高田屋嘉兵衛の銅像

JR函館駅から西南西に1.5kmほど、函館市電宝来町駅から北西に50mほどの場所、護国神社坂を下った高田屋通りの宝来町グリーンベルトにそびえる銅像が高田屋嘉兵衛の銅像だ。1769年に淡路島の農家の長男として生まれた高田屋嘉兵衛は叔父の廻船問屋で沖船頭として働いて金を稼ぎ26歳にして大型の弁財船「辰悦丸」を購入して廻船業を始めた。翌1796年に彼は蝦夷まで商売を手を広げようとしたが、当時の松前は近江商人が利権を確保していたため、松前藩の中でもまだ近江商人の利権が少なかった箱館に拠点を構えた。彼は兵庫津で酒、塩、木綿などを仕入れて酒田に運び、酒田で米を購入して箱館に運んで売り、箱館では魚、昆布、魚肥を仕入れて上方で売るという商売を行いこれが成功を収める。1799年には国後島と択捉島間の航路を開拓し、択捉島で17ヶ所の漁場を開きアイヌに漁法を教えた。1801年には択捉航路の発見・択捉島開拓の功により幕府から蝦夷地定雇船頭を任じられ、1806年には大坂町奉行から蝦夷地産物売捌方を命じられた。1806年に文化露寇でロシアに蝦夷地が攻撃された報復として1811年に軍艦ディアナ号のゴローニンを捕まえて松前で幽閉したゴローニン事件において、さらにその報復として嘉兵衛を捕まえてカムチャッカに送られるが嘉兵衛はリコルドと共に再び国後に戻り日本とロシアの会談が箱館で行われ松前奉行を説き伏せてゴローニンの釈放に尽力した。彼は1806年の箱館大火の際には被災者の救済活動と復興事業を行うなど箱館の基盤整備事業を実施し函館の発展に著しく寄与した。彼はこの場所に1.5ヘクタールほどの敷地を持ち、そこには本宅の他に米蔵数棟、別荘、傭者の長屋敷、馬屋、道具庫などに加えて壮大な庭園もあり高田屋御殿と呼ばれていた。しかし繁栄を極めた高田屋もゴローニン事件の時にロシアと密約した「旗合わせ」が1833年に明るみになり、高田屋は財産を没収されて追放処分となり没落した。嘉兵衛の死後130年が経過した196年に函館の発展に尽力した嘉兵衛の銅像建立の機運が盛り上がり、1958年には函館開港100年を記念して立派な高田屋嘉兵衛の銅像が、かつて高田屋御殿のあった場所に建てられた。御影石に立つ大きな銅像はゴローニン事件で幕府の代理人としてロシア軍艦へ乗り込む時の姿を正確に再現している。

高田屋嘉兵衛の銅像データ
展望 :-
資料性:★★☆☆☆
観光客:★★★☆☆
お勧め:★★☆☆☆
期間:通年
お勧め:昼間
費用:無料
施設:-
電話:-
郵便:040-0043
住所:函館市宝来町9
北緯:41.7612
____:41°45'40"04
東経:140.7188
____:140°43'07"30
マップコード:86041020*21
MGコード:100-2525
マップル地図:3G-4
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