木古内の坊

木古内の町の東側、国道228号線のバイパスと市街地へ分かれる交差点の海側に小さな公園がある。この公園に建つ石像が木古内の坊だ。この木古内の坊とは1850年代後半から50年ほどこの木古内に実在した川又友吉という名の目の不自由な男の通称だ。彼は2人兄弟の長男として生まれたが、父親と友吉は目が見えず、一家を支えていた母親も友吉が幼いうちに過労で倒れて亡くなってしまった。当時の木古内はニシン漁で賑わっていたこともあり、友吉の一家は村の人たちがら食べ物を恵んでもらって生活を続けていたが、それでは食べ盛りの食欲に追いつかず、父親は自分の食事も子供達に分け与える始末だった。大きくなった友吉は父親と弟の食料を手に入れるため、遠くの町まで物乞いに出かけるようになった。19歳になった友吉が函館まで物乞いに出かけた時、偶然出会った松田巡査から物乞いではなく付け木を売るようにアドバイスされ、友吉は木古内に戻って付け木を売るようになる。付け木とはマッチができる前の火を起こす道具で、どこの家庭でも必要としたので友吉の売る付け木はよく売れた。しかも彼の身の上を聞いた人々は付け木を高値で買ってくれたり、食事をご馳走してくれたり泊めてくれたりもした。彼は親孝行者で恵んでもらった食べ物はその場では食べず、必ず持ち帰ってまず父親に食べさせた。彼は一家の大黒柱として雨の日も風の日も雪の夜もただ黙々と付け木を背負って売り歩いた。しかし付け木は一度購入すると簡単にはなくならないので、友吉は次々と新しい土地に売ってまわらなければならなかった。最初は木古内だけだったのが、やがて函館、松前、江差と彼の行動距離は伸び、とうとう目の不自由な体で遠く瀬棚や寿都、さらには小樽や岩手の花巻までまで付け木を売ってまわるようになった。御深い彼は恩人である松田巡査が卒中で半身不随になったのを聞いてみそぎ浜で幾日も祈り続けて巡査を元の体に戻し、村人からは正直者で豊かな心の神様のような人だと語り継がれるようになった。そんな木古内の町に伝わる木古内の坊を後世に伝えるため2006年には像が建立された。またこの地には地元に言い伝えられた坊にちなんで「孝行餅」という土産物もある。父親に少しでもいいものを食べてもらおうと遠くまで付け木を売り歩いた木古内の坊の像を見ながら彼の生き様に触れてみるのもよいだろう。

木古内の坊データ
展望 :★★☆☆☆
資料性:-
観光客:★☆☆☆☆
お勧め:★★☆☆☆
期間:通年
お勧め:昼間
費用:無料
施設:東屋あり
電話:-
郵便:049-0431
住所:上磯郡木古内町木古内
北緯:41.6816
____:41°40'53"70
東経:140.4418
____:140°26'30"40
マップコード:584653433*81
MGコード:-
マップル地図:3C-5
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