講 師 山手 勝先生
「演題」 「片腕のVサイン」 〜逆境からの脱出〜
日 時 平成16年12月10日(金)
時 間 午後 6:30開演
会 場 ウッドピア 木の情報館
住 所 松阪市木の郷町1番地
会 費 2,000円(講演会)
茶話会 1,000円(うちの茶の間)
山手 勝先生と語ろう会)

【山手 勝先生のプロフィール】 
昭和16年5月神戸に生まれる。昭和20年3月17日の「神戸大空襲」で被爆、左腕を失う。両親の離婚、浮浪児生活などの苦難の少年時代を経て16歳の時に米軍基地(福岡)のゴルフ場のキャディとして就職。賭けゴルフで腕を磨き、ハーフを40台で回れるまでに上達したが、基地の閉鎖で失業。昭和42年英美子夫人と駆け落ちして姫路へ。ボイラーマン、牛乳店店長、ボーリング場副支配人などの職を転々とした末に、昭和48年、ゴルフ練習場の指導員として10年ぶりにクラブを握る。同年、プロゴルファーを目指し「推薦プロ」テストへの挑戦がスタート。6年後の昭和53年「61回目の挑戦が実り、日本で唯一人の「隻腕のプロゴルファー」としてデビュー。
 プロシニア・トーナメントへの出場権を得た平成4年、50歳の春からプロゴルファ―としての真の戦いに挑む。予選通過を第一目標に生涯を通した挑戦の日々が続く。逆境をはね返し、片腕のハンディキャップを克服した強靭な精神力は、天性の明るさと共に、人々に生きる勇気と希望を与えてくれる。現在は各地から呼ばれ講演に出かけている。    著書に「片腕のVサイン」がある。

山手先生のお話しは「片腕のハンディキャップ」など微塵も感じさせないほど楽しく笑いの多い内容です。
ご本人が非常に明るい方ですので、講演も笑いが絶えないのでしょう。
「怪我なく健康でいることは本当にありがたいことなんですよ。私を見ればわかるでしょう」とサラリとおっしゃる山手先生。元気いっぱいの山手先生のお話を聞けば、日頃悩んでいることが馬鹿馬鹿しく思えてきます。
ご本人の明るさは『強さ』の証だと思います。
“ハンディを克服した強靱な精神力”は、天性の明るさと共に、聞く人に「勇気と希望」を与えてくれます。




片腕のVサイン “ワンハンドプロゴルファー” 山手勝物語
昭和二十二年四月、勝は若松の小石小学校に入学。男女共学・六・三制の義務教育が施行された最初の年の、新一年生だった。この息子の晴れの日にも母は帰らず、勝は叔母に手を引かれて、満開の桜が咲き誇る学校の門を潜ったのだった。
「さあみんな、手をつないで大きな輪をつくりましょう」
 オルガンの伴奏に合わせての遊戯の最中に、勝の左隣にいた女の子が突然泣き出した。手をつなぎたくてもつなげない、腕のない同級生にショックを受けたのだった。
 担任教師のうかつさが、勝の心にざっくりと深い傷を負わせた。しかし、「片腕やからちゅうて、絶対ばかにされんようにするんじゃ!」
 天性の強烈な闘争心が、この時むくむくと頭をもたげた。
 身障児なるがゆえの差別や、イジメの標的にされるのを本能的に恐れ、勝は力による先制攻撃で周囲を威嚇するようになった。幸い当時は現在のような陰湿なイジメの風潮はなく、七、八人の悪童が仲間をつくって他のグループと殴り合うのが半ばスポーツ化していたような時代だった。戦争ごっこ、騎馬戦などの荒っぽい遊びで男の子らしさを競う時代だったこともあって、教師の過度な干渉はなく、片腕の少年・山手勝はガキ大将として君臨するようになった。

二度日の母が家を出て行ってしまって間もなく、父は家財道具全て、息子の目の前で売り払った。
「母ちゃんが出て行ったから、おまえの面倒は見られん」
父の言葉はいかにも無惨だった。勝は乏しい身の周りの品を風呂敷ひとつに包み、またしても姫路の祖父のもとへやられる運命となった。
 勝は中学卒業までに六回も転校している。そのたびに教壇に立たされ、自己紹介させられるのが厭でたまらなかった。同級生の視線がジロジロと左腕に集まり、恥ずかしさで逃げ出したくなる。妙な注目を集める上に、給食費や学級費も滞りがちの勝は、心ない教師に級友の前で大声で滞納を責められ、真っ赤になってうつむいたこともある。
 ぼろきれのような生活だった。どこかで野垂れ死にすれば、それまでだ。彼の存在を、社会が認めていないのである。社会の一員という自覚があればこそ、善悪の観念もある。社会から見捨てられたとき、人の野性はむき出しになる。
 いつしか勝は、ポケットに小型ナイフを忍ばせ、通行人を脅して金品を強奪するまでに牙をむくようになっていた。被害者が警察に駆け込み、「痩せた左腕のない少年」の身元は瞬時に割れた。「またあいつか」と刑事が舌打ちするほど、札付きの非行少年になっていた。
 後ろ手に手錠をかけられ、終日警察に囚われの身となることも珍しくなかったが、それはそれで「うまみ」があった。留置者を死なせるわけにはいかないから、警察では丼飯があてがわれる。垢だらけの片腕の少年は、何のみてくれもなく丼飯をむさぼり食った。留置場から放り出されると、また非行を繰り返した。

勝がキャディーになったのは昭和32年10月。
 キャディー仲間の全員がゴルフをやっていた。それも賭けゴルフだ。夜が明けたばかりの朝もやの中を、彼らは貸クラブを手にコースヘ出る。雨の日や客の来ない閑散時にも、賭けは行われた。ニューフェイスの勝にもお誘いがかかった。ゴルフクラブなど一度も振ったことのない勝は面食らい、途方に暮れた。
 ハンディキャップを180も与えられてコースヘ出たが、右腕一本で振るクラブは思いのほかに重かった。三ホールも進むと、腕がしびれて感覚がなくなる。握力も失われ、空振りしたクラブが宙に舞った。ケンカなら自信があるのだが、勝手が違いすぎる。 「くそったれ!」
 硬直した腕を撫でさすりながら、ハーフを回ることさえままならぬ無念さに唇を噛んだ。
 鴨がネギをしょったような好餌を得て、キャディー仲間は連日のように勝をコースに誘った。挑発されれば絶対に逃げ出すことのない、好戦的な勝の性格を見抜いていたのだ。五、六ホール目にさしかかると、「そろそろクラブが飛ぶころだから気をつけろよ」と、彼らは笑いながら互いに注意を促し合った。

かつて勝をカモにした先輩キャディーたちは、奇跡が起こるのを目の当たりに見て、信じられない思いのままに片っ端からなで斬りにされていった。かつて彼らにされたように、勝は彼らがサラリーを受け取る列の後ろに待ち構え、次々と賭け金を徴収した。臥薪嘗胆を絵に描いたような努力が実り、カモと猟師の立場は完全に逆転した。
「ワンハンドでゴルフの上手い青年がいる」
噂はたちまち広がり、西日本新聞が取材に来た。昭和三十四年に西日本新聞社の写真部が撮影した勝の写真がある。ウッドクラブを握ってポーズを取る彼は、プロボクサーのように細く締まった身体に、牡牛のような太い首が印象的で、黒豹のような目がレンズをにらみつけている。触れればたちまち赤い血が滴りそうな、鋭利な刃物を思わせる剽悍さを漂わせている。
その頃このゴルフ場には何人もの有名人が、米軍に招待されプレーを楽しみに訪れていた。大相撲の横綱千代の山や、当時最強のプロ野球チームだった西鉄ライオンズ(現西武)の中西太選手、俳優や女優、それに女性の花形職業だったスチュワーデスなど、華やかな顔ぶれだった。ゴルフのうまい片腕の名物キャディーは、何度も彼らのバッグを担いで、コースを共にした。                            彦坂 順 著 抜粋

養心の会TOP