篋印塔があって、その前で土地の方にいろいろ教えていただいた。旧亀石坊庭園(雪舟庭園)も観せていただいた。廃校舎を利用した資料館にも立ち寄り、報恩寺跡、浅草観音堂跡、財蔵坊、下宮などていねいに見て歩いた。あまりに疲れたので「天空のレストラン」をもつ「ひこさんホテル和」に宿泊した。
6月1日
 一旦道の駅「ひこさん」に戻り、天然記念物の行者杉を見たり、陶器街道を走り道の駅「小石原」で陶器を眺めたりしながら大分自動車道を九重高原に向った。実はこの高原が気に入り、旅の最後はここで2,3日のんびりしたいと思っていたからだ。途中九酔渓に寄り、お豆腐中心の手作りバイキングを楽しみ飯田(はんだ)高原の長者原(ちょうじゃばる)に着いた。風が強かったが、ゆっくりと半日を過ごした。夕刻、硫黄山と噴煙が夕陽に赤く染まり美しかった。
6月2日
タデ原湿原散策 ビジターセンターを見学の後、タデ原湿原の木道を歩いた。この湿原は、火山の火砕流堆積物が堆積し、その後火山活動で生じた岩屑なだれ堆積物が谷の出口を塞いでできたものである。湿原特有のミズゴケ類が繁茂し、ヨシ群落やヌマガヤ群落が広がっている。静かだ。カッコウ・ホトトギスのしきりに鳴く声が聞こえる。木道を外れ、長者原自然研究路を歩いた。約2.5kmの森の中の癒しの小径であり、木々には名が付けられていて楽しかった。続いて旧硫黄鉱山道路を通り久住山すがもり越えコースを少し登ってみた。途中自衛隊の人にあったので「この先何があるのですか?」と尋ねると「山!」との答えに大笑い。ちょうど指山の裏あたりまで登ったことになる。指山の中腹から山頂にかけてミヤマキリシマのピンクが見えた。花山酔ホテルレストランで遅い昼食をとり、また散策。そして九重星生ホテル山恵の湯でたくさんの露天風呂を楽しんだ。
6月3日
星生山(ほっしょうざん)登山
 昨日は雷まで鳴っていたのに今朝は快晴。早朝、牧ノ戸峠に移動。6日が山開きなのだが、そろそろミヤマキリシマも咲いてきたし、快晴とあれば駐車場が込み合うこと間違いなしだからだ。展望台までは長い石段が続く。その後も沓掛山まではしっかりと歩きやすい登山道がついている。このあたりまで登ると、久住のミヤマキリシマは遅く、特に今年は遅いとのことだったが、日のあたる斜面がピンクに染まっている。ああ咲いてくれたんだと嬉しくなった。さあ先を急ごう!ところがここからがたいへん! 鎖のついた岩山を2つも越えなければならなかった。それでもこれが九州最後の登山と思えば、これまた楽しい。岩場を越えればなだらかな尾根、自衛隊の訓練登山一行がていねいに挨拶しながら抜いていかれる。扇ケ鼻への分岐を過ぎ、久住山への道を分け、私たちは迷わず星生山への登りにかかる。胸突き八丁といおうかかなりきつい。ようやく着いた星生山山頂(1762m)で思わず声を挙げた。眼下に盛んに噴煙を上げる硫黄山が見えていたのである。九重の最高峰久住山が伸ばせば手の届きそうなところに見えていた。あと1時間もあればあの山頂にも立てる! しかし私たちは年寄りらしく無理をせずこの感動を胸に降りることにしたのだった。下って、牧ノ戸温泉九重観光ホテルの温泉で疲れを癒し、夕食は「とうふ工房さくら草」で。長者原で泊。
6月4日
 迷っていた。今日もう1日ここでゆっくりしようか、そして明日門司から帰ろうか? 問い合わせたところ今夜の別府からのフェリーがとれたので予定より早いが今日帰ることにした。やまなみハイウェイ、大分自動車道を走る。早くもキスゲが咲き出していた。大分まで出て、大分城址と大分の町を歩いた。道路に沿った細長い公園にたくさんの彫塑が並んでいた。西洋音楽発祥、西洋医学発祥、西洋劇発祥などに関するものが多く、外国との交流、歴史を感じさせられ、また芸術性の豊かさを感じる町でもあった。若くして亡くなった瀧廉太郎の終焉の地であることも知った。ただ彼の銅像のちょうど顔の前に木の枝がかかっていたので必死に取り除こうとしたが努力の甲斐なく彼は木の葉で顔を隠してしまうのには笑ってしまった。
 小倉街道を走り、高崎山を横に見て別府へ。夕刻、関西汽船「さんふらわあ あいぼり」に乗り込んだ。
 船の上で、再びは訪れることはないだろう九州を想った。ミヤマキリシマの咲く美しい光景を想い、別れを告げた。
 
 
 
 
 

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