講 師 神渡 良平先生

「演題」 一粒の麦

〜作家の目に映った倫理運動の創始者・丸山敏雄〜
日 時 平成17年1月12日(水)
時 間 午後 6:30開演
会 場 松阪市市民活動センター
住 所 松阪市日野町788
会 費 2,000円(講演会)
茶話会 1,000円(うちの茶の間)
(神渡良平先生と語ろう会)

【神渡 良平先生プロフィール】 
1948年鹿児島県生まれ。九州大学医学部を中退後、新聞記者や雑誌記者などの職業を経て、作家に。 38歳の時に脳梗塞で右半身不随になるが、懸命なリハビリによって社会復帰を果たす。このときの闘病生活から「人生は一度だけ。貴重な人生をとりこぼさないためにはどうしたらよいか」という問題意識が作品の底流となった。日本文藝家協会会員。著書には「安岡正篤の世界」「人は何によって輝くのか」「マザー・テレサへの旅路」「野に在る覚者たち」など。

最新著書
『一粒の麦 丸山敏雄の世界』
倫理運動の創始者・丸山敏雄は万人が幸せになる法則を発見した人であり、今をときめく倫理法人会の産みの親です。京セラの稲盛和夫会長は、「私よりも努力している人は大勢いらっしゃる。しかし、その努力が必ずしも報いられていないのは、ただがむしゃらに努力しているからだと思います。天地の公理をわきまえて努力してこそ、実を結ぶのです」とおっしゃっていますが、その天地の公理、ゴールデン・ルールこそ、丸山が説く「万人幸福の栞(しおり)」だと思います。
丸山が苦節の人生を経てつかんだゴールデン・ルールを考えてみていただけたら幸いです。

『一粒の麦 丸山敏雄の世界』
                                                                             神渡良平
 私は倫理運動の創始者丸山敏雄について書いた原稿『一粒の麦 丸山敏雄の世界』を持って、7月31日、高野山に登った。空海弘法大師のしっか膝下で、最後のすいこう推敲をするためである。折から高野山は台風10号に直撃され、大荒れに荒れて、バケツの水をひっくり返したような土砂降りである。
 嵐の一夜が過ぎて、8月1日早朝四時、ほのぼのと明け始めた空にはまだ雨雲が残っていたが、それでも台風一過を思わせるような爽やかな風が吹いていた。私はまだ寝静まっている宿坊の無量光院の潜り戸を抜けて、奥の院への道を急いだ。
 いつもだったら既にこの時間には掃き清められている参道のそこここに、杉の枯れ枝が散り敷いて、昨夜から今朝にかけての嵐の凄さを物語っている。私は参道の両脇に建てられた燈籠の明かりに導かれて、樹齢七百年といわれる杉の林を歩いていった。杉林の霊気がすでに心身を引き締めてくれ、近視眼になりがちな私の視点を引き上げてくれる。
 一ノ橋を渡り、杉林を歩くこと二十五分、私は転軸山から湧き出る清水を集めて流れる玉川に架けられたごびょうばし御廟橋を渡って、奥の院の燈篭堂(拝殿)に詣でた。早朝のことなので、入り口はまだ閉まっている。私の目的はその裏手奥にあるにゅうじょう入定ごびょう御廟の前で瞑想することだ。
 燈籠堂を左手に廻って真後ろに行き、入定御廟の前に立って、一礼して瞑想に入った。
 瞑想中、私は昨年(平成十五年)の五月から六月にかけて行ったスペイン巡礼のことを思い出した。私は八百キロに及ぶスペインの巡礼道「ヤコブの道」(カミーノ)を三十六日掛けて歩き終わった翌日、サンティアゴ・デ・コンポステーラのカテドラル大聖堂でのミサに出席し、それを終えてカテドラルを出た。薄暗いカテドラルから太陽がカーッと照りつけているオブラドイロ広場に出ると、あまりの明るさに、目がくらんだ。広場ではそこここで巡礼仲間たちが完歩したことを称えて、歓声を上げ、抱き合い、祝福しあっている微笑ましい光景が繰り広げられている。
 
 私はスペイン巡礼記『星降るカミーノ 魂の旅路』(PHP研究所)を書いたあと、丸山敏雄の伝記を書くことにしていたので、「文学はもの言わぬ神の意思に文字を与えることである」という信条は、その指針だと受け取った。ただ単に丸山敏雄の人生の航跡を書き表すだけでなく、そこに込められていた丸山敏雄の模索と祈りを書き表すのだと言われたような気がした。
 瞑想中、私はあるインスピレーションを受けた。そのとき、全山がゴォーッと鳴り響いた。思わず目を開けると、御廟の入り口に掛けられたまんま く幔幕がまくれ上がり、御廟から一陣の風が吹いてきた。
 オオオオーッ
 突風が終わると、また元の深山幽谷に返った。
 私はそれを神からの回答として聞き取った。私は無量光院にとって返すと、水を被り、身を引き締めて、推敲を続けた。こうしてこの作品は一歩一歩完成に近づいていった。

 丸山敏雄は、確かに、幼い頃から抜きん出て優秀だった。その理性は徳福一致の純粋倫理を?むためにあったといえる。しかし、人間は幸福になる法則を説かれたからといって、
 「ああ、そうですか」
と言って、実践するものではない。実践に至るためには動機付けが必要であって、人をして真に奮い立たせ、実践に向かわしめるものは、自分に注がれている愛だけだ。人々はこれに感じ入り、その気になり、実践し、実を結んで、確信するのだ。
 だから、丸山敏雄の人生は徳福一致の純粋倫理を?むだけではなく、それを超えて、人々を実践に向かわしめるために、熱烈な愛を確立するためにあったといえる。さまざまな試練に直面させられたのも、環境に左右されない自分を確立して、人々に愛を注ぎ出し、倫理運動の真に牽引車たらしめるためであった。
 そのことに気づいた私は、それを書き表そうと努力した。これこそが私の目に映った丸山敏雄像だった。

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