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更新情報


2012.05.21 22:09 [ 古代史ノート ]
金環日食、見えましたか。夕べ雨だったので油断していました。時間もぎりぎり。薄雲がかかって時々太陽が照る状態。どうやら食の終わりの三日月状のが見えました。
2012.05.21 02:56 [ 古代史ノート ]
最近、いわゆる邪馬台国本が目立つ。改めて自説を述べた。「放射説の終焉」である。放射読みしなくても九州内に落ち着く。邪馬臺国の位置が解ってしまえば、白熱の論議も色あせる。邪馬台国は七世紀の俀国まで続く。『隋書』と『日本書紀』にそう書かれている。八世紀には大和朝廷が確立する。長き眠りから覚めよ、迷妄の闇を抜けろ。新しき日本史を打ち立てよう。日本の未来のために。若者よ、つづけ。
2012.05.20 19:00 [ 方丈日記 ]
大相撲が面白くなってきた。勝ちさえすればいい、強ければいい、白星さえ揃えばいい、儲ければいい・・の時代から、厳しい勝負の世界を突き抜けて、感動を与える相撲・関取へと変わってきた。東北地震を契機として思いやりや絆(連帯)が見直された。日本の社会は変わるか。
2012.05.17 23:32 [ 方丈日記 ]
伊作さん、ご教示戴き有難うございました。久しぶりの消息で、お元気の様子で何よりに存じます。古代史のブログやHPが少なくなりましたが、古代史学の現状に発憤して頑張りましょう。
2012.05.17 15:10 [ 古代史ノート ]
昨日の「天武の正体」を手直ししました。これで多少は読みやすくなったと思います。天武が誰なのか、直接的な証拠・論拠がなく、状況証拠の積み重ねになります。「天武の父世代の倭王は孝徳である」から必然的に孝徳の子とならざる得ないでしょう。孝徳末期から筑後王統が台頭してきます。肥後と筑後は有史以来の宿敵であり、何度も戦い互いに滅亡しています。筑後王が倭王を名乗ったとしても、肥後の天武がその子である可能性はほとんどありません。また天武が筑後王統でないことは筑後滅亡後に台頭してくるからです。"天武と兄王は孝徳の子である"という意外な結論に納得いただけないでしょうか。
2012.05.17 03:41 [ 古代史ノート ]
夜が明けてしまいそうです。『日本書紀』がいう天智・天武兄弟説を素朴に信じられない人にとって、「天武は何者か」は最大の関心事です。天武を賞賛する『古事記』が全く無視しており、筆者にとって非兄弟説は確信に近いですね。『日本書紀』が兄弟だといっているのに、兄弟ではないという証拠を『日本書紀』で証明するというのは至難の業です。天武は舒明の子ではない(舒明の子は大海皇子であり、天武は大海人皇子で別人である)、は当然の前提です。だから誰の子か、です。一般論(同一王権内での継承)として「天皇の父は天皇である」を適用すれば、天武の父も天皇のはずである、から糸はほぐれます。一読下さい。
2012.05.16 01:04 [ 古代史ノート ]
尻切れトンボになってしまいました。どう考えても天智・天武非兄弟なんですが、『日本書紀』が隠蔽しているだけに、どうしても尻尾がつかめません。『日本書紀』成立の30数年前のことですから、他人同士を兄弟とはできないでしょうが、従兄弟とか姻戚同士とか、何らかの近い関係ではあったと見当しています。『日本書紀』の言うように「ははは、兄弟さ!」というなら、『古事記』にその片鱗さえみせないのはなぜでしょう。東国へ六師三軍で攻めたと言うだけで、攻撃する相手・勢力(凶徒)に全く触れていないのは奇異ですね。『古事記』には大和王朝は天武から始まる、みたいな前提があるように見えます。『古事記』はそれ以前の大和王権に伝承された「古い事を書いた記(ふみ)」ということでしょう。
2012.05.15 02:34 [ 古代史ノート ]
雨が降ってきました。天武なくして大和王朝はなかった。近江朝は潰されたが、日本の国号・日本天皇の地位と大義を大和王権にもたらした。それにしても不思議なのは、逆に筑紫を領していた天智がなぜ九州肥後王権を潰さなかったのか。いや~また寝られなくなりそう。もっと書きたいことがありますが、遅いので又にします。
2012.05.13 23:31 [ 古代史ノート ]
『古事記』では、皇位争いを避け吉野に隠棲し、それでも討たれそうになって東国に逃げて旗揚げした、という『日本書紀』のストーリーは片鱗も見せない。むしろこの前提・条件で天武が勝ち得たのは不思議でならない。伊賀から鈴鹿へ出るまでの手薄の天武を、なぜ圧倒的な正規軍を持つ近江京が、目と鼻の先の滋賀県甲賀の鹿深で待ち伏せなかったのか、美濃へ脱出後不破からは軍勢が差し向けられ激戦になるが、時既に遅し。近江が滅亡の淵に立つまで、天武に臆していたのではないか。当然軍事力にではなく、日本天皇(肥後王権)の大皇弟という地位・権威に対してである。
当時は、軍勢では鈴鹿峠も青山峠も高見峠も越えられない。長野峠の伊賀越えも難しい。唯一、柘植の加太越え(大和街道)だけである。だからこそ天武もここから三重県側に出た。狭い峠道で絶好の襲撃場所なのだが・・。歴史に「もしも」はないが、考えると寝られなくなる(笑)
2012.05.13 10:08 [ 古代史ノート ]
昨日の「古代史ノート・南山」に追加しました。なぜ「夜の水(河)に(身を)投ず」のか考えていました。夜のうちに河の淵に身を隠し、夜明けの雷鳴に呼応して天に昇る、そうゆうイメージを描いたのではないか、と考えました。読者諸子やいかん。
2012.05.12 23:01 [ 古代史ノート ]
『古事記』前文には、「天武が天智の継子大友皇子と皇位争いの難を避け吉野に隠棲した」とも、天智の実弟とも一言も書かれていない。この重要な歴史のキーポイントがすっぽり抜けている。また、壬申の乱は古代史最大のハイライトである。「潜龍元を体し、洊雷(せんらい)期に応じき」とあって、これは天下盗りであり、皇位争いと次元が違う。
2012.05.11 23:59 [ 方丈日記 ]
日常の備忘録のつもりの「方丈日記」に古代史関係の事を書いてしまいました。そのため気楽に書きました。韓半島南岸から九州が倭人の居住地だったことは間違いありません。そのキーワードをまたひとつ見つけました。
2012.05.09 23:45 [ 古代史ノート ]
昨日の「神代の時代」の続きです。人皇の時代も、邇邇芸の天降りの筑紫、別系統の葺不合、さらに派生した神武、と三つの王統が指差されています。決して神の子孫の一王統だけが連綿と現代に続いているとは書いてありません。一王統皇統譜を唱えるなら、穂穂出見が高千穂に580年坐した意味を説明しなければなりません。なぜ邇邇芸ー穂穂出見から葺不合まで580年なのかです。明らかに系譜の途絶ではありませんか。
2012.05.08 15:01 [ 古代史ノート ]
『古事記』が完成して元明天皇に献上されたのが712年、今年は2012年でちょうど1,300年前である。もう一度『古事記』を読んでみようと思っている。
2012.05.07 23:38 [ 方丈日記 ]
ずいぶんサボってしまいました。その間に月も飛び、季節も変わってしまいました。いつもアクセスして戴く読者の皆さんには申し訳ありません。どうも右肘の痛みがとれず困っています。特にマウスを動かす動作が堪えます。それでも暖かくなって症状(俗にテニス肘というようです)は軽くなりました。せっせと冷湿布したのも良かったかも。それでも足は達者で、あちこちと花見に出かけました。『古事記伝』の本居宣長が愛した山桜もいいですね。「古代史ノート」(古事記の性格)も更新しました。
2012.05.07 23:48 [ 古代史ノート ]
またまた『古事記』です。『古事記』が世に出たのは南北朝ころと言われています。それまで存在は知られていませんでした。712年の成立ですから禁書・焚書の扱いですね。本居宣長の『古事記伝』が出るまで、江戸時代中期まで一般には知られてもいません。現代でも偽書説は消えません。なぜこんな運命を背負ったのか。それもこれも記紀魔術に引っかかって、大和王朝絶対説に惑わされているからです。大和王朝はせいぜい八世紀に成立した王朝で、それ以前は地方の小王権に過ぎません。その小王権の旧辞で、言わば(旧辞+皇統譜=古事記)です。その旧辞は、肥後の日本天皇の「日本紀」の一部だったと考えられます。だから神代の時代から大和の天皇が日本を統治した建前の「皇国史観」からは忌避され異端視されたのです。
2012.03.26 23:00 [ 方丈日記 ]
今週で3月も終わるというのに、本格的な春の訪れはいつになるのでしょう。寒さが続くためか体調は芳しくありません。皆さんはいかがですか。筆者は、右肘を痛めてから無理しないよう慎重に生きてます。
2012.03.14 01:07 [ 方丈日記 ]
春が足踏みしています。それでも今日は奈良東大寺のお水取り、18日から彼岸の入りで春は間近です。
2012.03.06 23:19 [ 方丈日記 ]
いよいよ春の訪れです。寺の境内で土筆(つくし)を見つけました。土筆を見つけたのは久しぶりです。「古代史ノート・古事記」を 2012-03-07 0:35 に加筆修正しました。『古事記』がなぜ推古で終わるのか、別の視点が浮かんできました。
2012.03.06 02:50 [ 古代史ノート ]
う~ん、眠い。推敲していませんがアップしておきます。昼過ぎには書き直すべきところは書き直しておきます。
2012.03.02 21:23 [ 方丈日記 ]
Windows-8 について記事を追加しました。Windows-8 の環境でアップしています。午後にはWIN-7に戻しました。
2012.03.01 15:05 [ 方丈日記 ]
Windows-8 を動かしてみました。ちょっと難儀ですね。ワクワクした WIN-7 のときと違いますね。
2012.03.01 02:21 [ 古代史ノート ]
Windows-8 (β版) のダウンロードただ今 74% です。古代史の方も更新しました。八世紀の大和王朝が、大和王権(天皇)の排他的な力の誇示だけで成立したのではない。この成立の時点で、すべてを包み込んでいく包容力があったからこそ、その後千三百年にわたって続いたのであろう。
2012.03.01 00:57 [ 方丈日記 ]
Windows-8 (β版) 解禁、どんなものか試してみましょう。
2012.02.28 00:06 [ 方丈日記 ]
コートの要らない暖かい日の後、またまた寒い日になりました。体調を崩しがちです。読者の皆さん、体に気をつけてください。
2012.02.26 17:45 [ 古代史ノート ]
国の概念が曖昧なまま倭国や百済国など古代の国が語られる。古代には古代の国がある。
2012.02.20 23:31 [ 方丈日記 ]
比較的暖かな当地方でも梅はまだ咲いていません。日当たりの良い場所で、つぼみが膨らんでいる程度です。水仙も今年は咲きが悪いですね。記録的な寒さで例年とは様変わりです。
2012.02.11 22:14 [ 古代史ノート ]
何度も言及した問題ですが、白村江の戦い前後の激動の時代を、矛盾無くうまく説明できます。従来説よりダイナミックな歴史が浮き出してきます。
2012.02.09 23:36 [ 方丈日記 ]
キーボードはまだしも、マウスを操作すると後から右腕が痛くなります。更新が思うに任せず困っています。暖かくなれば多少は良くなるかなと期待しているんですが・・
2012.02.04 23:41 [ 古代史ノート ]
無文銀銭から近江大津宮に話題が移ったのは、無文銀銭を流通させたのが筑後の倭王ではないか、ということからである。この倭王が「白鳳」という年号を制定した。この白鳳年号は日本書紀には出てこない。だが白鳳が実際に使われていた痕跡は各地にある。近江京遷都はこの白鳳という年号とセットなのである。天智の近江遷都とは異なるもうひとつの近江遷都を認めざるを得ない。天智が絶対唯一の君主ではないという『日本書紀』の裂け目が見えるのである。従来説を捨てきれないなら、白鳳年号を説明する必要がある。天武詔の「銀銭を使う無かれ」の銀銭も。
2012.02.04 01:36 [ 古代史ノート ]
667年天智は近江大津宮に移ります。6年前の661年には筑後倭王が先駆けて近江へ遷都しています。わずかの期間、筑後倭王6年間、天智・大友が5年半、宮を置きます。大唐帝国の成立による東アジア激動(高句麗征伐)の余波です。従来、天智の近江大津宮は認めても、筑後倭王の遷都など目もくれていません。『扶桑略記』では、近江大津宮を大津市錦織の遺跡(定説)とは別のところを示唆しています。もっと南の瀬田・石山の当たりです。天智の宮が二つもあったわけではなく、二人の王の宮を記しています。
2012.02.03 20:18 [ 方丈日記 ]
よく冷えますね。
2012.02.02 17:38 [ 古代史ノート ]
憲法17条は、肥後倭国の東宮聖徳が制定したものであり、『日本書紀』編者が書き改めて採録したものである。東宮聖徳の功績を、推古の甥の厩戸皇子のものにしたのである。
2012.02.02 14:22 [ 方丈日記 ]
当地方も雪が散ってきました。皆さんのところは大丈夫ですか。気をつけて対処してください。
2012.02.01 23:53 [ 方丈日記 ]
更新しました。
2012.02.01 17:19 [ 古代史ノート ]
日本の一番古い貨幣として「富本銭」が有名だが、天武の詔に「今より銅銭を用いよ、銀銭を用いること莫(なか)れ」というのがある。富本銭は銅銭であるから、その以前に銀銭が流通していたことになる。銀銭は無文銀銭と呼ばれ、近江を中心に近畿に偏在している。ときは白村江の戦いの七世紀中頃、貨幣を発行しうる公権力が近江に・・
2012.01.30 22:13 [ 古代史ノート ]
大和王権の天皇が、たとえば推古が列島で唯一の王だったわけではない。それを八世紀の大和王朝の天皇と同一視することは、誇大妄想である。中国隋王朝煬帝に倭王を自称して遣使した天皇がいる。その倭王の皇太子が豊聡耳聖徳であって、厩戸皇子は単に推古の甥に過ぎない。聖徳一族壊滅によって、その功績を簒奪したのが聖徳太子伝説であり、その意図はすでに『日本書紀』に込められている。
2012.01.30 17:45 [ 方丈日記 ]
更新しました。また昨日の「滲出性中耳炎」に記事を追加しました。
2012.01.29 23:13 [ 方丈日記 ]
持病の正体か。
2012.01.29 22:05 [ 古代史ノート ]
『隋書』に倭王として阿毎多利思比狐(男王)が記録されている。同時代、大和王権では推古天皇(女王)の時代である。この絶対矛盾に目をつぶって古代史を論じてみた所で意味はない。隋の煬帝と倭王は不和を醸し、大和王権小野妹子の遣隋使による外交は大成功である。大和王権歴代初の中国遣使、この外交を導いたのは誰か。倭王の皇太子にして、東国(九州からの視点/西日本を指す)統治長官の聖徳太子なくして、大和王朝はなかった。斑鳩を本拠とした聖徳太子は、大和王権の太子ではない。
2012.01.29 00:14 [ 古代史ノート ]
またまたNHKプレミアムが聖徳太子を取り上げた。不在論に揺れる悩ましき聖徳太子である。聖徳太子の墓は叡福寺北古墳(磯長陵)であるとされる。叡福寺は大阪府南河内郡太子町にある仏教寺院。斑鳩宮にいて斑鳩寺を建立し、子の山背大兄も一族も斑鳩を本拠とした。聖徳太子を論ずる前にまず、その奈良盆地北西部の斑鳩を本拠とした聖徳太子の墓が「なぜ河内にあるのか」を答えてほしい。聖徳太子不在論も虚構論も、まずこの素朴な疑問に答えるべきである。筆者の立場ははっきりしている。磯長陵は厩戸皇子の墓所であっても、聖徳(豊聡耳)太子の墓ではないとする。聖徳太子の墓は斑鳩の西隣の『竜田御坊山古墳群』のひとつと考えている。言わば「厩戸、豊聡耳聖徳分離説」である。
次の素朴な疑問。当時の宮都は飛鳥である。聖徳太子はなぜ斑鳩を本拠としたのか。大和王権の最大のスター聖徳太子が、なぜ飛鳥に居れなかったのか。これも筆者の立場ははっきりしている。聖徳太子は大和王権のメンバーではなかったから。支配・監督する九州倭王の皇太子にして統治官であった。美濃・近江から吉備・防府にかけて目を光らせるには、最大勢力の大和王権の出口(大和川から淀川・瀬戸内へ)を押さえることである。ここを押さえられて推古も蘇我氏も肥後王権に従わざるを得まい。
2012.01.28 16:40 [ 方丈日記 ]
一応風邪の熱は下がったものの、まだ本調子には戻らず、アップはできません。そこで若干構成を変えました。「方丈日記」は、筆者の日記部分はそのままに、古代史関連のものは「古代史ノート」にまとめ、2本立てに分割しました。
2012.01.19 15:30
申し訳ないことに、また風邪を引いてしまいました。頭がからきし働かず更新できません。血液検査の結果も良からず、治療に専念します。しばらくお休みします。
2012.01.17 00:59 [ 古代史ノート ]
いや~、熱を帯びてきます。筆者がどうしても主張したい部分だからです。今までの『魏志倭人伝』の読み方は温和し過ぎます。史実はもっとダイナミックじゃないでしょうか。卑弥呼は決然と魏に反旗を翻して、九州の統一を目指したのです。後漢末の倭の乱で倭国を滅ぼし伊都国王は統属させた、残るは狗奴国王の卑弥弓呼。卑弥呼も卑弥弓呼も王ならば、卑弥(ヒミ)王・卑弥弓(ヒミコ)王ではないか。倭の乱で倭国の遺臣・氏族らの勢力は近畿に移る。銅鏡と鉄刀を携えて。出自を証する九州由来の宝物を巨大な前方後円墳に埋納する。卑弥呼の次の壹與の次の王は男王。狗奴国を併合したか。
2012.01.15 23:52 [ 魏志倭人伝(原文) ]
『魏志倭人伝』の原文を探すと案外見つからない。何とか用は足せると思いますので、利用してください。
2012.01.14 21:16 [ 古代史ノート ]
倭奴国とか倭国とか言うと、その一国に統一されていたかのような錯覚をする。日本が一国に統一されるのはもっと後世であることは分かっているのに、である。七世紀以前の倭国は、日本列島の一部を統治するに過ぎない。九州北部(筑紫)の倭国が近畿に東遷すると近畿(筑紫を含む)が倭国であり、その後は倭国の国号を大和と筑紫で取り合う。倭の五王は筑紫の倭国である。倭国は決して古代の日本の国号ではない。日本列島の一部を統治する一王権に過ぎないのである。倭=日本となるのは七世紀末以降である。
2012.01.13 22:45 [ 古代史ノート ]
解りやすく、短い文を目指しているのですが、つい熱を帯びてくると、古代史用語で長い文章になってしまいます。
2012.01.13 16:55 [ 方丈日記 ]
珍しくない人には珍しくはありませんが・・
2012.01.09 19:55 [ 古代史ノート ]
伊都国が、博多湾の外れというのはどうも居心地が悪いですね。おかしいじゃないですか、倭が大陸や韓半島と繋がる国際港が、不貞腐れているようで。やはりズバリ、那の津でどうですか。
2012.01.05 23:45 [ 古代史ノート ]
伊都国の前に末盧国が記述されているばかりに、郡使は西から来たとばかり思っていたが、梯ジュンら郡使が末盧国に寄らなかったとすれば、当然博多湾へ入ることになる。常識的に考えて朝鮮半島の郡庁から倭国へ来るなら、壱岐から直接博多湾へ来るのが当たり前である。九州北部の最繁栄地なら今も昔も福岡市である。糸島市の西に着くなど不自然きわまりない。末盧国はなおさら。しかも伊都国は当時倭国最大の国際港である。古田氏が唱えられるように、倭建の国偲び歌(「倭は国のまほろば たたなづく 青垣 山隱れる 倭しうるはし」)から、倭都(後漢期)は福岡市早良区の室見川上流でほぼ間違いない。肥後の卑弥呼の時代もかっての倭都は副都であり、伊都国は倭女王の玄関であった。
2012.01.04 22:11 [ 古代史ノート ]
邪馬台国は熊本市南部しかあり得ない、筆者の結論です。論拠は先入観なく素直に『魏志倭人伝』を読むことです。「天皇のおられた大和以外にない」とか、弥生集落の吉野ヶ里だ、大古墳群のある西都原の宮崎だとか、阿多は鹿児島だから鹿児島こそ邪馬台国だの、村おこしのためうちの郷里に違いないとか、21世紀の日本の現実から結論が先にあって、その論拠を『魏志倭人伝』に求めるのは学問的にも、いや人としてもアンフェアでしょう。もうそんな恥ずかしいことは止めましょう。
2012.01.01 09:25 [ 方丈日記 ]
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いします。

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