日 時 平成19年1月10日(水)
時 間 午後 7:00開演
会 場 松阪市市民活動センター
住 所 松阪市日野町788
会 費 2,000円(講演会)
茶話会 1,000円(うちの茶の間)
(久保先生と語る会)

【久保賢治先生のプロフィール】
1963年7月25日生まれ。現在43歳。京都区立盲学校卒業。看板業に就職後様々な職業につく。現在福祉コメンテーターとして活躍中。京都市内の講演を行なっている。
 

       障害がある立場からの見方を述べてみたいと思う。
先程、最初に述べたように私は未熟児で生まれた故に障害を負う事となった。
視力が片目ゼロ、片目0.01、具体的に言えば病名は「視神経萎縮」並びに「眼球振とう」と云う診断を下された。生まれながらにして物をはっきり見た記憶がない。
 物の形や映像をはっきりと42年間の間に見た事がない。片目で見るが為にいつも歪んで見える。ある人に言うと手術をすればよいではないかと言われたが、昭和38年当時の医療水準を考えて見れば、とてもではないができるような医療水準ではなかった。当時東京のある病院に診察に行ったところ、手術をしても「難しい」と言われ両親はやめたと言っていた。何故なら手術をすれば身体のどこかに重い障害が残ると当時の医師に言われたからだと言われました。
                  福祉について述べてみたいと思う。
                                                      久保 賢治 
昨今「福祉、福祉」と社会的には叫ばれているが、「本当の福祉とは何なのか」と非常に疑問に思う。
私が昭和30年代から今日まで生きてきた中で感じた事は、以前と違い物は多く溢れている。しかし人間の気持ちは少しずつ離れてきているように感じられる。私が昭和30年代〜50年代後半までのことを言えば、視覚障害のある者にとって非常に過酷な時期を送ってきた。
今のような教育ではなく、目の不自由な者は文部省から「盲学校へ行け」との通達があり、12年間盲学校で教育を受けたが私にとってその教育は真の教育ではなかったと思う。一般の学生のように授業を受け、全て理解してきたように周りの人から立派な教育を受けてきたと思われているが決してそうではない。
「教育論」の中で申し上げたが、私は生まれてから目が不自由な為、「幼稚園と保育園を2回通園した」と聞かされた。
最初の幼稚園では両親に対し当時の教諭の方が「お宅のお子さんについてどのように指導すればよいかわからない」との旨を言われたそうである。その理由を聞いたところ、「食事は一人でとれないし、トイレも一人で行くことが出来ない。又、衣服の脱ぎ着も一人では出来ない。沢山の園児を抱えている中であなたのお子さんだけ特別扱いできない。従って、退園していただきたい」と言われたそうである。
そこで困っていたところ、ある所より保育園を紹介されそこへ私を連れて行き入れて頂いた所、一人の保育士の方がマンツーマンに対応してくださり大変よかったと言っていた。そこから盲学校を紹介して頂き、12年間の盲学校生活を送ることができた。

さてそこで、今の普通校と盲学校の違いを述べてみたいと思う。
当時の盲学校の教員は、盲教育のスペシャリストが多くおられ一人の子供にあったカリキュラムを組み教育をしていたように思う。確かに国語、算数、理科、社会といった一般教養はあるものの、そういった教育ではなく人間としてどう生きてゆけばよいか当時の教員の方々は教えていたように思う。
今となっては、その教育があったからこそ今の自分があると心から自負している。今の教育は真の教育ではなく、本当の教育が全くできていない。先にも述べたが、人間性を作るのはまず家庭である。そこから全て何もかもが始まると思う。

福祉も同じである。
昨今は専門学校や大学で福祉の理論を学んでいるが、それを職場で全くと言っていいほど活かされていない。施設に就職したものの、上司から「うちの施設のやり方では、あなたの自論は通用しない。又、そのような事をしては困る」といったような言動を受け、辞めていく方も数多くおられる。

本当に福祉の現場は一般の職種より厳しいと思う。なぜなら、小学校と同じように子供を教えるような物の言い方をしなければいけない事が多々ある。例えば、「なになにさん、おはようございます」といった子供言葉を使い、「ごはんですよ」といった言葉を使い大の大人としての扱いを軽んじている。よくテレビ・ラジオで話を見聞きしていると障害のある方々や老人の方々に対し子供扱いするのは、子供に返るからだと言われている。たとえそうであってもそのような言動をしてよいのか否か、私は疑問に思う。
「演題」視覚障害者から見た教育と福祉 
講師 久保賢治先生
第37回「養心の会 三重」1月例会
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