碧血碑

函館山の南側の麓、立待岬からの帰り道の途中に碧血碑がある。碧血碑は1875年に函館山の麓に建立てられた箱館戦争における土方歳三や中島三郎助など旧幕府軍の戦死者800名を祀った慰霊碑だ。碧血(へっけつ)とは中国の故事「萇弘は蜀に死す。其の血を蔵すること三年にして化して碧と為る」から名付けられ、忠義を貫いて死んだ者の流した血は三年経てば地中で宝石の碧玉と化すという伝説から来ている。鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争は箱館が最後の戦いの場となり、箱館・五稜郭の戦いで官軍と旧幕府軍の双方に多くの戦死者が出た。官軍の戦死者は靖国神社などに手厚く祀られたが、賊軍とされた旧幕府軍戦死者の遺体は慰霊を行ってはならないとの明治政府からの命令があったことから、戦闘終結後もしばらく埋葬されず町中で腐敗するまま放置されていた。哀れに思った箱館の侠客柳川熊吉は遺体を回収して埋葬しようと考え、日蓮宗の実行寺住職・日隆だけが熊吉に賛同して日隆と共に旧幕軍兵士の遺体を集め実行寺に埋葬した。遺体回収中に近隣住民や熊吉の子分達が手伝うようになり、数日間で約800体の幕軍戦死者の遺体を葬ることができた。明治政府の禁じた埋葬に対し官吏は熊吉を黙認し、後日明治政府の命に背いた罪で熊吉が打ち首になりかけた時、新政府軍の薩摩藩士・田島圭造は「これからの日本のためにこういう男を死なせてはならない」と考え熊吉は無罪釈放となった。1871年に熊吉は函館山の土地を購入し箱館戦争戦死者を実行寺より改葬。さらに1874年に明治政府が賊軍の祭祀を許可すると、熊吉は榎本武揚らと協力して1875年5月の7回忌に、伊豆産の石を使って東京霊岸島で造られた碧血碑をこの地に建立した。この碧血碑は立待岬からの帰路の途中にあり、道沿いに何台か車の止めることのできるスペースから200mほど平坦な遊歩道を歩くと森の中に東屋のある小さな広場がある。その奥に碧血碑がひっそりとたたずんでいる。普段はあまり人の訪れる事のない場所だが毎年5月の箱館五稜郭祭では多くの人が訪れる。

碧血碑データ
展望 :★★☆☆☆
資料性:-
観光客:★☆☆☆☆
お勧め:★★☆☆☆
期間:通年
費用:無料
施設:石碑
電話:-
郵便:-
住所:函館市谷地頭町
北緯:41.7516
____:41°45'05"66
東経:140.7088
____:140°42'31"76
マップコード:951295794*15
MGコード:-
マップル地図:3G-4
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