1999年4月27日(火曜)

沖縄の宿の近くの丘より国際通りを望む

 朝6時45分に目を覚まし、父に松阪駅まで送ってもらい、列車に揺られ近鉄難波駅に
着いた。空は快晴。以前勤めていた会社のビルの前を通り南海の駅に向かう。別に会社の
前を通らなくても南海の駅には行けるのだけどなんとなく前を通ってみた。特に何の感慨
もなし。素通りした。以前よく通ったラーメン屋にはまだ準備中の看板がぶらさがってい
た。僕は、旅に出る。しかも、僕がこれまでしてきたどんな旅よりも、スリルのある遠い
国へ長期間に渡り、旅に出かける。しかし、その朝はなんとも気だるく学生時代に感じた
ような気持ちの盛り上がりもない。南海電鉄御自慢の関西国際空港行き特急に乗り込んだ
時も、まだ僕の心はリアルではなかった。電車の窓から初めて営業に行った公園の管理事
務所が見え、列車の後ろに消えていった(ちょうど1年前、僕の仕事場は、ここ大阪だっ
たんだ)。外は晴れている。もう春の陽気とは言えない程暑い。なんとも言えない気だるさ
を引きずったまま僕は関空に着いた。時間は、12時を少し過ぎたくらいだった。すぐ搭
乗手続きを済ませ、ずしりと重いバックパックを、JALのカウンターに預ける。昔見た
「G.X.999」の駅のような近代的な建物を歩いていると、知らず知らずそのテーマソン
グを、口ずさんでいた。780円のざるそばを食べ終わる頃には出発1時間前になってい
た。僕は缶コーヒーと雑誌を買い込み、それぞれ手に持ち72番ゲートへと向かった。3
0分程待ったであろうか、1台のバスがゲートの前にとまった。どうやら僕達が乗るであ
ろう飛行機まで僕達をつれていってくれるバスのようだ。乗客は多く見ても30名ほどし
かいない。こんな少ない人数を飛ばすだけで採算が合うのかどうか心配な程の人数である。
周りには巨大な翼を持ついくつものジェット機が、飛び立つのを今はまだかと待機してい
る。僕の心配をよそにそのバスは陽炎のたちのぼる飛行場内を迷走した。雑誌に目を落と
ししばらく経った時近くに座った大学生風の2人組が「あっ」と呟くのが聞こえた。「まさ
か、これにのるんとちゃうか」「うそやろ」そんな会話のした方に僕が目を向けた時にバス
はピタリと止まった。バスを降りた僕の目に飛び込んできたのは羽のはえたバスだった。
正確には150人乗りのビジネスクラスもファーストクラスもわしゃ知らんといった顔を
した小さな小さなジェット機だった。パーサーにうながされるまま、その機に全員が乗り
込むがそれでも中はがらがらだった。僕の指定席は通路側だったのだけど、あまりに空席
が多いので景色のよく見える窓側の席を適当に見繕って座ってみた。座席はお世辞にも広
いとは言えず、朝乗った近鉄特急の座席よりも狭い程だった。おまけに前のやつが何の断
わりも無しにシートを倒すものだからさらに足もくめない程狭くなってしまった。それで
もなんとか比較的楽な姿勢を見つけだし座っていると、飛行機はその羽を羽ばたかせるで
も無く静かに動き出した。この旅のためだけに僕は5ヶ月間ゴム工場でバイトをした。先
の事はまだ考えていない。この旅が終わり、再び家に帰った時僕は新しい職を探し回るこ
ととなるだろう。先の事はまだわからない........。飛行機が勢いよく加速し出した。加
速からくる負荷が僕をシートに押し付けた。その瞬間、僕の後ろ髪を引っ張っていたもの
が髪の毛と一緒にブツッと切れ、滑走路の後方に転がっていくのが見えた気がした。僕は
自由になった。

 僕は今沖縄にいる。一泊3000円の安宿で、いつまでも眠ることのない街の喧噪を聞
きながらこの日記を書いている。僕の足にぞうりの日焼けが残るようになった頃には、僕
はどんな自分と出会えるのだろう。日本人のルーツを探る旅なんだぜ、と友達に語っては
見たもののそんな気持ちはもう大阪に置き忘れてきたような気がする。僕は沖縄の四畳半
の安宿に寝転び、ORIONビールなんかを飲みながら、ぼんやりタバコなどを吸いながらこ
の日記をつけている。旅はまだ始まったばかりである。