花紀行

私のせかい

夏見廃寺にて
 名張市にある夏見廃寺は県の史跡に指定をうけ 市は4億5千万をかけて
遺跡の研究と展示館も開館しました。7〜8世紀昌福寺があり11世紀に
焼失したらしく 表向きは父天武天皇の為に娘の大伯皇女(おおくのひめみこ)が
建立を思いたったと言われ現在は寺の基石のみが残っています。
皇女が7歳その弟の悲劇のプリンスと言われる大津皇子が5歳で母(大田皇女)が
亡くなりました。皇女は14歳で初代斎王として伊勢に派遣されました。
父天武天皇が大津皇子24歳の時亡くなり 跡継ぎ問題で「大津皇子が姉の居る
伊勢に謀反の相談に行った。」との密告で捕らえられ 次の日処刑されました。
 (私を訪れた帰りに弟を見送って思案していたら夜が明けてきて皇子は
大丈夫かしら)と言う意味のうた

 
わが背子を大和へやると さ夜ふけて
     暁
(あかとき)露に我が立ち濡れし

この歌の予感は的中していたのでした。大津皇子が処刑されてより15年間 
、ひたすら弟を偲びこの場所で追善供養をしたのでしょう。
しかしこの寺の落慶を見ることなく41歳で生涯を閉じました。
女としての皇女の一生は余りにも哀しい。そこに万葉歌碑がありました。
(磯の上に咲く あしびを手折っても 見てくれる 大津皇子はいないのだは)

 
磯の上に生ふる馬酔木を手折らめと 
     見るべき君が在りといはなくに


あたりの草木は4月の末らしく やさしい色で包まれていましたその色を
忘れる事が出来ません。心をこめて歌一首

 
薄幸の生涯終へし皇女(ひめみこ)の 
      夏見廃寺の歌碑が目にしむ


 

 室生寺
 この寺は桓武天皇の病気平癒の為
 奈良時代の末期に建てられ 
 真言密教の道場として栄え、
 高野山の「女人禁制」にくらべ、
 女性参詣を許した「女人高野」として
 親しまれ、さすがに女性客がおおく 
 しやくなげのすがしい花びらに
 盛んにカメラを向けていました。

長谷寺
 この寺は686年僧道明が天武天皇の為に建立しました。平安時代に隆盛をきわめ 万葉集 古今集 源氏物語 枕草子 連歌 芭蕉 蕪村 などの作品に登場してきます。
この有名なぼたんは唐の王妃馬頭婦人の献木により現在では日本一の大牡丹園です。
また西国霊場第8番札所です。


 
幾たびも参る心ははつせ寺
     山も誓いも深き谷川


心の中でとなえおまいりしました。つたない歌二首


 
あでやかに牡丹七千株咲き競ひ 
      長谷の登廊人の混み合ふ

 帰りがけ一服代わりの説法に 
      長谷のみ仏に心いやさる


夏見廃寺

室生寺

長谷寺

花博

富士の山

浜名湖花博にて

いました。八月猛暑の中を家族と訪れた時は夏のギラギラした太陽に花もなく
睡蓮の葉は銀色に反射してそれなりの美をかもし出していました。日本の浮世絵を
こよなく愛しそこからヒントを得たというモネの作品に親しみを感じました。
 子供の絵の作品から花で再現した事も感動を覚えました。
沢山の人々が甲斐甲斐しく花の世話をされていました。「ご苦労さま」と言わずには
いられませんでした。一週間に一度花を変えるため閉館してから深夜に及ぶ作業と
聞きましたが猛暑でどんなにか大変だったことでしょう。
あとしばらくをお大事に(2004年.4月8日〜10月11日)

日本で三回目の花博が浜名湖で開催されています。五百万株の花々で国内最大です。印象派クロードモネがフランス・ジブェルニーのモネ庭園再現に興味を抱き四月に出かけました。どこからか取り寄せたらしい睡蓮の花がやさしい色を放つて    

古今伝授の里

斎宮歴史博物館友の会から古今伝授の里を
訪れました。郡上大和町篠脇城主は、
鎌倉時代から室町時代にかけて三百年当地を
治めました。初代より和歌の道にすぐれ、
九代常縁が古今集研究の第一人者でした。
連歌師宗祇に、その奥儀を伝え、広く世に
伝わりました。篠脇城は山城で(城は残って
いません)名庭園で 和歌文学館には柿本
人麻呂から斉藤茂吉までの秀歌が展示され、
又日本最大の「古今和歌集絵巻」には
十二単衣の王朝文化のパノラマが見事でした。
 古今伝授の礎を築いた、東常縁が関東に出陣
中に美濃の斉藤妙椿が篠脇城を占領しましたが
常縁が十首の歌を送りました。それを読んだ妙椿
は大変感動して篠脇城を返還したと言うエピソー
ドが残っています。戦国武将を見直しました。
 郡上八幡で宗祇水を飲みましたが、後口がさっぱりとおいしいでした。椙山女学園の生徒の
郡上踊りの練習を見ましたが、楽しそうなので一緒に踊りました。(商工会館にて)
 その後美濃へ うだつのあがる町並みが落ち着いた雰囲気を漂わせ旧今井家に立ち寄り、
そのたたずまいの中に溶け込んで、水きん窟の音を楽しみました。卯建は甲斐性のある人が
建てる事なのですが、元来は火事の時、隣から火を貰わない為に建てたのだそうです。町なみ
を大切に守る住民の心意気に深く感動しました。美濃和紙の有名な店にもよりました。
 車中で(歴史スペシャル「千年の涙」悲しみの皇女斎王のなぞ)のビデオを鑑賞させていただ
きました。三重テレビで12月1日放映されます。

古今伝授の里


一日目  須走より富士あざみロードを通って新五合目へ 紫色の美しいトリカブトの花をみまし
たが、シャッターチャンスを逃し(あざみも同じく)花紀行でなくなりました。
帰り忍野八海で冷たい湧き水が美味しくその水で作られた豆腐をおやつ代わり四人で
二丁も食べました。
 二日目 窓から仰ぐ富士の朝明けに酔いました。
その感動は 歌のコーナーにいれました。
富士吉田からスバルラインを通って五合目
え、吉田高校のマラソンの折り返し点だったので、盛
んに声援をおくりました。奥庭に寄り道して眼前の富
士をみながらのお抹茶は最高でした。(いいあずま
やをみつけ そこにお茶の道具を出し、野点の席とし
たのです) その後青木ヶ原へ
樹海の中を富岳風穴〜鳴沢氷穴まで20分の所を
時間をかけて散策しました。少し怖いので大きな
声で山の歌を歌いました。毎年10人の自殺者がでる
ようですが 今年は警察による捜索はなかったそう
です。若者に命の大切さを説いてあげましょう。 
富士周辺を満喫出来たいい旅でした。
こけもも 奥庭に沢山なっていました。紫の花はトリカブトです。友達が 添付して
来てくれした。右は五合目より南アルプス 中央アルプスを望む。


身延山

大野寺は白鳳9年(681)に開き、弘法大師が、室生寺開創の時本尊弥勒菩薩を安置し室生寺の西の大門となすと記され、その後地名をとって大野寺となりました。1207年興福寺の庄園であった時寺の前を流れる宇陀川の対岸の岩に、弥勒菩薩崖仏を宋人の石匠が彫りました。高さ33メートルの岩に13.8メートルでした。石仏開眼供養には後鳥羽上皇,修明門院、公家,殿上人、女房達60数名の御幸され御親筆や公家達の願文類を石仏胎内に納められました。大野寺のしだれ桜は有名ですが、見て心から感動を覚え、こんな満開の時に訪ねられた事を感謝しました。
 めぐり来て弥勒のむろに大野なる巌はくちせぬ法の庭かな (読み人知らず)

大野寺

甲府より初めて乗った身延線は、晩秋のひなびた里山を行く如く、日本にもまだこんな所があったのか、と懐かしさがこみ上げて来ました。そして身延駅で下車しロープウエイで頂上に向かいました。山頂より甲府盆地側は 鳳凰三山 南アルプス 八ケ岳 が望め、又富士川よりの富士見台から見た富士山には圧倒されました。
下山して鎌倉時代 日蓮聖人によって創建された 身延山妙法華院久遠寺 を尋ねました。丁度写真のような太鼓を打ちながら念仏を唱えての修行僧の姿に出会いました。聖人はひたすら法華経の読経と門弟たちの教育に心血をそそがれたと聞きましたがその伝統は脈々と七百余年受けつがれているのです。

法の道に帰依された黒衣の若き修行僧の姿
に、思はず知らず手を合わせました。厳粛で
身の引き締まる時間でした。法華経は、総合
経典と言われ、全ての人々の救済をめざした
お経である と言われています。
                                宗門のみならず広く日蓮聖人を仰ぐ人々の心の聖地として、日々参詣者の絶えることがないのです。。

葛城山

奈良時代役の行者(役の小
角つまり えんのこずぬ)に
よって開かれた葛城山を訪
ねました。かって私は吉野
で西行法師が泣きながら二
度の山岳修行(高野山を入
れると三度)おこなったとの
話を思いだし、この山に興
味をもちました。大阪府と奈
良県にある、海抜959で
謡曲やまた短歌にもその名
がたびたび登場します。葛
城と大峰は修験行場として
最も畏敬された山であり、
全国山伏にとって一度は
入峰すべき山でした。
そして平安時代になって修験
道は全国の峰に発展して行き
ました。


森林浴の素晴らしさの中で心ゆくまでナチョナル キラーというNK細胞を活性化できました。
葛城ロッジなどの宿泊設備もととのい、今も人々が訪れ心を癒される山の一つとして大切にさ
れています。私達も又来ましょう と約束しました。森林浴の中でゆったりした時間を持つ事
の大切さを体験しました。交通は近鉄大和高田で乗り換え御所で下車、そこから「ロープウエ
ィー駅」のバスが出ています。

2004-10月17日

2004年−12月12日−13日(梨響によるベートゥベン第九交響曲を聞いた帰りに)

身延山

富士の山

2004−9月13日ー15日