第40回 「養心の会 三重」4月例会

講 師 中村富子先生

「演題」
〜我が母 中村富子を語る〜

     
日 時 平成19年4月4日(水)
時 間 午後 7:00開演
会 場 松阪市市民活動センター
住 所 松阪市日野町788
会 費 2,000円(講演会)
茶話会 1,000円(うちの茶の間)
中村先生と語ろう会
中村富子先生のプロフィール】
1924年(大正13年)中村久子女史の次女として横浜市に出生。興行のため地方巡業の旅を続けられる久子女史の慈愛のもとで成長される。昭和17年、学校生活を終えられた後、昭和25年までの8年間、両親と共に岐阜県高山市にて生活。この頃より講演や執筆活動が多くなった母久子女史を背負われる等種々手助けされる。 昭和25年から昭和62年、静岡県沼津市にて経理事務に従事。 昭和43年、久子女史と死別。 現在は高山市で生活している。

            幼き日の大病
                       
 さて、わたくしでございますが、今住まいは岡崎市にまる二年、おいていただいております。
 でも、生まれましたのは、お隣の岐阜県高山市でございます。雪もたくさん降ります、寒いあの乗鞍の下にあります、小さな高山市、あそこに生まれました。汽車もバスもない、文字通り山の中の僻地、その山の中に、四尺も五尺も降り積もる雪の中に生まれたのでございます。
 かぞえ四つの時まで、皆さまとおんなじに手足がございました。
 わたくし、自分の手足があったことは憶えてはおりません。
 四歳の時の秋、寒くなってからでございましょうか、雪の降りました頃に、左の足の甲を霜焼けしたのでございます。
 それで、足の甲に霜焼けいたしまして、その霜焼けがだんだん悪くなりまして、とうとう突発性だっそ脱疽という病気になったそうでございます。脱疽といいますのは、ご承知のとおり骨が腐り、肉が焼けていくという恐ろしい病気でございます。
 そのために、左足はかかと踵の節のところから切り落とすということになったのでございます。けれど、両親がそれを切るということは、許さなかったそうでございます。
 なぜなれば、両親が結婚されてちょうど十年子どもがございません。十一年目の秋、ようやくわたくしというものが生まれたそうでございます。あとにも先にもない子どもの足を短くするということは、親にはできなかったのでございます。かたわにしたくない、足なしの子にしてはならぬということで、切らずに治してほしいと病院にお願いしたそうでございます。
 そのために切られはしなかったのですが、左足の病気が左の手に移りました。右の手に移り、右の足に移り、四本の手も足も熱で真っ黒に焼けてしまったのでございます。
 こうなりますと、切り落とすよりほかに方法はございませんが、切り落とすには四本とも切らなければなりません。そういうからだになりますと、病院のほうではいのちの保証ができなかったそうでございます。
 かぞえ四歳という小さいからだから、四本の手足を切り落としていのちの保証はできない、そうなりました。
 ところが、では切らずにおいたらどうなりますか、とききますと、切らずにおいたら、もちろん、いのちはない。手足の病気がからだの中にまわったら、からだが熱で席って焼けてしまうというわけだったそうでございます。
 切ってもいのちがない、切らずにおいてもいのちがないということになりますと、誰も切ってくれというものはありません。ただ、両親も祖母も親戚もみんな集まって、なぜこの子だけこういう病気にかからなければならないのか、どうしてこういう恐ろしい病気が世の中にあるのだろうか、先の世に自分たちは何を悪いことをした報いなんだろうか。誰もが毎日毎夜、泣きの涙でいたわけでございます。

心の手足「私の超えて来た道」中村久子より

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はじめに 
 
幼くして両手両足を失った母は、全くその有難さも便利さも知りません。
だからこそ努力に努力を重ねて、いろいろ出来るようになりました。
知らないということは、何かする時にはとてもプラスになることもありますよと母は申しました。私も手足のある母を知りません。ですから何でも口でこなす母が、不思議でもなく当り前だと思っておりました。
母が亡くなりました時、初めて母の哀しみが心の中を貫きました。遅いのです。もうどうしようもない……。遅すぎました。
しみじみ自分が情けなく、どう母に詫びたらよいのか悔いのみのこります。
母が一番望んでいたことは、駆けることだったように思います。私は母の足になってあげられなかった。つらいです。  本書から抜粋